1. 本の虫のススメ
  2. Ep.119 西洋中心主義の呪いを..
2025-06-06 47:28

Ep.119 西洋中心主義の呪いを解く。カリブ海思想の本

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歴史、文化の面で西洋の目を通して語られることの多かったカリブ海思想。その主体性を取り戻していくことについて語っています。


【紹介した本】

・中村達「私が諸島である カリブ海思想入門」書肆侃侃房

・ダグラス・L・メディン(著)メーガン・バング(著) 山田 嘉徳(訳)「その問いは誰のものか 先住民の科学・西洋科学・科学教育」ナカニシヤ出版


【よりぬき】

・日本最南端の出版社とは?

・カリブ海思想の新しい視点を教えてくれる本

・植民地支配を受けた地域の言葉

・クレオール語と英語の社会的分断

・科学は経験的なもの

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生物学者と書店員のインターネットラジオ、本の虫のススメ。
本を偏愛する生物学者の椿と、書店員の佐藤が、本にまつわるあれやこれやをゆるっとお届けします。
今回も始まりました、本の虫のススメ。
6月になってるみたい。
あの、こちらの世界線では、またね、実は今日、子供の日なんですよ。
そう、ほんで、私たち大阪出身で、とある和菓子を偏愛してて。
そうなんですよ。
あの、東日本の方とか、ご存じないかなと思うんですけど、ちまきっていうね、和菓子があって、
ちまきと言うと、中華ちまき、おこわが入ってる、なんか包まれてるやつを想像するかと思うんですけど、和菓子でちまきっていうものがあるんですよ。
そうそう、同じようにね、中華ちまきと同じようにではないけど、笹にくるまれてて、
で、だいたいあれ、3本とかが単位なのかな。
まあ、そうかもね、セットでこう、ぐるぐるぐるって巻かれて、
巻かれて売られてるんですけど、
それを、しこたま買い込んできて。
ほんとに、しこたま買い込んだよね。10本とか、10本以上買ってるよね。
そうそうそうそうそう、食べくらべなんかしながら。
しながら。私も、5月5日と5月6日は、ちまきしか食べないと決めていて、
やばい。
ちまきガチ勢なんですよ。
だから、今だと、ちまきが、デパートとかで、ある程度、関東で買えるんですけど、
15年前とか、ほんとになくて、そうなんですよ。
で、新宿の高島屋には、ちまきがあるっていう情報を調べ尽くして、見つけて、
で、その、何日か前に、その、ちまきを売ってるお店はどこですか?って、
高島屋なんですけどね、高島屋に聞いて、
で、こことここですって言われたら、それを予約して、
で、全然当時住んでた家、新宿から遠かったんですけど、
ちまきのためにこう、買いに行って、ガッサガッサガッサ。
大阪より近いもんな。
そうやね、大阪行くこと考えればね、それで食べてるぐらい好きな、
ういろうとか、関東で言うと、すあまとかにちょっと近いお菓子なんかな。
すあまって食べたことないんだけど、
でも、ういろうに近いよね。
近いね、そうそう。ういろうの、もうちょっともちバージョンみたいな。
でも、ふわっとね、笹で包んでるから、その風味があったりして、
そう、笹の香りがね、あって、すごいおいしいんですよ、そうなんです。
ちょっともう、また来年になりますけど。
そうですね、もうこの時点では、6月に入っちゃってるからね。
また来年、もし覚えてる人は、ぜひぜひトライしてみてください。
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はい、素朴でおいしいお菓子なので、おすすめですよ。
そんなような、ちょっとね、タイムラグがある、収録になってるんですが、
どうですか、つわきさん、最近は、なんかいいほうに出会ったりとか。
そう、最近なんか、私、数えたんですよ。
何を?
にんたまらん太郎。
でたでたでた。
独竹最強の軍師に、出会ってから、本が読めなくなってた期間。
どれぐらい、そうあったの?
10週間ちょうど。
週間で数えてるやん、月とかじゃなくて。
2か月半ぐらい。
すごい長いね。
長いよね。
それの反動か、わからんけど、その、なんか、にんたま明け、ラマダン明けみたいな。
絶食。
猛烈に今、読んでる。
いいやん、いいやん。
本って波あるしね。
不思議。
こんな、あの、何、1冊読み終わったら、読み終わった手で、次の本とるみたいな感じ。
すごいね。
今、中毒的に読んでる。
で、なんか、あの、連鎮とかするやん。
連時で鎮。
するときも、なんか、読んじゃうみたいな、なんか、今すごいね。
読書中毒みたいな。
反動があって、もちろんその、忍者のたまごたちライフも続けてるんやけど。
でも、ちょっとこう、この前あの、濁流に飲まれて、こう、渦の中に。
濁流から出たと思う。
出た?
で、忍魂は語れるようになったんですか?
あ、そら無理、そら無理。
そら、生理に時間がかかる。
それは、無理なの?
年単位ですよ。
年単位?そんなに?
いや、そうやで、そうやでって、何?って感じだけど。
そんなに?
たっぷりも、だって、何年もかかったもん。
えぇ、そんな、そんな、すごいね、なんか、本気の恋みたいな感じやね。
運命の恋みたいな。
そうやな、でも、そんな感じ。
なるほどね。
そう、だから、こう、何を言っても、こう、言語と感情とが、こう、一致しないっていうか、幅が大きすぎて、言うことに、こう、意味が見いだせないというか。
おら、言葉を扱う仕事してはるい人やのに。
言葉は無力だよ。
ライターなのに。
でも、なんか、そう思うから、近づけようとするのかもしれない。
なるほどね、なるほどね。
あんまり信じちゃうと、これで大丈夫になるかもしれない。
私の場合はね、いつも違うなと思いながら、書く仕事とかでも、そうかな。
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でも、忍魂はもう、そこに全然到達してない。
面白いな。そんな重みのある話なんやっていう。何かにはまることって。
ちょっと、重め。
重めやね。
だからさ。
なるほど、なるほど。
地雷系。
地雷系。
地雷系?
地雷系?
わからん。
じゃあ、あれですね、何年か経って、その、言葉にできるようになったら、その、ホームスで語ってくれてもいいかもしれないね。
ぜひぜひ、その、夕日が来るといいな。
そんなに。
あー、面白い。
で、その、あの、連追してるときまで見てる本っていうのは、どんな本を見てるんですか?
いろいろ、ほんとでも、その後、豊作で、でも特に、衝撃的に面白い、興味深い、衝撃的に良かった本。
が、中村透さんという方が書かれた、私が諸島である、カリブ海思想入門、書士カンカン坊。
書士カンカン坊ね、それはいい、あの、福岡のね、出版社。
福岡のね。
そうそう、そうです。
最南端の出版社って知ってる?
知らへん。
急に?
脱線すごい。90度に折れ曲がった。
いや、なんか、福岡は結構あれやな、九州めぐらしいな。
なるほど、なるほど、そっからね。
あー、面白い。
あ、もちろん、日本、日本でですよ、日本で。
の、最南端。
最南端の。
で、やっぱ、なんとか党みたいな、世論党とか、そんな感じなんですかね。
いや、そういう、個人系は、もしかしたら、もっとあるかもしれないんですけど。
私が当時、沖縄に行ってた、よく調査で行ってたんですけど、その時に、あの、ポップみたいなんで、日本最南端の出版社って書いてて、
あ、そうなんや、そうかもって思ったのが、南方新社、鹿児島アマミの出版社。
わ、知らないな、へー。
結構ね、植物系とか、あの、アマミとかの、自然の本とかを出してて、結構ね、いい本を、いろいろ出してあるんですよ。
で、それを、今、ふと、思い出して、もう全然、完全に、出せん。
え、そういうのあんねんな、出版社に南方ってついてるのがもう、ね。
面白いよね。
ね、面白いよね。
そうそう、結構ね、いい本、いっぱい出してくれるんですよ。
へー、全然知らなかった。
南方新社外っていうのも、ありかもしれないですよ。
へー、なるほどね。
生き物とかがね、好きな人は、すごく、いいと思います。
関東の書店とかでも、見かける? 私は、あんまり、その、なじみがなくて。
09:00
あんまり、たしかに、見かけないかも。
その、自然系の本とかが、充実してるところやったら、その、アマミの生き物図鑑みたいなのとかは、あるけど、
うん、でも、あんまり、たしかに、ないかも。
一応、その、自然とかの、とか、生物学とかの棚も見てたけど、その、自分の書店のときにさ、でも、見かけたことないなと思って。
まあ、私が行ったところは、その専門書とか、全然置いてない感じのとこだったんで。
うん、専門書ではないけど、結構、あの、野草を食べるとか、アマミの自然入門とか。
んー、やわらかい本も、けっこう出されてるよね。
あ、そうそうそうそう。けっこう、うん、おもしろい本が、多いですよ。
へー。
で、全然ね、関係ない話になってしまった。
うんうん。いや、でも、それが、本娘のいいところやから。
ほうほう、それで、その、その。
あ、そう、私が、書棟である。
書棟であるって、あれ、あの、なんていうの、島々の書棟、何々書棟の書棟ですね。
あ、そうそうそうそう。狩深いが書棟やんか、だから、それの、えっと、誰って言ってたかな、ちょっと、あの、お名前忘れてしまったんですけれども、
その、狩深い出身の詩人の方が、詩の中で書かれて、で、この、えっと、著者の中村透さんが、非常に、その、象徴的で、あの、印象に残った、その、一節が、この、私が書棟であるっていう、
んー、
言葉だった。
あ、じゃあ、詩人の言葉を、
あ、そうそうそうそう。
引用してるんやね。
そうそうそうそう。
っていうので、そのタイトルについてて、で、実際にその、読んでみると、
これ、えっと、狩深い思想入門っていうのが、副題にある通りで、あの、いろんな、その、狩深いって、
島が、たくさんあって、で、言語が、フランス語、スペイン語、で、英語。で、言語圏で言っても、結構、文、文なんて言ったらあれだけど、使ってる言葉が島ごとに、
違ったりとかで、なので、その、結構、思想をひも解くってなった時に、やっぱり、どうしても、その、ドイツ思想、フランス思想、みたいな感じで、その、言語で区切って、あの、考えるっていうのが、
なるほど。
結構、その、スタンダードな、まあ、やり口というか、その、研究者自体が、その、やっぱり得意な言語に縛られるっていうところも、背景として、
そう、あったりとかで、まあ、スタンダードなやり方、捉え方だったりするんだけど、それに対して、その、狩深いっていうのが、この、やっぱり、私が諸島であるっていうところに、結構、まあ、象徴されてるかなと思うんだけど、その、言語を越えた、その、海という、まあ、メタファーなんだけど、
12:09
その、定流で、つながり合ってて、言語を越えて、つながり合った、ひとつの、狩深い思想っていうものが、あるに違いないというか、あるっていうようなことを、すごい情熱的に、提唱してる本です。
へぇー。
すっごく面白い。
へぇー。
これ、あの、表紙の帯に書いてる、すごい、あの、印象的な、この本を象徴する言葉だと思うんですけど、なぜ、ハイデガーやラカンでなければならない?僕たちにだって、思想や理論はあるんだ。
うーん。
だから、その、やっぱり、哲学とか思想とかってなると、その、ヨーロッパの思想っていうのが、やっぱり、主流というか。
うーん。
で、その主流の中で、どうやって、他のアジアとか、まあ、もちろんカリブ海とか、他の地域を位置づけていくかっていうような、あの、考え方に、どうしてもなりがちだけど、そうじゃなくて、カリブ海には、カリブ海のその、他者としての思想、この、主流に対しての他者としての思想ではなくて、主体としての自分たちの思想があるんだっていうところを、その、
カリブ海を、その、それぞれを、まあ、国々によって、あの、言葉が違ったりとか、地理的にその海で分断されてるとかっていうのはあるけれど、それぞれを孤立した島ごとのものっていうんじゃなくて、一つの世界、あの、深いところでは繋がり合ってる、あの、カリブ海世界というか、そして認識して、それぞれ、それの、そのカリブ海世界の思想を紐解いていくっていう、すごいね、なんか、力をもらえるというか、
あの、力強い本で。
主体性みたいなところを取り戻すじゃないけど、それを謳えるっていう意味で、やっぱり私がっていう言葉をタイトルにつけてるっていうのはあるんだよね、きっとね。
そう、そうなんだよね。で、あの、私あんまりその、死って正直、読まないんですけど、その、死に対する、なんやろ、考察というか、態度っていうのもすごい、あの、ハッとさせられるところとかもあって、その、結構やっぱり、あの、カリブ海の歴史って、その、奴隷貿易で連れて来られた、あの、アフリカの方とか、
あとはその、奴隷が禁止された後、年期放行っていう形で、あの、インドから、たくさん、あの、まあ実質は奴隷やけど、年期放行っていう形にして、あの、
年期放行、1年とか単位で放行するっていう意味。
だからまあ、労働者みたいな立ち位置にはなるけど、実際は奴隷とそんな変わらへんみたいな形で連れて来られた方とかが、結構その、中心というか、になってる場所っていうのもあって、だからその、もともといたアフリカとかインドとかっていうのと、その、分断されて、で、あの、言語的なその、言語じゃないな、えっと、なんていうの、文字記録での歴史みたいなのは、その、残され、あんまり残されていない。
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で、その、奴隷貿易っていうのが、あの、言ってもそんな、500年とか600年とかのものだから、あの、歴史の長さっていうのでも、そのぐらいから始まるっていうところもあったりして、結構その、西洋のいわゆる、なんていうの、オーソドックスっていうのかな、
西洋の中心的な見方としては、結構その、歴史なんて、カリブ海にはないじゃないけど、そんな、あの、見るべきところはそんなにないみたいなのが、あの、西洋中心のその、哲学とか思想史の人たちの、まあ、主流というか、
まあ、そこまでその、明治的に言うことはないけれど、
けど、まあ、暗黙の妖怪みたいな感じで、
そうそうそうそう。
あそこはその、歴史浅いっていうか、ないよね、みたいな感じがあるんや。
そうそうそうそう。
でも、確かに私もその、まあ、1年しかいなかったし、何もその、文学部で何か学んだとは言えないんですけど、実は文学部出身。
うん、もともとはね。
そうそう。で、あの、確か2年に行くときに、その、学系みたいなのを選ぶんですよ。
学系?
専攻っていうのかな。
へー。
を、選ぶんやけど、そこにやっぱり、ドイツ哲学とか、フランス哲学とか、あの、そういうのは、フランス文学とかかな、っていうのはあったけど、やっぱそれ以外ってすごいあったのかなって、今になって思うんですよ。存在感が、まあ、なかったのは間違いないなと思って、もしかしたら、あの、あったかもしれないんですけれど。
その、だから、同級生とかの口にのぼるようなものでも、やっぱりなかったなっていうのは。
まあ、そうやんな。やっぱ、A、B文学みたいなのが、一番ドンとあって、で、ドイツ文学にする?フランス文学にする?みたいな、そういう感じよね、きっとね。
そう、やっぱりそういう感じで、で、この、著者は、そういう状況で、やっぱり日本で十分な指導が受けられないっていう状況に、すごい、あの、難しさ、研究を、自分がその、かり深い思想っていうのに、すごい興味を持ったけれど、深められないっていうところに、もうちょっと限界を感じて、
えっと、2015年に、ジャマイカにある、西インド諸島大学っていうところに、進学された、ところから、一応、この、物語というか、モノローグが始まるんだけれど、
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で、だからその、いわゆる、無自覚な西洋中心主義が、やっぱり自分にもあったなっていうところも、すごい、あの、著者ご自身の、なんていうの、反省というか、どうしてもすごくあって、
そこから、すごい、力強く、それに対して、なんていうの、反駁というか、していくっていうのが、この本の主題なんだけれど、もちろん、内容もめちゃくちゃ興味深いし、
やっぱり、西洋人っていうのは、自分たちの、西洋人としての、アイデンティティが理想的な人間であって、だから、その枠組みに入らない、先住の人たちっていうのは、理想的な人間じゃない、もっと言うと、人間じゃないっていうような認識があったっていうような話とか、
ちょっとね、すごく、私も難しい本でもあって、なかなか、全部を読み解けてるとは思えないというか、読み解けてないんですけれど、でも、それでもすごい、そもそも、これ、あの、著者の方が、たぶん、初めてのこれ、著書だと思うんですけれど、
その、だから、すべてを注ぎ込むみたいな、情熱っていうのも、もう、はしばしから伝わってくる、非常に熱い本っていうところもあって、で、特に私が、この本で印象深かった章が、第13章、押しつけられた言語は、誰の存在の家かっていう、
家は、ホームの家よね。
あ、そうそう、そうそう、っていう章があって、まあ、このタイトルに集約されてるんですけども、タイトル自体は、けっこう難しい。
章、章タイトル。
そうそう、そうそう、えーと、けっこう、西洋文化の人たち、私たち日本人もそうだと思うんだけれど、これまで、その、言語を奪われた経験のない人たち、まあ、あの、具体的に言うと、植民地とか、そういう経験がない人たちっていうのは、
どうしても、その、血統を表すものみたいな。
血統。
純血性みたいな。
あー、はあ、はあ、はあ。
ものとして、その言語を、まあ、無意識にでも捉えがちで、で、それが、もう、存在の、アイデンティティの言語自体が、よりどころになってるっていう部分があるっていうところから、あの、出発するんだけど、
それは、なんか、私たち自身も、その、まあ、すごい、心当たりがあるところではあるかなと、思うんだけれど、
それで、だから、第一言語、母国語が、普段使ってる言葉と一致してるっていうのは、まあ、ある種の特権で、
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で、それ、そういう特権を享受してる人たちと、こういう、押しつけられた言語を、あの、使っている、使わざるを得ないっていうような経験っていうのは、なかなか、やっぱり、その、同じ地平で語れるものでは、ないっていう。
入れ物だけ変えられちゃったみたいな、萌えもんの中身が違うのに。
そうそうそうそう。で、あの、自分たちの言葉っていうのは、もはや、あの、残されていないよねっていうのが、その、なんやろう、まあ、一般的な見方なんだけれど、
一方で、その、いろんな、その、ところで、その、植民地支配を受けたところで、その、英語とか、スペイン語とか、その、支配する側の言葉が、現地の人たちが使う言葉と混じり合って、あの、生まれた言葉を、クレオール語って言われるんだけど、そのクレオール語を、彼らは、あの、使ってるわけなんだよね。
だから、いわゆる、英語であっても、その、文法とか、使ってる語彙とかは、やっぱりその、えー、英国、イギリスとか、アメリカで使われてる英語とは、異なって、彼らの母語っていうのが、強く反映されたクレオール語を使っているっていう。
その、クレオール語っていうのは、その、カリブ海の、
カリブ海だけではなくて、一般的に、
一般的に、植民地と、その、植民地。
植民地に限らず。
あ、でも、植民地か、でも、一般的には植民地だと思うけれど、その母国語と別に、その、英語とかフランス語とかを、あの、使うことになった人たちが、現地の言葉と混ざり合って使っている。
っていう概念を、クレオールというか、っていうね。
へー。
だから、その、英語であって、フランス語であって、スペイン語であるけれど、クレオール語なんだよね、どれも。
なるほど。
っていうのがあって、まあ、そういう、ある意味、新しい言語というか、それは、まあ、あの、英語ではあるけれど、そうではないみたいなのがあって、でも、その正常な、いわゆる、
正当な英語と、クレオール語っていうのは、やはり、その、すごい大きな、社会的分断の種にも、なってるっていうのを言ってて、
まあ、日本でも、そうかなと思うんだけれど、
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まあ、言語でっていうわけじゃないけど、その、エリートの再生産のための装置として、その、正当な英語っていうのが働いてしまってて、つまり、その、クレオール語じゃなくて、いわゆる、アメリカンイングリッシュ、ブリティッシュイングリッシュみたいなのをしゃべれる人が、知識階級を独占して、
で、ある意味、その、クレオール語と、あの、英語で、社会階層が、しゃべってる社会階層が異なる言語みたいな、言語自体は、その、バリアになってしまってるっていうような状況もあるっていうふうに書いてて、で、それに、
ちなみにさ、その、クレオール語をしゃべる方の、話者の中に、その、英語もしゃべれて、その、上流階級みたいなところに行けるっていう人もいるのかな。
あ、それは、たぶん、あの、どう、ね、いるとは、それはそうだと思うけれど、
けど、まあ、そもそもの前提として、その、英語、ブリティッシュとかのイングリッシュを、しゃべれる人じゃないと、そこに行けないっていう格差があるっていうこと。
たぶん、だから、地元に住んでらっしゃるから、その、クレオールの言葉は、理解とかは、もちろんできるとは思うんだけれど、でも、それは、なんか、ちょっと、あの、
日本の人が、鉛のあるのを、揶揄するじゃないけど、やっぱり、
イナカッペの言葉、あの、知識のない人たちの言葉っていう、スティグマというか、が、背を腰つけられてるっていうような状況があって、
で、それって何かなって考えると、
その、彼らは、カリブ海で生まれて、その支配、あの、
上の階層で、あの、社会の指導者層になる、正当な英語を扱う人たちって何かって考えると、
まあ、あの、アメリカとか、まあ、留学経験がある、カリブ海出身のインテリとか、まあ、そういう人がたぶん多いと思うんだけれど、そういう人たちが、もう、
西洋のある意味、価値観にどっぷり使って、そう、だから、あの、カリブ海は、あの、正当な歴史を持たない、その、世界の、正当なる歴史の中では、ずっと暴流で、何ならないものぐらいの扱いで、その、自分たち自身をすごく寄存してるというか、
誇りを持って、あの、歩んでいこうっていうのと、やっぱり、ちょっと違うタイトル、まあ、いなかってやけど、西洋で学んだ、俺がやってやるかじゃないけど、まあ、そういうような、あの、プチ西洋みたいなのを、なんか、作るのを、だから、ある意味理想というか、
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ちょっと、無意識的に、たぶん、しているんじゃないかっていうようなことが、まあ、書かれてると、私は理解したんだけれど、で、それに対して、えー、やっぱり、そういう、あの、社会の意思決定相というか、が、そういう、正当な英語をしゃべる、まあ、偽西洋人、みたいな、まあ、言い方が、あの、これがいいのかわからないですけど、
そういう人たちに、占められている状況の中で、えー、社会の、でも、その、大半の層、それ以外の層っていうのは、クレオール語を扱う人たち、で、その2つっていうのは、すごい深い分断があって、
それを、統一というか、1つの大きな、仮深い社会として、つなぎ合わせるような、言語というか、思想っていうのを、見つけ出せて、まだ見つけ出せていないよねっていうのが、この、あの、ショーの主題だと思うんだけれど、で、その中で、これ、あー、そうなんだと思って、そうなんだ、というか、
すごい、あの、感銘を受けたのが、この仮深いの、だから、思想を、あの、きちんと、その、西洋の真似事ではなくて、仮深いのものとして打ち立てようって考える人たちは、えー、そういう、いわゆる、えーと、
指導者層と、一般の仮深いの人たちを、あの、結びつけるための言語を、見つけなければならないっていうふうに、言っていて、それをできるのが、作家や芸術家だっていうふうに指摘してて、だから、私、作家、あの、特に、たぶん詩人とかが、あの、クレオール語を扱って、なんていうんだろうな、
うまく言えないんだけれども、
その、主体性、自分たちが、
西洋の目からどう見えるかっていう、自分たちではなくて、彼ら自身の主体的な、自分たちの言葉としての、その、クレオールとかを扱って、その、
分断された社会を、こう、乗り越えるような、力強い言葉というか、自分像というかを、探っていく必要があるんじゃないか、っていうようなことが書かれていると思った。
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なるほど、そう、読み解いたということ。
そっか、なんかそのさ、タイトルでさ、あの、私が諸島である、だっけ、っていうタイトルだから、あの、
その、なんていうのかな、その、内部からの境地みたいなものがあって、で、その、自分たちのカルチャーなり、なんかそういうものは、西洋から見たものじゃなくて、自分から見た、自分たちの像はこうであるっていうことを、ひも解いた本かと思ったんやけど、そうじゃなくて、そういうものを見つけて、こう、みんなで行かないといけないよねっていう本だよね、どっちかというとね。
どっちかというと、そう、あの、もちろんその土台となるところを、この本で、たぶん、示したい、示されてるとは思うんだけれど、やっぱりまだ状況としては、その、私たちはこうであるって言えるような段階には、たぶん、なっていないっていうのが、あの、理解だと思っていて、
で、その中で、だからこそ、その、すごい活発な議論っていうのが、今もすごく交わされていて、特におもしろいなと思ったのが、やっぱりその、カリブ海思想って言ったときにも、やっぱりまだ言語で、その、結構その、交流はもちろんしてるけど、それぞれの言語圏で発達してきたっていう部分があって、島ごとに使われてるのが、英語、フランス語、スペイン語で、
あるんだけど、だからその、3つの言語圏の、地の巨人みたいのが、あの、中心的に語られて、それらが相互作用しながら、こう、議論が深まっていって、あの、カリブ海思想っていうものに対する基礎が築かれていってるっていう段階でもあると思って、そういうダイナミズムも感じられて、それもすごくおもしろいし、あの、知的に興奮する本かなと思いました。
やっぱりその、その場に、その、ダイナミズムの現場を、あの、第一線の研究者として見つめてきた著者、だからこそのその息遣いみたいなものも感じられて、そういう意味でもすごく、まだあの、若い、若い、若いの定義によりますけれど、あの、すごい情熱的な、
でもやっぱ若い、若いでいいと思う、年齢というよりも、その、若々しい、みずみずしい本っていうところでも、あの、まあ難しい本ですけど、おもしろい本かなと思いました。
なんか、初映画、あの、タイトルのところを今見せてもらってるんですけど、私が諸島であるっていう、あの、大事、タイトルがこう、輪になるようにこう、ポンポンポンポンってこう、置かれてて、なんかこれが、その諸島っていうものを示してたりとかするのかな、島のイメージでこう、配置されてるのかなとか。
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これで分断されてなくて繋がり合ってる。
合ってるっていうのが縁っていうイメージで表現されてるのかなと思って、なんかただタイトルをこう横に書いてるよりこう、まあなんか素敵な初映やし、なんかこう多分、こう糸があって、わざわざそれをしてるんやろうなっていうのが分かって、なんかその大事だけからでも、なんか本の熱みたいなものを感じられるなって思いました。
シンプルやけどね、すごい背景というか、その大事以外の想定もすごく綺麗で、表紙も目で楽しめるし、ぜひぜひ手に取って、じっくり読んでいただきたい本かなと思いました。
なるほどです。
それに関連して、さらに難しさを増す。
なんだと。
けれども、これはさらっと、私がこれを読んでて、すごく関連するなと思った本を、まあ一冊紹介したいなと思います。
はい。結構厚みのある本ですね。
これ多分ね、専門書なんやと思う。
そうなんや。
多分ね、よく分からんないけど、めちゃめちゃなんか引用文献の項長いし、専門書の定義が分からないけど。
ほんとだ、すっごい、すっごい専門書に入るね、これは。
大学の図書館とかに置かれてそうな。
高いよね。あ、高くないわ、高くない。嘘、今の嘘。
え、中西屋出版?これ。
あ、書名言いますね、すみません。
とっちらかってる、とっちらかってる。
おしゃべりやから。
その問いは誰のものか。
先住民の科学、西洋科学、科学教育。
ダグラス・エル・メディン。
メーガンバング。
山田よしのりさん役。
という本なんですけれど。
この著者の2人は、アメリカの研究者で、ここで言う、だから先住民っていうのは、いわゆるインディアン、アメリカネイティブの方々の話に、
なります。
で、これ、副題にもあるとおりなんだけれど、科学って言うと、私たちはやっぱり無意識に、だし、社会の前提ともされてるのが、西洋科学なんだけれど、それって本当にずっとそのままでいいのかなっていうのを、力強い問題提起を、これはしている本で。
それをアメリカの方がしてるっていうのが、おもしろいね。
そうそうそうそう。結構ね、最近のホットなトピックでは、実はあって、でも全然現場まで降りてきてないなっていうのが、私の科学を人に伝えていくっていうことを、私、仕事でしてるんですよ、実は。
36:14
科学コミュニケーション。
って呼ばれるようなことをしてるんですけれど、その現場で、本当にいつも感じているのが、科学コミュニケーション学みたいのがあるんやんか、そこではずっと言われてるのが、すっごいざっくり言うので、専門の人からはお叱りを受けるかもしれないんですけれど、すっごくざっくり言うと、
科学って、経験的なものなんだよね。みんな教科書とかで習うから、絶対真理みたいな感じですり込まれがちなんだけれど、
新しいことが発見されたら変わっていくみたいな、そういうイメージでいいのかな?
だから、今まで経験的に積み上げてきて、それを否定する材料がないとか、一番少ない、最もそれっぽいよねって言って受け入れられてるものが、科学的な知見と呼ばれるものなんだけど、
でもそれって、その経験的なものっていうところで照らし合わせてみると、
例えば、西洋的なそういう科学の手法、仮説を立てる、実験する、検証する、結果が出る、分析する、同じことが何度も再現できると確かめる、みたいなのが、一般的な西洋科学のプロセスなんだけれど、
それって意外と、それぞれの地域というか、民族とかで受け継がれてきてる知識と、意外と似てるプロセスなんだよね。
だって、例えば、この薬草が、やけどにいいですよってなったときに、この薬を塗った群、塗ってない群とか、そういうような西洋科学の枠組みではやってないけれど、経験的に積み上げてきて、塗らなかった人、あかんよね。塗ったらすごいいいよねって、それって、
そっかそっか、そのたまたまAさんが塗って、たまたま良かったんじゃなくて、BさんもCさんもDさんも、なんかやけどにこれ塗った方が良くなるよねっていうのが、結局科学と近しいプロセスを経てるっていう。
そうそうそうそう。科学は、だから、条件を揃えて20代何人とか、そういうふうにやるけど、そうじゃん、そういうやり方ではないけど、時間の試練というか、の中でそれを乗り越えてきて、否定する材料っていうのが、少ないねっていうので受け入れられてる知識で、それが他の知識とも矛盾が少ないっていう、だからある意味、人揃いの、矛盾の少ない知識体系っていうのが、いろんなところにある。
39:25
それぞれの社会にあるっていうのが、科学コミュニケーション論みたいなのでは今言われてて、だからその既存の知識体系と矛盾のない形で、その西洋科学っていうのを教えて、教えて、教えていくっていうやつなんだけど、その知識っていうのを分断なく捉え直していくっていうのが、
本当にその、上からの押し付けではなくて、科学の健全な発展にもつながるし、一人一人のその、社会に生きる一人一人のその、周りの者への理解とか、世界の捉え方とか、
あとはその、やっぱり科学って今、どこの国、地域でもその社会のやっぱり基盤になっているものでもあるから、その、科学政策とかっていうのも理解する上ではやっぱり、自分なりの理解っていうのをした上じゃないと、自分がこうなってほしいっていう社会と全然違う方向に行く人に投票するとかいう、
投票行動も自分の意図と違うようになってしまうとか、そういうような本当に、なんだろう、本当に科学、科学、科学なんだけど、もう西洋科学を超えてその、広い意味での科学っていうのは、やっぱり基盤的な位置を占めているっていう状況だと思うので、
そうなるとその、いやもうちょっと無理、高校で私数学全然ダメで、とか、そういうレベルじゃ、で捉えてったら、社会全体にとって良くないと思うんだよね。
で、それがまあ私の、今のすごい大きなモチベーションでもあるんだけど、そこにもすごい、さっき紹介した、私が諸島であるっていうのはすごい、近しい内容かなともある意味思って、っていうのもそのやっぱ、先ほどのその、私が諸島であるでは、その正当な英語っていうのが、クレオール語のある意味、対比として浮かび上がってくるものかなと思うんだけれど、
それのまあアナロジーというか、
アナロジーって何だっけ?
えーと、相似的な関係。
あー、似てる。
似てる関係やなと思うのが、西洋科学とその、いろんな地域でのその、一揃いの知識体系っていうのがあると思ってて、それをだからつなぐ言語、詩、芸術、だから本当にその、西洋科学を教えてあげる。
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向こうの、でも先住民の知識も顔を立ててあげる。じゃなくて、もっと本当に本質的な体系を作り出すっていう、本質的な統合みたいなところを目指さないといけないなと思っていて。
でもそれってすごい難しいんだけれど、まあそれのヒントになるような本がこの、その問いは誰のものかっていうものかなと思っていて。
で、ちょっとなんかつながりを感じたりとかしたり。
で、自分がその、一朝一夕にはもちろん無理だし、たぶん一生かけても難しいことだとは思うんだけれど、
でもその安直な、これを子供向けにわかりやすく、優しい言葉でとかじゃなくて、もっとその深いレベルでの統合、科学をこう前に進める上で、自分にできることがあればなぁなんていう。
なんかこの、特に私が諸島であるの、あの著者の方の情熱に触れて、私自身も思ったりしましたね。
今回はすごい抽象的な話が多くて、あれだったんですけれど。
いやでもわかりやすかったよ。
ほんと?そう言ってもらえると。
まとめられない、こう難しいね。
でも本当にこの、良い本でした。
で、その問いは誰のものかは、本当にその科学コミュニケーションとかそういうものに興味がある方であれば、読んで損はないかなとは思いますが、
ホームスで言ってた顔はちょっと、しんどいかも。
結構こう、重みのある。
重みのある。
で、そう出版社についても一言触れておきたい。
聞いたことなかったな。
そうやろ、そうやろ、私も大学までなかったんやけど、私たち、私たち、私、私たち、私たちって何?
どこの?どの?誰を吹き込めた?
京都大学に行った人なら、結構なじみがあるかなと思う。
そうね、すごいスポット的に。
京都の出版社やね。
そうなんやね。
で、今はたぶんさすがにそんな不便なことしてないと思うけど、昔めっちゃ不思議やったんやけど、なぜか教科書って買うやん、大学って入ったら。
買うんですよ、教科書。
清教とかでね。
そうそうそう。で、だいたい清教で買うんですけど、なぜか語学の教科書はチャリでたぶん10分ぐらいの中西屋出版で買ってきてくださいって言われて。
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中西屋出版は、その書店業みたいなこともやってらっしゃるってこと?
いや、なんか、家みたいな感じ。
家?
家?
行ったら、でももう、はいはい、1年のフランス語ね、はい、みたいな感じで売ってくれるみたいな。
中西屋出版さんで作ってるってわけじゃなくて、他の他社のもんも。
あ、違う、中西屋出版さんの本だけ。
あ、だけを、ああ、そういうことね。
そう。
え、その言語系は中西屋出版で売ってて、で、それはなぜか清教で買えなくて。
え、言語全部中西屋出版?
あ、全部ではない、全部ではない、一部。
あ、一部、なるほど。
中西屋さんのやつは中西屋さんで買ってね、みたいな。
あ、そういうことね。
結構不思議。
なるほど、なるほど。
みんなそこに、だから、みんなじゃないけど、中西屋さんの本やった人は、チャリで買いに行かなあかんっていう、すごい不思議な体験を提供してくれた本屋さんで。
なるほど、なるほど。
だから、すごい思い出深くて。
へえ。
お、中西屋出版や!って気づきました。
なるほど、なるほど。
それを見ても、鑑賞見ても、専門書っぽい感じがするね、その本はね。
そうかもしれない。これは、たぶんなんか専門書なんだと思う。
なるほど、なるほど。なかなかでも、こういう本って、その、なんかこう紹介されないとさ、こう、なかなかアプローチが難しかったりさ。
そうだよね。
触れる機会がなかったりするからね。
もしかしたら、私が書等である本だったら、だいぶこう、入りやすいというか、手に入るかもしれないので、読んでみたらいいのではないかなと思いました。
はい、ありがとうございます。では、良い読書体験を。
はい、良い読書体験を。
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