ツイッターにしんび堂手塚博星所っていう人たちの作ってる感じが出てるんですけど。
まあまあ入れ墨タトゥーをテーマにしたものの通り。
紙の質ももちろん素敵だし、柄の入れ方っていうか。
これもねちょっと触ってみると柄になってるのが分かってめっちゃいい感じですよね。
あれですね。ちょっと皮膚っぽい感じの紙質ですね。本当よく見たら。
確かに。確かにね。
エンボス加工でちょっとぷっくりしてるんですけど、それもちょうど入れ墨を入れた時のぷっくり感みたいなイメージがする。
入れ墨入れたことないけど。
確かに。今二人でズーム越しに自らの手元にある本を撫でるっていう不思議な時間になってますけど。
不思議な時間じゃないよ。始まってる。
これめちゃくちゃこの紙のチョイスもいいし、柄の感じもすごい素敵だし。
帯に書かれてるのは入れ墨タトゥーについての日本初の学術論集。各地の事例を紹介しながらそれぞれの社会の文化、美学、歴史、政治を考察すると。
皮膚の上でどのような美が展開し、いかなる思いがせめぎあっているのだろうかと。
のが帯に書いてある。
一個一個論文になっていて、10章プラスコラムがちょこちょこ入ってるっていう。
だから全部テーマは入れ墨タトゥーっていうものになっている本でした。
みきさん1週間グーッと読んでみて、まず総論いかがでしたか。
総論は、入れ墨についてあまり深く考えたことがなかったんですよね。
最近サウナブームで、友達がサウナに行けなくて困ってるっていう文脈で入れ墨をしてる人が浮き彫りになったっていうのが最近のイメージと。
ラランドのサーヤの彼氏ってタトゥーアーティストだよなっていう。
元々の入れ墨のインプットってどれだけって感じでした。
めちゃくちゃ入れ墨入ってるっていうのがよくラジオでいじられてますよね。
しかも顔を検索したらわかるんですけど、本当に予想の5倍入ってますよ。
タトゥーアーティストのヘッデーさんっていう人なんですけど。
ありがとうございます。
だからそれのイメージがあったから、こういうアートとしてのタトゥーってどうなんだろうとか。
なんかちょっと覚えましたね。
確かに入れ墨とかタトゥーみたいなものに触れるのって、
みちさんが一つ目挙げてくれたみたいに日常生活のどっかに行けた行けなかったみたいな話だったり。
最後は日本の方のがいくつか挙げられてって形だと思うんですけど、
結構序盤のどこだっけ?
マルケサス諸島。
マルケサス諸島?
マルケサス諸島見てたのか、地図貼ってくれてたな。
マルサケス諸島はマルケサス諸島。
マルキースとかマルケサスとか。
タヒチのちょっと北側のとこにある、連なってるような。
ここだと顔にも横にガツッと入れるみたいな感じの文様が、
パターン20個ぐらい書かれてて、
目に横にガツッと入れますみたいなものだったり、
おでこのとこにガツッと入れたり、
目の周りをぐるぐるっと渦巻きみたいにして入れますみたいな。
顔に入れるのがそうなんや。
普通なんや。
だったり、カメルーンの狩猟採集民の方々は、
ガラッというか勢いで、ノリで顔いきますみたいなのが出てきてたり。
むしろだから、そうか、そっちが普通すかっていう風にやってて、
特に驚くのが、この序盤の方の論文っていう感じでしたね。
でも入れ墨の入れ方も、村の村長、村を継ぐ人、市長になる予定の人と、
そうじゃない人で入れる順番が違うとか、
やっぱり何かを区別するために入れてるんですよね。
そうですね。
男性は例えばここに入れるけど、男性は腕に入れるけど、女性は足に入れるとか、
男女の区別だったり、三木さんが言うように身分だったり、
あるいは職業っぽいことで入れる入れないみたいなのがあったり、
っていうのが本当に地域によって様々あるっていう風に書かれてましたよね。
それが衣装とかで違いを別に出す。
違いを出すだけだったら衣装とかでいいのに、そうじゃない、
本当に嘘をつけない部分、他人が真似できない部分に刻み込むっていうのが、
ちょっと私は恐ろしかった、本当に。
うーん、なるほどね。
お前はずっと統一感のある自分でいろよって言われてるような感じ?
はー、なるほどな。
いい感じで、私は結構入れ墨は入れてもいなくてもどっちでもいいじゃん、
自分もいつか入れるかもとか思ってたけど、
やっぱこの嘘をつけない部分に入れるっていうのがめっちゃ嫌だなって思って、
多分入れないだろうなっていう気持ちになりました。
はー、なるほど。
それはね、入れ墨っていうもののある種のずっと続く感、
高級性みたいなものをどれくらい背えるかみたいなこと?
うん。
結局それが割とファッションというよりかは、
本当に身分とか役割みたいなものとかも一緒に背ってる。
関係性みたいなものとか。
ただ装飾する意味、愛じゃない部分がすごい強いってことが分かったので、
よりちょっとやりづらくなった。
あー、確かにね。
後半にある沖縄のハジチの例とかっていうのは、
まさにそういうあなたってこういう所属ですよねみたいなのに合わせて
手に柄入れるみたいな話でありましたもんね。
個人的には例えば村長とかリーダーとかでも、
今はリーダーとしての自分だけど、
今は休憩みたいなだらしない自分とかでいてもいいっていう時に、
服を着る時は村長っぽく振る舞って、脱いだら休憩みたいな。
脱ぎ気できるようなものだと思うんですよ。
社会的な役割っていうのは。
イエズミって認識しちゃった時に、
そういうことって大丈夫なのかなっていうのが気になった。
なるほど。
多分みきさんの観念が今だとすごく主流というかそうなんだろうなと思うが、
多分最後の方に第8章ぐらいに出てくる消えるタトゥーの話があるじゃないですか。
ジャグアタトゥー?
ジャグアタトゥー。
ジャグアタトゥーのところの中に確か出てきてたのが、
ジャグアタトゥーっていうのとハロウィンの仮想っていうのが
同じ戦場にあるみたいな話が多分出てきてたはずで、
そのキャラクターっていうのは複数の自分っていうのがいて、
その一つの象徴っていうのがハロウィンであるっていうことで、
かつジャグアタトゥーっていうのもこの8章の著者の友人の方は仕事の給食中か何かなんですよね。
なのでちょっと違った自分だからジャグアタトゥーを短期的に入れてみるっていう。
だから本質的に自分が何か違う自分になるわけじゃないけど、
このシーンのこの瞬間のこの自分っていうのでジャグアタトゥーを入れるっていうのが
なるほどなっていう。
みきさんのキャラが複数あってそこを固定しないようにっていうのが
この2022年の今っぽいタトゥーの感覚なんだろうなっていう感じがしますね。
個人主義的ですよね。
だからあんまりその社会に委ねることとか、
つながりの中にいる自分みたいなものは信じられてないっていうことだと思うんですけど。
なるほど、なるほどな。
私なんかどっちかっていうとすごい社会的だなと思いますけどね。
個人主義に振るんだったら、
別に周りなんか関係ないから自分を固定しちゃっていいじゃないですか。
なんだけど社会のある種の一時一時の要請に合わせては
多少自分を変化させようっていう意図があるっていうことなのかなと思うので、
個人主義っていうか社会っぽいのかなと個人的には思いましたけどね。
このジャグアタトゥーだったりハロウィンだったりを見てると
個人主義っていうか社会っていうかそういうものの中にいるっていうことなのかなっていうのを見てましたね。
だからその時にそれが全ての自分であるのは嫌っていうだけですね。
そうですね。
中にいる自分が。
そういうことね。