供給過多の時代になってくると、そこの差別化ってどこで生まれるかというと、付加価値だったりとか、提供されてないと選んでもらえなくなったりするから、
普通に消費者として楽しく暮らしていて、正しいビジネスパーソンであるっていうだけだと、自分がやってるビジネスがワークしなくなってる。
しかもそこで自分で決済権持ってやる立場になった時に、そこの目利きをしなければいけない自分だったりとか、
自分ができないとしてもどういう人に任せればいいのかっていう目利きとかっていう時に、
実はティーンの頃のような、いわゆる自分の衝動とかみたいなものだけで文化に触れていると、見えない勤力ってある。
わかる。
巷でよく見るそういうのっていうのもよくありますけど。
って言った時に実は効いてくるのが文化教養にあたる部分だったりして。
僕、結構その文化教養みたいなものを大学の時に結構ちゃんと学んだっていう実感があって、
当時の教授が言ってたことがすごい未だに残ってるんですけど、その教養って何なのかみたいな話があって、
自分が住んでない、自分が全く関わりのない文化にいきなりポンって置かれて、
なぜそれが受けているのかわからないものを見た時にそれの理由をつけたり、
素晴らしさを伝えられるのが教養だっていうことを教えられて、
なるほどなと思って、今自分がいる世界の外に出た時にそれが本当に必要になるって思ってるんですよ。
だから今多分インターネットとか普及して、いろんな世界がどんどん広がっていってるから知らないものにあたる機会も多い時に、
それがなぜ素晴らしいのかっていうのが、やっぱり教養がないと説明もできない。
今までの自分の中の価値観とか感性で、いやこれは気持ちいいんだっていうのは通用全くしない。
なんでなんだろうっていうのを今まで自分が持った教養を持って、
それを観察したりしないと人に伝えられないっていうのが教養だっていうのを教えられてて、
それがすごい未だに残ってるんですよ。
だから普段いつもそういうつもりでいろんなものに接しようとはしてます。
だからそこがないとグローバル化したこの社会だと、
なかなかそれこそ相手に魅力的だと思ってもらって、
自分のサービスを使ってもらうっていうのはもう難しくなってるのかなと思って。
今となってはグローバル化っていう言い方を取ったとしても国内においても多様化していて、
あらゆる価値観でいろんな価値観の人が劣等の中に住んでる状況だと、
で、存分に楽しんで浴びるだけで十分。そこは成立してるわけだ。
全然いいんだけど、一方社会で生きてるときって送り手としてのサービス提供者としての立場にもなったときに、
まるでワークしなくなるっていう現象が大きいのかと思って。
そのために自分がなんで好きなのかとか、なぜこのサービスやこのアートっていうのは価値があるとされてるのか、
もしくは今受けてるのかっていうものに対して言語化したりとか、ある程度体系化できる。
そういう見方ができてないと、やっぱりなかなか難しくなるなっていう意味で。
確かに。特に僕最近思うのは、やっぱりAIが出てきたおかげで、
なぜその人じゃないといけないのかと問われてると思うんですよ。
何するにしても、なんで自分がそれをやる意味があるのか。
だってAIがやったほうが、大衆に向けたことできるからって。
今からどんどんそう、もっとなっていく音楽も、今もうすでにAIで作れるんで。
なんとなく売れそうな音楽みたいなのを一瞬で作れるし、BGMとかもそれこそパッて作れる。
ってなったときに、ミュージシャンはそれは常に自分、なんで自分じゃなきゃいけないのかって多分いろいろ考えてる。
けど、なんかじゃあ動画作るとか、その作業で資料1個作るにしても、
なんでこういうふうにしなきゃいけないのかっていう、なぜ自分じゃなきゃいけないのかっていうのを考えないと仕事はなくなりますよね。
間違いなく、この人に頼まなくていいじゃんってなる。
居場所がなくなっていくから、そういうときに、え、なんで自分はこれに快楽を感じるのかとか、
なんでこっちじゃダメなんだろうっていうのを1回考え直さないと、分かんないままだと戦えないですよね。
AI論争みたいなものって今後変わってくものだから確定的なことは言えないんだよ。
少なくても人間が何かをやる理由があるとすれば、
なぜ自分がやるのか、なぜあなたじゃなければいけないのかっていうことを証明する作業が必要だと思うんだよね。
そうです。
ってなるとやっぱり美術だったり、文脈だったり、史実だよね、みたいなものに対して、
自分をちゃんと定義として持ってる人っていうのが、
過ごしやすくはなるよね。
信頼ないですよ、それは。
また音楽の話に戻るんだけど、音楽ってさ、今、音楽でもよく言われるのはさ、