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おしゃべり本棚 この時間は福岡のRKB毎日放送のアナウンサーによる朗読をお送りします。
高瀬舟 森鴎外
中編 木助は言葉を継いだ
お恥ずかしいことを申し上げなくてはなりませんが 私は今日まで200問という和紙を
こうして懐に入れて持っていたことはございません どこかで仕事に取り付きたいと思って
仕事を訪ねて歩きまして それが見つかり次第骨を押しまずに働きました
そしてもらった税には いつも右から左へ人手に渡さなくてはなりませんなんだ
それも現金でものが買って食べられるときは私の苦面のいいときで 大抵は借りたものを返してまた後を借りたのでございます
それがお楼に入ってからは仕事をせずに食べさせていただきます 私はそればかりでもお上に対して
すまないことを致しているようでなりません それにおろう出るときにこの200問をいただきましたのでございます
こうして相変わらず お上のものを食べていてみますれば
この200問は 私が使わずに持っていることができます
お足を自分のものにして持っているということは 私にとってはこれが初めでございます
島へ行ってみますまではどんな仕事ができるかわかりませんが 私はこの200問を島でする仕事のもとでにしようと楽しんでおります
こう言って喜助は口をつぐんだ 商兵衛は
うんそうかい とは言ったが
聞くことごとにあまり意表に出たので これもしばらく何も言うことができずに
考え込んで黙っていた 商兵衛はかれこれ所老に手の届く年になっていて
もう女房に子供を4人産ませている それに老母が生きているので家は7人暮らしてある
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平成人には隣職と呼ばれるほどの賢悪な生活をしていて 衣類は自分が役目のために着るもののほか
寝巻しかこしらえぬくらいにしている しかし不幸なことには妻をいい信頼の商人の家から迎えた
そこで女房は 夫のもらう縁前で暮らしを立てて行こうとする善意はあるが
豊かな家に可愛がられて育った癖があるので 夫が満足するほど手元を引き締めて暮らしていくことができない
ややもすれば月末になって感情が足りなくなる すると女房が内緒で里から金を持ってきて長尻を合わせる
それは夫が釈在というものを毛虫のように嫌うからである そういうことは所詮夫に知れずにはいない
商兵衛は 御節句だといっては里方から物をもらい
子供の七五三の祝いだといっては里方から子供に衣類をもらうのでさえ 心苦しく思っているのだから
暮らしの穴を埋めてもらったのに気がついてはいい顔はしない 格別平和を破るようなことのない羽田の家に
折々波風の起こるのはこれが原因である 商兵衛は今喜助の話を聞いて
喜助の身の上を我が身の上に引き比べてみた 喜助は仕事をして給料を取っても右から左へ人手に渡してなくしてしまうといった
いかにも哀れな気の毒な境界である しかし一転して我が身の上を帰り見れば
彼と我との間にはたしてどれほどの差があるか 自分も神からもらう縁舞いを右から左へ人手に渡して暮らしているに過ぎぬではないか
彼と我との相違はいわばそろばんの桁が違っているだけで 喜助のありがたがる200問に相当する貯蓄だにこっちはないのである
さて桁を違えて考えてみれば張目200問をでも 喜助がそれを貯蓄と見て喜んでいるのに無理はない
その心持ちはこっちから指してやることができる しかしいかに桁を違えて考えてみても不思議なのは喜助の欲のないこと
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足ることを知っていることである 喜助は世間で仕事を見つけるのに苦しんだ
それを見つけさえすれば骨を押しまずに働いて ようよう口をのりすることのできるだけで満足した
そこで老に入ってからは今まで得がたかった職がほとんど天から授けられるように 働かずにいられるのに驚いて生まれてから知らぬ満足を覚えたのである
勝兵衛はいかに桁を違えて考えてみても ここに彼と我との間に大いなる間隔があることを知った
自分の縁前で立てていく暮らしは 折々足らぬことがあるにしても大抵水筒があっている
手一杯の生活である しかるにそこに満足を覚えたことは
ほとんどない常は幸いとも不幸とも関節に過ごしている しかし
心の奥にはこうして暮らしていて ふいと親父がごめんになったらどうしよう
大病院でもなったらどうしよう という義句が潜んでいて
折々妻が里方から金を取り出してきて 穴埋めをしたことなどがわかると
この義句が意識の敷居の上に頭をもたげてくるのである 一体この間隔はどうして生じてくるだろう
ただ上辺だけを見て それは木すけには実に経類がないのに
こっちにはあるからだと言ってしまえばそれまでである しかしそれは嘘である
よしや自分が独り者であったとしても どうも木すけのような心持ちには
なられそうにないこの根底はもっと深いところにあるようだと 商兵衛は思った
商兵衛は ただ漠然と人の一生というようなことを思ってみた
人は 身に病があると
この病がなかったら と思う
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その日その日の食がないと 食ってゆかれたら
と思う 万日の時に備えるたくわえがないと
少しでもたくわえがあったら と思う
たくわえがあっても またそのたくわえがもっと多かったら
と思う 核のごとくに先から先へと考えてみれば
人は どこまで行って踏み止まることができるのやら
わからない それを今目の前で踏み止まって見せてくれるのが
この木すけだと 商兵衛は気がついた
商兵衛は 今更のように脅威の目を見張って木すけを見た
この時商兵衛は 空を仰いでいる木すけの頭から
豪光が射すように思った