コミュニケーションのテーマ
こんにちは、保育園看護師の千尋先生こと佐藤です。
新規事業の力で日本を開国せんとす、合同会社黒船の基礎です。
同じく、黒船の川尻です。
僕たちは高校の同級生3人で、保育業界向けの新規事業を作ろうと日々頑張っております。
特にこのチャンネルでは、現役の保育園看護師である僕、千尋先生が日々考えている保育のことだったり、
保険の情報なんかを中心に、保育士さん、保育園看護師さん、または小さいお子さんを育ての保護者の方に向けて、
発信していけたら良いなと思って頑張ってます。
頑張ってます。
今回は、子どもとのコミュニケーションっていうのをテーマに話をしていけたらいいかなと思っているんですけれども、
このラジオを通じて何度も何度もお伝えしている通り、保育士さんってめちゃめちゃすごいじゃないですか。
すごい。
このラジオを通じてそう思うに至るようになったね。
毎回言ってる気がするよね。
毎回結局そこに行き着くんですけど。
保育士さんあげチャンネルだ。
そう、僕的にあげたいポイント。
保育士さんのね、やっぱり一番すごいところの一つとして、その子どもの違和感に気が付く。
言語化しきれないし、その何か数値として出るものでもないけど、
その違和感に気付くっていうところがすごいなってずっと思ってて、
なんかそれってやっぱり普段から子どもとコミュニケーションをとっているからこそ、
子どものことを見ているからこそわかることだと思うので、
なんかその中でも特にその子どもとのコミュニケーションっていうところに今日はちょっとフォーカスして、
なんか話していけたらよいなと思っております。
いいね。なんか割とある種抽象的なテーマではあるね、今回はね。
子どもの視点を理解する
ざっくりしてますね。
コミュニケーションってね、そもそもそういうものですからね。
ある程度抽象度の高いって大事なところだと思うので、楽しみです。
よろしくお願いします。
さっきもチロ先生から言った通り、やっぱ保育園従事者の方々の違和感に気が付けるところがすごいっていうところで言うとさ、
子どもとのコミュニケーションってやっぱ得意性というか、
なかなか僕やきそが普段話していて、やることではないじゃないですか。
普段の生活で。
確かにね。
子どもとのコミュニケーションしない大人みたいなのも結構いるよなと思うので、
子どもって何言ってもわかんねえだろうみたいな。
話通じないよねみたいなところだよね。
確かにね。
難しいよね。
話は確かに通じないは通じないからね。
それはそうなんだけどね。
なんかこう、一般的な大人の人が思ってる、
いわゆるみんなが想像するコミュニケーションっていうものとはなんかちょっと違うのかなっていう気もしていて。
そうなんだ。
なんとなくね、これは僕の感覚的な話だけど、
保育士の方とか保育者の方ってやっぱり子どもを中心に働いてるから。
子どもの視点が常に、子どもの視点で物事を考えて、子どもを中心にこう世界を見ているから。
なんかそれがやっぱ一番違うところ。
やっぱ子どもとのコミュニケーションが苦手だったり、そもそもそういう風にしていないタイプの大人。
何だろうな。
例えばが上手いこと出てこないけど。
何だろうな。
何かない?
あふられるのそこで。
こんなようなパターンみたいなのちょっと何か言ってみて。
まあでも、自分も個人的な話だけど、
追いっ子がほんと5年前くらい。
5年前くらいに生まれる追いっ子を見るまでは子どもにどう接していいかとかこう、
そもそも恥ずかしいというか。
子どもに合わせたコミュニケーションを取ることが恥ずかしい。
でもわかるかもそれ。
幼い感じで相手に見せ合わせるの恥ずかしいからちょっと照れちゃうみたいな感覚はあってうまくコミュニケーション取れないとか。
どうしたらいいかわからないみたいなの結構あったかもね。
だからTikTokのネタとかでさ、
エビカニックスを全力で踊るかどうかみたいな話あったじゃない。
あれすごいことがわかるというか、
新人はちょっと照れが出ちゃってさ。
あーなるほどね。
柔らかい動きになっちゃうけど、
もうベテランの人たちはもうビシバシ踊る。
あの感じ。
ベテランの中でもあれですけどね、
そういうの平気なタイプの人間は。
人によるんだね。
かっこわけが入りますけどね多分。
だから子供が中心というよりは自分の恥ずかしさとか、
自分の気持ちが割と前に出るんだろうなという感じはしてるかも。
自分が恥ずかしいとか自分がどう見られてるか。
なるほどなるほど。
みたいなのになっちゃうんだろうなって気はするかも。
えーなるほどね。
子供中心の物事を見ることはないね。
ないよね。
確かにそこが一番保育士さん専門性の一つなんだろうなという気はする。
常日頃その視点に立てるというか、
そこで物事を考えられるっていうところが一番すごいなっていうところで。
なんかこれってね、保育園看護師、
主に病棟とか普通に看護師として勤務してきた人たちが保育園に入って、
いろいろ思うことはあるけど、
ある種ずっと保育園にいる身としては、
看護師の視点だけだとやっぱりその保育の、
子供の視点がちょっと抜けるというか、
どうしても専門性の違いからそこの配慮が欠けるみたいな場面もあるなと思って。
なるほどね。
そうなんだ。
なんかそれがまっすぐ子供とのコミュニケーションっていうところにもつながっていくというか。
やっぱり看護師もね、
ある種疾患を抱えてとか病気のお子さんに対して、
そのお子さんの発達に合わせて、
その子が理解できるようにその疾患について理解してもらったりとか、
こういった手術をするんだよっていうことを遊びの中で、
いろいろ分かってもらって、
本人の気持ちを作って望むように持っていくとかっていうのが、
看護の目標としてちゃんとあるから、
なんかそういうアプローチはするんだけど、
なんかなんていうかな、
そういった目的や力のコミュニケーションというか。
なるほどね。
ある意味ね。
保育士とコミュニケーション
うん。
なんか、
すごいその、
なんていうのかな、
すごいはっきりしてるんだよね、看護師の方が。
割となんでも。
なんていうか、健康管理という目的があっての、
寝るとり、みたいな。
そうそう。
保育ももちろんあるんだけど、
狙いとか目的みたいなものがより明確で、
ゴールがすごい定まっているような感覚が個人的にはあるんだけど、
もちろん保育もそれを狙って計画したりなんないってのもあるんだけど、
なんかもっと、
ない人のコミュニケーションがちゃんとそこにあるような感じがあって。
うん。
いち保育者とその園児たちとの。
うん。
確かに。
まあ、今やっぱりその看護師の視点だけだと、
こう、なんていうか、子どもを中心と言うよりやっぱり、
もうちょっと目的あるよりみたいなアプローチになっちゃうね。
感じちゃう。
うんうん。
というところで言うと、
じゃあその保育士さんが意識している子どもの視点に立つみたいなのって、
うんうん。
なんていうか具体的にどういうことというか、
どういう意識のものなのか、どういう行動のことなのかみたいなのってあったりするの?
だから一番はやっぱりその発達に合わせた、子どもの発達に合わせた、
コミュニケーションやりとりを出るかどうかってところが一番大きいのかなと。
発達ね。
で、子どもとのコミュニケーションで大事なことって結局はそこなのかなという気もしている。
その発達をどれだけ的確にその子の発達を捉えられているのか。
うーん。
で、やっぱり一番はその、それこそ言葉が通じるか通じないかって一番大きいポイントで。
それは大事だよね。
そう、我々ね、最初からこんな喋るわけじゃないじゃないですか。
やっぱり言語で獲得していって、初めてこういうふうに言葉で意味を通じあって、
お互いの考えていることを共有できてっていうところに行き着くまでに、
まだまだ保育園児は時間がかかる。
やっぱり5歳とか6歳くらいになってくるとそれなりに、
ボケブラリーはまだまだ少なくても、もう一丁前のことも言うし、
言うねー。
言うことも分かるし、ただまあその、なんていうのかな、
表面的なとこしか伝わらなかったりとか、こっちのシーンがなかなか伝わりにくいとか、
そういうのももちろんあると思うけど、
確かになんか、
言葉で。
あるよね、この5、6歳くらいのお子さんの話でよく聞くのは、
ゲームしてるときに、チャンネル登録よろしくお願いします、なんか言ってるみたいな。
ああいうよね、ああいうね。
意味はよく分かってないんだけど、
ゲームをしてるときに、チャンネル登録をお願いするっていうYouTuberの動作を見ているから、
なんとなく言っちゃうみたいな。
めちゃめちゃ現代的やな。
言葉とかもあったりするよね。
なんかその、やっぱ言葉が通じる、
対してはやっぱ丁寧にその子が分かるボケブラリーの中で伝わる言葉を選んで、
やり取りをしたりとか伝わるように話すみたいなのはもちろん大事だし、
でもそれこそ言葉をまだ獲得する前の段階の、
0歳から1歳、2歳くらいまでの間を、
子に対して同じように言葉で、
いや、なんとかちゃんこんなことしてはダメでしょ、みたいな言ったって、
伝えなきゃいけない内容ではあるけど、
その言葉としてはまだ意味が分からなかった。
確かにね。
だから、なんかそのバーバルなコミュニケーションだけじゃなくて、
ノンバーバルなコミュニケーションもふんだんに使いながら、
表情とか身振りとかで伝えようと思うと、
やっぱりテレとか、
消極的な動きとかじゃなく大きく動くとか、
なっていくっていうのって、やっぱりその辺にもつながってる。
なるほど、エビカニクスをはっきり踊れるってのはやっぱり、
その方が伝わるかなっていう。
そんな気もするよね。
なるほどね。
確かにそうか、言葉の上手さとかより、
見て分かりやすいかどうかの方が入ってくるっていう、
発達度合いの子にとっては絶対そっちの方が大事ってことね。
そうそうそうそう。
確かに、ある意味そのノンバーバルなことが言語なわけだもんね、
その子たちに。
そうそうそうそう。
で、これももうコミュニケーションはコミュニケーションじゃない?
もうその人と人と。
間違いなく。
代わりは全てコミュニケーションだと言っても、
カモン、カゴンじゃないと思うから、
なんかそれらを通してやっていくって。
やっぱりこの子ども、言葉がまだ通じない時期からこう、
継続してずっと関わっていくっていうのが、
この0、1、2歳児ぐらいの、
保育園ならではの育ちというか、
幼稚園ってさ、もう年少年中からだから、
もうそれらを獲得した後の話だから、
だから保育園ならではのコミュニケーションっていうところだと、
やっぱその辺の全言語機というか、
の関わりってすごいなって思う。
確かにね、言うて親も当然関わると思うけど、
親だってその兄弟何人かいたとしても、
多くたって3、4回ぐらい。
3、4人ぐらい。
3、4回ぐらいだと思う。
保育園、保育士さんを長く続けたら、
その時期こう、何度も何度も、
かつ何人も何人も関わり続けるっていう、
はずと密度は全然違うよね。
やっぱりね、お家帰ったらどうしてもさ、
ご飯食べて、しっかり寝なきゃいけないからって思うと、
保育士の重要な役割
保育園の方が起きてる時間が長かったりするじゃない、この時期。
確かにね。
その時期に関わるこの保育士、保育者の言葉掛けだったり、
それこそコミュニケーションそのものが、
その子の発達を促していく。
その子の育ちにとってすごく重要なんだっていうところを思うと、
この時期に関わるこの長く、
0歳、1歳、2歳と関わる保育士さんの知って、
すごいし、大事だし、
なんかそこに保育の妙みたいなものがあるような気がするし。
なるほどね。
なんか、前どこかの回でも聞いたけど、
じゃあ、0歳とか1歳の本当にちっちゃい子が泣いているって、
夜泣きするとか泣くっていうのって、
いろいろ対策はするけど、止められない時も当然あると。
泣くことが目的みたいな時に、
もう無理だからほっとこにしちゃうのは良くないよねっていう話とか、
これと近いというか、
泣き止まないんだから、もう無視しといて、
一緒じゃなくて、ちゃんとずっと、
様子を見て、抱っこして、言葉を掛けて、様子を見るっていうのは、
大事だっていうところなんだね。
そうね。
なんかね、いろいろ言われるけどね、
アメリカ式の念トレだとさ、
夜中に何分泣いてよが慣れてく、ほっとくみたいな、
自分で寝かすの。
そういうのもあるんだ。
そういう寝かせつけのトレーニングとかもあったり。
寝かせつけのトレーニングは念トレっていうの?
そう、念トレって寝かせつけのトレーニング。
寝るにトレーニングってこと?
そうそう。
音が変化して念トレになったんだと思うんだけど。
そう、だからそういうのも文化の違いとかいろいろあるんだろうけどね。
アメリカの方が早くから子を大事にするからね。
そうだね、そういうイメージはすごいあるわ。
文化的な違いか。
そうそう、人と人としてデータをすごくはっきりと分けるからさ、
そういったイメージは尊重してるのかもしれないけど。
そうだね。
保育園ではそれはやっぱできない。
寝てる分をほっといて何分もずっとこのまんまってのは虐待に値してしまう。
面白いね、なんかそれは、
保育というかそこら辺のなんかちょっと文化的な側面が結構出るとこだね。
なんか日本の子育てと世界の子育てと比べて、
やっぱ世界の子育ての方がこういうとこがいいとかこういう教育があるみたいな感じで、
幼児教育とか結構いろんなやり方とか、
流派みたいなものがたくさんあったり、
今はたくさんそういったものが輸入されて入ってくるけど、
なんか日本古来の子育てってそもそも何だったんだろうなみたいなのが、
最近興味あるよね。
もう、
研究テーマじゃないですか。
もともと日本ってどういう子育てしてたんだろうな。
たぶん稲作文化だから、
それこそね、そういった時期になったらみんなで繰り出してやるんだろうから。
でもたぶん保育園の始まりもそんな感じだったはずなんだよね。
新潟が一番最初に保育園を作ったとこだけど、
そういった田んぼでいろいろやっていく中で、
仕事してる親に代わって子供を見てるみたいなのが、
確か始まりだったような気がするんだよ。
確かになんかそこら辺に関しては絶対的な正解があるものではないもんね。
言い方だけどアメリカ式でも人は育ってるわけだし。
別に何が良い悪いでは全くないんだが。
でも日本的なオリジンはどこにあるんだいっていうのをすごく気にしてる。
ちょっと気になっちゃったっていう余談でしたが。
その時期の子供に丁寧に関わってあげられるっていうことが、
発達にとって大事だってことはもう間違いないから、
そこに保育士さんのすごさだったり専門性ってものがギュッと詰まってるっていう気がする。
文化の違いと子どもとの関わり方
言葉が通じない程の子供とのコミュニケーションっていう意味では、
すごく大事なポイントかもしれない。
難易度高いよね。
難易度高い。
でも難易度高いんだけど、ある種本能的にできるところでもあるような気がする。
特に本当に赤ちゃんも赤ちゃんの時って、
みんな対して赤ちゃんそれまで扱ったことなくても、
お母さんなんか特にやっぱ本能なのかわかんないけど、
自然と正しい抱っこの仕方でしっかり抱っこできたりとかさ、
赤ちゃんが泣いたらパッと目覚めてすぐおっぱいあげられたりとかさ、
でもそうだし、赤ちゃんがすぐ食うみたいな言った時に、
すごい高い子だよみたいな、絶対声上がるじゃんみんな。
誰に言われたわけでもないけど、
子供、赤ちゃんと対峙して、
あっ、みたいな感じの声の上がり方がする。
絶対下がらないじゃない。
確かにね。
すごい動物的な感じだなっていう気もするんだよね。
なるほどね。
そう、なんかこういう本能的にやれてることとか、
本能的にこう、なんとなく人間ができてることの中に、
なんかすごい、まだまだ科学で説明できてないとことかね、
展開できてないようなことの中に、
保育の質にかかるところっていっぱいあるような気がしてて。
なるほどね。
そう、なんか保育園看護師としては、
なんかそういった部分が、
看護はね、エビデンスをすごい重視するから、
掘り沙汰されてないような感じはあるんだけど、
このなんか本能の中に、
いろいろとヒントがあるんじゃないかっていう気がしている。
なるほど、面白い。
なんか、今その結構、
こういうことをするよとか、こういうことを気をつけてるよみたいなお話だと思うけど、
逆にこういうことはしない方がいいとか、
こういうことしちゃうと悪い影響になりうるかもとか、
そういうのってあったりするの?
でも、なんかある種、
とはいえ赤ちゃんとはいえ、
本能的に可愛がれるとはいえ、
人対人であることは間違いないから、
なんかそこに、ちゃんとリスペクトを持って関われるかどうかって、
割とその、保育者側の人間性だったりとか、
意識の違いみたいなものも出やすいかなっていう気はしていて、
なんかやっぱり、
ベテランで良い保育、質の良い保育を展開する先生であればあるほど、
子供を、何とか良い意味で子供扱いしないというか、
ちゃんと人と人とのやり取りになるっていう気がしてるんで、
いろいろね、パートで入ってくれてる非常勤の先生とかもたくさんいるんだけど、
ご自身の子育て経験とかでね、
子供も好きだし、すごい遊ぶのも上手だし、関わってくれるんだけど、
特に赤ちゃんって仲間ちゃんとして扱っちゃうんだよね、どうしたってね。
そう、なんかこう、あんまり良い例が出てこないけど、
赤ちゃんなんて、抱っこすればその場からすぐ動かすことができるじゃん。
大人の都合で簡単にパッと抱っこして、どっか連れてったりとか、
何も言わないでパッと抱っこして、
はいはい、おむつ買えるよ、ポンみたいな感じで、
やれちゃうし、子供も赤ちゃんも赤ちゃんで、
それに対して何かやめてくださいよなんて言わないから。
そうだね。
なんか当たり前のように流れていくんだけど、
いや、本当に良い保育をやろうと思ったら、
そこにちゃんと言葉かけであったりとか、
一工夫みたいなものが必要だよなとは思っていて、
これからおむつ買えるからちょっと抱っこするよって言葉かけを常にしていくことで、
子供はちゃんと自分、これからおむつ買えるんだっていうのがだんだん分かってくるだろうし、
ちょっと話変わっちゃうけど、今僕が年長時にね、
最近やってるその包括的な性教育、包括的性教育っていう頃から、
自分の体とか相手の体を大事にしようとか、
プライベートゾーンとかね、なんかそんな色んな話をしてる中で、
昨今色々そういった性に関わる犯罪もたくさん増えていて、
特に同意がなくそういった行為に及ぶとか、
色々なポイントがあるんだけど、
中でも同意を取ってるかどうかみたいなところってすごい大事なところで、何に対しても。
自分の体は自分のもので、相手の体はもちろん相手のもので、
自分の体のことは自分で決めていいんだっていうその感覚を、
ちゃんとこの幼少期から手でに誓ってあげることで、
それは自衛にもなるし、相手を大切にするっていうことにもつながるし、
最終的にはそれも性教育の土台的な感じにもなる。
なるほどね。
っていうのを健康教育を通じてちょっと今年はいろいろとやってみてるんだけど、
そこにもつながっていくんだよね。
その赤ちゃんの時からちゃんと抱っこするよとか、
その一声あるかないかだけで、
当たり前のように人に触られて、
自分を何というか、
必見なくこうコロコロコロコロやられるのと、
ちゃんと人として扱われて、
ちゃんと同意を取ってやっているかどうかっていうところで、
一番はやっぱり保育者側の認識が変わるし、
ちゃんとそういうふうに子供掛けをしていかれたお子さんはきっと、
人のこともそういうふうにちゃんと、
今からこれやるけどいい?とか、
そういったやりとりにも発展していくとか、
そういうちっちゃいちっちゃい日々の積み重ねが、
やっぱり最終的には大きなその子の育ちに影響があるだろうなって思うと、
親としての意識と関わり
そういうところを大切にできる保育士さんはやっぱすごいなって。
なるほどね。
人として扱いってそういうことね。
ある種やっちゃいけないことっていうのはそういうことなのかな。
赤ちゃんだからみたいな、
その当たり前のように自分のもののように扱ってしまうような、
大人の都合だけで動かしてしまうっていうのは、
決して良いことではないなというか。
難しいけどね。
難しいね、確かに。
習慣的にやっちゃうし。
そうだよね。
とはいえ忙しい時にはもうなんかお世話しなくちゃっていう、
勢強的にやらなきゃっていう時も当然あるから難しいけど。
感覚としてはあるんだけど、意識したいところだよな。
これから先もっとそういうことに意識してやっていきましょうねっていう時代がもうすぐそこに来てそうな気もするし。
なるほどね。
もう相手が子供だろうが赤ちゃんだろうが、
人であってリスペクトはお互いにするべきだっていう大前提はすごい大事になりそうだね。
なるほど。
面白い。
今その結構保育園従事者の方々みたいな話で言ったけど、
これ聞いてる方の親御さん、小さいお子さんをお育ての皆様もいらっしゃると思うんですけど、
なんか親御さんがちっちゃい子供、
大体の親って初めてちっちゃい子供に触る瞬間が出産だったりすることは多いわけじゃないですか。
そういう時にこう、なんかこういうことに気をつけるといいよ、こういうことをするといいよとか、
なんか一言伝えるならあったりします?
そうだな、自分も一、親としてこう仕事しながら家事、育児をする日々の中で、
やっぱりこう自分に余裕がないと全然子供に関わって、関わる余力がないなって思う。
なんかどうしたってさ、仕事から帰ってきてご飯の準備したりとか、お風呂入れたりとか、
いろいろこうリスクがバンバンバンバンある中で、
なんとなく僕はそれをこう、割とちゃんとやりたいタイプでさ、自分がね。
大体何時までこれやるとか、次これやるとかって、なんとなくこう頭の中でこう組み立てちゃうもんだから、
その途中でね、子供にね、これ読んでとか、
そぼって誘われると、ちょっとこれ終わるまで待っててって、なんかどうしても言っちゃうんだと思う。
でも一、保育者としては、この子供がやりたいって言った時に一緒にやってあげたいなとか、
子どもとの接し方
ここで関わってあげたいなっていうのも思いつつ、
でもまだ余裕があれば、ちょっと待ってねって優しく言えるんだけど、
あんま余裕ないと、ちょっと待ってって言ってんじゃんみたいな感じに、どうしても尊敬しちゃう。
そうだよね。
なんかこう、ほんと自分のご機嫌をちゃんと自分でとっとかないと、やっぱ子供にもいい影響はないよなって。
一番難しいことだよね、自分に余裕を持つ。
どれだけ自分自身に余裕を持てるかどうかって大事だなって思うし、
やっぱり家族には家族にしか成し得ないというか、その、
保育者と子供ではない、親と子供ってそこにしかない関係性だったり、スペシャルなものがあるから、
なんかそれはすごい大事にしてあげたいし、各家庭大事にしてもらいたいなとも思ってるんだけど、
あとはそのコミュニケーションっていった意味で言うと、
どうしたってその関わる時間をね、確保してあげられないことには、
なかなかコミュニケーションが来るとこまでいけないというか、
変な、嫌なコミュニケーションで終わっちゃうような場面も増えてきちゃったりとかするから、
なんとかして、自分に余裕を持つことと関わる時間を増やしてあげられる、
あげてあげたいっていうのが、特にこの人に依存せざるを得ない入院時期には大事だよなと思う。
なんかある意味ね、小学生とか、もうちょっとそれこそ5、6歳とかになってきたら、
なんか一人の時間みたいなのを大事にしてあげた方が今あるじゃない。
確かに確かに。
親が過干渉にねていくのではなく、その子の世界、その子の時間を、
逆に丁寧に意識的に作ってあげる場面があったっていいと思うんだけど、
子と0、1、2歳ぐらいで言うと、なんかもうじたともにもう、
ウェーイみたいなぐっちゃぐちゃな時期だから。
ほっといてどうにかこうっては時期じゃないもんね。
関わってあげたいな、関わってあげられる余裕をみんなにも持ってもらいたいなっていう気がするから。
確かに、これね、物心ついてない。どうせ覚えてないんだろうなって思わずに、
むしろその時こそちゃんと関わる時間っていうのをどれだけ増やしてあげられるかっていうのが。
そうなんだよ。結局ね、保育園で過ごしたこの毎日のやりとりなんて、
ほとんどの子供は大きくなったら1ミリも覚えてないんだけど、
確かに。けいたも保育、保育卒のはずなのに記憶があんまない。
うん、俺保育卒なんだけど何も覚えてない。
でもなんかその記憶に残らないぐらいその子のモテになっている保育が素敵だなって思うね。
確かにね。
印象的なやりとりとかがもちろんあって大事に思ってくれるのもすごい素敵なんだけど、
そこにすら残らない。でもなんか嫌な記憶としても残ってないし、
なんかその、当たり前にその子の成長の一つのきっかけになっていられるような保育を強く展開できたら素敵だな、個人的には思うんだよね。
関わりの重要性
なるほどね。
子供とのコミュニケーションか、難しいね。
なんか難しいけど、さっきチロが言ってた本能的な話でもあるって言ってたけどさ、
なんか難しく考えすぎちゃう部分があるんだろうね。
なんか俺とかみたいにさ、子供との関わりが少ないとさ、なんかちょっと構えちゃうというか。
そうだね。
意識してそこに向き合う感じになっちゃうから、ちょっと考えちゃいすぎるのかなって感じだね。
確かに確かに。でも、そのなんか冒頭で言ってたその子供とのコミュニケーションが苦手だったり、
そのうまく取らないタイプの大人の人たちって、
多分、はい、子供だけじゃなく、実は人とのコミュニケーションそんなに得意じゃなかったりとか。
まあまあまあ、なるほどね。
自分のなんというか、自分の役割、例えばね、すごい偉い人とかだったら、
偉い人っていうのがないとどこか変われないみたいな気が、どっかであるんじゃないかな。
なるほどね。
保育園で働いててね、すごい一個自分の中で、
まあある種これは保育者としてみんなが通る道なのかわかんないけど、
変なプライドみたいなものは、なんか本当になくなったような気がする。
ありのままの自分で、
向き合うというか。
その自分で普通に子供と喋っている瞬間があって、
なんかこんなにフラットに人と話すって、
で、ちょっと歳重ねてくるとこう、
肩書やらないやらね。
肩書だったりとかさ、なんか高校のなんとかとか、そういうことバスケ部のなんとかのとか、
なんかいろいろなんか変に自分で乗っけてたんだろうな。
自分でその役割演じちゃってたことあるんだろうなってぐらい、
純粋無垢なストレートな子供のコミュニケーションで、
こうなんか、心地よい場面がある、なんとなくね。
確かにね、子供にそんな肩書とか関係ないもんな。
こういう人だから大事にしなきゃとかないもんね、子供に。
そうそうそうそう。
だからこそ傷つく時もあれば、でも、
すごい良いコミュニケーション取れるなって時もあるし。
人と人だってところで対峙したら意外とみんなできるんじゃないかなって気もするけどね。
そういう苦手なタイプの人でも。
子供とのコミュニケーション、そうだね。
結局人なんだよねって話なんだね。
そうですね。
というわけで、今回は子供とのコミュニケーションということで、
ザック・バランに話をさせていただきました。
今後もこういった保育園に関する情報だったり、保健だったり看護だったり、
そういった情報を発信していけたらいいなと思っています。
概要欄などにGoogleフォームのURLを書いているので、
感想だったり質問だったり、ぜひ送ってください。
スタンドFMからお聞きの皆さん、おレター機能があるので、レターもお待ちしております。
ということで、今回もご静聴ありがとうございました。
ありがとうございました。