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おしゃべり本棚。この時間は福岡のRKB毎日放送のアナウンサーによる朗読をお送りします。
山本周五郎 蘭 後編
明日は平澤郎が江戸へ立つというその前夜のことだった。 夜食を終えて間もなく、当の平澤郎が突然庭から入って
幾之助の今を叩いた。 二人だけで話がある。家人には聞かれたくないと言って座った。
幾之助は日よけの日をかき起しながら、友の目を見た。 それは際立って力強い光を帯び、寒い夜道を来たにもかかわらず、頬には赤く血が広がっていた。
とうとう脇屋をやった。 どうしたんだ?
今日、お城を下がる時、二の丸の真姿で突っかけてきた。 石垣を曲がる弾みのように見せて、激しく体をぶっつけた。
そして言いがかりだ。 まさか応じはしなかったろうな。
彼がどんな雑言を吐き散らしたか想像がつくだろう。 始めからはがってしたことだ。
手書でも怒らせずにはおかないという態度だった。 できるだけしのぼうと努めてみたが。
明日の御用を控えているのに、そしてつい先日も俺が行ったのに。 あの場にいたら、そこもともわかってくれたろう。
俺は決して前後を忘れはしなかった。 結局どうしようというのだ。
つい先刻、東六から決闘状が来た。 明後日の明けいな夏、長山の丘で立ち会おうという申し込みだ、菅は。
と、平澤郎は静かに友の顔を見守った。 どうしても避けられない場合だ。
頼む、江戸はやはり、そこもとが言ってくれ。 それは断る。
考えてみないか黒沢。 決闘となれば相手を斬らなければならない。
その結果は、自分も切腹だぞ。 もちろんだ。
そして、これは藩家将来のために、 誰かが必ずしなければならないことだ。
誰かが。 ああ、平澤郎らしい。
あまりに平澤郎らしい。 棒を押さえるのに棒を持ってするのは無意というべきだ。
そこもとの勝ち気は、こんなことにしか役立たないのか。 いけない。
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断じていけない。 そこもとは黒猿通り江戸へ立つんだ。
だが、武士と武士との約束をどうする。 この上俺に恥辱を重ねろというのか。
長山の丘へは俺が行く。 そこもとは恩犬と笑うけれど、恩犬にも一徳のないことはない。
登録のことは、俺に任せてもらう。 そこもとには、これが穏やかに収まると信じられるのか。
火を消すにも法はいくつかある。 火傷にかまわず手で揉み消すのも法だ。
しかし、水を打ちかけて済むのに手を焦がす必要はない。 そこもとが帰るまでには恩犬に蹴りをつけておこう。
あとは引き受けた。安心して行くがよい。 大丈夫だろうな。間違いはないだろうな。
行くたびも念を押したのち、なお心を残しながら、 平澤郎はようやく帰って行った。
あくる朝、同僚たちと一緒に、 城下外れまで平澤郎を見送った。
冬に入った空は、目に痛いほど白色にすみあがり、 雲のわたる遠い山並の中には、早くも雪をかぶった峰が眺められた。
平澤郎は下僕を連れて、まだ溶けやらぬ 白標の張った刈田の間の道をまっすぐに江戸へ向って去った。
幾之助はその日登城を休み、 居間に籠って終日何かしていた。
昼下も居間で食べるというので、 松子が膳を運んで行った。
彼は居間いっぱいに書状や冊子や書き本を広げ、 机に向ってしきりに何か物を書いていた。
「お片づけ物でしたら、わたくしお手伝いいたしましょう。」
「何、もう済んでしまった。」
彼は膳の前に来て座った。
「久しく投げ槍にしておいた物だから、この通りだ。 後で本を焼く時に手を貸してもらおうか。」
食事の済むまで彼はついに目を上げなかった。
午後になって日が傾きかけた頃、 彼は書状や本や古い日記などを庭へ持ち出した。
松子がつけ木に火を移してきた。
栽園の一偶に穴を掘って、 その中で彼は書き本をから焼き始めた。
風のないどんよりと曇った日で、 屋根の裏にある雑木林のあたりに、
しきりと嗣みのなく声が聞こえた。
「黒沢は江戸から帰ったら…。」
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と幾之助は古い日記を引き裂いて 火の中へ投げ入れながら、
静かな温かい調子で言った。
帰ったらすぐ正式にあの話を申し込むそうだ。
松子は迷いはしないだろうね。
「はい。」
われ知らず彼女は片手で胸を押さえた。
あれは稀な人間だ。
お家のためには決して書くことのできない。
やがては勝山藩の忠責ともなる人間だ。
夫としては言うまでもない。
松子はきっと幸せになるよ。
でもわたくし、黒沢様の妻として、 恥ずかしくないものになれますでしょうか。
江戸風呂は松子を愛している。
男らしい生命な深い愛だ。
それがすべてを生かしてくれる。
彼の愛を信じていれば、
松子は幸せな良い妻になれるよ。
煙がなびいてきたので、
彼は瞬きをしながら咳入り、
立って脇のほうへ位置を移した。
ああ煙、すっかり目にしみてしまった。
その翌朝、まだ暗いうちに、
幾之助は家を抜け出して長山の丘へ向った。
家々の屋根も道の上も雪のように白い霜で覆われ、
足にしたがってサクサクと砕ける音が聞こえた。
乳白の浅もやが薄く生えたように、
枯草のしがみついた地表に垂れ、
錠をなしてたなびいていた。
腰から下をその浅もやにけされて、
草地の一偶に脇や東六の姿が見えた。
彼につきそって三人の若侍がいる。
幾之助はその様子を眺めながら、
静かな足取りで近づいて行った。
「よう、来たなあ。」
東六がしゃがれた声でそう言った。
「黒沢は一緒が?」
「俺一人だ。黒沢は江戸へ立った。」
「逃げたか。」
東六はひきゆがんだあざけりの笑いを浮かべ、
ずかずかとこっちへ踏み寄ってきた。
「それで、つまり貴公は申し訳の死者というわけか。」
「そうではない。黒沢の代わりだ。」
「何?代わりだと?では貴公が俺と果たし合いをするつもりか。」
「その通りだ。」
幾之助は身近くをしながらうなずいた。
「黒沢は勝山藩に欠けてならぬ人間だ。
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俺は彼と幼少の頃から一緒に成長してきて、
彼がどのような人物か誰よりよく知っている。
どちらかが死ぬとすれば、彼ではなくてこの俺だ。
これは友情ではない。勝山藩百年のためだ。
俺は平澤郎に果たし状をつけたのだ。
貴公との立ち合いは断るといったらどうする?
そんなことはありえないさ。」
幾之助はすでに墓場の桃立ちを取り、
覆い物を脱いでいた。
「なぜなら、そこもとが招致するしないには関わらない。
俺は脇や頭顱を斬る。」
こう叫んで頭顱は二三軒後ろへ飛びすさった。
彼の面上には火がついたように頭脂が燃え、
相棒がにわかに殺伐な光を放ち出した。
「こいつは本気だ。こいつは骨がある。
よし、相手になってやろう。
抜け!」
幾之助は右足のつま先でトントンと地面をたたき、
静かに刀を抜いた。
そのとき向うにいた三人の若侍たちが、
こっちへ近づいてきた。
小笠原家の江戸屋敷は下谷池の端にある。
平澤郎はついて三日休息し、
四日目の朝、飯を受けて城へ上った。
そして主君野戸の神政信に連れられて、
元の間に入ると間もなく、
屋敷から使い役が追ってきて、
勝山から旧使のあったことを告げた。
旧使は登場中でも中心する定めだった。
政信は廊下で使者に会った。
十月十七日早朝、
と使い役は口早に言った。
城外長山の丘におきまして、
菅生幾之助、脇屋登録の両名、
わたくしの意困をもって決闘に及び、
幾之助こと登録を打ち果たしましたる上、
その場をさらず、
自害捕まつったとのお届けにございます。
幾之助が、幾之助が、
声を放ってうめくように
政信が叫んだ。
しかし平三郎の驚きは
たとえようもなかった。
必ず音便に収めてみせる、
そういった幾之助の声は
まだ耳にある。
静かな確信がにげな表情も
目に残っている。
それにもかかわらず、
それにもかかわらず、
彼は登録を切って自害した。
では、やはりあの言葉は
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俺を安心させるためだったのか。
あの時すでに
こうする覚悟を決めていたのか。
それほどの死ぬが
俺にはわからなかったのだろうか。
平三郎はわれ知らず
拳を膝に突き立てた。
その時使役が
えしゃくしてこちらへすり寄った。
電柱で羽ばかりであるが、
殿のお許しがござったので
渡します。
そういった使役は
ふくさに包んだ踏み箱を差し出した。
国元からの急使が持参したもので
菅は幾之助より
底本への踏みでござる。
平三郎は至君を見た。
正信はうなずいた。
それで彼は座をすべり
静かにふくさを解きひろげた。
菅はの家紋を散らした踏み箱の
ふたをあけると
こもっていた高雅な香りが
彼の面をうった。
中には一輪の乱花が
しんとおさめてあった。