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幸福の彼方 1
2023-09-09 16:42

幸福の彼方 1

050 230909 林芙美子 幸福の彼方1 朗読:下田文代
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おしゃべり本棚。この時間は福岡のRKB毎日放送のアナウンサーによる朗読をお送りします。
林文子作 幸福の彼方
第1回 西日の差している洗濯屋の狭い2階で
きぬこは初めて新市に会った。 12月に入ってから珍しく火鉢もいらないような暖かい日であった。
新市は四重ハンカチで額を拭いていた。 きぬこは時々そっと新市の表情を眺めている。
長らくの病院生活で色は白かったけれども、少しもくったくのないような顔をしていて、耳たぶの豊かな人であった。
顎が四角な感じだったけれども、西日を眩しそうにして時々壁の方へ向ける新市の横顔が、
きぬこにはなんだか昔から知っている人ででもあるかのように親しみのある表情だった。
新市はきちんと背広を着て窓のところへ座っていた。 名工土格の吉尾が剥げた頭を振りながら不器用な手つきで寿司や茶を運んできた。
きぬこさん寿司を一つ新市さんにつけてあげてください。 そう言って吉尾は用事でもあるのかまた海下へ降りて行ってしまった。
寿司の上を鈍い羽音を立てて大きいハエが一匹飛んでいる。 きぬこはそっとそのハエを追いながら素直に寿司皿のそばへにじり寄って行って、
小皿へ寿司をつけると、その皿をそっと新市の膝の上へのせた。 新市は皿を両手に取って赤くなっている。
きぬこはまた割り箸を割ってそれを黙ったまま新市の手握らせたのだけれども、新市は慌ててその箸を押しいただいていた。
ふっと触れ合った指の感触にきぬこは胸に焼けるような熱さを感じていた。 新市を好きだと思った。
03:01
何がどうだというようなきちんとした説明のしようのない、みなぎるような強い愛情の心が湧いてきた。
新市は皿を膝に置いたまま黙っている。 ガラスの越しにビール会社の高い煙突が見えた。
きぬこは黙っているのが苦しかったので、 小皿へ醤油を少しばかりついで新市の持っている寿司皿の寿司の一つ一つへ丁寧に醤油を塗った。
やあ、どうもありがとう。 醤油の香りでちょっと舌を向いた新市はまた赤くなってもじもじしていた。
きぬこは新市をいい人だと思っている。 何かいい話をしなければならないと思った。
そして心の中にはいろいろなことを考えるのだけれども、何を話してよいのか少しも話題がまとまらない。
新市は薄い色眼鏡をかけていたので、ちょっと目の悪い人とは思えないほど元気そうだった。
きぬこは一生懸命で、 村井さんは何がお好きですかと聞いてみた。
何ですか、食べるものなら僕は何でも食べます。 そうですか、でも一番お好きなものは何ですの。
さあ一番好きなもの、僕はうどんが好きだな。
きぬこは、まあと言ってくすくす笑った。 自分もうどんは大好きだったし、二宮の家にいた頃はお嬢様もうどんが好きで、
きぬこがほとんど毎日のようにうどんを薄味で煮たものであった。 うどんと言われて急にお前崎の白い波の音が耳元へ近々と
聞こえてくるようであった。 きぬこと新一は同居人で、新一はきぬことは七つ違いの二十八である。
去年、戦場から片目を失って戻ってきたのであった。
ささやかな見合いが済むと一週間も経たないで、二人は結婚の式をあげた。
千草町の駅に近いところに家を持った。 家を持つとすぐ留守を吉夫に頼んで、二人はお前崎の郷里へ帰って行った。
06:00
新一の家は半農半漁の家で貧しい暮らしではあったが、 父も兄夫婦も非常に良い人であった。
新一の母は新一の幼い時に亡くなったのだそうである。
ある晩、新一はきぬこへこんなことを言った。 僕はねえ、家が貧しかったから、
中学を出たら一軍に引い出た金持ちになりたいというのが理想だったんだよ。 だけどとうとう学士も続かず、中学を中途で辞めてしまって、
名古屋の陶器会社へ登校に入ってしまった。 そして今度の戦争に行き、片目を失って戻ってきた。
運命だと思うが、まあ、命拾いをしたのも不思議な運命だし、 君と一緒になったのも、これも不思議な運命だね。
新一は遠い昔を思い出したように、 コタツに顔を伏せていた。
波の音がゴーゴーと響いて聞こえた。 新一の実家では子たくさんで家が狭いので、
近所の灯台のそばの茶店の一室を借りておいてくれたので、 新一たちはここで気兼ねのない日を過ごした。
夜になると灯台の明かりが遠くの海面を黄金色に染めている。 ギラギラするような白い光棒が、暗い空の上ですすきの穂のように揺らめく時がある。
雨の晩の灯台の明かりも綺麗だった。
きぬこは村の高等小学を出るとすぐ名古屋へ出て、新類の吉尾の世話で、 めんふどんやの二宮家へ方向に住み込んでいたのであった。
お嬢様好きだったので、きぬこは何の苦労もなしに二十一まで暮らしてきたのだけれども、
お嬢様が今年の春、東京へ縁付いて行ってしまうと、きぬこは二宮家を去って新類の吉尾の家へ厄介になっていたのであった。
きぬこは美しくはなかったけれども愛嬌のいい娘で、大柄でのんびりしているのが人に好意を持たれた。
きぬこは二宮家にいた間に二度ほど縁談があり、一度は無理やりに見合いをさせられたことがあったけれども、きぬこはその男を好かなかった。
相手はメリヤス商人でもう相当女遊びもした男らしく、きぬこに向かっても始めからいやらしいことを言って黄色くなった歯を出して煙草ばかり吸っていた。
09:14
きぬこは嫌だったのですぐその縁談は断ってもらった。きぬこは結婚というものがこんなに浅はかなものなのかと嫌で嫌でならなかった。
そのくせ何かしら自分の体は熱く燃え盛るような苦しさに落ちていく日もある。
吉尾から真一の話を持って来られた時にはきぬこは本当はあまり気乗りがしていなかったと言っていい。
一度見合いをして懲り手もいたし、商人とか職工とかはきぬこはあまり好きではなかったのだ。
会社員のようなところへ嫁に行きたいのがきぬこの理想だったのだけれども、
戦場から片目を失って来ている人ということになんとなく心を誘われてきぬこは真一に会ってみたのである。
初めて会った時もいい人だとは思ったけれども、結婚してみると真一は思いやりの深い良い人であった。
きぬこは朝目が覚めるとすぐ大きい声で歌を歌う真一がおかしくて仕方がなかった。
真一は決まって子供の歌うような歌を毎朝歌った。
今日も昼のご飯が済むと灯台の横から二人はコンクリートの段々を降りて渚の方へ歩いて行った。
うんとこの空気を吸って帰りましょうね。
きぬこが子供らしいことを言った。
真一は波の音でも聞いているのかしばらく黙っていたが、ふっと思い出したように眉を動かしてきぬこの方へ向いた。
タバコをつけてあげましょうか。
きぬこがハンカチの包みの中からタバコとマッチを出してタバコを真一の膝へ置いた。
ねえ僕は一度君に尋ねてみようと思ったけれど、よしおさんは一体僕のことをどんなふうに言ったのかね。
どんなふうって。
いや僕の身の上のことについてさ。
身の上ってどんなことでしょう。
きぬこよしおさんはなんだか僕のことをかばって君には何にも話していないようだね。
12:06
だってどんなことを聞くんですの別にあなたの身の上のことなんか今さらどうでもいいじゃありませんか。
いや聞いていないとするとよくはないさ。
きぬこは何のことだろうと思いながらマッチを吸った。
青い火が指先に熱かった。
真一はうまそうにタバコを吸った。
白い煙がすぐ海の方へ消えていく。
僕に子供があることをよしおさんは話したかな。
きぬこはえと息を呑んで真一の顔を見つめた。
バッテン少女隊の春のキーナと青いリノアです。
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