ブルーノムナーリの思想
私、本論から外れちゃうかもしれないですけど、
このちょっと古い人たちの思想とかを知るときに、
最近、まずChatGPTさんに聞くようにしていて、
何とかのこの思想に照らしたときに、この事象はどう捉えられますか、みたいな聞き方をすると、
この人はこういうことを思っていて、彼はこういう定義でこの言葉を使っています。
なので、こんな風に考えられるでしょう、みたいなことを結構一連の線で出してくれるので、
すげえいい相談相手なんですよ。
スピノザとか、デカルトとか、思想単体で見ると正直私、あまり頭が良くないのでわからないんですけど、
スピノザは神をどう捉えましたか、とか、
論理的であるというのはアリストテレスにとってどういうことですか、とかっていうのを、
生成AIに聞くのはめちゃくちゃ便利っていう気づきを最近言いました。
死ぬほどデータが溜まってそうですもんね。
GPTはブルーノムナーリのことは何て言ってたんですか。
何て言ってたっけな、だいぶ前に言えたから聞きます。
ちょっと探しますわ。
ブルーノムナーリ。
なるほど。
ブルーノムナーリは視覚について非常に多角的なアプローチをとっていて、
シンプルさと複雑性、形と機能、感性と知性のバランスが必要だと考えていました。
視覚的な要素の相互作用
特に色や形やテクスチャーなどの視覚的な要素がどういう相互作用のもと、
人々の感情や認識に影響を与えるかということに関心を持っていて、
それを伝える上では簡潔性と明瞭性ということを研ぎ澄まして出すことが大事だというふうに考えていました。
なるほど。
当たり前すぎません?そんなこと。
そうなんだけど。
じゃない人に置き換えても何か言えそうな感じがしました。
そうなんだけど、多分あれじゃない?
今見てそうなんだと思ったのは、視覚一個一個の影響じゃなくて、
その相互作用を見るっていうのがサムシングニューなんじゃない?
例えば柔らかい影響を与える色と硬い印象を与える形があったときに、
それを合わせるとどういうイメージを与えるんだっけ?
確かに。フランスパンをブルーに塗ってみようみたいな。
そうそうそうそう。そういうことを言っているのではなかろうかっていう。
でもちょっとブルーのムナーリ、本人に固有な特徴としては特に何ですかって聞いてみてほしいですけどね。
聞いてみよう。3人目の回答者を得た気持ちになって素晴らしい。
なんかそうですね、これもちょっと一般的っぽいけど、
例えばユースレスマシーンズ、さっき話をしていた、
役に立たない機械っていうのを言ったときに、
元々のタイトルはユースレスマシーンなので、役に立たないって書いているけど、
視覚的な反応、感情的な反応を引き出すっていう具体的な用途を持っていると、アートとして。
ってなったときに、そこにアートと科学の融合があるんじゃないかってことを考えていたと。
デザインの重要性
特に彼が出していたのはデザインとしてのメッセージ、デザインアズアートっていうことを言っていて、
デザインは単なる機能的な要素以上のものであって、
想定される機能を超えて、メッセージや価値観、文化的な意味合いを持つとか、
さっきの本も内容を覚えて情報として取得するだけじゃなくて、
感情を想起したり、想定美しいよねとか、そういうことも入っていますよねっていうことを言っていると。
視覚言語の基礎語彙っていうのも研究してたと。
基礎語彙。我々が言うと柔らかいってなんだっけとか、黄色いとかって言うのって語彙があるじゃないですか、言葉が。
それが視覚になったときに、基礎となる語彙ってなんだっけっていうのを視覚の単位で研究するってことでしたんですって。
基本的な気化学的な形状や色、テクスチャーなどの視覚的要素がどういう感情や行動に影響を与えるかっていうことを理論と実践で探求したと。
だから視覚を口で話す言語っていうのに変換することなく、そのまま語彙として受け取るっていうことを研究してたっていうことのようですね。
今でもまだ全然回路見つかってないっていう。
ね。私チャットGPTにカスタムプロンプトで私がどういう人かっていうのを教えているんですけど、
まつびにあなたのような経営戦略コンサルティングのプロフェッショナルにとって、このような深い洞察や多角的な視点は非常に価値のあるものとなるでしょうって言われました、チャットGPTさんに。
そういうのがやっぱり時と状況によるからカスタムプロンプト入れてないですね。
うっせーなってなっちゃった。まあまあ、ありがとう。
言えないんだから。
ありがとうって褒めておこう。
わかります。私もチャットGPTにありがとうっていうふうにしてます。
ね。優しくやるべきだからね。
いい回答のときはいい回答ですね。返してから好きな質問をしてます。
素晴らしい。優しさがある。
なんか私よりみきさんの方がこの、なんていうんですかね、ある種アートにしろファンタジアにしろそういうものと触れ合う機会って多いような気がするんですよ。
でも多いですけど、ちょっとだけね、パフォーミングアートとか文化芸術系のプロジェクトとか多いですけど、そういうときなんか、そういう人たちから私はアートの人じゃないって扱いを受けてくるので、
そういうプロジェクトにいるときの方が自分はアートの人じゃないってことをすごい強く意識するんですよ。いつもシチュエーションとしては。
へー、はい。
ビジネスの常識を持ってない、私の見え方からちょっとビジネスの常識を持ってなかったりして、
なんかそんなに何でもかんでも資料に起こせばいいってもんじゃないですよみたいな怒られ方したりとか。
うん。
とにかく私たちはあなたとは違うんで、みたいなことをすごい言われて、私ってアートの人じゃないんだなって思うことがすごい多いんですけど。
うん。
それを、でもなんかアートの人がどうかって生まれたときから決まってたりとか、この道に進んだからアートの人とかじゃないくて誰でもできるんだなーみたいな風に思える本で良いなって思いました。
うーん。
この本自体の感想としては。
なんか久しぶりにその、あなたは何々の人じゃないっていう構文見たなっていう。
見たら聞いたなって感じがします。
言わないですけどね、なんかでもみんながあなたみたいに考えられるわけじゃないのでとかよく言われます。
はえー。
そうか。
アートの人っていうのは典型的にはどんな人なんですか?境界線が私すごい知りたいんですけど。
アートの人っていう言い方はあれかもしれないんですけど、なんかよく言われるのは何でもかんでも計画通りに進めばいいと思ってるわけじゃなくて、もうちょっと物事の雰囲気とか空気とか目に見えないものとかを感覚で手繰りながら何かを決めてるから、はい今日ここまで決めましょうみたいな風にやんないでみたいな意味のことはそこをよく言われます。
うーん。
今日ここまでやるとか今日のゴールはこれですみたいなゴールありきで物事を進めることをよしとしないでみたいなことは言われます。
ほー。それがじゃあアートなのかな。なるほど。へー。
外国のゴールがあってそこに達成するためにだったら何か、いや何でもいいみたいな発想じゃないけど、もうちょっとその人が本人から出てくるのを待つとか。
ああ。
物理的な要素で作っていくみたいな要素を私は感じてますけどね。
なるほどね。なるほどね。そうか。
スタジオ管理とかしちゃいけないタイプの人たちって思ってます。
ほー。
何人でそれを今聞いていたかというと、今回その本の中にファンタジアとか想像力みたいなことを話す中で関係って言葉がよく出てくる。
はいはいはい。
関係づけとか、それを関係を操作してさっきみーさんが言ってくれたみたいな青いパンにするとかっていうのをやるわけですけど。
その近い遠いの関係ってすごい面白いなっていうことを思っていて。
今から数分意味わかんない話すると思いますけど、これなんか前にもみきさんに話した記憶があるんですけど、小型犬がいるとするじゃないですか。
うんうん。
小型犬が目の前に猫とラブラドールレトリバーがいたとして、どっちのほうが関係が近いかっていうと、分類上はラブラドールレトリバーなんですけど、本人的には猫のほうが近いんちゃうみたいな気が。
しますね。
するじゃないですか。
さっきのアートもそうなんですけど、例えば舞台芸術やってますっていう人が、みきさんと、
例えば島根の松江のなんかよくわかんない駅前で、
あなたを見て詩を書きますって言ってる人がいるとするじゃないですか。
どっちのほうがアートの人だと思うんだろうとか、その関係の、その人の主観的な距離の感じ方にとっても関心があるんですよ。
はいはいはいはい。
本の中でも操作として関係性の状況を変えたり、あえて反転させたりするっていう操作があると思うんですけど、その根本となる関係の理解というか認知というか、
それってすごく、思っている以上に面白い何かってあるなっていうのを読んでて、関係の部分で改めて感じてですね。
アートか。アートは難しいよな。
でもなんか最近思うことはなんか、私からのビューではすごい暴力的な言葉が入ってくる人はかなり限られているので、
アート界隈の問題って思ってたものはだいぶその人の問題だなっていう感じがする。
なるほど。固有の問題であると。
だったのかなとか、最近思うところであるものの、ちょっとそういう構造的な、全体の傾向として見れる部分で全然違う部分もあるし、
パーソナルな問題として全然違う世界にいる人とも触れ合った、触れ合ってるなと思います。
ビューの中で結構その自分は全然違う人間なんだなってことを噛み締めていることが多いので、最初に戻りますけど、
そんなことないじゃん、みんな同じじゃんみたいな気持ちにさせてくれる本であったなと思います。
さっきのこの本を挙げた人のように。
そうそう。この元々勧めてくれた人も元々自分はデザイナーだったじゃん。
デザイナーの勉強をせずにデザイナーになったけど、ことがコンプレックスだったけど、そんなこと気にしなくていいやって覚えたみたいな感じで、
私はどうせアートを作れない人間だから、物を申し訳ないんだみたいなことはなくて、私の中にも普通にファンタジアってあるなみたいなことを覚えた。
あと最初の方に、新しさ、ファンタジアのこれまでに存在しないものすべてっていう、存在しなかったことを考えさせる人間の能力を捉えているときに、
めっちゃいいなと思ったのは、個人にとっての新しさというのと絶対的な新しさというのは全然別ですと。
で、まずこのファンタジアってのを考えていくときには、あらゆる人にとって個人にとっての新しさから始めないといけないわけじゃないですか。
で、そうしていざいざそれを他人に説明しますとか、何かしなきゃいけないときにはそれが絶対的な新しさですってことをある種証明しないといけないけど、
ファンタジアの本質
そうじゃないときには別に個人にとっての新しさでいいじゃんっていうことが確か30何ページぐらいにあった気がするんですよ。
それすげえいいなと思っていて、特に会社で働いていた頭の固い人になればなるほど、
いやこれって会社にとってどうこうみたいな話をすげえ考えるんですよ。
どこに書いてありまして?
あ、そうですね。33ページのところに、つまり新しさには2種類ある。個人にとっての新しさと絶対的な新しさであると。
その人がここ50年のあらゆる芸術運動について無知であれば、抽象主義は彼にとって新しいものがあると。
このファンタジアっていうのがどんな種類の新しさでも自由に考え出していいと。
別に絶対的な新しさじゃなかろうと、その人にとって新しければファンタジアっていうのは一旦OKっていう話をしていて、
実際に発明にしようとすると、当然その確認作業っていうのを行わなきゃいけないから絶対的な新しさにしなきゃいけないけど、
少なくともファンタジアっていう一番根本のところでは別に個人にとって新しければいいじゃんっていう。
見たことないから黄色いバラを作ろうと思って、青いバラを作ろうと思って、
いやそれは別に千葉県の農業水産所にあるんですって言われても、
そうっすか、私にとっては新しいのでっていいじゃないっていう話をしてる時にはこの話もさっき言った、
今プロジェクトの人にはしてあげて、いろいろ頭が先行すると思うんですけど、
自分にとっての新しさから始めましょうっていう話もしたなって今思い返したっすね。
ただそれが自分にとって新しければ、それでも全部いいってわけじゃなくて、
もちろん自分にとって新しければいいんだけど、それは何でかっていうと結局、
自分が知っているものからしか生み出せない、ファンタジア。
ファンタジアは自分が知っているものからしか生み出せないから、
どんなファンタジアも自分がどう生きてきたか、自分がどう人と関係を築いてきたか、
みたいなことからしか始まらないから、だからこそ自分にとって新しければいいし、
ファンタジアを豊かにするためには、いろんな関係を築いていかなきゃいけない、
みたいなことも言ってて、そうだなって思いました。
本当ねー。
いやー、そうなんだよな。
それはどう取るかは人次第かなって思うんですけど、
幼少期に狭い経験しかできなかったらファンタジアは豊かなりませんね。
若い時の生き方で今も変わります、みたいなことを言ってるんですけど、
私、これで逆に気にしなくていいやって思ったのが、
普通に日本人として普通に生きてきたら、
めっちゃいいデザイナーとかと幼少期そんなに変わらないわって思って、
すごい素敵なデザイナーが幼少期からスーパーエリート教育を
デザイナーになるために特化した経験をすごい蓄えてきたとかじゃないと思うから、
田舎に育ったかどこに育ったかぐらいの差でしかないわ、みたいなことを思って、
で、だったら私でもできんじゃん、逆に思えた分でしたね、この辺の。
人とどう関係を築いてきたかとか、何を知ってるかみたいなことは、
多分日本人だったら大体みんな同じぐらいだろうって思いました。
そうだなー。
でもみきさんと私の一個大きな違い言っていいですか。
これ44ページと45ページの間の見開きのなんか、よくわかんないやつあるじゃないですか。
これ多分私イランで見てきたやつだと思うんですよね。
はいはいはい。
これイランなのかな。
イランだったら多分見たやつだと思うんですけど。
みきさん、これめっちゃ綺麗です。
いいなー。見たーい。
もう多分向こう5年はイラン行けないですからね。
でもこのタイプの建築、私もいろんなところでインドも行ったし、モロッコも行ったし、
もちろん東京ダーミンも行ったことありますけど、それと比べ物にならんですか、イランは。
イランは、でもあれかな、私モロッコとか行ったことないから、
それよりすごいとは定義上言えないんですけど。
でも私にとってのイランのこれは、
なんていうんですかね、相当すごかったですね。
お金のことを考えたら絶対にやらない規模でやってました。
いいなー、見たかったなー、イラン。
生きてるうちに。
無事にいろんなものが落ち着くといいよね。
イランの建築について
みきさん、本の中の個別の話っぽくなっちゃいますけど、
それが私結構ポコポコたくさんあって。
私もここの箇所の話したい。
いいよ、みきさんのやつやろう先に。
ここの見開きで、このモスクなのかな、わからないけど、
めちゃくちゃ精密かというか、精密細工みたいな。
王道の裏側のすごく細かくて密集してて、
何時間でも見てられるような建物と、
その前に砂漠があって、その後精密があって、
古の村にこれは杖ですって言うじゃないですか。
つまりこの砂漠に積んでて、
支点を留める場所がないような人たちがこういうものを作ってるんです。
そういう関係性にありますって言ってるのが、
私は砂漠とこの精密建築を同じ杖で考えたことがなくて、
めちゃくちゃびっくりした。
結構衝撃体験でした。
これからすごい面白いなって思って、
結構グイグイ読める感じ、スイッチが入る感じがありましたね。
それなのに建物とそれがある場所の関係性ってこと?
そうそうそうそう。
なるほど。
アラブ人がなんで極めて装飾的な場を作り出すのかっていうと、
アラブ人は砂漠のそばで生活してて、
砂漠は形がなくて支点を留めるための場所がないから、
自分たちで支点を長時間巡らせることができるように、
イメージを密集させた場を作った。
はぁー。
なるほど。
そう、統一の均衡にあるっていう例だって言ってるんですよ。
外がある種、すごい広いキャンバスだから、
濃いのを点としてギュッと作ると。
そうそうそうそう。
はぁー。なるほどね。
こんな風に30年以上生きてきてただけ。
見たことなかったなって思って、考えたことなかったなって思って、
びっくりしました。
うーん。
確かにね。
はぁー、そうか。
確かに日本にこういうちばちばしたやつないのは、
国土狭いからなのかなとかね。
そうねー。
確かに日本ってこう、お寺にしろ何にしろ、
気がつきゃすぐ緑をいしげる山があってみたいになるし、
段々になるじゃないですか。
こういうものを作ると視覚的にうるさくはなりそうですよね。
全体的に全部が小さいから、
わざわざこんなちばちばしたの作ろうみたいな気持ちでもなんないのかな。
そうねー、そうなんだよなー。
ちょこんとしたものは日本にもいっぱいあるけど、
こういう蜜みたいなやつはあんまないなって囲まれました。