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箱の中のあなた
2024-10-19 16:50

箱の中のあなた

0108 241019 山川方夫 箱の中のあなた :朗読 井口謙
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おしゃべり本棚。この時間は福岡のRKB毎日放送のアナウンサーによる朗読をお送りします。
山川雅夫。箱の中のあなた。 あの失礼ですが。
なめらかな都会風の男の声が言った。 彼女は臆病と疑惑とが一緒になったようなぎこちない様子で立ち止まった。
いい景色ですね。本当に。 これ何の木です?
なれなれしくこの地方だけに生えている緑色の炎のような形の木を指して男は聞く。 男は首からカメラを吊るしていた。
態度といい口調といい。 男はわざわざ東京あたりからやってきた観光客の一人に違いなかった。
この地方は初夏から観光シーズンに入って駅前には歓迎の大きなアーチが立つ。 すみませんが
と男は言った。 ここで写真を一枚撮ってくれませんか。
棒のように直立したままだが彼女はその男の首から上 優しい声の流れ出す唇さえ
ろくに見ることができなかった。 彼女は
男の顔を今までまっすぐに見られたことがなかった。 その打ち気さ臆病さが結局のところ30歳を過ぎた今日まで
彼女に一人暮らしをさせていたのかもしれない。 男は明るい声で言った。
実はね記念にこの風景をバックに僕を入れて一枚写していただきたいんです。 何セットは僕がしますしシャッターさえ押してくださればいいんですから。
お願いします。 彼女は
こわばった顔でちょっと道を振り返った。誰も通らなかった。 すみませんが。
男は優しい声で繰り返した。 彼女は手を伸ばした。
恐る恐るカメラを手に受けるとギクシャクと胸に抱え込んで。 彼女は懸命にその少しぼやけた男の映像を
03:03
小さな箱の中の暗いガラス板の上にとらえるのに熱中した。 やっと焦点があった。
彼女は大きく呼吸を吐いた。 美しい小さな世界だった。
血のような夕日に染まりながらぽつんと一人の男が立ち、 にこやかなポーズで笑っていた。
まっすぐな鼻、薄い女のような唇、 引きしまった静寒な腰つき、
のしかかるような動物の圧力、圧倒的な恐怖そのものだったそれまでの男性はどこかに消え、
ガラス板の上に縮小され定着された男は、 今は輪郭の明瞭な小さな愛らしい一個の人形となって、
はじめて彼女は彼を所有することができていたのだった。 うっとりと、
彼女は開かず眺め続けた。 こうでもしなければ、
私は彼をとっくりと見ることもできない。 全身が熱く燃え上がって、
彼女は胸が早くもある期待にわななき始めたのがわかった。 まだですか、
と男が言った。え、 今、
と彼女は答えた。 その時、
ある絶望のような決意が、 素早く彼女の中を走った。
彼女は、 自分がもはやどうしてもそれを避けられなくなっているのを確認したのだった。
静かな風景の中に、 シャッターが突然、
死んだ小鳥が水に落ちたような音を立てた。 ありがとう、
そうだ、ひとつ今度はあなたを映させて下さい。 男は急にはしゃぐような声を出した。
どうですか、ぜひこの美しい景色と一緒に。 あのう、
精一杯の努力で彼女は言った。 あのう、
こんなところ、そんなにいい景色ではありませんわ。 ほう?
男は露骨に興味を示す顔になった。 もっといい景色があるというんですか。
この先に行くと、 海が見下ろせる公園があります。
あの、もう町はずれなんですけど、 そこのほうが、
06:00
へえ、そいつは知らなかった。 そうですか、じゃあ連れて行って下さい。
公園といっても、春になると桜や梅が一斉に花を開くというだけの、 その他には何もない高地だった。
ただ夕暮れの淡い銀梅色の靄の中に沈んで行く町と海が、 より広く見渡せるだけのことで。
だが、そこにはいつも人影がなかった。 彼女は背を固くして先に立った。
古い神社の裏を回り、近道は急な傾斜だった。 大きな砂利が靴の裏で滑って、
やっと両側の草むらが突きかけるあたりまで来た時、 慣れない男はやはり少し会いに始めていた。
「ああ、早いなあなた。ちょっと待って下さいよ。」 その声を聞き、彼女が立ち止まった直後だった。
男の手が彼女の肩をつかみ、仰向けに 彼女を草むらの中に押し倒した。
「いや、私、そういうこと嫌いなんです。嫌なんです。」
絞り出すような叫び声と共に、 彼女は男を突き飛ばした。
だが男はひるみを見せなかった。 男の顔が視野いっぱいに迫って、
彼女は必死にその顔に向けて抵抗した。 彼女にあったものは、ただ必死な猛烈な一つの剣をだった。
気づいた時、彼女は右手にしっかりと大きな石を握りしめて、 ぜいぜいと呼吸を切らしていた。
男は足下に倒れていた。 米紙から血の筋を滴らせて、男の目はぽかんと空を見ていた。
男は動かなかった。まだ胸が弾んでいた。 でももう恐怖感はなかった。
彼女は、やっぱり私はいざとなると理性的な女なのだ。 理性的でしかないのだと思った。
これはしようがないのだ。 彼女は男のポケットから落ちた煙草の箱を戻し、脱げた靴を履かせ、
ずるずると引きずって崖の先端に置くと、 そこまでの奇跡や二人の争いの跡を注意深く消した。
それからカメラをそっと自分のハンドバックにしまって水黒いを直した。 そしてそっと横たわった男の背中を押してやった。
09:11
男は突き出た岩角にぶつかりながら落ちていって、 やがてかすかに鈍い水の音が響いた。
翌日、夕刊の地方版に旅行客が誤って三十メートルの崖から滑り落ちて死んだという記事が載った。
そこはここ数年市民たちの間で魔の断崖と呼ばれている場所で、 だがそんな危険な箇所を持つ公園での観光客の事故については、
もっぱら彼らの懐を罪言とし、彼らの足が遠のくのを恐れる市当局の圧力もあってか、 新聞も警察も今度もそれ以上は深く触れずことを済まそうとしていた。
彼女はその日、いつもの勤め先の郵便局からの帰り道に写真屋に寄り、 現像された一袋の写真をもらってきた。
彼女に必要なのはその中のただ一枚。
激しい夕焼けに染まったにこやかなポーズのあの男の姿だけでしかなかった。
彼女はその写真をアパートの小さな姫兄弟の上に用意した枠に入れて飾った。
これでいいの。
目を細め、思いっきりあの日の赤い光を浴びた彼を眺めながら、 熱っぽい充実に彼女は胸が震えていた。
ねえ、殺しちゃってごめんなさい。
でも我慢してね。
私は生きている人が怖いの。
だっていつどこへ行っちゃうかわからないし、
生きている人は本当には私のものにはなってくれないんですもの。
このあなたならおとなしくて決して私を裏切りもしないわ。
私たちはだましあうこともいらないのよ。
きっとあなたもおさみしくはないと思うわ。
いつまでも一緒に暮らしましょうね。
仲良く。
いくらか日が長くなったせいか、
一部屋だけのアパートは窓から横ざまに差す金色の光がまぶしかった。
カーテンをひきかけ何気なくカレンダーに顔を向けて、
12:02
彼女は、
あ、きょうはおととしのあの人の御命日だったわと低く言った。
鍵をかけた本棚の一番上の扉をひらいた。
そこには、
同じような黒いリボンをつけた写真たてにはいって、
若い男たちの写真がならんでいた。
えーっと、あの人は何番目だったかしら。
彼女は幸福そのものの顔になって、
いまは何の臆するところもなく、
その一つ一つの男の顔を次々と司祭に見つめ続けた。
男たちはそろってあの丘の上の豪華な夕映にまみれ、
炎のような形の木を背にして、
彼女の手で箱の中に納められた瞬間の、
それぞれの得意なポーズのままで笑っていた。
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