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おしゃべり本棚。この時間は福岡のRKB毎日放送のアナウンサーによる朗読をお送りします。
島崎東村作 刺繍第三回
彼女の元の居間へ行ってみた。 居間は親しい客でもある時に通す特別な応接間に用いている。
そこだけは西洋風にテーブルを置いて、安楽椅子に腰掛けるようにしてある。 大塚さんはその一つに腰掛けてみた。
痛ましい記憶の残っているのもその部屋だ。 若く美しい妻を置いて、一人で寂しく旅ばかりするようになったということや、
あれほど親戚友人の反対があったにも関わらず、誰の言うことも聞き入れずに迎えた汚染。 その人と、
姉妹には別れる機会をのみ待つようになっていったということは、 後から考えれば夢のようだ。
実際それが事実であったから仕方ない。 何者にも変えられなかった楽しい結婚の仕留め。
そこから老いく命を噛むような恐ろしい虫が這い出そうとは。 大塚さんは彼女をうっちゃらかして構わずに置いた日のことを考えた。
あらゆる夫婦らしい親しみも楽しみも言ってしまったことを考えた。 汚染は編み物ばかりでなく、趣向に関したことは何でも好きな女で、
刺繍などもよくしたが、 姉妹にはそんな細かい仕事に紛れてこの部屋で日を送っていたことを考えた。
悲しい幕が開けていった。 大塚さんはその刺繍台のそばに、
許しがたい若い二人を見つけた。 もっとも親しげに言葉の取り交わされる様子を見たというまでで、
以前家に置いてあった女性が彼女の部屋へ出入りしたからといって、 とがめようもなかったが、
疑えば疑えなくもないようなことは数々あった。 彼は鋭い刃物の先で妻の白い胸を切り開いてみたいと思ったほど、
激しい嫉妬で震えるようになっていった。 そこまで考え続けると、
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汚染のことばかりでなく、大塚さんは自分自身が前よりははっきりと見えてきた。
そういう悲しい幕の方へ彼女を追いやったのは誰か。 余辞んば汚染は彼女が自分で弁解したように、
罪のない者にもせよ、冷ややかにうっちゃらかしておくような夫よりは、 育児はなくとも親切な若者を喜んだであろう。
それを喜ばせるようにした者は誰か。 そういうことを機会に別れようとして、
彼女の去る日をのみ待っていた者は、 一体誰か。
抑えがたい開婚の情が起こってきた。 汚染がこの部屋で墨入れの刺繍などを作ろうとしては、
花の型のある紙を切れ地に当てがったり、 その上からおしろいを塗ったりしておいて、
それに沿って薄紫色の須貝糸を運んでいた様が、 ただ涙もろかったような人だけに余計かわいそうに思われてきた。
大塚さんは安楽椅子に寄りながらいろいろなことを思い出した。 若い妻がわけもなく夫を恐れるような目つきして、自分の方を見たことを思い出した。
彼女の鼻を噛む音がよくこの部屋から聞こえたことを思い出した。 今いる書生の一人がそこへ入ってきた。
訪問の客のあることを告げた。 大塚さんは賃紙を破られたというふうで、
誰にも会いたくないと言って用事だけ聞いておくようにとその書生に言いつけた。 いずれ会社の者を伺わせます。
その説は電話で申し上げますって、そう言ってくれたまえ、 とつけ添えていった。
大塚さんが客を断るというは珍しいことだった。 書生が出て行った後、大塚さんはその部屋の中を歩いて、
そこにタンスが置いてあった。ここに屏風が立て回してあったと思い浮かべた。 襖一つ隔ててすぐその次にある南戸へも行ってみた。
そこは汚染が鏡に向かって髪をとかした小部屋だ。 彼女の長い着物や肌につけた地板などがよくかかっていたところだ。
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何か残っているものでも出てくるか。 こう思って大塚さんは戸棚の中までも開けてみた。
そうだ、汚染は身に覚えがないと言って泣いたりしたが、 姉妹には観念したとみえ、赤く泣き晴らした顔をあげて、
里の方へ帰れという夫の言葉に従った。 そんな場合ですら、彼女は自分で自分の身の回りのものをどう始末していいかもわからなかった。
ほとんど戸棚に暮れていた。 夫の手伝いなしには、ろくに柳氷一つまとめることもできなかった。
見るに見かねて、大塚さんは彼女の風呂敷包みまでも包み直してやった。 車に乗るまでも見てやった。
まるで自分の娘でも送り出すように。 それほど無邪気な人だった。
何度から部屋を通して庭の方が見える。 汚染が出たり入ったりした頃の部屋の様が目に浮かぶ。
庭には古い筒子の幹もあって、その細い枝に紫色の花をつける頃には、それが日に栄えじて、部屋の障子までも明るく薄紫の色に見せる。
どうかすると、その温かい色が彼女のうたた寝している畳の上まで来ていることもあった。
急に庭の方で、 「まる、来い、来い。」と呼ぶ女性の声が起こった。
まるは廊下伝いに駆け出して来た。 庭へ降りようともせずに、ふざけるような声を出して泣いた。
汚染がこのように愛した陳の泣き声は、余計に彼女のことを思わせた。 一人も彼女に子供がなかったことなどを思わせた。
大塚さんは南道を離れて、部屋にある安楽椅子の後ろを回った。 廊下へ出てみると、咲きかけた桜の若葉が目の前にある。
うららかな春の光は花に栄えじている。 まるはうめくような声を出しながら主人の方へしのんできたが、
やがて駆きついて嬉しげに尻尾を振って見せた。 この長く飼われた犬は、人の表情を読むことを知っていた。
汚染が見えなくなった遠座なぞは、家の中を探し歩いて、 つまらないような顔つきをしてしおれ返っていたものだ。
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大塚さんは丸を膝の上に乗せて、抱きしめるようにして顔を寄せた。 白い柔らかな珍の毛は、
あだかも汚染の方に触れる思いをさせた。 別れるのはかえってお互いのためだ。
そんなことを汚染に言い聞かせて、里の方へ返してやった。 大塚さんはそれも考えてみた。
別れて何かためになったろうか。 決してそうでなかった。
後になって、かえって大塚さんは、目に見えない若い二人の取り交わす言葉や手紙や、それから
相引きする様までもありありと想像した。 それを思うと仕事もろくろく手につかないで、
ある時は二人の在りかを突き止めようと思ったり、 ある時は自分の年甲斐もないことを笑ったり、
ある時は美しく見竿のない女の心を癒しんだりして、 それ見たかと言わないばかりの親戚友人のあざけりの中に座って寂しい日を送ったことが多かった。
彼女が後へ残していった長い長い悲しみは、 ただでさえ白くなってきた大塚さんの髪を余計に白くした。
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