1. おしゃべり本棚
  2. 幸福の彼方 3
幸福の彼方 3
2023-09-23 16:39

幸福の彼方 3

052 230923 林芙美子 幸福の彼方3 朗読:下田文代
Learn more about your ad choices. Visit megaphone.fm/adchoices

感想

まだ感想はありません。最初の1件を書きましょう!

00:00
おしゃべり本棚。この時間は福岡のRKB毎日放送のアナウンサーによる朗読をお送りします。
林文子作 幸福の彼方
その3 仏門の言葉に煩悩は無人なり
誓って己を絶たんことを願うという言葉があるが、僕は今、この子供のことだけはどうしても煩悩を立ちがたいのだ。
これをしっかりと金子さんに話して、よかったら来てもらってくださいと、僕はくれぐれも吉尾さんへ行っておいたんだ。
世間の人は、傷ついて戻ってきた表面の僕だけに同情をしてくれて、何もかにも本当のものを隠して一時を取り繕ってくれるんだけど、僕はそんなことは将来に至ってお互いの不幸だと思う、と言って君と結婚してしまって、今さら、こんなことでどうにもならないけれど。
それにしても結婚の初めに、僕は本当は君にこの話を僕の口からもう一度しておこうと思った。
吉尾さんがひょいとしたら君に言わないかもしれないとは思わないでもなかったんだけど、でも僕もなんだか弱い気持ちになっていて君が欲しくて仕方がなかったんだろう。
君はこの気持ちを笑うだろうが、これが人間の心というものさ。
寿司に醤油をつけてくれたのが僕はとてもうれしかった。醤油の匂いが涙の出るほど懐かしかった。
新市は話してしまうとほっとしたように砂をつかんでいた手から湿って熱くなった砂を膝の上へこぼしている。
きぬこは海の上へいっぱい黒いカラスが舞い降りているような錯覚にとらわれていた。
私の夫にはかつて妻があり子供がある。
新市の家へ着いた晩に新市と兄が何かひそひそ話し合っていたことがあったけれどもきぬこは自分の前途が薄暗くなったような気がしないでもない。
03:08
きぬこはしばらく海の向こうを見つめていた。
子供と二人で二階住まいをして人参やほうれん草で赤ん坊を育てていたという新市のわびしい生活の暗さは現在目の前にいる新市には少しもうかがえなかった。
「ねえ。」
うん、うんと答えてくれた新市の言葉の中にはにじみ出るような温かいものがある。きぬこはどうすればいいのかわからなかった。
十六の年から宝庫をしていて王やの奥深いところに勤めていたせいかきぬこは自分が一足飛びに不幸な縁へ立ったような気がしないでもないのである。
赤ちゃんはいくつなの。
もう四つだ歌を歌うよ。
会いたいでしょ。
うん。
奥様はこっちなんでしょ。
さあどこにいるんだか知らないね。そんなものはどうでもいいさ。
だって。
君は僕と結婚したことを後悔してるんじゃないだろうね。きぬこはそっとハンカチを解いてまたタバコとマッチを出した。
光の箱からチョークのようなタバコを一本出して真一の唇にくわえさしてやると真一は急に熱い手できぬこの指をつかんで人差し指だの中指薬指小指とじゅんじゅんにきぬこの爪を自分の歯で噛んでいった。
きぬこはあふれるような涙でのどがぐうっと押されそうだった。
二人が尾前崎から名古屋へ帰ってきたのは一週間ぶりである。
暮れ近い町の姿はせんじといえどもさすがに忙しそうな気配を見せていた。
二人の新居は四軒長屋の一番端の家でまだ建ったばかりなので木の香りが周囲に漂っていた。
真の柔らかい畳だったけれどもそれでも畳がぎゅうぎゅうとなった。
二人はまるで長い間連れ添った夫婦のように何もかにも打ち解け合っている。
06:08
新一は昔の陶器会社へ勤めを持つようになった。
そして会社では薄ぼんやりした片目の視力を頼りに毎日ろくろを回して働いていた。
きぬこが結婚をした知らせを二宮へ知らせてやると東京のお嬢さんから美しい小さい兄弟が送り届けられた。
そうして添えられた手紙の中にはきぬさんのような幸福な人はないと思う。
自分は結婚して初めて実家にいた時の何十倍という苦労をしています。
もう再び娘に戻ることはできないけれどもあの時が懐かしいと思いますということが書いてあった。
美しいお嬢さんではあったけれども結婚した相手の人はなかなかの堂楽家でお嬢さんもやつれてしまわれたと店の人がきぬこに話していた。
二階が六畳一間に貝殻が六畳に四畳半に三畳それに小さい風呂場もついていたし狭いながらも小菊の咲いている庭もある。
ちぐさ町の駅も近かったしこの辺は割合物価も安かった。
きぬこは自分一人で新市の子供に会いに行ってみようと思った。
新市が何も言わないだけに新市の寂しさが自分の胸に響いてきたし、
お前崎の砂浜でのことがはっきりと胸に浮かんでくるのである。
子供は大曽根というところの雑貨屋に預けてあった。
きぬこが一人で大曽根まで子供に会いに行ってみたいというと新市も一緒に行こうと言い出して、
二人は暮れの迫ったある日曜日に電車へ乗って大曽根町へ行った。
電車の中は割合空いていた。
きぬこと新市の腰をかけている前には三人の子供を連れた夫婦が腰をかけていた。
一番上の子は中学生らしく胸に金ボタンのいっぱいついた街灯を着ている。
中は小学校六年生ぐらい、下は二年生ぐらいででもあろうか。
三人の男の子たちは父と母の間に腰をかけて厚田神宮へお参りをした話をしていた。
父親は四十五六歳ぐらいの年配で肩から写真機をぶら下げたまま腕組みをして眠りこけていた。
09:04
母親はよくこえた柄の大きい婦人で股を開いたようにして窓へそり身になってもたれている。
小さい子供がつり革へぶら下がったりするのを時々たしなめては叱っていたが、
子供たちは時々母親の首へ手をかけては何か向こうへついてからのことをねだっているふうである。
見ていてほほえましくなる風景であった。
きぬこは背中に汗がにじむようなくすぐったいものを感じた。
自分たちの将来もあの人たちのように幸福にうまくいくかしらと考えるのである。
親一は窓の外の方へ顔を向けてうつらうつらしていた。
きぬこは前の親子を眺めているのは楽しかった。
眠っていた夫は目をつぶったままの姿でポケットから花紙を出すと大きい音をさせて鼻をかんだ。
鼻をかんでからもていねいに鼻をふいてその花紙を目をつぶったまま自分の膝のところへ持っていくと、
横合から越えた妻君がたくましい腕を子供の膝越しににゅうっと突き出してその花紙を取って自分の懐へ入れてしまった。
きぬこはまるで自分がしたことを人に見られてでもいるかのように赤くなりながら微笑していた。
ご主人は花紙を妻君に渡してしまうとまた手を膝の上へだらりと下げてよく眠っている。
子供たちは走って行く窓の外を眺めながらきゃっきゃとふざけあっていた。
太った妻君は股を開いたままの姿勢でいかにも三人の子供の母らしい貫禄を見せて悠々としていた。
きぬこはふっと親一の方へ首を向けた。
明るい世間へ出ると何かに卑下してしまっているそんな寂しげな親一の姿を見ると、
きぬこは自分の目の前にいる奥さんのように大しく親一をかばってこれからも末永く生活して行かなければならないと思うのであった。
この親一を捨てて行ってしまった女の人へ激しく報いるためにも。
きぬこは自分もやがて幾人かの子供を産んで、あの女の人のように股を広げて腰をかける日のことを考えると微笑ましい気持ちであった。
12:11
その姿が少しもいやらしくは見えなかったし、かえって三人の母として頼もしささえ見えた。
きぬこは自分もそっと下駄をはなしてそり身になってみたけれども、若いきぬこにはそれはなんだか妙なものである。
きぬこは無性におかしくなってきて肩で親一の体を二三度強く押しつけた。
何も知らない親一は窓の外の方を向いたまま口元でくすくす笑っているようであった。
聞きたいラジオ番組何にもない。そんな時間はポッドキャストで過ごしませんか。
RKBでは毎週40本以上のポッドキャスト番組を配信しています。
あなたのお気に入りの声にきっと出会えるはず。
ラジコ、ポッサイ、アップルポッドキャスト、アマゾンミュージック、ユーチューブミュージックでRKBと検索してフォローしてください。
RKBオンラインのポッドキャストまとめサイトもチェック。
16:39

コメント

スクロール