在り方の再確認
みなさま、こんにちは、ほの🏠です。
はい、今回はですね、9月も最終日ということで、
気づいたらですね、スタンドFMを始めて1年が経っていたっていうことでね、
本当はね、もうちょっと前に1年経っていたっていうことだったんですけども、
今さら気づいたんですけども、
せっかくなので記念に収録配信を撮っておこうというふうに思います。
今回はですね、わたしの在り方というところでお話ししていこうかなというふうに思います。
ちょっと長くなりますのでね、気になった方だけ聞いていただけるととても嬉しく思います。
タイトルはですね、チャットGPTさんとね、いろいろとお話しして決めてみました。
霊氷物、白衣の天使、わたしの在り方、家族の笑顔、波紋世に広まれということでですね、
お話ししていこうかなというふうに思います。
はい、でですね、今回はですね、わたしの在り方っていうことと、
あとは、わたしは以前ね、看護師をしていたので、
どうしてその看護師っていう道を選んだかっていうことをちょっとお話ししていこうかなというふうに思います。
ちょっとね、自分の中にいろんな思いがあったりして、話がまとまっていないこともあるかと思うんですけども、ご了承ください。
はい、でですね、まずわたしにとって家族っていうのが一番身近な社会というか、大切にするべきものかなというふうに思っています。
で、その笑顔を守ることが、やがては世の中にね、温かい波紋を広げていけるっていうふうに幼い時からね、思っていたんです。
だからこそね、看護学校に入った時に習ったんですけど、
まあナイチンゲールさんって昔の偉人でいたと思うんですけども、ああいった方々みたいなものすごい功績を残すっていうことはまずできないですし、
あと何か誰かのヒーローになるっていうのも、私にはちょっとね、できないかなっていうふうにちょっと思ってるんですけども、
なぜかっていうと、私自身はもともと幼少期から体力がね、そんなにある方でもないし、
あとお勉強もね、本当に得意じゃないんですよね。
スタンドFMで関わってくださっている方々に時々言われるのが、落ち着いてるよねとか、何ていうの、賢い感じのお話の仕方するよねっていうふうに、
嬉しいことに言っていただくことがあるんですけど、これは特別勉強したわけじゃなくて、
父がちょっと難病を抱えていたもので、入団員するときに父親関係の会社の方々とか、
あとは病院関係者の方々、要は幼少期から大人と接することがたくさんあったので、
そこでね、身聞きしたものが、そういう私の喋り方に出ているんだなっていうふうに思っているんですけどもね。
ちょっと話ずれましたけども、ということで、私はヒーローになれないし、なれるとも思ったことはないです。
ただ、私の中で家族を守るために看護師を選んで、今まで淡々と生きてきたなっていう、そういう人だなっていう、
それが私の在り方だなっていうふうに思っています。
はい。ちょっと話し戻すと、まず私が看護師を目指したきっかけっていうのが大きく3つあります。
それは先ほども話しましたけども、1つ目は父の病気ですね。
2つ目は手に触をつけたいと思いました。3つ目は人生に柔軟に対応できるのかなっていうふうに思ったからなんですよね。
まず1つ目、父の病気なんですけども、父は心臓に難病を抱えていた大黒柱だったんですね。
その心臓の難病っていうのが、皆さん、拡張型心筋症っていう病気、ご存知でしょうか。
ちょっと昔になるかな、もう何年前になるか忘れましたけども、テレビでね、よくドキュメンタリー番組で、
そうですね、私が覚えている限りでは、2回か3回くらいどこかの番組で放送されていたんですけども、
小さいお子様がですね、拡張型心筋症を患っていて、海外で手術を受けたいから、
みなさま募金をお願いしますっていう、援助していただけませんかっていう、そういうドキュメンタリー番組のようなものがあったんですけども、
父もですね、30ちょっと過ぎくらいからかな、その病気患っていました。
私はですね、生まれる前から父がそういう状態だったものですから、それがデフォルト。
父が本当に元気だった頃の姿っていうのはね、全く知らない状況だそうだったので、私にとってはそれが普通っていう状態でした。
心臓病を患っていた父もですね、昔はですね、ラグビーをやっててね、バリバリ体を動かしてたっていう話をされましたし、
秋田にね、その祖父の家があって、その祖父の家にですね、父がね、ラグビーをやっていた頃の、なんか白黒の写真がね、ありましたけど、
いまだに、本当ですかあなた、ラグビーやってたんですか、いやいやいや、みたいな。
あなたが活発に動いている姿なんて、私見たことありませんよ、なんて思いながらね、
そんなね、ちょっとひねくれた考えというか、思いを馳せている娘でしたけども。
そんな感じで過ごしていました。
でですね、私が幼稚園、小学校、中学校、高校と父と共に過ごしていたわけですけども、
発作を起こしては何度も入団員です。
20何年間ね、大学病院に行って入院して、最長3ヶ月入院して、で季節が変わって帰ってくる、そんな入団員を繰り返していた父の下で私育ったわけなんですけども。
はい、そんな時、天気が訪れました。
高校1年生の時ですね、ちょうど私進路でちょっとだけ悩んでた時期がありました。
と言いますのも、私は本当はね、当時大学とか専門学校に行って、なんか特殊な技術を学びたいなっていうふうに思っていたんですけども。
父にね、相談しましたところ、何を言っているんだと。何か目的があって、大学とか専門学校に行くんだったらわかるぞと。
でもお前目的何もないだろうと。ただ好奇心で言ってるだけだろうと。
悪いけどな、娘よと。そんなものに学費は出せないと言われ。
私、私立の高校に通わせてもらっていたんですけども、
就職コースというものがありまして、ビジネスコースですね、そういうコースがありまして、就職に特化したところに行ってくれと言われている最中でした。
そんな矢先です。数日後、
父がですね、朝、いつものごとく発作を起こしまして、
父の心臓に次元爆弾があったんですけど、それが爆破しまして、
父がベッドの横で横たわっていました。マグロのように。
でですね、いつも携帯をすぐ手の届くところに置いていたので、
父はすぐにいつもお世話になっている循環器病棟に直で電話しまして、
発作が起きて、特殊なペースメーカー、電気ショックできる機能があるんですけど、
それも発動して、今横たわっていますと、すぐに入院させてくださいと手配をして、
母と兄とともに病院に速攻で行きました。
私はですね、高校1年生、普通に学校があったので、悔しいな、休んでいきたいんだけどなって思ったんですけども、
家族に説得され、お前は普通に学校に行けと言われ、行ってきました。
また数日後、今度はですね、入院している大学病院から夜遅くに電話がかかってきまして、
ご家族の皆様とお父さんが濃厚速を起こしてしまいました。
すぐに来てくださいと言われて、またね、母と兄が速攻で病院に行きました。
私はお家に残され、たぶんおばあちゃんとか他の親族たちから、
家に電話がかかってくるから電話番をしていろと言われ残っていて。
何が起こったかと言えば、父はですね、路列が回らなくなったり、
うまいこと手が動かせなくなっていたと。
まずい、緊急事態。
すぐに濃厚速に対する治療をしていただいて、
いやー、後遺症残るのか残らないのか、瀬戸際だったんですけどもね、
なんとか陶芸を越して復活してくれたというところで、
とっても危ない状況だったということでですね、
母と兄がきっと病院で大泣きしたんでしょうね。
目は腫れぼったくなっていましたし、
母に関しては帰ってきてからもずっと目元に涙を潤ませて、
よっぽどひどかったんだろうなと。
そして私はその場にいなかったので、
なんと無力なことかと思っていました。
そこでですね、ダメだなと。
この家庭には一家に一人は医療従事者がいないとダメだというふうに思ったので、
進路を思いっきり切り替えて看護師を目指すことにしました。
家族の支えと看護の意義
なぜ看護師か。
私はですね、とにかく勉強ができない。
とにかく勉強ができない。成績悪い。
その当時私立の高校に通っていましたけれども、成績はその高校の中で中の下です。
そんな私が、例えばですよ、ドクターになれるかな。
循環器専門のドクターになれるかな、考えました。
でもです。学力が低すぎるし、今から頑張ったとしても、
無理だよ、思いました。
なぜならば、勉強が頑張ればなんとかなるかもしれない。
けど、とにかく時間がなさすぎる。
当時高校1年生でしたからね。
2位3等。そんな簡単に成績なんて上がるわけがない。
だって今まで勉強不得意で頑張っても頑張っても中の下ですからね。無理だ。
それとですね、もともと私、昔から体力がある方じゃなかったんですよ。
そんな私がですよ、死の程責任重大なドクターの役割を担えるか。
そして、医学部6年間で卒業できるの?無理だろ。
そして、とにかく頭が悪かったから。
ドクターになるには国立?国立?公立?行けるわけがない。
私が行けるとしたら、お金を突き込んで私大に行くしかないんじゃないかなって思いました。
ネットで検索しました。
私大の医学部に入るには何千万円?
看護の道を選ぶ理由
何千万円?おいおいおい、家が一軒建ちますやんって思いました。
うん、トータルで考えて、ドクターは無理。
速攻でその道を排除しました。
じゃあ他の道ないかな?
リハビリの先生じゃないな。作業療法士でもないな。
薬剤師?薬剤師ってまた科学的なものだしな。
私、科学が得意なわけでもないしな。どうしよう。
薬剤師さん、大学6年生。
ドクターばりに頭が良くないと入れない。
師大?ドクターと同じで無理。排除しました。
やっぱり看護師さんかと。
看護師さん調べました。
3年生のレギュラーコース、専門学校であれば何とか耐えられるかいけるか。
3年間ですからね。
看護師の大学もありましたけども、4年生でね。
そもそも頭良くないと入れないな。無理だ。除外。
そして看護学校を再び調べました。
父も調べてくれてたんですけど、国立なんだか公立なんだか調べました。
学費はまあまあまあ安かった。
けど倍率高すぎ。
私の頭で数年間勉強して入れるようなそんなレベルじゃないと諦めました。
父と相談しました。
私が天地がひっくり返るほど頑張って何とか入れるところ。
私立のとある看護学校でした。
ここだ。ここに焦点を当てて死ぬほど頑張って勉強しろと言われて。
高校2年生から理数系のコースに選択科目を変えて勉強しました。
高校3年生。もっと専門的なコースですね。
医療コースです。
医療に特化したコースに高校3年生から入って
少人数クラス。
教室の中はですね、
医療コースを目指す15名の子たちと
必死になって勉強しました。
学校で普通に医療コースの勉強をした後、
放課後、
図書館に行ってね、
夜の予備校みたいなところがあったんですよ。
そこに時間になるまで時間を掛けて勉強しました。
夜の何時からだったかな?
6時くらいだったかな?
そこから2時間くらい予備校に通って勉強して、
多分8時台くらいの電車でしたね。
乗って家に帰るっていうね、
そんな生活してましたよ。
話長くなりましたね。
次行きます。
2番目と3番目は似たような理由です。
2番目、手に触をつけたい。
なぜかと言ったら、
私が高校生の時代から、
その前からか、
就職難の時代背景です。
もうね、
5校上の人たちが、
学校に行って、
教室に行って、
学校に行って、
教室に行って、
教室に行って、
もうね、
5校上の先輩方、
そして一回り上の先輩方、
就職で苦労する姿を見て、
手に触をつけなければ生き残れないと思いました。
だからこそ、
看護師ならね、
知識と技術で世の中に必要とされ続けると思ったんです。
やっぱりね、
人の命に関わるそういう職業ですから、
人がいる限り必要とされる、
そう思いました。
どんなに勉強ができなくても、
そのくらいの考えはできました。
次、
3つ目、
人生に柔軟に対応できる、
これですね。
私自身ね、
高校生の時から、
自分のね、
育ってきた家庭のように、
温かい家庭をね、
築きたいというふうに思っていました。
でもですね、
結婚できるのかい?
そして、子供に恵まれるのかい?
そう思った時に、
そうなった時はね、
すごくありがたいですよ。
嬉しいなぁと思いますし、
例えば、
結婚して、
子供を授かって、
その後ね、
数年後に、
看護師として復帰、
その後、
一人で生きていくという、
そういう道を選んだとしても、
やっぱり看護師だったら、
重要があるなというふうに思ったので、
そういう意味でね、
人生に柔軟に対応できる、
それが私の考えです。
3つ目、
4つ目は、
人生に対応できる、
自分の考えです。
そして、
4つ目は、
人生に対応できる、
自分の考えです。
人生に対応できるなと思ったので、
看護師を目指してきました、
家族と社会への影響
というわけです。
これがね、
私の在り方というか、
常にね、
目の前に起きていることに対して、
淡々と選択をして、
淡々と生きてきた、
人間だなというふうに、
改めて思いました。
それにはですね、
やっぱり、
私にとっては、
大事なのはね、
家族の笑顔を守ることだな、
というふうに思っています。
家族が笑っていればですね、
大抵のことは良くなるかな、
というふうに思っています。
家族の笑顔はですね、
やがては、
家族の笑顔を守ることになる、
というふうに思っています。
やがては、
学校とか職場に行った時にもです。
学校とか職場に行った時に、
やっぱり穏やかに過ごしているからこそ、
周りの人たちにも
優しくできると思うし、
そうすると、
そういう優しさが
巡り巡って、
いろんなところに広がっていくのかな、
というふうに思っています。
今回はこんな、
私の在り方というのかな、
長寿な配信を聞いていただいて、
どうもありがとうございました。
なかなかまとまりのない配信になってしまったと
思うんですけれども、
もしよろしければ、
皆さまも自分の在り方について
考えるひとつのきっかけになったら嬉しいです。
それでは、本野でした。