2022-05-17 22:56

『手の倫理』#1

どんな本?/さわるとふれる。触ると触れる/道徳と倫理/伝達的コミュニケーションと生成的コミュニケーション/オンラインって伝達モードによりがちなのか?

-- 本紹介 --

人が人にさわる/ふれるとき、そこにはどんな交流が生まれるのか。
介助、子育て、教育、性愛、看取りなど、さまざまな関わりの場面で、
コミュニケーションは単なる情報伝達の領域を超えて相互的に豊かに深まる。

ときに侵襲的、一方向的な「さわる」から、意志や衝動の確認、共鳴・信頼を生み出す沃野の通路となる「ふれる」へ。
相手を知るために伸ばされる手は、表面から内部へと浸透しつつ、相手との境界、自分の体の輪郭を曖昧にし、新たな関係を呼び覚ます。

目ではなく触覚が生み出す、人間同士の関係の創造的可能性を探る。


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今日の本は、伊藤阿佐さんが2020年に出した新書、 『手の倫理』という本について語り合っていきたいと思います。
Nozomiさんがこれ。 そうですね、私の先章ですね。
なんで選んだんですか? 伊藤阿佐さん、すごく昔から好きでというか、
書かれるもののバランスが超いいなと思って、SNSを含めてずっと見てたんですけど、
2020年にこの本が出た時に、何かのきっかけで、
手っていうか、手足にすごく関心があるタイミングで、
その伊藤阿佐さんという文脈と、手という文脈が私の中でガンとあって、
Kindleに寝かせてたっていう本の1つで、これを読もうかなっていう感じでした。
私も伊藤阿佐さん、展示の解説のテキストを書いてたりとか、解説のテキストとかで見るんですけど、
初めて、恥ずかしながら、ちゃんと初めて本を読んだの初めてでした。
あと吉武晋介さんと書いて出してる絵本とかを読んだことあったんですけど。
絵本って何でしたっけ?すごい柔らかい感じの、いろんな、宇宙人みたいなのが出てくるやつでしたっけ?
そうそう、いろんな目の見えない、あれなんだっけ?
いろんな自分たちの常識とは違う機能で生きているいろんな宇宙人が出てくるっていう絵本。
目の見えない人、目の見えない星が普通だった時に、お金はどんな形をしてるかみたいなのが出てきてるのをものすごく印象的に覚えてます。
見えるとか見えないとか。
あ、ですね。見えるとか見えないとか。
そうだった。自分たちとは違う世界で、でも普通に生きてる人たちのことをすごい柔らかく伝えてくれてる絵本ですごい面白かったですね。
今日は絵本じゃなくて、天の伝理っていう本。
手の触覚、人が人に触ったり触れたりする時にどんなことが起きてるのかっていうことを、
伊藤さん何の視点で解説というか考察というかしている本ですよね。
この伊藤朝さん、東高大の未来の人類研究センターかな。
正式名称もちょっと長かった気がするんですけど、そこの先生、センター長で、ご自身は美学、美しい学と書いて美学の研究をされていると。
障害者の方と一緒にフィールドに出ていろんなことをするってことを長くやられていて、
さっきの三木さんが言ってくれた、見えるとか見えないとかみたいに視覚っていう観点だったり、
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あとは伊藤朝さんご自身が喫音を持ってらっしゃるので、喫音っていうものをテーマにした本を書いていたり、
結構いろんな分野、ある種の身体性っていうところを機にしながらいろんなことを書いてらっしゃるんですね。
この本の帯に書いてあるのは、触ると触れるが開く世界、揺らぎ交わる人の関わりの形っていうのがあって、
手の倫理っていうタイトルの通り、手のっていう前半のハンドですね、手っていうものと後半の倫理っていうのが2つ大きいテーマとしてあって、
それぞれ行き来しながら書いていく本ですね。
おもしろかったなっていう。
まず最初に、帯には触ると触れるが開く世界っていうふうにあるんですけど、
触るっていう単語と触れるっていう言葉が、英語ではどっちもタッチかもしれないけど日本語では分かれてて、
私たちの中で何かを触るときの態度と触れるときの態度って全然違いますよねっていうと、
すごく入りやすい入り口から入って、触覚っていうのはどういうことなんでしょうっていうのをどんどん深掘っていくような話なんですけど、
私その最初の触ると触れるが全然違いますよねっていうところで、
めちゃくちゃその触ると触れるっていうことが全然違うことをすごくすんなり受け入れられるのに、
そんなことは今まで全然意識してなかったってことにびっくりしました。
かなり最初の方に出てきますよね。触ると触れるって違うよねっていうのが導入ですよね。
そんな風に伊藤さんのテキストとか本って、導入がすごく分かりやすいというか、
普通に馴染めるというか、スッと入り込める、私たちの話だっていう感じがするのに、
最後の方になってくると、伊藤さんの研究の結果が生きてるというか、
なるほど、こういうふうに考えることができるんだっていう新しい学びもあって、すごいなって思ってるんですけど。
のぞみさん、この本を読んでみてどうですか?
そうですね、みきさんがおっしゃってくださったみたいな、触れると触れるっていうところの内容、
めちゃめちゃ乱暴に言うと、対象に対して科学的にアプローチするという時には、
どっちだ?
触る?
触るか。で、もう少し内面的なものにアプローチしてる時には触れるっていう、
例えばお医者さんが体に触るっていう時には触れるっていう言い方をするし、
あるいはナイブな問題にこう、何て言うんですか、時には触れるっていう単語を人間は自然に使ってるよねっていうこと?
いい着眼点だなっていうところかな、最初からそこから入ってめちゃくちゃ引き込まれるなっていう話がありつつ、
個人的には他の感覚との対比、視覚、聴覚みたいなものとの対比だったり、
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あるいはこの触覚の中には6タイプあってみたいな、
私結構本当にいろんな触り方の幅というか、視覚っていうと比較的分かりやすいイメージが付きやすい、
こういう問題をなんか分かるんですけど、
聴覚って言ったら触り方によって得られる感覚が全然違うしっていう話も中にあったりして、
本当になんかあれですね、6章あって1本線を通してっていうよりかは、
本当にこう味わいがいのあるところがたくさんあるっていう本だったなっていうふうに思っているですね。
そうですね。
みきさんこれ読んでいるときに一番この、何て言うんだろう、
手を止めたところで言うと大体どのあたりで一番こう…
止めたところですか?
手を止めた、はい。
手を止めたところで言うと、2箇所あって、
1個は道徳と倫理、それって最初の方だったかな。
道徳と倫理の区別みたいなのがあったんですけど、第1章かな。
まず手の倫理ってタイトルにしてるけど、倫理っていうのは何かみたいなのを、
道徳と倫理っていうものは違うっていうふうにしながら、まず前提を作っている部分。
で結構改めて手を止めたっていうのと、
4章で私たちはコミュニケーションの中で手っていうものをどういうふうに使っているのかっていうところがある。
コミュニケーションのタイプを分析しているっていう箇所があるんですけど、
その2箇所が結構何回も読んでしまったところでした。
そうですね。私が気になったところ、
印象に残っているところは、手の倫理っていうタイトル、
でも倫理って入っているんですけど、
なんで手の倫理っていうタイトルにしたかっていうので、
倫理とは何かというか、道徳と倫理は違うみたいなことを整理してまず最初に話されていて、
そこが面白いなと思ったのと、後半でコミュニケーションっていう章で、
私たちは手を使ってどういうコミュニケーションをしているのかっていうのを、
コミュニケーションを分類しながら語っている章があって、
そこもコミュニケーションの分類なんてすごく自分でも考えたし、
いろいろされてきている気がするんですけど、
こういう分類の仕方があるんだとか、私が好きなコミュニケーションってこういうことだったんだみたいな気づきがあって、
面白かったのでよく読んでしまいました。
1個目の道徳と倫理っていうこの差、かなり序盤の、さっきの触ると触れるのを次に出てくる、
1個1個分けていくっていうのがすごく科学的なタイトルだと思うんですけど、
道徳と倫理っていうのはどんな感じの違いなんでしたっけ?
道徳が、確実的な正しさというか、みんなにとっての正しいものに従うっていうことが道徳的な態度だって簡単に言うと言っていて、
倫理っていうのはみんなにとって正しいとかじゃなくて、
自分にとっていいというか自分がすべきことかどうかみたいなことに基づいて行動するみたいな態度っていうふうに分けられていたかなと。
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道徳がわりと答えが定まっているもの、社会的な通念みたいなものと寄り添っているのに対して倫理っていうのは答えが定まっていなかったり、
まだ検討中の議題だったりとかするみたいなことが書かれていたかなと思います。
その手の倫理っていうのも、手の道徳じゃなくて手の倫理っていうこと。
自分の手がどういうふうに人と触れ合っているのか触っているのかっていうことを倫理として考えるみたいな本ですよっていうのは最初に言ってたかなと思います。
この画一的な正しさ、善、善っていうのは良いっていう意味での善を追求するのが道徳、モラルと言われるやつ。
倫理っていうのはもうちょっと個人っていうのに起こした時の何をすべきかだったり、そういうことが入っていると。
なんか道徳の指し示す価値観を相対化をするのが倫理だっていう。
どっかに出てましたね。倫理っていうものはある種の創造性を秘めていますというのが一個あったですね。
道徳と倫理ね。前三木さんと読んだのって暇と退屈の倫理学でしたっけ?
そうでした。
あれは倫理ってことですね、道徳っちゅうよりか。
そうです、道徳じゃなくて倫理。
暇と退屈っていうものを個々人で自由にボーっと。
そうですね、倫理一般は存在しない。道徳一般は存在するかもしれないけど倫理一般は存在しない。
三木さんって倫理っていう授業ってありました?高校の時から。
ありました、ありました。
それで何を教えるんですか、倫理って。
ほぼ世界史だったと思うんですけど、倫理の授業ですごい覚えてるのが、哲学思想とか教えてもらったし、
でもすごい覚えてるのは先生の個人的なエピソードなんですけど、
倫理の先生がホロコーストにツアー観光ツアーみたいなのに行ったときに、
収容された人たちの髪の毛で作られた式物が展示されてて、
その時にツアーの観光客の人が、「わーじゃあ私も髪の毛伸ばして売ろうかしら?」みたいなことを言ってるときに、
それが自分的には本当に信じられなくてすっごく嫌で、
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そういうことをカルハゼビに言わないようにするための態度っていうのが倫理に見つくみたいなことを言ってたのが覚えてます。
へー。
それは道徳じゃなくて倫理ってことなのかな。
あー。
でもなんか、何も考えてなかったけど、
道徳じゃなくて倫理ってことになる。
だって別にそれを言うこととか別に法で決められてないし、違法じゃないし言ってもいいけど、
それを言ったときに誰かが気づくかもしれないとか、
自分としてどういう価値観かっていうのを決めるのは自分だから倫理なのかもしれないですね。
ふーん。
そういうのを言わない人を作るのが倫理だと仮にすると、
そういうことを言う人は悪であって、言わない人が善であるっていう価値観があるのかなと思って。
つまり言わない人を作るのが倫理だとまでは言ってないんですけど、
自分でしたらそういうのが嫌だったみたいなことを倫理の先生が言ったことをすごい覚えてるっていうだけですね。
へー。なるほど。
私高校2年生か3年生ぐらいのときに、
高校に大学の人が来てくれるみたいな機会があって、
学部紹介みたいなやつがあったんですけど、
法学部っていうと皆さん何をイメージしますかみたいな話をその人がしていて、
法律とは、法律を学ぶところですと。
それを研究するところなんですけど、
法律というのは最低限の道徳ですって話をしてたのをすごく覚えていて、
道徳っていうのが一般にあり、その中でさすがにここの一線は超えちゃダメだよねってことを定義するのが法律なんですと。
だから道徳に反してはいるけど、
法律に違反してないっていう人はいくらでもいるし、
その人たちにどう向き合うかってこともある種の法学部のテーマではありますと。
なぜかというと、その道徳を守ることを最低限とするかどうか。
まず道徳がどう動くかっていうことと、
その中での最低限をどこにするのかっていうことは、
すごく社会っていうものに影響を受けるので、
そういうことを法学部の中ではやっていきますってことをおっしゃったのがすごく印象に残っていて。
いいですね。
めっちゃいいなと思いつつ全然関心ないなと思って法学部になったっていう。
道徳がすべきかどうかに対して、倫理は自分ができるかどうかとか、
そういう問いになりがちなのかなと思っています。
道徳は小学校の時代からでしたね。
道徳と倫理ってなんとなく一緒な感じが私の中であったんでしょうね。
それは私も同じような道徳、中ぽつ、倫理みたいなので一個っていう感じがしますよね。
そうです。だけど確かに私たち無意識に手を使って人と触れたりしてて、
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その時もあまりにはすごい無自覚だったなってことを本当にこの章で思いましたね。
あともう一個がこの生成モードのコミュニケーションっていう。
そうですね。
生成モードっていうのは整えるとかいうか生まれる、なるって書いてある生成ですね。
そうですね。生まれる、なるの方の。
私コミュニケーションを自分対相手みたいな、それは1対1の時もあれば1対Nの時もあるんですけど、
そこで情報をどう伝達するかみたいな分類しかしてなかったなと思って、
それが片道的な伝達の仕方であればそれはレクチャーとか授業のようなものになるし、
双方向的であれば対話とかになっていくし、
もうちょっと雑談だと情報っていうよりかは雰囲気みたいなものを共有しているものであるみたいな、
そのぐらいな分類の仕方、矢印みたいな形。
矢印が一つだったり二つだったりみたいなぐらい、矢印が点線だったりみたいなようなコミュニケーションの認識の仕方をしてたんですけど、
いっとわささんはコミュニケーションのモードとして伝達モードと生成モードっていうのがあるって書いてあって、
伝達モードっていうのが私がさっき言ったような矢印的なコミュニケーションなんですけど、
生成モードっていうのが図解が渦巻きみたいな、片つぶりの殻みたいな、
二つの感じで渦巻いてるような絵になってて、
対話をしながら何かを一緒に紡いでいくみたいなコミュニケーションのモードがある。
矢印っていうのが渦巻きになってるっていうことに私はすごい、そこにすごいしっくりきたんですよね。
渦巻き、確かにこの渦巻きだなーみたいな。
そこのモードにしっくりきたし、そういう時に、
不明瞭の中で、大体の会話っていうのは渦巻きとか生成モードでされてるし、
そういう時に定画になってるものも何かみたいなのが面白く読んだ。
生成モードっていうフレームが新しかったっていうか、すごいしっくりきたっていうのがあります。
なるほど。
伝達モードと生成モードっていう、本の中では大きく3つぐらい差分が書かれていて、
伝達モードの方は発信者の中にメッセージっていうのが固有に存在をしていて、
それを受信者の方に一方向的にパンと渡すと。
つまりメッセージを渡す人と受け取る人、あるいはそれを意図して解釈する人っていうのが分かれているっていう伝達モードっていうものから、
その発信者に明確なメッセージがあるわけじゃないんだけど、
受信者も発信者もぐちゃぐちゃっとなりながら、その中でメッセージっていうのが立ち上ってくるっていう。
それがこの生成モード、作られるモードっていうやつですね。
ちょっと話変わるかもしれないんですけど、ワークショップとか私やったりとか、
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介護系の話とかでもよく聞くのが、結構できないことが面白かったりとか盛り上げたらアクセントになったりするみたいなこと。
スポーツとかやってても、プロスポーツじゃない限りはできない人がいた方が盛り上がったり楽しめたりするみたいなのも、
それって体を使って生成的なコミュニケーションをしてるっていうことだったんだなっていうふうに改めて思うっていうか。
私はスポーツができないから、チームプレイとかに参加するのがすごい嫌で、
つまり私はスポーツができないっていうことは何かを渡すことができないから、
伝達モードのコミュニケーションとしては成立する存在ではないっていうのが嫌で、
あまりスポーツに参加することが嫌だったんですけど、
スポーツだって生成的コミュニケーションだって思ったら、
できなくても全然いいなみたいなことを改めて思ったりしました。
うーん、なるほど、なるほど。
できないことが面白いっていうのが、できない人がアクセントになってるみたいな理解でしかなかったんですけど、
できる人もできない人も同じで、ただ生成してるんじゃないみたいな話だったんだなみたいなふうに思いましたね。
うーん、なんかこの私、生成モードっていうのをすごい面白いなと思いながら読んでたのが片方で、
もう片方は生成モードっぽく出されたメッセージを伝達モードっぽく切り取って、
悪意を持って外に出していくっていうシーン結構あるなっていうふうに思っていて、
例えば記者会見とかでもう意味わかんないことめちゃめちゃ聞いて、
その場のノリだったり、空気感みたいなこういうことを答えてほしいんだろうなみたいなやつを頑張って出しましたみたいな。
その時って別に発信者の中に明確な意図とかメッセージがない場合でも、
無理くり引き出してメッセージ出しましたみたいなやつを、
最終的に綺麗に整形していこうと思うとこの伝達モードっぽくなるじゃないですか。
この人がこんなこと言ってました、我々はこれを解釈しましたみたいな感じにすると、
往々にして炎上するじゃないですか。
場の空気感ちゃうんかいみたいなこととか。
つまりその発信者の人の意図に沿ってたんですかね、それみたいなのを。
ちょうどこの撮ってるタイミングが、ちょっとほとぼり差別ってありますけど吉野家のあれとか見てみると、
あれ多分、我々の目からすると超伝達モードっぽい、
場も場ですし、あせだの授業で講師として来ていたみたいな、
すげえ左っぽい切り取られ方なんですけど、
なんか私実態は左側がないとは言わないけど、
右側っぽい空気感もあるんじゃないかなとかちょっと思ったりしてるわけですよ。
まあね、本人からしたら。
本人からしたらもそうだし、聞いてる人が話し始めた瞬間に、
はぁ?みたいな顔し始めたらやめるじゃないですか、抗議っていうのがあって。
多分YouTubeであれを独白でやっちゃってたら、
もうその場に置いた伝達モードだと思うんですけど、
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生成モードっぽいところがありそうだなというふうに思っていて、
難しいなっていう、何を言ってるかっていうと、
生成モードで作ったメッセージも基本的には左側の伝達モードっぽく、
文字だったり整理する情報にするときになっちゃうじゃないですか。
つらいなみたいな、悲しいなっていう。
確かに、コミュニケーションのモードとしてはそうですね。
それでやっぱり思った、だからこそ会わないとダメだとかいう人とか、
一回ワークショップみたいなものをチームビルドでやったりすると、
一気にグッと仲良くなったりするのって、
結局オンラインでテキストでやってると、
生成的なコミュニケーションはどうしても人が伝達に切り替えてしまう
みたいな部分があるのかなって思いました。
だけど体を使っていると、生成のままでいけるみたいなところがあるのかな。
生成的コミュニケーションができたから、
コミュニケーションが通れて仲良くなるみたいな効果があるのかなって。
会わないとダメだよねとか、
一回体を使うと仲良くなれるよねっていうのは、
生成的コミュニケーションに集中できたみたいなことだったのかなって今、
話を聞きながら思いました。
伝達モードから切り替えて、
生成する、一緒にメッセージを作った仲間、チーム、共同体みたいな。
言葉だと言語よりだったり、
テキストで考えることに慣れすぎてるから、
対話ですよとか、ゴタゴリはありませんって、
いつもどうしても伝達的に切り替えちゃう癖みたいなのが
聞きやすいのかなって今思いました。
オンラインでちょっとなじめないとか言ってるのも、
伝達的に考えちゃうからなのかなと思って。
なるほど、なるほど。
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