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おしゃべり本棚。この時間は、福岡のRKB毎日放送のアナウンサーによる朗読をお送りします。
高瀬舟 森養飼
後編 賞兵衛は気づけの顔を守りつつまた
気づけさん と呼びかけた
今度はさんと云ったが、これは十分の意識をもって故障を改めたわけではない。 その声がわが口から出てわが耳にいるや否や、賞兵衛はこの故障の不音頭なのに気がついたが、
今さらすでに出た言葉を取り返すこともできなかった。
「はい。」 と答えた気づけも、さんと呼ばれたのを不審に思うらしく、恐る恐る賞兵衛の景色をうかがった。賞兵衛は少し間の悪いのをこらえていった。
いろいろのことを聞くようだが、 お前が今度島へやられるのは、
人をあやめたからだということだ。 俺についでにそのわけを話して聞かせてくれるのか。
気づけはひどく恐れ入った様子で、 「かしこまりました。」
と言って小声で話し出した。 どうもとんだ心へ違いで、
恐ろしいことを致しまして、なんとも申し上げようがございませんぬ。
あとで思ってみますと、 どうしてあんなことができたかと、
自分ながら不思議でなりませんぬ。 全く夢中で致しましたのでございます。
わたくしは、小さいときに二親が地役で亡くなりまして、 弟と二人跡に残りました。
はじめは、ちょうど軒下に産まれた犬の子に 不憫をかけるように町内の人たちがお恵みくださいますので、
近所中の走り使いなどを致しまして、 上小声もせずに育ちました。
次第に大きくなりまして、職を探しますにも、 なるたけ二人が離れないように致して、
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一緒にいて助け合って働きました。 去年の秋のことでございます。
わたくしは弟と一緒に西陣の織場におりまして、 空引きということを致すことになりました。
そのうち弟が病気で働けなくなったのでございます。 そのころわたくしどもは、
北山の掘ったて小屋同様のところに寝起きを致して、 上矢川の橋を渡って織場へ通っておりましたが、
わたくしが暮れてから食べ物などを買って帰ると、 弟は待ち受けていて、
わたくしを一人で稼がせては済まない済まないと申しておりました。
ある日、いつものように何心なく帰ってみますと、 弟は布団の上につっぷしていまして、
まわりは血だらけなのでございます。
わたくしはびっくりいたして、
手に持っていた竹の革づつみや何かをそこへおっぽり出して、
そばへ行って、
「どうした、どうした。」と申しました。
すると、弟はまっさおな顔の両方のほうからあごへかけて、
血にそまったのをあげてわたくしを見ましたが、
ものをいうことができません。
息をいたすたびに、
傷口でヒューヒューという音がいたすだけでございます。
わたくしにはどうも様子がわかりませんので、
「どうしたのだい、血をはいたのかい。」
といってそばへよろうといたすと、
弟は右の手をとこについてすこしからだをおこしました。
左の手はしっかりあごの下のところをおさえていますが、
その指のあいだから黒血のかたまりがはみだしています。
弟は目でわたくしのそばへよるのをとめるようにして口をききました。
ようようものがいえるようになったのでございます。
「すまない、どうぞかんにんしてくれ。
どうせなおりそうにもない病気だから。
はやくしんで、すこしでも兄貴にらくがさせたいと思ったのだ。
笛をきったらすぐしねるだろうと思ったが、
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息がそこからもれるだけでしねない。
深く深くと思って力いっぱいおしこむと、
横へすべってしまった。歯はこぼれはしなかったようだ。
これをうまくぬいてくれたら、
俺はしねるだろうと思っている。
ものをいうのがせつなくっていけない。
どうぞ手をかしてぬいてくれ。」
というのでございます。
弟が左の手をゆるめると、そこからまた息がもります。
わたくしはなんといおうにも声がでませんので、
たまって弟ののどのきずをのぞいてみますと、
なんでも右の手にかみそりをもって横に笛をきったが、
それではしにきれなかったので、
そのままかみそりをえぐるように深くつっこんだものとみえます。
えがやっとにすんばかりきず口からでています。
わたくしはそれだけのことをみて、
どうしようというしあんもつかずに弟の顔をみました。
弟はじっとわたくしをみつめています。
わたくしはやっとのことで、
「まっていてくれ。お医者をよんでくるから。」
と申しました。
弟はうらめしそうなめつきをいたしましたが、
また左の手でのどをしっかりおさえて、
「医者がなんになる。ああ苦しい。早くぬいてくれ。たのむ。」
というのでございます。
わたくしは途方にくれたようなこころもちになって、
ただ弟の顔ばかりみております。
こんなときはふしぎなもので、めがものをいいます。
弟のめは、
「はやくしろ。はやくしろ。」
といってさもうらめしそうにわたくしをみています。
わたくしのあたまのなかでは、
なんだかこう車の輪のようなものがぐるぐるまわっているようでございましたが、
弟のめはおそろしいさいそくをやめません。
それにそのめのうらめしそうなのがだんだんけわしくなってきて、
とうとうかたきの顔をでもにらむようなにくにくしいめになってしまいます。
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それをみていてわたくしはとうとう、
これは弟のいったとおりにしてやらなくてはならないと思いました。
わたくしは、
「しかたがない。ぬいてやるぞ。」
と申しました。
すると弟のめのいろがからりとかわって、
はれやかに、さもうれしそうになりました。
わたくしはなんでもひと思いにしなくては、
と思ってひざをつくようにしてからだをまえへのりだしました。
弟はついていたみぎのてをはなして、
いままでのどをおさえていたてのひじをとこについて、
よこになりました。
わたくしはかみそりのえをしっかりにぎって、
ずっとひきました。
このときわたくしのうちからしめていたおもてうちのとをあけて、
きんじょのおばあさんがはいってきました。
るすのあいだ、
弟にくすりをのませたりなにかしてくれるように、
わたくしのたのんでおいたばあさんなのでございます。
もうだいぶうちのなかがくらくなっていましたから、
わたくしにはばあさんがどれだけのことをみたのだかわかりませんでしたが、
ばあさんは、
「あっ!」といったっきり、
おもてぐちをあけっぱなしにしておいてかけだしてしまいました。
わたくしはかみそりをぬくとき、
てばやくぬこう、まっすぐにぬこうということだけのようじんはいたしましたが、
どうもぬいたときのてごたえは、
いままできれていなかったところをきったようにおもわれました。
はがそとのほうへむいていましたから、
そとのほうがきれたのでございましょう。
わたくしはかみそりをにぎったままばあさんのはいってきて、
またかけだしていったのをぼんやりしてみておりました。
ばあさんがいってしまってからきがついておとうとをみますと、
おとうとはもういきがきれておりました。
きずぐちからはたいそうなちがでておりました。
それからとしおりしゅうがおいでになって、
やくばへすれてゆかれますまで、
わたくしはかみそりをおそばにおいて、
めをはんぶんあいたまましんでいるおとうとのかおをみつめていたのでございます。
すこしうつむきかげんになってしょうべえのかおをしたからみあげてはなしていたきすけは、
こういってしまってしせんをひざのうえにおとした。
きすけのはなしはよくじょうりがたっている。
ほとんどじょうりがたちすぎているといってもいいくらいである。
しょうべえはそのばのようすをまのあたりみるようなおもいをしてきいていたが、
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これがはたしておとうとごろしというものだろうか。
ひとごろしというものだろうかといううたがいが
はなしをはんぶんきいたときからおこってきて、
きいてしまってもそのうたがいをとくことができなかった。
おとうとはかみそりをぬいてくれたらしなれるだろうからぬいてくれといった。
それをぬいてやってしなせたのだ。ころしたのだとはいわれる。
くからすくってやろうと思っていのちをたった。
それがつみであろうか。ころしたのはつみにそういない。
しかしそれがくからすくうためであったと思うと、
そこにうたがいがしょうじてどうしてもとけるのである。
しだいにふけていくおぼよろに、
ちんもくのひとふたりをのせたたかせぶねは、
くろいみずのおもてをすべっていった。