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2024-02-14 1:01:21

#47|BLACK Pod 「ポスターを貼りたくないおじさん」by トリビア&メチクロ

from雑談 -特別編-【BLACKPod】は、トリビアとメチクロが音楽を語ることのややこしさをややこしく語らう番組です。※本編は SoundCloud にてお楽しみください。〈収録2024.02.11〉

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【本編はこちら】音楽をダベる番組『BLACK Pod』

https://on.soundcloud.com/PvB92⁠

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[PLAYER] ───────────────────

【毎日映画トリビア/PODCAST 深めるシネマ】

映画情報発信アカウント運営者『毎日映画トリビア』と、その幼馴染『Tomohee』の二人が、毎回一本の映画について語らい、映画の見方を深めていく “徹底対話型” ポッドキャスト番組です。作品の魅力はもちろん、映画から見えてくる人生観まで、じっくり話し合って深めていきます。映画は見るだけじゃもったいない!<火曜日夜更新>https://linktr.ee/eigatrivia

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【Mechikuro】

マンガ・オーディオ・アート・クラブミュージックなどの第一線で、分野横断的に活動するクリエイティブディレクター。グラフィック&プロダクト両面のデザインのみならず、編集&ライティングからブランディング&プロデュースまで多様なスキルセットを駆使する。これまでの経験と知見を活かし、『JAPAN PODCAST AWARDS』では創設メンバーとして、2019年創設〜2021年まで3年に渡り理念&審査レギュレーション設計、選考委員選定、ノミネート作品選考、グラフィック&トロフィー造形など中核業務の全てを担当。作品選考作業においては、年間平均2000作品・2000時間強に及ぶ聴取・リサーチ・分析を行い、アワードという一つの基準において、国内ポッドキャストシーンの可視化とクオリティの定性評価に寄与した。 現在、自身のポッドキャスト作品としては、ぷにぷに電機と共に制作する『LAUNDRY AM』を配信中。 『雑談』では、より広く、より深く、音声作品の可能性と魅力を伝えるべく、さらなる能力を解放する。@maticlog

00:07
トリビアとメチクロで、新しい音声番組を始めようと思っていて、この前ちょっと撮って、おそらく今月ぐらいからアップされるんだけど、内容が音楽を紹介する音声番組をやるんだけど、いわゆるポッドキャストのプラットフォームではやれなくて、
なぜなら音楽が入るから。なので、別のサウンドクラウドっていうところで、その音源をアップされるので、これから話するお話を聞いて、ちょっと興味あるなと思ったら聞いてほしいなと思いつつ、
ただ僕らがこれから話す話で、ちょっとザワザワするものがあったり、イラッと感じた人は、わざわざポチッと押して聞いたりしなくてもいい。
あれなんですよ、僕はね。啓蒙主義じゃないんですよ。でもちょっとなんか、自分の中で出会いたいなと思う人っていたりするじゃない?人生のポイントポイントで。
その時に僕らのようなお話が、今まで自分がなかなか出会えなかったけれども、こういう人のお話とか、その人が大事にしているものを触れたいなとかって、もし思う人がいたら。
なんかみんなに向けてやるっていうのを、なんか最近やりすぎてる気もしてるんで。
小器用なだけに。
ちょっとまぁまぁまぁそこはやらないっていうのも作ってみようかなっていう。
そうだね、だからなんかイメージは15人ぐらい。僕らがかける音楽みたいなものとかに興味持ったりする人がいると、まぁ妥当。冷静に見ると妥当かなっていう。
クラスに2、3人。
いや多いね。
多い?1人?
いや、学校の中でいないんだけど、ちょっと外に出たら1人そういう人に会えるみたいな。
確かに。
望んでましたね、学生時代はそういうのいないなとは思ってたんですけどね。
あんまり今までしてこなかったですからね、僕が。話して伝えるみたいなのを相手に合わせるっていうのばっかりやってきたのもあるから、自分の限界も知らないのもある。
1人で哲学的に内省して考える時間は膨大にあるんだけど、それを他人とキャッチボールして磨き上げる時間っていうのをあんまりせず、むしろそこはグッと中に留めて、自分のある一面のチャンネルで人と合わせて社会の中で人に貢献して、ビビったらお金もらったりして。
03:04
そうやって食いつないで。
悲しくなってきた。
でもね、実際そういう才能の子ほどそういう生き方しちゃう子多くて、運がいいと本当に自分を開放していって、世の中からも才能認められて、ビビったらお金じゃないというか。
そこそこのお金を。
全然いるので、トリビアとかはせっかくそこのチャンネルに入ってる人なんだったら、早く自分の内面のものを外に出せる時間が多い方がいいはずなんで。
そうですね。
せっかく大分から東京出たんだったら。
洞窟から出ようとしてるから。
出ないって言ってもあるからね。
出ないって言ってもある。
ちょっと今日、僕らの音楽番組を聞いてもらう以前の問題として、そもそも僕らのテイスト合うかどうかっていうのの、
ちょっとリトマス主見詞的に聞いてほしいお話があって、テーマを持って話したいのがあって。
それがね、ちょっと今話したことにも通じるんだけど、
ティーンの時にさ、けって感じたさ、感情のまんまポジションを固定しまう現象ってあるじゃん。
例えばファッションとか体育教育とかお金とか政治とか恋愛とか、あと自分が見た大人とかに対してけってその時思った感情で、
もうその感覚で自分が向いてる向いてないとか含めてポジションを決めて、そのまんま2,30代40代まで。
自分はそういうポジションだって思う現象ってあるじゃん。
ありますね。
それって自分が快適に過ごすためにはすごく重要なことだとは思うんだけど、
多感な時期に感じたものだけでずっと快楽的にホッピングしてるだけだと、なかなか成長しないポイントがあると思う。
物事には。
そうですね。
で、それが鍛えられてないと、ある立場になった時に決定的に筋力が足りなかったりするものもあったりするんだよね。
なるほど、確かにわかりました。
俺はざっくりそれを文化教養って言ってんだけど、
例えば今最近ってどんなビジネスでもある程度クリエイティブだったりとか、センスだったりっていうものを加味して世にサービスを提供しないと、
世の中が反応してくれない、いわばビジネスがうまくいかない時代になってきてるんですね。
昔だったら効率とかニーズとかに合わせて提供すると、普通にニーズの方が多かったので十分ビジネス成立してたんだけど、
今ってあらゆるものが多様な上に充実していて供給過多の時代だった。
06:00
供給過多の時代になってくると、そこの差別化ってどこで生まれるかというと、付加価値だったりとか、提供されてないと選んでもらえなくなったりするから、
普通に消費者として楽しく暮らしていて、正しいビジネスパーソンであるっていうだけだと、自分がやってるビジネスがワークしなくなってる。
しかもそこで自分で決済権持ってやる立場になった時に、そこの目利きをしなければいけない自分だったりとか、
自分ができないとしてもどういう人に任せればいいのかっていう目利きとかっていう時に、
実はティーンの頃のような、いわゆる自分の衝動とかみたいなものだけで文化に触れていると、見えない勤力ってある。
わかる。
巷でよく見るそういうのっていうのもよくありますけど。
って言った時に実は効いてくるのが文化教養にあたる部分だったりして。
僕、結構その文化教養みたいなものを大学の時に結構ちゃんと学んだっていう実感があって、
当時の教授が言ってたことがすごい未だに残ってるんですけど、その教養って何なのかみたいな話があって、
自分が住んでない、自分が全く関わりのない文化にいきなりポンって置かれて、
なぜそれが受けているのかわからないものを見た時にそれの理由をつけたり、
素晴らしさを伝えられるのが教養だっていうことを教えられて、
なるほどなと思って、今自分がいる世界の外に出た時にそれが本当に必要になるって思ってるんですよ。
だから今多分インターネットとか普及して、いろんな世界がどんどん広がっていってるから知らないものにあたる機会も多い時に、
それがなぜ素晴らしいのかっていうのが、やっぱり教養がないと説明もできない。
今までの自分の中の価値観とか感性で、いやこれは気持ちいいんだっていうのは通用全くしない。
なんでなんだろうっていうのを今まで自分が持った教養を持って、
それを観察したりしないと人に伝えられないっていうのが教養だっていうのを教えられてて、
それがすごい未だに残ってるんですよ。
だから普段いつもそういうつもりでいろんなものに接しようとはしてます。
だからそこがないとグローバル化したこの社会だと、
なかなかそれこそ相手に魅力的だと思ってもらって、
自分のサービスを使ってもらうっていうのはもう難しくなってるのかなと思って。
今となってはグローバル化っていう言い方を取ったとしても国内においても多様化していて、
あらゆる価値観でいろんな価値観の人が劣等の中に住んでる状況だと、
09:05
自分と違うなって思う人ってもう隣にいる。
だからやっぱり教養っていうものをもうちょっと広げて、
僕は文化教養って言ってるんだけど、文化教養的なものって実は日常の中でトレーニングとしてというか普通に繰り返しやってないと、
無関係でいられる人が減ったなっていうのを感じるんだよね。
ってなった時に音楽って実は未だにそこで十分機能している。
またビジネス用語を使うとPDCAの速度がむっちゃ速いジャンル。
だから音楽を普通に日常の話題の中に入れていくと、
なんとなくそういう感覚、自分と違うもの。
自分が少し共感できないけど違和感を感じる。
でもなんか気になってしまうものに出会う。
母数が多いアートフォームだなと思ってて。
適度にエンターテイメント性も高いから、
単に音の動きを聞くっていうシンプルな文化だからっていうところもあるかもしれないですね。
かなりメタ視点だとそういう理由で、あえて音楽を通じて語りたいって感じの導入なんだけど、
もう一個ちょっと外部から引用してもいい?
岡田斗司夫さんっているじゃん。
多分彼もさっきの言い方で言うと、
けって感じる感じないがすごくわかりやすい人だと思うんだよね。
けって感じたことによって彼のコンテンツを触れないって決めてる人もいるだろうし、
けって感じずにまさにこの人は僕が知りたいことを教えてくれる人だと思って、
YouTubeを見てる人もいると思うんだけど、
彼が2013年の1月に配信した回で、
今ボトリビュアと話してるのは芸術について語ってる回があって、
10年前?
そうだね。それを引用しながらこの後の話したいんだけど、
2013年頃に森美術館で行われたジョジョの奇妙な冒険の展覧会があったんだって、森美術館で。
それのミュージアムショップでの売上が森美術館史上過去最大の売上を見せたっていうトピックを元に語ってた回なんだけど、
そこで岡田さんが引用した新書、本があって、
それが新潮新書の西岡文彦さんが書いたピカソは本当に偉いのかっていう新書を例に挙げながら、
岡田さんが感じるアートについての話した回があって、
それがね、興味深いの。
12:00
で、そのピカソは本当に偉いのかっていう本で何を語ってたのかというと、
ちょっと岡田さんの発言を書き起こしとしてちょっと並べるね。
西洋美術を見て日本人が学ぶことなんて本当ないんだよって言ったり、
ピカソがわかるやつは頭が悪いんだよって岡田さんが言って。
結構面白いよね。興味深いよね。
で、ピカソがわかるってことはアートという文脈に騙され続けてるという証明でしかないからさって言ってるのね。
なるほど、そういうこと。
そこで岡田さんなりのすごく彼の語り口的に面白いことずっと羅列して、
例えばだけど西洋美術っていうのはそもそもキリストからの自由とか王様からの自由っていうものの表現として、
上から市民にアートが広がってた歴史があるから西洋美術っていうのはこういう系譜があるんだ。
一方日本っていうのはすごく珍しい国で、
王族から浮遊市民に流れて庶民に流れるっていう流れがすっごいスムーズにいった国で、
戦国時代終わって江戸時代に入るぐらいの頃にはもうすでに庶民が自分たちがたしなむアートとして浮遊園のようなものとかがすでにあったからすごく珍しい国で、
日本の大衆文化のすごさだけはとても本でもないレベルなんだよと。
だから今更西洋からの流れの西洋美術に学ぶことは本当にないんだよっていう言い方してて、
今言ったような、現代の日本っていうのは大衆文化が恐ろしく発達してるから西洋美術のような美術の系譜に関しては一切学ぶことがないっていうこの極端に振った発言って、
トリビア的には今率直にどう感じる?
そういうフックに使おうとして大きく言ってるのもあるから、その先にシーンが多分あるんだろうなっていう感覚ではあるけど、そんなわけないですよね。
学ぶことがないわけないですから、言ってることはわかるんですよ。
すごい西洋っていう文化、音楽にしたってもともとその教会の音楽とかから始まってたりするから、いわゆる特権だったわけですね。
一部の人しか音楽が楽しめないっていう流れがあったのが西洋文化で、それが全部今のもとになって、いろんな試行錯誤されてるっていう意味で言ってる。
だとしたらなんとなく言ってる意味はわかるんですけど、学ぶことはないわけないです。
学ぶっていう発言に着目するとそうだよね。
この話自体はこの回の動画をYouTubeで探せばあるし、さっきそれの引用で使っていた新書のピカソは本当に偉いのかっていう本を読めばいいと思うので、それぞれの感想はそこで持ってもらえばいいと思うし、
15:10
僕らは別にこう深めるつもりはないんだけど。
で、いうところでさっきの最初の話に戻るんだけど、
結果そういう極端な振り方をしてると、どっかで自分にそこの筋力としてあれってなる瞬間が思いっきりそこの今の発言に乗っかることは危険だなと思うんで。
そうですね、それにその岡田さん、僕そんなによく知らないんですけど、でも同じようなことを言ってる人っていっぱいいるじゃないですか。
全部コンプレックスだと思ってるんですよ。
さっきのケっていうティーンの時の感情。
その傷つきだと思ってるんですよ。
なんかそういうその傷が癒えてないから触れたくないっていう。
で、やっぱりどうしてもその相対的に捉えられるその学術的なものと大衆を分けてしまうっていうのは、
どっかで権威的なものに仕掛けられたっていう経験があるからそっちも見れないって無意識になってると思うんですよ。
それって僕はだからアートっていうもの全体で見た時に半分捨てることになるけどいいのって僕は思うんですけど。
えっとね、岡田斗司夫のYouTubeを見ていて一つ感じるポイントがあって、
岡田斗司夫さんの番組って岡田斗司夫さんが真ん中に一人座って一人語りをずっとする番組なんですけど、
後ろに本棚の棚があって、
その時の話題とか自分の今の旬に合わせて自分のアーカイブから本をいろんな本並べたりおもちゃを並べたりプラモデルを並べたりしてるよね。
なんかね、その様を見た時に、
子供部屋おじさんってあるじゃん。
はい、ありますね。言われて結構経ちますけど、今までにありませんね。
僕サブカルとかの知り合いとかもすごく多いんだけど、
やっぱり特徴的なのはそういう人たちのお部屋とかアトリエとかに行くと、
やっぱり自分の頭の中を現物に起こしたかのような自分のコレクションをずらーっと並べてるんだよね。
ある意味個性的じゃないというか、
みんな同じような、ああいう岡田斗司夫の後ろの棚のようなコレクション棚みたいなものを、
自分の生活やビジネスをする書斎のところにああいうものを並べてる。
18:02
YouTube多いですけどね。
結構いろんなYouTuber、特にそういう文化的なものを扱うYouTuberは、
自分の背景にいろんなものを置いてる。
好きなものとか部屋にポスター飾るとかよく見ます。
でね、一方僕は海外の、
これも多分ケイとかイラっていうポイントかもしれないけど、
海外のいわゆるトップアーティストみたく呼ばれてるような人とかとお仕事する機会に恵まれたタイプではあるので、
そういう方々と長い時間過ごすことがあって、
彼らの家とかに行って、こういう打ち合わせしたいとかコミュニケーションを取る機会があったので、
彼らの生活空間に行くことがまあまああったんですよ。
あとスタジオとか行くことあったんだけど、
向こうのエンターテイメントって言われるフィールドでもすごく名声を手にした、
かつアート的にも評価がある人たちなんだけど、
彼らのそういう空間に行くと全然違う空間なんですよ。
インテリアと呼ばれるそのお家だったり、
インテリアって呼ばれる空間に関してはインテリアとして適したものを選んで配置して、
そこの居心地とかそこの芸術性とかそこの機能性っていうものについてすごく意識的に選んで空間を作ってる。
だからある意味自分の頭の中を表現するものっていうのを自分の空間に置いてないんだよね。
コレクションがあるとしたらコレクションルームとしてショーケースに飾ったりして置いてたりするんだけども、
彼らの居住空間にあるアートっていうのはそのサブカルチャーと言われるものは置かれてないんだよね。
例えば飾られてる絵っていうものがあるとしたら、
さっきの言い方と西洋美術の系譜にある今の現代美術の何かが置かれてたり。
この差って何なんだろうっていうのをずっと当時から僕は考えていて、
一方日本で日本のエンターテイメント界でそれこそトップティアで活動されてる人たちとも僕時間を過ごすことがすごく多かったんで、
その方々のアトリエとか居住空間とか、
あとはビジネスで成功された社長さんのオフィスだったりとか彼らの家だったりとかいうことあるんだけど、
やっぱ風景が違うというか。
僕が日本に住んでいて感じるのは子供部屋と実家のリビングしかないんですよね。
その特徴を言うと、自分の頭の中の世界イコールエンタメなども含めた自分の記憶や価値観みたいなものっていうのをそのまま自分の空間に置く人が多くて。
21:08
それはいわゆる庶民と言われてる人からお金持ちと言われてる人まで一緒だなってすごい感じて。
そうなんでしょうね。
僕も子供の頃とかは部屋にポスター貼ったりとかしてたんですけど、
CDの棚とかで並べるとか、ジャケットを出すみたいなやつとかやってたけど、
ある時からやらなくなったんですよね。
うん。
なんでなの?
なんか今は嫌なんですよ、それは。
うんうん。
自分が聴いてるCDとかレコードが、あとは好きな映画のポスターとか何でもいいですけど、
部屋に飾られてるってなんか嫌なんですよ。
うん。でね、なんかお金持ったり成功した人がさ、
僕みたいなさ、ヤクザモンにさ、なんか力貸して欲しいってオファーしてくれたりするわけじゃん。
そういう人たちも具体的な僕に対する仕事上のオーダーするんだけど、
なんで僕みたいな人間にそういうオーダーするのかなっていうのを僕なりにずっと分析しながら考えたら、
要は君のセンスちょうだいっていうか協力して、君のセンスで僕に協力してほしいってことだと思うんで。
そうですね。
で、ここでセンスって言葉が出てくるんだけど、
センスのいい部屋みたいなのってさ、
なんかどんだけカルチャーの違う人だとしてもさ、ピンと浮かぶなんかがあるはずじゃん。
センスがいいってこういう部屋だよねとか。
じゃあそこに子供部屋みたくポスターベタベタ貼られてるのかなとか。
ちょっと違うよね。
僕は違うと思うんですけど、
なんか今日本だとそっちの方がセンスがいいって言われてそうな気はしてるけどなっていう。
で、そこで捉えた日本ではって言った時にはやっぱり画面の向こうの世界なはずなんだよね。
YouTuberっていうのがどういう画面作りしてるのかって言った時にはそういうものが置かれてるとかみたいなのを日本ではって言ったらそうなると思うんだけど、
でもやっぱどっかけって言って見ないことにしてた心の中には、
なんかさっき僕が言ったその西洋的なすっきりとした何か文化的拡張の高い何かみたいなものがその向こうには感じてるはずなんだよね。
でもけって思ってるポジションがあるから、そうじゃないって思いたがってるような気がして。
だからあるところまで行った時は僕みたいな人間にオファーしてまで、
その必要枠として何かすっきりしたようなことをちょっと社内では言いづらいからさ。
24:06
傭兵のあなたがさ。
そう、必要枠ですよね。
悪者になってその西洋的な何かっていうのを演じてくれよみたいなことをちょっと厳害に感じるというかね。
となった時にね、ちょっと音楽の話に近づいたんだけど、
ちょっと序盤俺ばっかり話したあれなんだけど、後半いっぱい二人で話したんだけど。
で音楽の話に戻るんだけど、BGMってあるじゃん。
はいはいはい。
センスのいい空間で流れてるBGMってなった時にさ、
今みんなが推してるようなさ、ポップソング、いわゆる歌謡曲みたいなものって流れてるかなっていうのとか、
あとセンスのいい空間に今みんなが推してるアニメや映画のポスターとかキャラクターが張られてるかなとか、
なんか結構そういうとこあるなと思ってて。
確かに。
ヒットチャートがずっと流れる店多いですけどね、なんか。
でそこって、センスがいいっていうニーズの時にそこに行くのかな。
行かないですよね。
ってなった時に、けっ!っていう感情だと、そんなところ別に俺いらねーし。
行かなくていいんですけど。
いいんですけど。
っていう選択肢が善となるじゃない。
で俺はそこ善肯定でいいと思うんですね。
なんだけど、そこを無しにしてしまうと、一番最初の話に戻って、
自分と価値観の違うマーケットや人と会った時に、語る言語を持ってないことになっちゃうっていうパラドックスが起きてしまう。
そっか。
説明ができないんだと思うんですよね。
なんで自分がそれを好きなのかっていうのを説明できないまま生きてくる。
ある一定のとこまで生きてくると、なんか好きに理由とかいらないでOKみたいになっちゃうのかもしれないですね。
理由はいらないっちゃいらないんですけど、そこに理由があるはずじゃないですか、絶対。
でもそんなこと考えてる暇もないし、いろいろ言ってきてもいいじゃんっていう感じになるのかな。
だから別に好きなことに理由なんかなくてもいいじゃんっていうのは、消費者としては正しいんですよ。
要は、提供されるものを自分の直感や共感っていう受け皿で受け入れて、
27:04
で、存分に楽しんで浴びるだけで十分。そこは成立してるわけだ。
全然いいんだけど、一方社会で生きてるときって送り手としてのサービス提供者としての立場にもなったときに、
まるでワークしなくなるっていう現象が大きいのかと思って。
そのために自分がなんで好きなのかとか、なぜこのサービスやこのアートっていうのは価値があるとされてるのか、
もしくは今受けてるのかっていうものに対して言語化したりとか、ある程度体系化できる。
そういう見方ができてないと、やっぱりなかなか難しくなるなっていう意味で。
確かに。特に僕最近思うのは、やっぱりAIが出てきたおかげで、
なぜその人じゃないといけないのかと問われてると思うんですよ。
何するにしても、なんで自分がそれをやる意味があるのか。
だってAIがやったほうが、大衆に向けたことできるからって。
今からどんどんそう、もっとなっていく音楽も、今もうすでにAIで作れるんで。
なんとなく売れそうな音楽みたいなのを一瞬で作れるし、BGMとかもそれこそパッて作れる。
ってなったときに、ミュージシャンはそれは常に自分、なんで自分じゃなきゃいけないのかって多分いろいろ考えてる。
けど、なんかじゃあ動画作るとか、その作業で資料1個作るにしても、
なんでこういうふうにしなきゃいけないのかっていう、なぜ自分じゃなきゃいけないのかっていうのを考えないと仕事はなくなりますよね。
間違いなく、この人に頼まなくていいじゃんってなる。
居場所がなくなっていくから、そういうときに、え、なんで自分はこれに快楽を感じるのかとか、
なんでこっちじゃダメなんだろうっていうのを1回考え直さないと、分かんないままだと戦えないですよね。
AI論争みたいなものって今後変わってくものだから確定的なことは言えないんだよ。
少なくても人間が何かをやる理由があるとすれば、
なぜ自分がやるのか、なぜあなたじゃなければいけないのかっていうことを証明する作業が必要だと思うんだよね。
そうです。
ってなるとやっぱり美術だったり、文脈だったり、史実だよね、みたいなものに対して、
自分をちゃんと定義として持ってる人っていうのが、
過ごしやすくはなるよね。
信頼ないですよ、それは。
また音楽の話に戻るんだけど、音楽ってさ、今、音楽でもよく言われるのはさ、
30:05
マニアックな音楽をいっぱい知ってる人のほうが偉かった時代があったようじゃない?
どうやら。
歌謡曲みたいなものを聞いてる奴はダサくって、
マニアックなものをいっぱい知ってる奴が偉いみたいなものがどうやらあったジャンルらしいじゃん。
今さ、ポップフィールドの優れてると言われてる音楽作品ってすごいじゃん。
そうですね。
両方問わず。
だからそういう意味で言ったら、かつてのそういうマスとインディの差みたいな文脈ってもう崩壊してるはずなんだよね。
なんか十分ポップフィールドの音楽もすごいし、
ポップフィールドに上がってないけどすごいものっていうのも相変わらず膨大にあるのが音楽の世界で。
俺から見ると機能が違うものだなと思ってるんだよね。
さっきの言い方だと、
じゃあ今、2024年の2月現在でいくと、
今みんな巷を騒がせてる日本の評価されてる音楽ってアドだったり、夜遊びだったりするのかな。
すごいよね、なんか本当にJ-POPらしくさ。
かつてアルバム12曲で表現してたようなことをもう3分の1曲に凝縮したような曲を表現するアーティストがもうポップフィールドで出てるのは今言ったような人たちだと思うんだけど、
じゃああの音楽って日常の中で流れたり、自分を内省したり、
音楽っていう芸術に対して何か深く没頭するような時に、
ああいう音楽だけで成立するのかな。
なるほど、しないですね。
なんかちょっと話変わるかもしれないですけど、
さっき言ってたことが今分かったような気がするのは、
なんで自分の部屋にポスターとか僕は貼りたくないのかみたいなのに繋がるかなと思って、
なんか意味が決定してしまうような気がするんですよ。
意味を持ちすぎてるっていうか、
夜遊びの曲にしても今の日本のものってやっぱりガチガチに意味が決まってるし、
意味がないと多分楽しめない人が多い。
だから、僕は多分普段あの音楽ずっと聴けない。
すごいのは分かるんですよね、夜遊びとか本当に。
楽器の構成とかもすごい変わったことしてるなとか分かるんですけど、
普段は聴けないのはやっぱ意味が強すぎるなっていうのがあって、
だからさっき言ったように部屋に物を置くのも僕は意味が強すぎて、
33:03
その空間が決定された感じになるのが嫌なんですよ。
じゃあもう違うジャンルに移しましょう。
どうやら巷ではシュプリームやバレンシアガと言われるブランド品を身につけることがステータスだとされてるそうで。
どうやら。
センスがいい人っていうのをイメージしてください。
バレンシアガっていうロゴやシュプリームっていうロゴが胸元にドンと書かれている洋服を着てる人。
どうですか?
敵いっぱい作るな。
グッチとか書かれた帽子とかありますけど、あんまり僕はセンスがいいとは思わないですよね。
でもあれはきっと機能としてさっき言った意味を果たしてるんだと思うんだよね。
そうですね。意味がやっぱ強いんですよね。そうなってくると。
僕は送り手のキャリアが長い人間なのでちょっと言語化できちゃうんだけど、
偶像と抽象の話だと思ってて。
古くは人物画と呼ばれたものや、今だとキャラと呼ばれてるようなものを偶像化して表現されてるものはやっぱりパブリックというか、
自分の部屋ってプライベート空間とはいえ、ある意味セミパブリックな空間ではあるじゃないですか。
そういう場に偶像化されたものっていうのはやっぱりトゥーマッチになる。
ある程度パブリックな意味を持つ空間にはある意味の抽象性が必要で。
だから言語だったり人物像だったりっていうものが置かれてるものっていうのはやはりトゥーマッチな情報になりやすいんですね。
さっきのトリビアの言い方だと、やっぱり意味が確定されてしまうから避けたい。
なぜなら、たぶん自分っていうプライベート空間だとしてもそこで24時間流れてる瞬間っていうのは変わるわけだし、
自分の心情や居心地の意味っていうのも変わるわけだから、
そこで確定された意味っていうものが固定されてると、
居心地の悪い時間の方が実は多くなっちゃうっていうようなバランスの話だと思ってて。
確かに。
意味、なんか余白がやっぱ欲しいんですよね。
今、やっぱ売れてるものは意味が確定してて伝わる。
看板が多い街とかもたぶん意味ベースなのかもしれないですよね。
意味を伝えるっていう。
で、よくあるのが映画のポスター、日本版のポスターがダサすぎる問題。
36:02
あれよく議論されますけど、やっぱ意味なんですよね。
感動的な映画は感動的な映画ですっていう意味を伝えないと、
観客としてお金を払ってきてくれないのが日本のマーケット。
でも海外のヨーロッパとかもそうだし、アメリカとかも、
最近は韓国とかも映画のポスターとか見ると、
かなり余白を持たせて、わって思わせるものが多いのは、
文化的な違いがあるのかなって。
じゃあ街並み、パブリックっていうものをより拡張して、
街並みっていうところまで、ちょっと今部屋から飛び出して行ってみるとするじゃない。
やっぱ西洋の街と日本の街で過ごしてみて、やっぱ大きく感じるのは、
さっきの看板みたいなものが大量にある東京みたいなのはわかりやすいからいいんだけど、
公園とか空き地のような都市の中に余白を作って、
余白の中で自由にそれぞれの過ごし方ができる場所っていうのは、
やっぱり東京に住んでると特に少ないなって感じるというか、
狭いってこともあるのかもしれないけど、
それにしたって全てに意味があるというか、
全てに使い方や機能っていうものが明示されていて、
そこから外れるっていうことが、なんか居心地が悪くなるような設計。
ある言い方をすると全てがデベロッパーが存在していて、
そこにプライスタグが付いてるような空間が、
街並みのほうも全てに見えてるなと思って。
多分西洋って意識的に誰のものでもない、
いわば国が買い取った土地として、
国民や市民に開放してる余白としての空間っていうものを、
ちゃんと確保してるっていうか。
日本は意味が強いがゆえに、
ここはこれする場所みたいなのを決定されてるから、
それ以外の行動は基本禁止されてるっていう、
なんかよく海外の人が日本に来て思うことの一つで、
普通にベンチとか大きい商業施設だったら、
いろんなところにベンチとかあるけど、
そこで食べ物とか食べて注意されてびっくりするみたいな。
で、なんか注意書きに一応書いてるんですよね。
日本語でここは飲食厳禁ですみたいな書いてるけど、
やっぱり外国人に読めなかったりして。
でも西洋では当たり前に別にベンチがあるし、
休憩する場所、休憩する場所っていうか何もない場所なのだから、
自由に好きなことをしてOKっていうのが基本なんだけど、
39:04
そこでご飯食べてると警備員の人が来て、
いざこざになるみたいな、信じられない日本みたいなのは、
たまに聞くけど、
街の作りとか意味っていうのは固定しがち。
それから外れてるものはダメだっていうふうに、
僕とかも教えられてきてるのかなみたいな。
あとやっぱり日本で感じるのは、
セミパブリックに関わらずやっぱり文字が多い。
文字情報で何かを記述してるものが、
ビッグ空間にしてもお部屋にしても、
さっきのYouTuberの後ろのものにしても、
やっぱり意味の最大のものだよね。
文字で全てを伝えようとする。
例えばだけど、さっきの道徳みたいな話でいくと、
何々禁止っていうものを言葉で書くじゃない。
例えばお店、中1個取っても、
何かきっと1回一時例としてトラブルがあったんでしょうね。
あると文字を書くんですよ。
何々してはいけません。
トイレに行くと説明書きが10個ぐらい書いてあったりするみたいな。
やっぱり僕がデザイナーとして考えるのは、
意味で伝えて何かを誘導するって、
実は効率的じゃなくて、
できるだけ意味じゃない形で、
人を自然に快適だと思って動いた行動の結果、
それがこっちが求める行動がなされてるっていうものを
デザインするのがデザイナーの仕事のはずで。
今僕がやってる雑談っていうお店の中でも、
極力文字の情報っていうのを減らしてるんですよ。
でもよく言う割れ窓理論みたいな話もそうなんだけど、
街中に割れてる窓がいっぱいあるような街では、
犯罪率が上がるみたいなのと一緒で、
あとは清潔にきれいにしている、
掃除が行き届いてる空間では人はゴミを落とさないとかっていうのと一緒で、
じゃあゴミ落とすなとか、
立ち証弁禁止とかって春よりも先に、
自分たちが自ら快適な空間に清掃してたりとか、
快適なレイアウトをすることによって、
人はその快適さに自然に誘われるから、
別にゴミ捨てるなとか、
立ち証弁するなって書かなくてもなるはずで。
だからやっぱそこの感性っていうのを、
自分の体験や文化を摂取することによって、
自分とすり合わせて、
自分の身の回りの日本だったり、
自分のお部屋だったり、
自分のスマホの中身だったりと比べながら、
そういうちょっとした差異、
いいと思う差異について、
自分で考えてみたり言語化してみたり、
それをまた確認するかのように近い作品に触れてみたり、
っていうリピートを繰り返してないと、
人っていうのはセンスや何かのけれんみだったり、
自分が日常を感じる直感の鋭さだったりっていうものって、
42:03
鍛えられないはずで。
鍛えられないし、鈍っていく気はするし、
僕自身もとはいえやっぱり鈍ってるなって感じるときはありますね。
音楽の番組をやるにあたってやっぱり音楽をいっぱい聞き返したりとか、
普段から聞いてるけどってなったときに、
今までそういう意識で聞いてないものが聞こえてきたりもするし、
不思議ですよね。
今の番組に多分つながるんだけど、
なぜトリビアと番組をやろうと思ったのかっていうと、
番組の構成を伝えると、
15分1セットずつあるテーマを決めて、
メチクロとトリビアで15分ずつのミックスを作って、
それを流した後に、
その15分、なぜ選んだのか、
なぜこのテーマに対してこういうものを選んだのかっていうのを、
2人でトークする番組をやるんですけど、
自分が好きで聞いてる音楽っていうものに、
あるテーマ、
あと相手である僕っていう人間とキャッチボールをするっていう前提で、
要は異文化の2人だよね。
異文化の2人が音楽を通して、
自分のレコメンドをするっていうコミュニケーションが発生した瞬間に、
さっき言った言語化をする。
なぜ自分がこれをいいと思うのか、
なぜこれをこの文脈の中で選んだのかっていうことを、
考えて言葉にするっていうのをやることによって、
今言った、
偶象と抽象を行き来したりとか、
それを多文化の人に対して説明する。
好きなものが教養になる瞬間が、
自分に立ち上がれるはずで、
だからあえてやりたかった。
やっぱやってみると難しいなっていう、
今まで本当に僕はその筋肉を使ってこなかったっていう、
人と音楽の話することもほぼなかったし、
その人が好きそうな音楽の話に合わせて、
僕もいっぱいいろんなジャンルを聞くから、
どっかは刺さるんすよ。
音楽の話された時に、
これはこう、これいいよねみたいな、
っていうところの筋力は多分結構鍛えられてたけど、
真正面で選曲して、
なぜそれが好きなのかみたいなのを、
一からするって本当にしてこなかったから、
今のトリビアの行動も、
本当に文化的な思考を持ってる人なはずなのに、
なぜかトリビアは自分の文化の才能を、
釈放に使っちゃってるんですよ。
自分の持ってるボーダーアーカイブの引き出しから、
人とコミュニケーションを取ったり、
社会的生物として活動するトリビアが、
釈放のカードとして文化を使っちゃってる。
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確かに。
でも僕が見てきて、
僕が生きてきた文化の人たちって、
やっぱり釈放性ももちろんあるんですよ。
あるんだけれども、
釈放とは別に、
文化を共に生きる人間としてのリスペクトをちゃんと持って、
文化的な会話、
本当に文化的な会話で、
自分の体験だったり、
自分の好きなものだったり、
今あなたの美しいと言ってるものを、
自分がどう感じるのかっていうのを、
ちゃんと返したりとかみたいな、
そういうことができる。
だからね、
トリビアが今こうやってお話ししただけでも、
筋力が落ちちゃって感じるってことは、
やっぱり人って、
日本の快適な生活にアジャストすればするほど、
より釈放的な人物になり、
文化的な人物から離れていくっていうのは感じるんだよね。
確かに。
特にやっぱり、
それこそ消費者になっていくようにできてるんですよね。
ここから出るなっていう、
見えない力が働いてますよね。
普通にテレビ見たり、
なんか巷でやってるものとかの仕組みが、
別に誰かがそうしようとしてるわけではないけど、
めちゃめちゃ強い力で、
ここから出るなっていうふうに縛られてる気はしてます。
こういうお話をすると、
お前はどっち側の人だ、
お前はこっち側から話してるみたいなことが、
だんだん聞く人によってはポジションに感じるよね。
それもいいなと思ってて。
俺がこうやって話してても、
なんかあっち側の人でしょって思われるんだと思うし。
何が言いたいかってことをちょっと言うと、
平和ってあるじゃない。
平和って何かの理想が達成した究極地点にある状態じゃなくて、
例えば、善と悪だったり、
右派と左派だったり、
与党と野党だったり、
いろんな思惑を持ったステークホルダーが、
均衡してる状態で起きてる状態なんだよね。
だから、極端なものを右と左に分けて争い合うっていうのは、
人間は今の話でもそうなるように、
人っていうのは何かのポジションで人の話を聞くし、
何かのポジションで発言をするんだよね。
だからやっぱり、少なからず距離の差は、
右と左だったりと分かれる。
でも、均衡した状態を求めて快適に暮らしたいよねっていうのは、
おそらく多くの人が今、賛成する状態。
それを平和って呼ぶと思う。
定戦状態ってことですね。
定戦状態のまま、お互いがその同じ空間に、
同じ時間に存在していて、
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それぞれが快適に暮らす余地がある。
さっき言った余白がある状態みたいなものが平和な状態なんだと思う。
考えると、今言ったような極端に商業化されて、意味をつけられて、
何か与えられたもので、共感と救済によって満足している消費者というものが、
あまりにも多くなりすぎていないか。
だから教養が必要なんじゃないかっていう、
今の要約した言葉だけで語ると、
なんかすごく極端に振られた右派と左派が存在するかのように感じるんだけども、
俺はそういう言説がありながらも、
どこが均衡状態、均衡が保たれているのかっていうのを常に見るのが、
やっぱり分析屋だったりデザイナーとして、職種としてやっていることだから。
本当に思想みたいなとこまで、
それ含まれると思うんですよ。
さっき言った右派左派みたいなの。
やっぱり自分の考えみたいなものじゃない人が多すぎるって思って、
孤独を感じたりとかして反発したりとか。
それに繋がると思うから、
ちっちゃい音楽とか映画とかでもいいんですけど、
常に日常的に、
自分これあんま好きじゃないと思ってたのに、
好きかもみたいな。
これはいいなとか。
今までの自分、自己認識が間違ってたなっていうのを認める作業でもあると思うんですよね。
いろんなものに触れる。
ちょっとずつ自分の手のひらをひっくり返していくみたいなことをちょこちょこやってったほうが、
大きいテーブルを全部ひっくり返さなくて良くなるっていうか、
30歳くらいまで自分はJ-POPが大好きで、
J-POP最高だよねみたいな。
他のものは知らないけど、他のものは面白くない、ああいうのあって思って、
そのJ-POPの流れが変わって、
世の中全体がプログレー大きくなった。
自分一人しかいないじゃんって言って、
そこから自分は間違ってた、プログレーが素晴らしいんだって、
大きいテーブルをバンってひっくり返さないと生きていけないってなる前に、
本当にちょこちょこ、
そうか自分ちょっと違ってたかもっていうのを繰り返していくべきだと思ってます。
そこで僕らの番組の話ちょっと戻すんだけど、
僕らの番組で取り上げる音楽は毎回テーマを決めながらなんだけど、
第1回目はジャズを扱ってるんだよ。
ジャズってさ、一番最初の話でいくとさ、
インテリアの中の話でいくとさ、
ジャズってBGMじゃん。
今の世の中だと。
喫茶店で流れてたり。
最近ラーメン屋とかでも流れてますよ。
ちょっとイカしたって、
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お店をやりたい人が焼き鳥屋さんとかでもジャズを流すみたいな。
ジャズってBGMに今使われやすいじゃん。
でも今僕らが感じてるジャズって、
すごく今先進的な表現が、
すごいアップデートの速度が速くて、
すごくダイナミックな音楽。
だからアートフォームとして、
すごく今ピークを迎えつつある、
ジャンルだなって思うぐらいジャズって今面白くて。
だからそういう意味でいくと、
今1回目に扱うのいいなと思って、
今回は新旧のジャズを2回に分けて、
あるテーマを元に語ってんだけど、
ジャズってさ、
いわゆる今J-POPのように、
誰が何を歌ってるみたいな、
そういう歌によってストーリーを伝える、
ジャンルとしては確定されてないジャンルじゃん。
より総合芸術よりももっとソリッドな、
生のまんまの音楽にすごく近いジャンル。
すごく芸術っていう視点から語りやすい、
ジャンルだと思うから、
まずジャズからいくんだけど、
これから多分僕らが選ぶ音楽って、
いわゆる歌謡曲と言われるっていう、
歌がメインとされてない、
たまには扱うんだと思うけど、
音楽じゃないから、
さっきの偶像と抽象の話でいくと、
より抽象絵画に近いような音楽を、
語っていくと思うんだよね。
それを僕らがどう感じていて、
どういう文脈からこれっていうのがあるのか、
っていうお話をすると思うから、
今ずっと話したようなことを、
感じてもらうのに力してる気がするんだけど、
トリビアは実際、
今回始めてみて、
そういう抽象画のような、
ジャンルの音楽っていうのを扱ってるイメージはある?
そうですね、
ジャズって本当に幅広い、
幅広いんだけど、
定義で言うとめっちゃ狭かったりもする、
っていうものだと思ってて、
なんか、
その抽象でもあるし、
舞台でもあるみたいな、
本当に多様なんですよ。
何がもはやジャズなのかすら、
僕は選んでるときからよく分からなくなってきたりもしたんですけど、
でも、
なんかこれジャズだなっていうものは確実にあって、
それを中心に選んだんですけど、
普段自分が聴く音楽を聴こうっていうものから、
選曲するってやっぱり違うんだなって、
で、
なぜそれがいいのかみたいなのを、
もう1回考えるきっかけにはなったんですけど。
音楽ってさ、
やっぱりコミュニケーションするのにすごく向いてるなと思うのは、
音楽は常に変わっていくじゃない?
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だから、かつてジャズと言われてたものが、
新しくオルタネティブな表現が発見、
やる人が増えてきて、
これはジャズじゃないって言われたりして、
で、それがまた広まっていくと、
それを変える人たちがあるんです。
ずっとこうポスト何々、ニューナニナニって言われ続けるのが、
あらゆるジャンルの宿命で、
常にこれは何々ではないって言われる宿命を抱え続けるアートフォームだったりするから、
ファッションも近いんだけど、
だから、
自分がどう感じたのかっていうことを表明しないことには、
成立しない、好きであることが。
確かに。
成立しないジャンルだから、
ずっと今話してたようなことを、
自分の筋力として身につけるためにはすごい向いてるなと思って。
確かに。
そうですね。
今、マイルス聴いてるからいいって言われてた時代は過去にあっただろうけど、
今、マイルスを聴いてるっていうことは、
当時の文脈だけでは語れないんだよね。
無理ですね。
モダンジャズって言われるものが、
一番多分みんなが連想するジャズなんだろうけど、
バーとかで流れてそうとか、
ジャズ聴いてるって言うと、
おしゃれみたいな、大人みたいなことをひたすら言われてきたけど、
それもいいんですけど、みたいなのは伝えたいなと思って選曲したんですけどね。
面白いのはさ、
ミュージシャンが性的関係でゴシップがあったりするとさ、
ミュージシャン活動を卸されてるようなことがさ、
今あるこの時代においてさ、
公共空間で流れてるかつてのジャズっていうのはさ、
当時のさ、あらゆるドラッグをやり尽くしてさ、
誤解まみれの。
あらゆるコンプライアンスって、
今、現代から見たコンプライアンスって、
無縁のような生活をしていた天才たちの、
すごく当時の極限、
アートフォームとしての極限をやった人たちが、
もうこの50年経った今は、
環境音楽として流れてるようなことがあったりする。
とんこつラーメン屋で流れてる。
流れてたりする。
コルトレインのサックスが流れてたりするわけでさ。
なんか、そういうものを、
別に音楽そのものを自分でどう感じたのかとプラスして、
そういう音楽の中での史実みたいなものを興味持ったり、
あとは、そこに影響を受けた音楽っていうのは、
どのような編成を辿って今に至るのか、
今のアイドルのポップソングのトラックに使われてるあれっていうのが、
実は当時のあれだったみたいなことを知ることが、
さっきの多様性、
多様な文化に触れた時の自分の立ち位置を示すためにも、
社交でも使えるんだけど、
うんちくがせになった時も、
確かに使えるんだけど、知識って。
そうじゃなくて、
自分がなぜこれをいいと思うのかの根拠を自分で、
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実感する時に使えるんだよね。
なんかよく、
ジャズ喫茶とかでなんか、
話しかけてくるおじさんみたいな、
使い方をする人もいますけどね、
なんかこれは何でのみたいな。
だから今、ニュージーンズおじさんは、
ニュージーンズおじさんとしてニュージーンズ好きだよっていうものの中には、
過去の音楽の系譜を知ってる人ほど今ニュージーンズ好きって言ってる人が多いよ。
観測されるんだけど、
その人もだから、今、
チャラチャラやってるアイドルなんてって言ってた俺だけれども、
新しいニュージーンズっていうこの音楽を触れたら、
これって俺たちの信じていた、
あの音楽の本当最高峰な表現してるんじゃねえかっていう、
感動をもとにあれを、
多分言ってるんだと思うんだよね。
それもある意味、
自分が新しいカルチャーに触れるっていう、
窓口になってくれる。
だからやっぱその経験とか、
自分で何度も反するした価値観の、
体験っていうのが、
新しいものに触れる時のテザスでしてくれてるから、
ニュージーンズおじさんって揶揄されてるみたいなんだけど、
なんかそれはそれで美しい現象だなと、
なんか外で見てて思う。
そうなんですね。
でもなんか、とはいえ、
そんなにニュージーンズがなぜすごいのかは、
あんまり語られてなかったりするような気もしてるから、
なんなんだろうなっていうのがある。
だから語って残すほど暇じゃないぐらい、
すごい速度で動いてるのかもなと思うし、
かつてのような批評家とか評論家が、
経済活動ができる場っていうのもどんどん減ってるから、
言説によってそこを紡いでいくっていうのは、
減ってるから見えなくなってるんだろうけど、
そういうことなくなってるからこそ、
案内役がいなくなったからこそ、
自分でやらなきゃいけないのが、
今の時代だなと思ってて。
確かに。
なんつーのかな、さっき言った、
平和が両極に触れたものの均衡した状態っていうのが平和というのならば、
何か自分が感じる世の中っていうのが、
あまりにも極端になんかつまんなくなってるって感じるんだとしたら、
自分側に近い参照点を増やす作業をしなきゃいけなくて、
そのために使えるのが芸術であり、
芸術の中でもすごくPDCAが速いのが音楽だから、
音楽を通じて文化共鳴に触れるっていうのはむっちゃいいなと。
そうっすね。
で、話した感じで、
たぶん、ケッって最初から思ってると思うけど。
まだ聞いてるんですか、ケッって思ってる。
それはありがとうって思ってる。
そうそう、そういうお前だよって。
お前と一緒に。
で、なんかね、本編の方はどっちかっていうと、
2人がほんと無邪気にあるテーマで、
クラブDJのバックとバックともちょっと違うというか、
これでいこうって言ったのをお互い勝手に1人で、
せこせこ15分、
作ったものをガチャンコして、
で、2人で聞いて話すっていうのになって、
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そういうことを専門家じゃない人間が語ってるっていう意味で言ったら、
全く権威化されてない番組なんで。
そうですね。
そういうのすらもういらないかなっていう気がしてますね。
強要のために音楽を勉強しようみたいなのもいらないかなって。
いらない。もっと軽やかにやってるもんですぜって。
なんかそういう意味で、
うちらの番組をたまに聞いたりする人がいたら、
なんかその中からね、ほんと素晴らしいアーティストの音楽を紹介してるので、
なんか出会いになるかもしれないしね。
そうですね。
じゃあトリビアさんは定期的にこれやるんで、
普段やられてるカメルシネマのまたちょっと違った立場、違ったスタンスで。
こっちで言ってはもう名前はトリビア。
毎日映画トリビアじゃないんで。
映画を捨ててるんで。
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