はい、よろしくお願いします。
はい、というわけで、見るというその地面が連想するもの、どうですか?何がありますか?
まあ、一番イメージつくのはやっぱりあの見学の兼というか、その見る。
はいはいはい。
目で見るとかがやっぱパッと気はするかなという感じがしますね。
なるほど。しそさんはいかがですか?
いや、まあ同じというか、特に文脈もなんか見るって置いてあったら、その見るを考えるだろうなっていう気はするかな。
なるほど。じゃあもうちょっと連想、発想を飛ばして、なんかこう考えてみてもらってもいいですか?見る。
見るというか。
まあ、いろんな見るがあるよね。観察の観だったり。
観護の観とかもつけて見るって言ったりするよね。
そうですよね。
なんかお二方の仕事で意識的に見るみたいな瞬間ってなんかあったりします?
意識的に見る、まあ難しいけど、なんか収支するとかチェックするって意味だったら、そういう見るはあるかもしれないね。
なんかコンテンツの間違いがあるかどうかとかさ、個人のチェックとかもそうだし。
あーなるほど。
そういうことは見るの一つかなと思う。
見るか。あんまり意識して何かを見る。動画を見る時間とかも多いかな。
なるほど。
受動的に見てる感覚。
どっちかって言うと視覚的な、その見学の権利を代表するような見るが、
なんとなくイメージするし、日常生活というか仕事の中ではやっぱりその見るを使っている場面が一番多いっていう感じかな。
多いね。
なんか、例えばだけど様子見といてみたいなのを見るってあんまりイメージの中には出てこないかもね。
無意識的に使って。
あの子のこと見といてとかさ。
面倒を見るの見る。
面倒を見るって感じ。
うんうんうんうん。なるほど。
実はね、今回この見るっていう字をね、テーマにしようと思ったには理由があって、
看護の世界だとよく、やっぱり一番大切なのは何かって言われたら観察することだっていう風な理論というか、
そんなようなことがあって、
なんかこう看護という仕事を突き詰めていくと、じゃあ結局その中心、後半の部分は何かというと、
もう最初から最後まで全部観察になると、
先代はいうわけですよ。
観察に始まり観察に終わると。
で、これって看護ももちろんそうなんだけど、僕保育もそうなんじゃないかなって最近ちょっと思ってて。
ほう。
こう、やっぱ業務の中心は観察することだよなって最近ちょっと思っていて。
うんうんうん。
で、その観察の観ってさ、ただ見るよりももうちょっとこういろいろ考えながら見るようなイメージがあるじゃないですか。
そうだね。
で、その中に僕自身は保育館護士として、さっきどちらかが言ったみたいな観護の観っていうのを手で、
手で見るって書いて観護の観っていう字になってるように。
そうか。
あれ手で見るの?
そうそうそう。
そう手で、手と目で見るんだけど。
あー。
言われてみれば。
そうそうそう。
そのなんか、この例えばAちゃんっていうお子さんをどう見ていくのか、発達はどうかっていう視点で見るのももちろんそうだし、
このやりとりはじゃあどうなのかとか、今何して遊んでるのかとか、表面的に見るももちろん大事だし、
もっと深掘って、じゃあその何というかその行為に至ったその彼女の思いは何だったのかっていうそのもっと内面まで見ていくとか、
最終的にその子だけじゃなくてその周りの人との関わりだったり、
さらにはその子の住む、保護者との関係性だったり家庭だったりっていうところまでこう見るっていうところで、
ある意味、看護もそうなんだけど、こう対象者とその者との関係性とかっていうところまで含めると、
保育の方が見るべき範囲が広いなっていうふうにちょっと最近気づいた。
看護と比べてっていうこと?
そうそう。
看護だと基本的には疾患を持った患者さんをどう見ていくのか、
その患者さんの家族とかその子の生活とかそういったところで、
その人への深さっていうところでは広いんだけど、
保育の方が横とのつながりみたいな意味で広く見なきゃいけない、
観察するポイントがたくさんあるっていう意味では、
看護的な深さだけじゃなく、もうちょっと横の広がりもイメージ的には感じるというか、
そういう見るがあるなってちょっと思って。
広さ。
それこそ経過観察しましょうっていう言葉があるじゃないですか。
お医者さんがちょっと経過見ていきましょうみたいな。
おそらくこの経過を見ていきましょうっていう時に見るっていうのは、
経過を観察していきましょうっていうのと同じ意味だと思うんだけど、
さっきどっちかが言ったように、様子を見ましょうっていうのも、
ある種経過観察しましょうとほぼ同義だとは思いつつ、
でも様子を見ましょうって漢字で書こうと思った時に、
どれだろうなってちょっと思っちゃって。
なんか一瞬見学の権を当てるかなと思ったけど、
とはいえ確かに様子を見る時に本当に目でちゃんと見てるかって言われたら、
そうそうそうそう。
そんなこともないよね。
でも様子見っていう言葉があるくらいだから、
なんか見学の権なのかな。
でもな、もうちょっと深い意味合いで様子を見ましょうとか言うな、
なんか様子を見ましょうって結構、保育の現場でも使うのよ。
応募者の方とかに、今日ちょっと鼻水結構出てたので、
ちょっと様子を見ていきましょうねとか、様子を見ていきますねとか、
日常的に使うんだけど、すごい過疑的だなというか、
その見るってちょっといろいろだって思ったっていうところから、
見るということをテーマにちょっと深もっていこうって思ったっていうのが、
今日のテーマです。
いわゆるユーザーヒアリングとかユーザーインタビューは、
そういうのの観察する方法としてやってるっていうことだよね。
なるほどね。
ファクトベースと、たまに聞くけど、それのことですか。
若干、たぶん本の文脈と話は違うけど、
でも、ファクトを見るっていう行動を見るっていうところに関してはそうだね。
同意っていうか。
なるほどなるほど。
ある種でもその心情というか、
なんていうの、どうしてそこにいたったかっていうよりは、
なぜそれをしたかをもっと具体的なところで知りたいみたいな感じなんですか。
そうそうそうそう。
そうだね、まあ、言葉は嘘つくかもしれないけど、
行動は嘘をつかむというか、
何かしらの意図を持ってそれをした。
なんか使いづらいから、
なんで赤のボタンを押したんですかとか言われてもわからないじゃん。
けど、赤のボタンを押したみたいなこととかもそうだし、
っていうところかな。
なるほどね。
面白い。
っていう観察は確かにあるね。
っていうのがたぶん僕やヒトさんが働いてる領域においては、
事実を拾う作業っていうのが一番定義の近いかもしれない。
そんなことな。
すごい面白いな。
なんか保育、特に我々が普段関わってる乳幼児のお子さんって、
それこそ言葉をまだうまく操れないというか、
言語を獲得していく途中にある子どもたちなので、
行動、もちろんそのやったことというか、
例えばA君がB君を引っ掻きましたっていうこと自体はファクトとしてあるわけじゃないですか。
ただそこに至った定義というか、
なぜA君はB君を引っ掻いたのかっていうところを観察したい、
みたいに見ていたいというか、見ているべきというか。
だからなんかその、その点、その引っ掻いたっていう場面だけではなく、
そこに至るまでの経過も含めてずっと観察を続けている必要があるから、
なんかそうだね、今2人が言ったそのファクトってどっちかっていうと、
僕点のイメージがなんとなくあるんだけど、
事実としてこうだったっていう場面、場面というか点で見るというよりは、
なんかやっぱもうちょっと広く最初見ていて、
広く浅く見ているところから、
A君が使っていたおもちゃをB君が勝手に取っていって、
A君がそれがおそらく意外に思ったところから、
こううまくまだ言葉が出ないから、
これが出たっていうその事実のとこまで持っていくための観察が、
まず時系列的に広くちょっとあって、
今言ったような経過をセスメントし、
じゃあどう関わるべきだったかっていう反省に至りみたいな感じ?
まあすごい平たく言うと、
普段している観察ってそんなようなことだと思うんだけど、
なんとなくやっぱりこう、見てるポイントが違うんだね。
一般的なというか、
仕事、医療的に必要な仕事で見る観察っていうのと、
医療とか福祉業界で見る観察っていう視点と。
時系列の話とか広さの話で言うと、
確かに一人の人を、
インターネットのサービスって普通に何百人何千人何万人と何十万人使うわけだから、
一人の行動をその前にどこを見ていて、
どんな行動をして、その結果ここにたどり着いたみたいなのは、
一人一人は多分あんま覚えないけど、
それは多分もっと薄くやっているのが、
どっちかっていうとウェブでの観察なんだろうな。
さっきの僕が出した例はどっちかっていうと、
一人のユーザーを理解するためのだったんだけど、
もっと別の話をすればじゃあ、
ウェブサイトってクリック率が何%とか、
どのサイトのページを何秒ぐらい見ていたとか、
データが取れたりするので、
ここのボタンがここにあるとクリック率が何%だけど、
この色をこれに変えたらこのクリック率が上がった下がったみたいな、
そういう確かにちょっと点っぽいかもしれないけど、
を何ていうかすごい大量のデータを元に観察していくみたいなのも結構ありそうだね。
なるほど。
すごい大量のデータというか、数値がそういうふうに数値としてデータが取れるからこそ、
それを統計的に理解してというか利用してっていうところはすごくあると思う。
確かに数値で話をしたがるっていうのはあると思う。
多分コンティニュアの実験という概念が存在すると思っていて、
実験ってデータを取ってどう変わっていったかを見る行為なわけじゃないですか、基本的には。
それに近い概念だな気がするね。
なるほど。
でもビジネスにおいて、ビジネスとかそれはもう経済的にそうなのかな、経済学とか、
そういったものの基本的な考え方が量的な統計データをどう活用してみたいな話がベースにあるんだ。
そんな気がするね。
社会医学の基礎中の基礎みたいなところなんだろうけど。
なるほどな。
すごいがてんがいくんだけど、やっぱりこの保育業界って今さ、
そういったビジネスがなかなか発展して、これまでは来なかった。
やっと最近いろいろ出てくるようになってきたけどっていうところで、
特に保育士さんとか看護師もそうかもしれないけど、
数値で考えるのはちょっとやや苦手な傾向にどうしてもあるなっていうのは現場感で思うんだけど、
どっちかって言ったら量的なっていうよりは質的なデータの取り方をしてるというか、
やっぱ向き合う対象が人であり、その子であるっていうところが出発点だからか余計に。
なんかこう、ほらビジネスにおいてもさ、
目の前の人にどう売るかとか、目の前の人に買ってもらうにはどうするかみたいな視点もあるじゃない。
あるね。
そういうのがもともと思いとしてあって結果的にビジネスとして成功していくみたいなが、
一ストーリーとしてあるような気がするんだけど、
なんかそこの根本的な考え方というか、その見方がやっぱりお二人が見てる世界観と、
僕が最初に見ていた世界観とで、
同じものを見てるんだけどなんとなく理由度が違うというか、
っていうところがビジネスとして展開していく上での難しさの要因の一つなのかなと、
今のデリカ店が言ったんですけど。
そうだね。
たぶんやっぱ、根底の思想として、
僕とかはやっぱりその、僕というか一般的な仕事というか会社で何かをやるという行為、
全般そうかもだけど、
ある程度仕組みで誰がやっても同じようにできるようにしようねっていう思想があるので、
そういう意味でやっぱ数字で話す、事実で話す、根拠で話すみたいなところってやっぱ、
誰にとっても1たす1は2であるようにみたいなところを、
をベースに話そうねっていう思想は確かに、
何ていうか、発展するにおいては必要だよね。
そうだね。
なんか今の話を聞いててちょっと思ったのは、
子の観察というか、子の文脈が必要だよねっていう話をチロが今してたけど、
それって新規事業を作るときの一番最初のきっかけとか、
誰か1人の気づきみたいなところから始まるみたいなケースが多いんだけどさ、
これを見るときの、その気づくときの気づき方って、
たぶんチロが言ってるような見るを無意識的にでもやってるんだろうなと思っていて、
このビジネスの文脈だとインサイトって言い方とかをしたりするんだけど、
洞察、なんか気づいたこと。
なんかそういうのの発見って、なんだろうな、
すごい大量にそれがいるかどうかを調べるっていうよりは、
目の前の人1人の行動から何かに気がつくみたいな話であって、
で、それはそういう前後の文脈とかいろいろある中で、
ある1人の人がそこに気づきますみたいな状態がたぶん新規事業の最初にはあるんだけど、
インサイトを得るための最初の見方っていうのは、
いわゆるそういうデータがどうとかっていうよりはむしろそういうふうに、
この流れをなんとなくでもその人の中に持ってるからこそ、
そこに気がつけるみたいなところがあるから、
そのITとか我々の業界とかもそうだけど、
最初のきっかけの部分、本当に一番最初の方、
っていうインサイトとか洞察的な部分っていうのが、
なんかそういう見方をしている気はしていて、
で、その後拡大していきましょうとか、
ある程度人数が増えて、
共通のコミュニケーションルールが必要になってくるときに、
やっぱ数字的なところを見ていくみたいなイメージが今聞いてる。
なるほどね。
確かに。
そう。
確かにね。
なんかその種類として違うものではなく、
どのフェーズでやっているのかだけが、
実続きではあるんだろうなっていう感じはするかもね。
そうだね、なんか全然違う話をしてるわけじゃないもんね。
同じ、同じところにいるはずだもんね、だってね。
そう、なんかそれで言うとやっぱり、
医学、医療、医者、反対に言うと医者の仕事って、
でもどっちかというと、ビジネス的な要素もたくさんあるじゃないですか。
うまく回ってるじゃない、そこで経済が。
やっぱ医学、医者のところまでいくと、やっぱその数値とかデータとか、
要は診断の基準がどうっていうのを正しく決められているから、
その診断の基準に合わせて、
じゃあこの人はこの病気、この人はこの病気って診断するのが基本的には医者の仕事じゃないですか。
プラスそこで処方されたお薬がどうとか、
薬剤さんの仕事があったりとか、
薬も結局ね、科学でどのデータをどう集めてどうやって、
みたいな新薬の開発とかも含めてある中で、
やっぱり看護が最後遅れて、
専門性を確立していったのと同じく、
保育も似てるなと思うんだけど、
どうしてもこうなんというか、
そういう定量化しにくいというか、
一般化しづらい、その人の経験が、
さっきね、川尻も言ってたけど、
できるだけ一般化して、
誰でもできる状態にするという話があったじゃない。
これは看護も保育も本来同じだと思う。