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            箱の中のあなた
2023-01-28 16:41

箱の中のあなた

018 230128 山川方夫 箱の中のあなた 朗読:本田奈也花

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おしゃべり本棚 この時間は福岡のRKB毎日放送のアナウンサーによる朗読をお送りします。
箱の中のあなた 山川雅夫
あの失礼ですが 滑らかな都会風の男の声が言った
彼女は臆病と疑惑とが一緒になったようなぎこちない様子で立ち止まった。
丘の上は素晴らしい夕焼けで赤く染まっていた。 馬の背のような地面にまばらな木が細長い影を作っていた。
いい景色ですね、本当に。 これ何の木です?
慣れ慣れしくこの地方だけに生えている緑色の炎のような形の木を指して男は聞く。
男は首からカメラを吊るしていた。 態度といい口調といい、男はわざわざ東京あたりからやってきた観光客の一人に違いなかった。
すみませんが、と男は言った。
ここで写真を一枚撮ってくれませんか?
棒のように直立したまま、だが彼女はその男の首から上、 優しい声の流れる唇さえろくに見ることができなかった。
彼女は男の顔を今までまっすぐに見られたことがなかった。 首筋のあたりまで真っ赤にして極度の緊張に。
彼女は呼吸が詰まるような気がしていた。 男は明るい声で言った。
実はね、記念にこの風景をバッグに僕を入れて一枚写していただきたいんです。 シャッターさえ押してくださればいいんですからお願いします。
彼女はこわばった顔でちょっと道を振り返った。
誰も通らなかった。 すみませんが、
男は優しい声で繰り返した。 彼女は手を伸ばした。
恐る恐るカメラを手に受けると、 彼女は賢明にその少しぼやけた男の映像を、
小さな箱の中の暗いガラス板の上に捉えるのに熱中した。 やっと焦点があった。
03:05
彼女は大きく呼吸を吐いた。 美しい小さな世界だった。
血のような夕日に染まりながら、ポツンと一人の男が立ち、 にこやかなポーズで笑っていた。
旅行者は赤ね色の光にくっきり映え、 その光はちょっとグズグズしていれば、
跡形もなく消えてしまいそうに思えた。 圧倒的な恐怖そのものだった、それまでの男性はどこかに消え、
ガラス板の上に縮小されて定着された男は、 今は輪郭の明瞭な小さな愛らしい一個の人形となって、
初めて彼女は彼を所有することができていたのだった。 うっとりと彼女はあかず眺め続けた。
それは許された貴重な時間だった。 こうでもしなければ、私は彼をとっくりと見ることもできない。
全身が熱く燃え上がって、彼女は胸が早くも、 ある期待に罠なき始めたのがわかった。
まだですか?と男が言った。
え?今?と彼女は答えた。 その時、
ある絶望のような決意が素早く彼女の中を走った。 彼女は自分がもはやどうしてもそれを避けられなくなっているのを確認したのだった。
静かな風景の中にシャッターが突然、 死んだ小鳥が水に落ちたような音を立てた。
ありがとう。そうだ、 ひとつ今度はあなたを写させてください。
男は急にはしゃぐような声を出した。 どうですか?ぜひこの美しい景色と一緒に。
あのう、精一杯の努力で彼女は言った。
あの、こんなところ、そんなにいい景色ではありませんわ。 ほう?
男は露骨に興味を示す顔になった。 もっといい景色があると言うんですか。
この先に行くと海が見下ろせる公園があります。 あの、もう町外れなんですけど、そこのほうが…
へえ、そいつは知らなかった。 そうですか、じゃあ連れてってください。
公園といっても、春になると桜や梅が一斉に花を開くというだけの、 その他には何もない高地だった。
06:09
ただ夕暮れの淡い銀梅色のもやの中に沈んでいく町と海が、 より広く見渡せるだけのことで。
だがそこにはいつも人影がなかった。 彼女は背を固くして先に立った。
古い神社の裏を回り、近道は急な傾斜だった。 大きな砂利が靴の裏で滑って、やっと両側の草むらが突きかけるあたりまで来た時、
慣れない男はやはり少しあえぎ始めていた。
「はあ、早いなあなた。ちょっと待ってくださいよ。」 その声を聞き、彼女が立ち止まった直後だった。
男の手が彼女の肩をつかみ、仰向けに彼女を草むらの中に押し倒した。
「いや、私そういうこと嫌いなんです。嫌なんです。」 絞り出すような叫び声とともに、彼女は男を突き飛ばした。
だが男はひるみを見せなかった。 男の顔が視野いっぱいに迫って、彼女は男の顔に向けて抵抗した。
彼女に遭ったものは、ただ必死な猛烈な一つの嫌悪だった。
気づいた時、彼女は右手にしっかりと大きな石を握りしめて、 ぜえぜえと呼吸を切らしていた。
男は足元に倒れていた。 米紙から血の筋を滴らせて、男の目はポカンと空を見ていた。
男は動かなかった。 まだ胸が弾んでいた。
でももう恐怖感はなかった。 彼女は、やっぱり私はいざとなると理性的な女なのだ。
理性的でしかないのだと思った。 これはしょうがないのだ。
彼女はそこまでの奇跡や二人の争いの後を注意深く消した。 それからカメラをそっと自分のハンドバッグにしまって水黒いを直した。
そしてそっと横たわった男の背中を押してやった。 男は突き出た岩角にぶつかりながら落ちていって、
やがて かすかに鈍い水の音が響いた。
09:04
翌日、 有感の地方版に旅行客が謝って30メートルの崖から滑り落ちて死んだという記事が載った。
記事は簡単な3、4行のもので、旅行者の顔写真もなかった。 そこはここ数年、市民たちの間で魔の弾丸と呼ばれている場所で。
なが、そんな危険な箇所を持つ公園での観光客の事故については、 もっぱら彼らの懐を罪言とし、彼らの足が遠ぬくのを恐れる市当局の圧力もあってか、
新聞も警察も、今度もそれ以上は注意深く触れずことを済まそうとしていた。 その事件は男の水死体の検死が済み、
身元の紹介も終わり噂話も済み、 1週間も経つ頃には、そろそろ人々から忘れられようとしていた。
彼女はその日、いつもの勤め先の郵便局からの帰り道に写真屋に寄り、 現像された一袋の写真をもらってきた。
彼女に必要なのは、その中のただ一枚。 激しい夕焼けに染まった、にこやかなポーズのあの男の姿だけでしかなかった。
彼女はその写真を用意した枠に入れて飾った。 これでいいの。
目を細め、思いっきりあの日の赤い光を浴びた彼を眺めながら、 熱っぽい充実に彼女は胸がおののいていた。
「ねえ、殺しちゃってごめんなさい。 でも我慢してね。私は生きている人が怖いの。
だって、いつどこへ行っちゃうかわからないし、 生きている人は本当には私のものにはなってくれないんですもの。
このあなたなら、おとなしくて決して私を裏切りもしないわ。 私たちは騙し合うこともいらないのよ。
きっとあなたもおさびしくはないと思うわ。 いつまでも一緒に暮らしましょうね。仲良く。」
いくらか日が長くなったせいか、 一部屋だけのアパートは窓から横ざまに差す金色の光がまぶしかった。
カーテンを引きかけ何気なくカレンダーに顔を向けて、 彼女は、
「あ、今日はおととしのあの人の御命日だったわ。」 と低く言った。
12:04
鍵をかけた本棚の一番上の扉を開いた。 そこには同じような黒いリボンをつけた写真盾に入って、
若い男たちの写真が並んでいた。
えっと、あの人は何番目だったかしら。
彼女は幸福そのものの顔になって、今は何の憶するところもなく、 その一つ一つの男の顔を次々と司祭に見つめ続けた。
男たちは揃って、あの丘の上の豪華な夕映にまみれ、 炎のような形の木を背にして、
彼女の手で箱の中に納められた瞬間の、 それぞれの得意なポーズのままで笑っていた。
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