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2024-10-31 25:17

【ほの歴史】持病の正体は、不整脈。そして……。

不整脈=リズム障害
(脈が飛んだり、速くなったり)

2009/18歳 看護学生健診で発覚
経過観察で済む
……。事態急変
2013/22歳 父を難病で亡くす
(拡張型心筋症.不整脈)
ペースメーカー
障害者1級
精神的ショック大きく
何して良いか分からなくなる
3ヶ月後 就職
2014/23歳 私の不整脈さらに悪化
薬増量するも効果なし
眼科クリニックへ転職
2015/24歳 胸痛発作. OPE入院
介護老人保健施設転職
2016/25歳 介護老人保健施設転職
2017/26歳 療養病棟へ転職
2020/29歳 結婚.退職.専業主婦へ
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【ほの歴史】シリーズ

🔸なぜ暮らしを整えたのか
https://stand.fm/episodes/672c09212890564183f54a7b

🔸元看護師。なぜ辞めた⁈復帰しないの⁈
https://stand.fm/episodes/672d6b1ef71bb0918b8457f9

🔸暮らしを整えようとしたのは、いつからか
https://stand.fm/episodes/6731540c5188ed4567ebf4e7

🔸いつかは副業したい
https://stand.fm/episodes/6731594b1a061af4e84739f2

私の過去。そして、これからどんな働き方をしたいのか。見据えたお話しをしてます☺️

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#持病
#不整脈
#難病



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はい、こんにちは、ほのです。
今回はですね、【ほのの歴史】シリーズということで、
ちょっとお話ししたいことがありますので、そちらを収録していきたいと思います。
私ね、今までその体力なしとか、自病持ち、自病がありますということもお話ししてきました。
あと、なぜ暮らしを整えたのとか、元看護師ってあることと、
暮らしを整えようとしたのはいつからとか、いつから副業したいなというふうに思っているんですけども、
どうしてこういう経緯を辿ってきたのかということを、きちんとお話しできていなかったので、
ここらでお話ししておこうかなというふうに思います。
まずは、私は自病がありますってことですね。
これは毎回冒頭でも、体力なし、自病持ちの一時の母ちゃんがっていうふうに言っていたんですけども、
その自病っていうのがですね、私、不整脈を患っているんですよね。
そして、その不整脈はいつから発症したかということなんですけども、
それはですね、私が18歳の時ですね、2009年、平成21年の時ですね、
私当時18歳だったんですけども、高校を卒業して看護師になりたいと思っていたので、
なんとか看護学校に入学できた年だったんですね。
その時に看護学校に入学して、1年生の5月の学校の検診で胸に聴診器を当てられて、
先生からですね、なんか心臓の音変だねって言われたんですよ。
えーって思って、本当にびっくりしましたよ。
なぜなら、私の父が心臓病を患っていましてね。
しかもその心臓病が遺伝性のあるものだったんですよ。
私の父はですね、母親も父のお母さんも心臓の難病で、
40何歳だったかな?で亡くなっていたんですね。
で、まさかの父も心臓病を発症していて、しかも難病だったということで、
03:02
で、いざ私も検診でね、心臓の音おかしいから、もっと精密検査を受けてくださいって言われて、
いやー怖かったですね、本当に。
で、実際に看護学校の近くに総合病院があったんですよ。
実際そこの総合病院は実習先の病院だったんですけども、そこにまず一旦検査を受けに行ったと。
で、その心臓の検査は24時間、心臓の様子を見るホルダー心電図っていう検査があって、
それを体にベタベタとつけて検査をしたわけなんですけどね。
いやーそしたらですね、見事に寝ている時は綺麗な波形なんですよ。
でも活動している時間帯、要するに日中ですよね。
私看護学校行ってたので、学校に行っている間はやっぱり脈が飛んだりとか早くなったりとかして、変だっていう結果が出たんですよ。
でもこの看護学生の時点では、何か治療するまでもないからそのまま様子を見ててくださいねっていうお話だったんです。
その時点でちょっとホッとはしたんですよね。
やっぱり父も難病指定の病気を抱えていたので、
しかも私はこの18歳の時点で、そんな病気発症しちゃったんだって思ってショックだったんですよ。
父が病気を発症したのが30歳過ぎてからだったので、私早すぎるでしょって思ってて。
本当に私が看護師目指したのは父のことがあるからだったんで、ちょっと待ってよっていうふうにも思ったし、
でも様子見ていいよって言われたから、とりあえずホッとして勉学に勤しんでたってわけなんですね。
で、看護学生として勉強頑張っていたわけなんですけども、
その後私の病状はすさまじく悪化して実は大変だったんですよ。
どういうことかというと、2013年、平成25年ですね。
私当時22歳だったんですけども、この時看護学校は21歳で卒業してて、
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実は私は看護師の国家試験に落ちまして、純看護師の資格しか得られなくて、
父と相談した結果、自宅労任を1年間しなさいって言われたんですよ。
で、その自宅労任1年間している間に、なんと難病患っていた父が亡くなったんです。
辛かったなぁ、本当。
父はですね、難病指定されている拡張型心筋症っていう病気を患っていました。
心臓が大きくなってしまう病気なんですけどね、簡単に言うと。
それと不正脈っていう病気も患っていました。
この不正脈は、父の場合は脈が速くなったり、逆に遅くなったりっていうね、
いろんな種類の不正脈を患っていて、
心臓病の専門医、循環器の専門医って言うんですけど、
その先生たちの頭を抱えさせるほど難しい病気でした。
拡張型心筋症っていう心臓が大きくなって、心臓のポンプの機能を果たせない病気もあるし、
それにプラスこの不正脈っていう心臓のリズム障害、リズムがおかしい病気も発症してるから、
それはもう、どう治療していけばいいかって、専門医ですら悩むんですよ。
で、父はですね、そういう病気を抱えてて、ペースメーカーを埋め込んでたんですけども、
それも特殊なペースメーカーを埋め込んでまして、電気ショックができるペースメーカーを埋め込んでいました。
ICDっていうペースメーカーだったんですけど、当時一番いいやつだったんじゃないかなと思います。
AEDっていうのがあると思うんですけど、その機能を兼ね備えた小型のペースメーカーを埋め込んでいました。
で、その父をですね、助けたいと思って看護学校に行ったんですけども、まさかのその父を亡くしたんですよね。
で、父はもう大学病院で亡くなったんですけども、その、なんていうかな、父を亡くすときは家族全員で見とりました。
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そう、私あの、やっぱり看護師として父を助けたかったんですけど、
まあ、助けられなかったなって。
浪人中だったんですけど、その浪人中も父のお見舞いとか行ってたんですよ。
でも、なんか、何も助けになることできなかったんですよね。
だから正直、この22歳の時、父を目の前で見とって、目の前が真っ暗になりました。
なんか、ショックすぎて、私これから看護師を目指すけども、看護師になって何すればいいんだろうってわかんなくなったんですよ。
で、この精神的なショックがあったし、私は浪人してたし、
で、その父を1月に亡くしたんですけど、その1月亡くして、父の葬儀とか、
あと父は56だったので、現役の会社員だったんです。
だから会社関係のこともね、会社の人たちがいろんな手続きとかしてくれたんですけど、
でも父の荷物とかがあったから、それを取りに行ったりしてね、諸々のこと全部終わらせて、
1月に父を亡くして、その3ヶ月後に、私も準看護師の資格で働けるとこ探して、
認知症、精神科の病棟に就職して、お勤めをし始めたと。
2014年、平成26年、23歳の時ですね。
慣れない環境下と、通勤に片道40分かかっていたので、私の自病の不整脈がさらに悪化しました。
薬を増量しても全然良くならなくて、発作が起きた時は豚服薬も飲んだりして、
12:00
様子見ながら働いてたんですけど、悪化しまくって。
最初の認知症と精神科の病棟にお勤めしてたんですけど、
もう自分の体がシフト制の勤務に耐えられないなってことで、そこ退職して、
その後、眼科のクリニックに行って、日勤で勤めたんですけど、それでもダメでしたね。
もう悪化しまくりました。
その後、平成27年、私が24歳の時ですね。
眼科のクリニックにまだ勤めてて、仕事に行かなきゃなって思ったんですけど、
明け方の4時くらいですかね、いきなり共通発作が起きました。
心臓が握りつぶされるような痛みがあったんですよ。
息できなかったんですよね、本当に。
息はしてたんですけど、ちゃんと空気吸えてるかと言われたら、吸えてなかった。
まずいなって思いましたよ、本当に。
死ぬって、私今死んじゃうのって怖かった。
とりあえず豚服薬飲んで、その時実家にいたので、
母と兄に心臓が痛い、苦しい、死ぬかもしれないから病院連れてってくれって言ったんですよ。
すぐに病院に行って、主治医に診てもらって、
これは危ないわって言って、点滴してもらったんですよね。
その後に、すぐにがっつり治療した方がいいって言われて、
その1ヶ月後だったかな、オペするために入院したんです。
家庭テル治療って言って、アブレーションって言うんですけど、
心臓の不正脈のリズム障害に対しての治療をしました。
もし気になる方がいたらネットで調べてください。
いっぱい出てくるんで。
アブレーションの治療も2回にわたってやりました。
1回目は8時間かかって、その後2回目すぐにやって、
その2回目のアブレーションの治療が10時間かかったそうです。
15:00
私は治療を受けてたので、
しかも治療を受けてる時って、がっつりではないんですけど、
麻酔をかけられるんですよ。やっぱり痛いですからね。
しんどいし。
だから軽睡眠みたいな、ちょっとがっつり意識は失わないけども、
でもなんとなくぼやっと意識があるような、そんな感覚ってあるじゃないですか。
そのくらいの程度の麻酔を打ってもらってやったんですけど、
しなかったな。
なんでかっていうと、1回目は8時間だし、2回目は10時間だし、
その後麻酔が切れてから背中が痛くて痛くて。
それはそうですよね。
オペ室の固いベッドに8時間も10時間も寝かせられてたから、
感覚戻ってくるともう背中が痛くて、
他の傷っていうよりも背中が痛すぎて、
起きた瞬間泣いてました。病室のベッドで。
で、30分に1回ぐらいナースコール鳴らして、
看護師さんにすいませんって言いながら、背中が痛くてどうしようもなくて寝れないですって言ったりとか。
あとは麻酔が切れてきたんで、
家庭テル治療で心臓とか中身がいじられるわけじゃないですか。治療だけども。
気持ち悪くなっちゃって。
だからもうベッド上でおえって吐いちゃったりとか。
で、背中が痛い。もうビリビリ痛いんですよ、とにかく。
もうなんか背中はね、神経がね、いっぱい通ってくから。
そこがね、やっぱり圧迫されてたのがだんだん解放されてきて、
あの、なんていうかな。
正座した時に足ビリビリするじゃないですか。
それの100倍痛くなった感覚が背中に走って。
背中は痛いわ。もう気持ち悪くて吐いちゃうわで。
治療が終わった後も最悪でした。
で、家庭テル治療を終えてね。
自宅療養してて半年後ぐらいかな。
ようやく日常生活もしちんと送れるようになったし。
で、そろそろ仕事復帰していいよって言われたんで、
ここからまたゼロスタートですよ。
循環越しで働ける条件のところ探して。
で、介護老人保健施設っていうところ、通称老健って言うんですけど、
18:02
そこにお勤めし始めました。
その後もね、結構その勤めてる時に発作起こしてたりとかしたんで、
豚服薬飲んでたんですけど。
そんな感じの、なんていうかな。
病気と戦いながら今も生きてます。
やっぱりね、病気ってしんどいですよ、ほんとに。
健康のありがたみっていうのを、私は幼い頃からね、
その父を見て目の当たりにしてきたし。
父は私が生まれる前から、
難病のね、特発性拡張型心筋症っていうものになってて、
プラス、いろんな種類の不正薬も持ってて、
ペースメーカー入ってて。
だからね、幼い頃から父を介して病院とは縁があったし、
病気とも縁があったし。
ずっとその父の背中を見てきたわけですよね。
だから、ほんとに怖いんですよ。
今でも怖いです。
私ももしかしたら、父の拡張型心筋症っていう病気を、
もしかしたらいつか発症するかもしれないって思ってるし。
不正薬もね、いつかはもしかしたら、
ペースメーカー入れなきゃいけないのかなって思ってます。
正直すんごい怖いです。
でもね、もう病気になってしまったものは仕方ないし、
怖い怖いって言っててもどうしようもないので、
これからもね、通院は続くし、
今ね、新しいところに引っ越してきて、
かかりつけ医もなってくださった先生もいるし、
あとは旦那さんのご両親も、
私が病気があるってことを分かってて、
うちの旦那さんも、
私がこういう病気だってことも分かってて、
一緒になってくれたし。
あとは私のね、母とか兄とかも、
常に気にかけてくれてはいるので、
人には恵まれてるから、
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だからこそ、
いつもね、毎日ね、
めっちゃ前向きに生きれるかと言われたらそうではないけれども、
できる限り残りの人生を明るく、
できれば楽しく生きたいなって思ってます。
なんでこう思えるかっていうと、
私の父がびっくりするくらい前向きに生きようとしてくれてたから。
本当ね、はっきり言います。
私の父はそこら辺にいる同年代の、
今だったら60歳とか70歳のお父さん方よりも、
めっちゃ前向きに、そして何事も努力して生きてきたから。
仕事もしてきたから。
そして家族を全力で守ってくれたから。
だからこそ、私もなんだろう、
病気はあるし、
障害者の父を持っていたけども、
一般的な感覚は身についていると思っているし、
そしてそれ以上の恒常心とかそういうのもある方だと思っているし、
病気を持っているから何もできないんじゃなくて、
負けたくないなって。
できる限り病気にも負けたくはないし、
あとは世の中にも負けたくない。
正直、病気があると世の中行きづらいです。
仕事だってバリバリはできないし、
物によるけども、やっぱりバリバリにやろうとしてもなかなかできない。
けど、けどなんですよ。
負けたくない。
どこか弱いところがあるのは、人それぞれみんなあることだし、
私の場合はそれが心臓っていう部分に出ちゃったっていうだけのことなんで、
怖くはあるけども負けたくない。
ので、私はまず最終的な目標は、
自分と同じ病気を抱えている人たちがもっと行きやすかったりとか、
あとは働きやすいとか活躍しやすいような世の中を作っていければなって思っています。
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私はまだまだ全然力は何にもないですし、経緯もないし、
自分自身の土台作りだった話なんですけど。
じゃあ今回はここまでにしたいと思います。
今回は私の持病について、不戦略がありますよとか、
20代を辿ってきたかっていうことをとりあえずお話しさせてもらいました。
以前ね、私の20代は暗黒といった部分になりますね。
じゃあ長々と話してすみません。
この放送が、どなたかの何かのお話をしたいと思います。
じゃあ長々と話してすみません。
この放送が、どなたかの何かの行動につなげられたりとか、
勇気出ましたとか、元気になりましたとか、
そういう風な放送になってくれていると嬉しいと思います。
では、ほのでした。
25:17

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