00:11
この本のエッセイの中にもアナロジーっていうのがあったと思うんですけど、ぬか床っていうのをアナロジーとして使うと、すごくいろんな示唆が出るんだと思ってて、いろんな、いえいえによってちょっとずつぬかの個性ってあるじゃないですか。
ワタヌキ家のぬか床と、Tanaka家のぬか床は違うんだろうし、ぬかのお裾分けとかもあるじゃないですか。うちのぬかでやってみてみたいな。
Nozomi たまにね、混ぜるといいみたいなのありますよね。
そうそうそう。だからたぶん一人一人の個性っていう意味合いのものがぬか、ぬかっていうか思考の個性っていう意味合いなんだと思う。
この本の中にも何かありましたよね。その一人の個性みたいな。
Nozomi そう、最後のその話したいと思って。
いいつなぎが私はできたってことで。
Nozomi そう。やっぱりこの本ってたぶん学生の時に読めば、自分の頭で考えればいいってことでしょみたいな、要するにみたいなふうに思いがちだなって思うんですよ。
だからいっぱい考えようとかいろんなものを吸収して、インプットをたくさんして、アウトプットもたくさんしようね。自分の頭で考えようとか思っちゃうんだけど。
この思考の生理学の中にも情報を吸収して、必要じゃないものは捨てて、自分の中で思考を統合して出そうみたいなことを言ってて、その中で捨てる時の方が大変だと。
その人の捨てるにはその人間の個性による再吟味が必要。これは没個性的に知識を吸収するのに比べてはるかに厄介であるって書いてあって。
確かにインプットはいっぱい没個性的に吸収すればいいかもしれないけど、それを捨てる時に自分のフィルターを通して吟味して、何を捨てるか捨てないかっていうのを判断しなきゃいけないっていうのが、
それはそうなんだけど、めっちゃさらって書いてあるけどすごい刺さったというか、私も含めて人は思ったより外部環境とかノイズとか何の物差しとかでふんわり物を考えたりめちゃくちゃ影響される人間だから、
何もノイズを全部排除した自分そのもので考えたらどうかみたいなことをパッて言える人っていうのはなかなかいないというか、すごい難しい話だなって思うわけですよ。
なるほど。
社会的な役割とかが、自分は子供が3人いる父をやってる自分とか、そういうこととかを通して物を見ちゃうっていうか、自分の本当の個性そのもので再吟味するみたいなことはすごい難しいなって思ってて、
でもそういうことをして、自分の本当に自分性みたいなもので再吟味して情報を捨てて、思考を統合していくみたいなことをしなきゃいけないっていうことを言ってるのかなと思ってて、
自分の個性のフィルターを通すっていうことを本当に純度高くやることはすごい難しいっていうのがやっぱり長年来てきて思ってることですね。
03:05
うーん、そうね。
どうですか?
自分の個性のフィルターをピュアに通すか。
なるほど。
そういう時に、今このプロジェクトをやってるからとか、このサラリーマンの自分はとか、最近読んだ本が良かったからとかっていうので、情報を通すことも自分で決めてることだと思うんですけど、
でも、この思考の性学で言ってることっていうのは、それはノイズっていうか外部環境しかないと思ってて、その外部環境の中で生きる自分が果たしてどう思うのかっていうことでちゃんと吟味しろっていうことを言ってるんじゃないか。
なるほど。
何とかっていう会社の何とか課長としてはこういうことは考えてこなきゃいけないよなとかいうことを取り除いて、そのフィルターを一回取り除きましょうと。
何十枚もあるその人フィルターっていうのがある中で、その人の所属フィルターを取り除く。
あの人と友達だみたいな人間関係フィルターも取り除くみたいなことをしたときに、残ったフィルターで情報を扱えるのに耐えられるか人間はと。
そうそうそうそう。
それをしろって言ってると思ったんですよ、私は。
なるほど、なるほど。
そうね、そうね、そうね。
それが質的立体的な統合ってことだと。
そういうフィルターであらゆるインプットを再整理していくってことが思考の質的立体的な統合だと思った。
というふうに読むとすごいなんて深いことを言ってる本だったんだと学生の時には思わなかった。
自分の頭で考えるので大事だよねのところからさらにそういう深読みをしました。
なるほど。
この本、改めて前読んだときがあまり記憶に残ってないからあれなんですけど、
彼が言ってるのって発想が扱うもの、対象として扱うものは別にみんなが分かっているもの、周知のもの、チンパなものであっても全然構いませんよっていうことを最初に言っていて、
逆に言うとそこに対してミシさんが言うところのこのいろんなものを除いたピュアなその人の個性フィルターっていうもの、
あるいは個性触媒、あるいはコウボっていう言い方がいいかもしれないですけど、
その状態までして、その状態で物事に向き合うと新しい結合とか新しい思考っていうのが満たされるんですよっていうのが序盤にあって、
逆に言うとあれですね、そのチンプなものであっても新しいものが出せるようなフィルターでぶつかっていくっていうのは、
お前は何菌なの?っていう話ですよね。
せやろな、それは本当にそうだね。
さっきのニュースレターの話じゃないですけど、普通に毎週読んだものとか見たものとかを集めていくと、
06:08
今の状態だと基本的にウクライナみたいな話になっちゃうんですよ。
普通の物量から言うとね、ただ並べるとそうなっちゃうんですけど、そういうことじゃねえべやっていうことだったり、
あと今やってるプロジェクト関係で触れるものってあるわけですよ。
そういうものばっかりになってっちゃうんですけど、そういうものを取り除いてやるっていう場にしたいなってすごい思うんですよね。
いいんですね。
仕事とあんまり関係があるものを取り上げてこなかったし、取り上げたくないなと思うんですけど、
そういうのを繰り返していかないと、公募としての進化はない気がするんですよね。
そうですよね。
ここで改めて読んだ時世の結びでまたこれもかっこいいなって思ったんだけど、
途中から読むから何それっていう単語もあるんですけど、
インターディシプリナリーとは知的な次元でも次期が大きな実りを約束することに着目したものである。
ここでも再び、似たものは似たものに影響することが難しいという言葉を思い起こしてみる必要があるだろう。
最後の方のエッセイが絞ってるんですけど、
似たものは似たものに影響することが難しいという言葉を思い起こしてみる必要があるだろうって言って終わってるのかっこいいなって思いました。
似たものは似たものに影響することが難しいか。
だから私がここで何を思うかというと、
その前に継ぎ木の話してるんですよね。
継ぎ木って全然違う品種の木を継ぎ木しても全然いい木がちゃんとよくなるみたいなことを言ってて、
その後に似たものは似たものに影響することが難しいって言ってて、
だから普通に生きてると、例えば私たちがウクライナのニュースばっかり接種しちゃうとか、
他人の物差しとか外部環境で生きてたら似た感じになっちゃうわけですよ。
普通に生きてたら。
なるほどね。
だからそれは似たものは似たものに影響することは難しいんですよ。
なるほど。
だからそういう外部環境とかじゃなくて自分の個性っていうフィルターで、
どうした情報を他人と交換しないと影響することができないっていうことかなって思うんですよね。
うーん、そうね。
不安に生きてたら似ちゃうし。
ミッキーさんが今言いましょうとこのインターディシプリナリーっていうのはインターなので、
インターっていうのはまたがるみたいなインターナショナルで国際っていうように国をまたがるっていうインターナショナルの
ディシプリーナリーなのでディシプリンっていうのが学術領域みたいな意味ですよね。
なのでインターディシプリナリーっていうのはここ15年20年くらいの流行りでいうと学際的っていうことだと思うんですよ。
それが知的な事件でも継ぎ木っていうのはリンゴとかの木にリンゴの木をグッと刺すとそこからリンゴの木が出てくるみたいなやつだと思うんですけど、
09:02
ちょっと違ったものとかでもぶっ刺すと出てくるっていうことで、
ひるがえって言うと逆に似たもの、ちょっと話が飛んじゃうかもしれないですけど似たもの、
例えば企業の中でワークショップとかをやって新規事業のアイディアを考えましょうという時に本当にいろんな人いるんですよ。
ぱっと見おじちゃんもいるし若い人もいるし外国人もいるしみたいな感じなんですけど、
だから範囲でいくとみんなめちゃくちゃ個性があってすごい多様な人なはずなんです。
お互いとしてその会社の社員っていう振る舞いをそこでされると、本質的には全然別のフィルターのはずなのに、
みんな体の前にその会社員、真面目、そのワークショップに出てくる人性格フィルターっていうのをガッと落ち出されると、
お互いに影響を全然与え合わない。まるで面白くないことがあり、
そういう時にできる限りその人のコアの部分に近いフィルターで立ち向かってもらうっていうことをしないと、
影響を与え合うっていうことはそもそもの意味があまりないんだろうなっていうことなんでしょうね。
10何年ぶりに読み返したら、たぶん今私がそれこそ考えてるんでしょうね。
だからすごい刺さって、わーみたいなこんなこと言ってる本だったんだみたいな。
いいこと言ってるなーみたいな感じぐらいで読んでたけどって思いました。
なるほど。
次元爆弾を食らったみたいな気持ちに結構なりましたね。
長い目で、長い発行時間を得て、今花開いたこの本の内容っていうことなんですね。
だから私は読み返せてよかったなーって思いました。サクサク読めたし。
なんか文体もね、学者さんですけど、いい感じに漢字をひらがなにしているところがたくさん。
やっぱ編集者だったからかな、わかってますよね。
エディティング、編集関連のものも結構書籍として出されてる方なんですよね、確かね。
エディターシップ、レトリックとかいうのも書いてるから。
すごくわかりやすくていい本ですよね。
そうですね。
確かにね。
なんかこれ、いい声の人でオーディオブックにしたらすげえよさそうですよね。
確かに。
あんのかな?
オーディオブックになってますね。
audiobook.jpにありますね。
なんなら去年の11月の1位にまでなっているね。
じゃあ、ちゃんと売れてました。失礼しました。
失礼しました。
私みたいな凡人、凡迫の人間が考えることは当然もう、天文の人たちは考えてらっしゃると。
そうだよね、編集者はどうやっていい本を揃えるか必至なんだからな。
そうだよな。
真剣に考えてる人は偉いな。
12:00
でもこのエッセンは本当にオーディオブック向きというか、ちょっとずつ読むときにはめちゃくちゃよさそうな感じがしますよね。
今、のぞみさんからもらった蔵のメタファーはいいなって思いました。
私も今、自分がどんな金で今どんな蔵にいるかっていうことを意識しながら話すと思考が発行しやすくなるなって感じがしたので、使っていこうと思いました。
そのメタファーなんかすげえいろんなところで使えそうな気がするんですよね。
蔵、樽、あと陶寺っていう人とか。
いつ誰が書き回すかとかね。
プラス日本三大陶寺みたいな人いるじゃないですか。
陶寺さんって日本全国を旅しながら陶寺やっていくみたいな人確かいるはずなんですよ。
その蔵好きじゃなくて、この時期にはここで陶寺やって、次はこっちの陶寺でやってとかいうのがあったり。
あと日本酒作るときの火入れをするしないとか、発酵をどこで止めるかみたいなとか。
完全に私は今は蔵というか日本酒の前提で言っちゃってますけど。
大丈夫ですよ、続いてます。
その感じで言うといろんなメタファーを思考っていう文脈で発酵っていうのは使えそうだなっていう感じがしますよね。
整理学っていうか発酵学なのかもしれないですね。
考えたんだろうな、タイトルを何にするか。
整理だなってなったんでしょうね、1980年くらいの出版社の人がね。
発酵が流行ってると最近だしね。
そうね、確かにね。
多分思考のぬか床を作るとかだと、ぬか床バラ身近にやりすぎてダセーってなるんですよ。
確かにね、昭和50年代はそうでしょうね。
今ぬか床を作るって言ったらちょっとオシャレな感じに聞こえますけどね。
そうかも。
情報するとしたらそれを帯にするってことかもしれないですね。
東大、京大で売れてますよりも。
売れなくなるけど。
絶対売れなくなるけど。
こういうのを読んで、世界の未来を照らす学生がたくさん現れるといいですね。
そうですね、でも私は読み返すにあたりする本だったらすごくよかったです。
いいですね、素晴らしいですね。
私も読んでみて、なんか久しぶりに読むとエッセイっぽく読むぐらいの距離感。
タイトルに整理学って入ってるので、学問だぜ、学んだぜって言ってたんですよ。
読むよりかは本当にエッセイとしてサッと読んで、どういう本だったかなっていうのを振り返るっていうのを気軽にやってみるっていうのを2週か3週ぐらいすると、その人なりのピックアップがある本なのかなっていうのを。
確かにね。
いい本でした。
はい。
完走戦できてよかったです。ありがとうございました。
よかったよかった。
じゃあそんな感じでではでは。
15:00
今日はありがとうございました。
ありがとうございました。ではでは。