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幸福の彼方 2
2023-09-16 16:18

幸福の彼方 2

051 230916 林芙美子 幸福の彼方2 朗読:下田文代
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おしゃべり本棚。この時間は福岡のRKB毎日放送のアナウンサーによる朗読をお送りします。
林文子作 幸福の彼方その2
僕に子供があることを 吉尾さんは話したかな
きぬこは えっ
と息を呑んで新市の顔を見つめた それごらん
吉尾さんはそのことを君に話さなかったんだね
新市はそう言って黙って立ち上がると一人で 渚の方へゆっくりゆっくり歩いていった
きぬこはしばらくその後姿を眺めていたけれども なんだか新市が嘘をついているようで仕方がなかった
でも 子供があるといえば新市の部屋には確かに子供の写真があったと思える
机の上だったかしら 壁だったかしら
きぬこは新市が一度結婚した人だとは考えてもいなかったのでそんな写真には 不注意だったのかもしれない
ちらと目をかすめた子供の写真は女の子の顔のようだった きぬこは新市の後を追ってすぐ走って行きたかったのだけれども
なんとなく新市をそのまま放っておきたい気持ちになっていた あの人に
子供がある どうしてもきぬこには信じられなかった
土寺を着てインバネスを着て杖をついている後姿が頼りなくフラフラしていた きぬこはタバコやマッチをハンカチに包んで立ち上がると
寒い海風の中をヨロヨロと新市の方へ歩いて行った 新市は小さい声で口笛を吹いていた
いやよ そんなに一人で歩いて行ったりして
わらごやのそばにいるときはそんなに寒いとも思わなかったけれども 渚の方へ出てみるとはっと息が止まりそうな寒い風が吹いていた
03:00
風をひくといけないから戻りましょう きぬこが新市のインバネスの袖をつかんで小さい声で言った
誰もいない浜辺は砂漠のように光亮としている 浜辺近くそそり立っている丘の上には白い灯台が曇った空へくっきりと浮き立っている
きぬこは新市にたとえ子供があったところでそれが何だろうと思った 新市も
きぬこに袖を握られたまま 素直に元のわらごやの方へ戻ってきてくれた
新市は22の時に名古屋へ出て陶器会社の事務員に勤めていたのだ 輸出向きの陶器を製造するところで非常に忙しい会社だったが新市は1年ばかりも
すると少しばかりの貯金もできたので 協理から妻をもらった
小柄なおしゃべりな女だったが子供が生まれると間もなく この妻は子供を置いて新市の友達と
満州へ逃げていってしまったのだ 新市は妻に去られて子供を抱えて困ってしまった
朝起きるとすぐ子供の世話をして近所へ預けて会社へ通わなければならない 夕方は預け先から子供を受け取って帰る
この日課が1年近くも続いたであろう 新市は子供が可愛くて仕方がなかった
牛乳だけで育てる子供の肉体は一体に弱いのが多いという新聞記事を見ると 新市は人参やほうれん草を茹でてそれを裏腰で潰しては牛乳と混ぜて飲ませてみた
時には乱暴にも煮干しをすり鉢ですって牛乳に混ぜて飲ましたりすることもある だけど子供は不思議にぐんぐん大きくなり
近所の人からは村井さんとこの有料地産というようなあだ名がついたりしてきた むつきの世話から着物のつくろいまで新市は一人でしなければならなかった
幸福なことには一度も医者いらずな子供でちょっと腹具合を悪くしても 新市が帰ってみてやればすぐ子供の病気は良くなるのである
出生する自分には子供はもうはや這うようになっていたけれど 今度だけは近所へ預けて行くわけにも行かないので新市は子供を里子に出すことにして出生したのであった
06:11
里子に出してしまえばあるいはもうこのまま子供とは行き別れになるかもしれないと 新市は思っていた
ひょいとして自分は命ながらえて戻ってくるとしても 子供は
生きてはいないだろうと思われるのであった 牛乳やおもゆで育てることさえも大変な手数であるところへ
新市の子供は世間一般の育児法と違って 人参やほうれん草やリンゴの絞り汁を食べさせなければならない
新市は貯金を全部下ろしてそれを子供へつけてやった お前咲きの田舎へ預ける工夫も考えないではなかったけれども
兄は4人も子供を持っていたので新市は帰って 他人の家へ里子に出すことにしたのである
3年目に戦争から戻ってきても子供は丈夫に育っていた 新市が会いに行っても子供は新市の黒い眼鏡を怖がってなかなか
なついては来ないのである 里子の家でも新市の子供を自分の子供のように可愛がっていてくれたせいか
子供を返してくれと言われるのが辛いと言っておかみさんが泣いて 新市に訴えるのであった
新市はきぬこと結婚してからも子供のことが忘れられなかった 忘れようと思えば思うほど子供とたった2人で辛い生活をした
かつての日のことを思い出すのである 去った妻のことは少しも思い出さないのに別れた子供のことだけは夢の中でも涙を
こぼすくらいに恋しくてならなかった 人参を買ってきて夜遅くそれを茹でながら子供と2人で遊んだ
子供は少しも泣かない丈夫さで畳に放っておいても もぐもぐと唇を動かして一人で寝転んだまま遊んでいてくれた
茹でた人参をすり鉢ですって牛乳でドロドロに伸ばしてその瓶を 赤ん坊のそばへ持って行ってやると赤ん坊は可愛い足をバタバタさせて喜んだものだ
新市はキャッキャと一人で笑っている赤ん坊のそばで少しばかり 酒を飲むのが無情の楽しみであった
09:08
茹で残りの人参に醤油をつけて酒の魚にしたりした 戦場へ出ても新市は子供の写真を見ると
おえつが出るほど悲しく切なかった めめしいほど子供に会いたくて仕方がなかったのだ
大映の激しい戦いの時であった 新市は小学校の窓からそっと敵の情勢を眺めていた
立っていては今に危ないよお父さん危ないですよ と盛んに空中で赤ん坊の柔らかい手が自分の方へ泳いでくるように見えた
戦争最中には赤ん坊のことなどは忘れてしまっているはずなのに 盛んに赤ん坊の姿が激しく球の飛んでくる空中に浮かんでいる
新市はどんどん打った 子供の手などは払いのけながら窓へ顔を出してどんどん打ったが急に頭の上
何かドカンと落ちかかる音がしたかと思うと新市は顔面を熱い刀で切られたような 感じがした
暗い穴の中へ 体がめり込むようだった
赤ん坊の泣き声が激しく耳についているようであったが そのまま新市は気が遠くなってしまっていたのだ
子供の柔らかい声が渦のように地の底から響いてくる その音に誘われるように新市はぐんぐん地の底へ落ち込んでいった
内地の病院へ戻ってくると満州へ行っていたはずの妻がひょっこり病院へ訪ねてきた 新市は腹立ちで口も聞けなかった
新市が黙っているので妻は最後に子供のいるところを教えてくれと言った 新市は妻に対してはもう何の気持ちもなかったけれども
子供のことを言われると妙に腹が立ってきて仕方がなかった 仏門の言葉に煩悩は無人なり誓って己を絶たんことを願うという言葉があるが
僕は今子供のことだけはどうしても煩悩を断ちがたいのだ これをしっかりときぬこさんに話してよかったら来てもらってくださいと
12:02
僕はくれぐれも吉尾さんに言っておいたんだ 世間の人は傷ついて戻ってきた表面の僕だけに同情してくれて何もかにも本当のものを
隠して一時を取り繕ってくれるんだけど 僕はそんなことは将来に至ってお互いの不幸だと思うと言って君と結婚してしまって
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