まずですね、この本、いろいろ概要これから紹介していくんですけど。
まず、特にこの本を通じて僕のインサイトというか気づきみたいなところからちょっと共有したくて。
ぜひぜひ。
子供に正しいことっていうのを教えるっていうのは、
その子の可能性を狭めて苦しむ種を植える行為だよねっていう。
道徳的な正しさを教えるっていうのは、
可能性を狭める行為と表裏一体だよねっていうことが言えるんじゃないかなっていうのはこの本を読んでちょっと思いました。
へー面白い。
なんかさすが川尻氏。
そっかそっか、あの本からそういうインサイトを得るんだね、すごいね。
もちろん中身知ってるからちょっとわかるかもしれないけどね。
で、これ、この本の中の描写で悪魔のセリフの中でね、
どんなセリフがあるかっていうと、
貴様ら人間を苦しめているのは正しい推しを広めている者たちの方だ。
親だ。教師だ。指導者だ。
今日もその正しさが人間を苦しめているのだから。っていうセリフがあるんですよ。
だから実は苦しみの源泉は正しさを知ってるからなんじゃないかっていうメッセージがあるんじゃないかなっていうのがこの本の中にあるし、
しかも保育士さんってこのまさに正しい推しを広めてる側の人じゃないですか。
そうだね。
それは別に悪いことじゃない。やるべきことは必要だからやっている。
だけどそこにあるそのリスクというか、
潜在的な何かみたいなものに自覚的な方がより意識的にできるんじゃないかなと思って、
そういう気づきをもとに話をしているという感じです。
非常に納得感がありますね。
赤足さんはね、特にそういった先生たちからの正しさをすべてはめ込んでる。
そういうわけではないけどね。
正しさって怖いよなと思うよ、俺も。
だって保育員が寝かしつけられることを断固拒否してきた幼少期なわけでしょ。
それカワジさんね。
それ僕です。
私、幼稚園なんで。
そっかそっか、そういうのなかったんだよ。
オイソツランで僕は。
で、本の話に戻るんだけど、
さっきも言った通り、この本、著者の佐藤光郎さんという方が、
急遽出てきた悪魔を対話する形式で進むんですけど、
この悪魔は自分のことを一人称よ、だったりとか、
あ、よ。
かっこよべだったりとか、
それに対して佐藤光郎さんが、
いや、かっかって呼べるのは一人しか呼べなくて、みたいな。
霊夢のやつ。
結構コミカルなやりとりが多いんですよね。
だから結構読みやすい。
読みやすいんだけど、結構問いの中心は哲学的で、
人間はなんで苦しむのか、みたいなところに結構中心を置いていると。
なるほど。
結構哲学的なやりとりをコミカルに読むって意味合いですごくいい本だなと思ったの。
そのなんで苦しむのかっていうところの、
一つの答えがやっぱ正しさなんじゃないか。
正しさが原因なんじゃないかっていうメッセージ性があると思ってますと。
で、じゃあなんでなのっていうところを大きく3つぐらい主張がありそうだなっていうので、
解説していこうと思うんだけれども、
1個目はね、苦しさっていうのは正しさの副作用だよねみたいな話が載ってたんですよ。
なるほど。
これちょっと本の内容を引用しちゃうんだけど、
悪魔の方が例え話として、
万引きした少年が罪悪感に苦しむのはなぜかっていう話をしてて、
実際ここから引用を読み上げちゃうんだけど、
彼が万引きをしたという罪悪感に苦しむのは、万引きは悪いことだ。
誰かが彼に教え込んだせいだ。
苦しみが生まれるのは正しい教えのせいだ。
猫は店先に並ぶお魚を奪って食べるが、そのことに罪悪感は覚えない。
これは万引きは悪いことだと猫に先に教えたものがいないからだ。
だから苦しいっていうのは、悪い行動そのものから苦しさを覚える、罪悪感を覚えるんじゃなくて、
インストールされた正しさっていうものが根本にあるから苦しさを覚えるよね。
っていう主張をしてるんですよ。
はいはいはい。
だから人間が苦しくなるのは正しさを知ってるからだっていう主張をしてるんですね。
うんうんうん。
これなんか結構すごいというか、言われりゃそうだけど、
罪悪感の厳選に正しさを置くっていうのはちょっと面白いなと思う。
へー。
だから行動それ自体そのものより与えられた道徳感とか価値観みたいなものの方が苦しさの厳選にある。
めちゃくちゃ納得感しかないというか、そうだよなってめっちゃ思うんだけど。
これ気づけないと悪い行動したら即悪いみたいな短絡的になっちゃう。
思考回路も生まれかねないじゃん。
苦しむ思考回路だね。
それまさに。
そうそうそうそう。
とか今のは万引きはわかりやすいけど、もうちょっとこう、実はこれも正しさのせいだよっていう苦しみが、
ダイエットをするのは痩せている体型が正しいと思ってるんだよね。
そうだね。
早起きが苦しいのは遅刻してはいけないという正しさを抱えているからとか、
法に触れない範囲だとしても僕らって正しさによって動かされている。
それは苦しさとも紐づいているみたいなものがあるよね。
確かに。
今日キサ君のこの納得感えぐいな。
悪魔かお前。
いや、非常に俺が書いたのかなって思うぐらい。
そうだよね。
今のところは思えてないんだけど。
悪魔側の。
いや、なんか苦しんでる人多いよなっていう感覚と、
でもまあ、なんかそれはそれとして置いておくみたいな。
なんか分かった上でその規範を無視するというか、何ていうの、
相対化するみたいなことができるとあんま苦しくないなと思うけど、
なんか気づかずにそれにとられている人っていうのは結構いそうだから、
なんかそういう人に向けてめちゃくちゃ確かにいい本なんだろうなっていう。
見てて感じた。
今の僕の事例がまさに次の主張につながると思ってて、
正しさっていうのが人間の可能性を奪うっていうのが主張なんですよ。
正義感が強い人ほど苦しむっていうのがあるよねっていうのが本にあって。
確かにな。
これまた本の中の描写を見よっしゃるんだけど、
悪魔が言っていたのが、
皮肉な話だが正義感が強いほど苦しむことになる。
抱えすぎたその正しさは道を歩くことさえ許さないだろう。
要するに蟻を踏んではいけないみたいな正しさを持ってたら、
道を歩くのが怖いとか、
環境に悪いことをしてはいけないとか思ってたら、
車に乗るのもエアコンをつけるのもちょっと苦しくなるみたいな。
こうやって正しさを持てば持つほどやってはいけないことが増えちゃうよね。
っていうのがその主張の2つ目なんですね。
なるほど。
まさに炎上もその一例。
炎上したらどうしようでできなくなっちゃうみたいなことが、
世の中には多くなってきている。
だから、正しさが増えすぎると、
やりたいことがどんどんできなくなっていく。
これを悪魔なんで、悪いことを増やしたい人なので、悪魔って。
だから正しさが減れば減るほど、
できることが増えるんじゃないかって悪魔は言い始めるんですよ。
正しさを狭めると可能性が広がっていくんだから。
なるほど。
だからやっぱ悪魔って基礎さんなんですよ。
可能性だけはあるやつみたいな。
やっぱあってた。
あってた。
冒頭のあれの。
そうだね、なんか気づかずに自分の可能性を狭めてる人が多いよなっていうのは、
非常に感じるというか、
そう思うんだみたいなことは多いから、
確かにそれは悪魔の感覚の方がマインド近いかもしれないね。
なるほどね。
今のところ。
正しさに囚われて動けない人ってさ、
結構ちらほら見ない?
いや、見る。
見る?見る?
見るし、
なんかどちらかというとさ、
何でもかんでもそこに結びつけるのもどうかって自分でも思うけど、
やっぱりなんか育ってきた教育システム的に、
正しさっていうもののなんていうの、
存在感というか、もう正しさっていう前提があって、
いろいろなものが動くというか、
教えられてきてるから、
いい人、いい人というか真面目にやってきた人ほどそこにはまりそうな気がするというか。
いわゆる優等生タイプの方が、
それこそ社会に出てからそういうことに一個一個傷つきやすい栄光みたいなのは何となくあるような気がするよな。
なんか正しさっていうものが一種の規範だとするなら、
誰かが作った規範と照らし合わせて、
自分の人生を考える人っていうのは苦しむんだろうなっていう感覚はある。
あるな、なんかそれ、エンジニーも実はあるような気がしててさ。
面白い。
なんかそれこそ正義感が強いタイプと、
全然正義感とかどこ行っちゃったの?ぐらいのタイプがいるのよね。
やっぱりこのなんかちょっとジャイアン気質の方が、
やっぱ伸び伸びと子供らしい印象を受けるんだよね、何となく見てて。
なるほどね。
全然悪いこともするし、
不意しても不意してもまたへえみたいな感じでやっちゃう。
でもなんかちょっとそれが可愛くもあり、
なんか変な話ちょっと愛されてるような感じもするのよ。
手がかかるようなタイプのお子さん。
そうだね。
確かに正義感の強いタイプのお子さんってどっちかっていうとため込みやすい感じがあって、
それこそこれはしちゃいけないんだっていうのを自分だけじゃなくて、
やっぱ友達とか周りの子に対してもそれは違うんだよってやっぱどうしても言っちゃうんだよ。
なるほどね。
なんかやっぱそこでうるせえみたいな感じでトラブルにもなるし、
周りの子がやってるのに俺はそれやっちゃいけないってわかってるかっていう我慢がなんかちょっと苦しそうだったりとか。
我慢ね。
なんかそれがそう極端になってくるとやっぱり、
なんだろう、生きにくそうだなと、生きづらさみたいなところになんとなくつながってるような感じがあって、
それがなかなか4、5歳、5、6歳の子でもちょっとあるなーっていうのは見ていて思ってて。
なんかさ、段階があると思って、
その一番僕今の中でマシだと思うのは、
自分はこうすべきだみたいな、すべきことを定義するはまだいいと思ってるのね。
じゃなくて、してはいけないの定義が強くなればなるほど。
つらくなるというか。
そうだね、確かに。
それを自分で持ってるのが良くて、
その種類を人類みたいなレベルとか、
みんなとかまで拡張しちゃう人ほど、
他人と自己を同一視しちゃうみたいな。
確かにね。
なって他人がやってる自分にとって許せないことも許せなくなっちゃうみたいなのが、
生きづらそうだなっていう。
確かに。
あれだよね、裏返しというかさ、
自分は我慢してるのに、
なんであの人はやってるんだっていう感覚になるんだろうね。
確かに。
なんかするべきでないことを自分はしないようにしているのに、
なんであの人はやるんだっていう感覚。
結構でもその感覚、考え方、
割とみんな持ってるようになってきますね。
そうだね、あるある。
俺もめっちゃあるもん。
自覚があるから偉い。
許せないと思ってる。
許せない。
確かにね。
なんだけど、この本でもう一個主張、最後。
僕ここが一番面白いなと思ったのが、
最終じゃあどうしろっていうと、
という感じで、ここまでの本のメイン主張を改めてさらっと整理すると、
そもそも人が苦しむっていうのは、
正しさがあるからこそそれを起源として、
そこが原因として苦しみを生んじゃう。
正しさが苦しみを生んじゃってるよねっていうお話と、
正しいっていうことは人間の可能性を奪っちゃってるよねっていうお話と、
だからこそ全ての正しさを疑うような悪になったほうがいいよねっていうお話が、
この本の僕なりの3つのまとめ方みたいになるのです。
これ、保育士の人が読むのはすごくいいかもなって思ったのかな。
やっぱり最初の方にケイトも言ってたけど、
正しさっていうのが一定求められる業界ではあるからさ、
その正しさっていうことに、
正しさの怖さみたいなものに自覚的かどうかっていうだけでも結構違うよねっていう。
そうだね。
しかも正しさの中でも、
それこそ例えば薬剤師が薬を評価するみたいなタイミングで、
そういう正しさとはちょっとまた違うじゃないですか。
そうだね。
社会的観とか倫理とか、
そういう感じの気がするね。
本当に人の関わりの中の正しさって、
時代によってもずっと違うし、
人によってもちょっとずつ悲しいことが違ったりして、
そこに確かに苦しみを覚えるっていうのはあるあるだと思うから、
職員会議とかで読めばいいよね。
臨時会議する?みんなで。
いいかもね。
いいと思うよ。
改めて冒頭僕が言ったことをもう一回言うと、
子どもに正しさを教えれば教えるほど、
その子の可能性が狭まって、将来苦しむ種を植えちゃってるよねっていう。
話は今のメイン主張3つみたいなところで、
ある程度揃ってるかなと思いつつも、
でも保育士の仕事って正しさを伝える仕事でもある。
そうなんだもんね。
伝えるなってわけにはいかないよね。
難しいよね。
チェロ先生がもう何百回って言ったと思うけど、
お友達を伝えちゃダメだよとか、
食べ物で遊ばないでねとか、
自然しろねとか。
そうだね。
これはさ、やるなではないじゃん。
社会で、我々が社会的生き物である以上、
最低限のルールを教えるっていうのは、
必要な行為だし、
保育園の保育というものも、
それが期待されてるわけじゃないですか。
そうだね。
一個面白いなというか、難しいなというか、
思うところとしては、
うちの法人は特に保育の中でも、
もともと法人の発祥が、
自閉症の方との関わりっていうところが、
スタートの法人だから、
ひらたくと発達障害のようなお子さん、
たくさんいらっしゃるんだけど、
そうなってくると、
結局自閉症のどこに、
自閉症と言われる有縁があるのかっていうところで言うと、
やっぱり人とのコミュニケーションだったり、
社会性みたいなところが、
育ちにくいみたいなところが、
どうしたってあるのね。
疾患の特徴として。
その社会性みたいなところを、
多分他の保育園さん、
一般的な保育園さんよりは、
すごく暗殺してるというか、
見ている職員が長く働いてる方が、
多いような気がしていて、
なる意味、
社会的にそれは良くないと言われるようなことを、
それは社会がそう言ってるからという認識を持っている先生が
多いんだろうなっていう、
僕なりの思い、気持ちというか、
そうなんだろうなって考えがあって、
その考えは、
他の保育園の保育士さんも、
みんな持っていていいなとは、
最近ずっと思っていたちょうど。
そこにちょっと繋がるかなと思った。
正しさが繋がるっていうところが。
まさにそこがここから話したい話で。
すごい、今日いいパス出してる。
この台本知ってんのかなってくらい、
今いいパスをくれたんだけど。
この正しさっていうものを、
ここから僕が解いたいのは、
その正しさが本当に子どものためかっていうのを、
解いた方がいいんじゃないかっていう話をしたかったんですよ、まさに。
これ本の中にあったんだけど、
著者の三郎さんが言ってたのにもちょっと異名するんだけど、
親になってわかったと。
子どもは早く寝なさいというルールは、
親という権力者が子どもを早く寝かせて、
自分の自由な時間が欲しいからだと。
間違いない。
それは間違いない。正しい。
これ聞いてる方で子育てしてる方いたら、
やっぱ多分そうだった部分はあると思うんですよね。
間違いないね。
もちろん早く寝た方が成長にいいからみたいなのあるかもしれないけど、
ぶっちゃけ親の時間欲しいじゃんみたいな。
ちょっとないと困っちゃうからね。
だから、子どものためって言いながら伝えてる正しさが、
実は大人が管理しやすくするためだと、
そうなんだよ。
そこほんとそうで。
だからね、
これはもうほんと各縁の考えだったり理念だったり、
やり方によってまちまちだから何とも言えないんだけど、
うちの縁は少なくとも、
別に教育的なところをすごく力入れてやってますという場所じゃないから、
いわゆるお集まりみたいな、
ちょっと集まってなんかやるみたいなことを別に良しとしてないのよ。
いいと思ってないというか、
みんながそのまま座って話を聞けるということを、
別に評価の対象としてないというか。
もちろん必要なスキルだし、
結局小学校行ったらやらなきゃいけないから、
一定できなきゃいけないとは思いつつも、
そこに重きを置いていないよね。
でも、さっき売れてる保育園というか、
みんなすごいのにきちっと座ってやるの。
そこに気持ち悪さを感じてしまうのよね、どうしても。
座らせることに疑念がないというか、
当たり前だと思ってやってる職員が少なからず育つだろうなとも思っちゃうんだよね。
そこにちゃんと理念が乗っていて、
ちゃんとノウハウがあって、
確立されたメソッドのもとをやってるのであれば、
それをちゃんと職員がみんな体現してるなら全然いいんだけど、
たぶん新卒で入って、こうやってやるんだよって言われて、
じゃあこうやってやるんだ、子供はこういうとき座るもんなんだってなっちゃったら、
そこから進まねえだろうな、その感覚っていう危うさをずっと感じるんだよね。
分かる。
やっぱり当たり前だと思ってる常識みたいなものをちゃんと疑うっていうのもすごく大事な作業で、
結果的に教育みたいのが大事だって腹落ちしてやるならいいんだけど、
当たり前を疑う過程を経ない、それってやっぱ恐ろしいじゃないですか。
恐ろしいですね。
そうなのよ。
実際さ、保育園のピフッと座らせるもそうだし、
食事中座って食べようねとかもさ、
座って食べちゃダメなんだっけ?
じゃあ立ち食いすればダメってこと?
そうそうそうそう。
立食パーティーって何よって。
寝ようねとかも、俺みたいに寝ない子がいたらダメなの?とか。
そうそうそう。
こういうのをいちいち、やっぱ、もちろん社会実装上は必要。
やろうねってしつけは必要。
だけど、何の疑いもなくなるんじゃなくて、
それをやることでどういいのかって問い続けようねっていうのが、この本の一番重要な主張かなと。
大事だなぁ。
答えが出ないことって苦しいよね。
そう。
で、なんか先週のラジオの時にも言った、ネガティブケイパビリティの話かなと思っているんだけど、
問い続けるって結構しんどいよね。
修行的な。
着地したいって気持ちになるじゃん、やっぱ。
安定を求めたいよね。
そうそうそう。
だから安易にそういうところに、全部を本当に疑い続けていたら、
たぶん脳のリソースいくらあっても足りないとは思うんだけどさ、
そういう心がけっていうか、マインドの持ち方みたいのはあっていいような気がするよね、もうちょっと。
そうだね。
保育園ぐらいの時代、幼少期から、
そういう当たり前を自分なりに考えるみたいなことは、
習慣としてあったらいいなーってちょっと聞いてて思ったな、やっぱり。
その当たり前に先生に言われたから座るのではなく、
そこに対してちゃんと選択肢がある状況、環境。
確かにね。
座りたくなかったら座らなくていいよ。
でもそこはこうやって、今こういう話をする場面だから、
僕としては聞いてほしいと思ってるよ、みたいなことをこの間、
本当についこの間健康教育でやったのよね。
前段として、これから毎月やっていくけど、2つルール決めようって。
参加は自由だけど、できれば聞いてほしいから、
本当は座ってほしいと思ってるよ。
でも本当に嫌だったら別に座らなくてもいいよってことを言って。
なんかその余白をどれだけ上手に子供に残せるかみたいなところって、
結構保育士のとかこういう我々みたいな職種の、
そこまで考えられてるかどうかみたいな奥行きにつながるなって、
今聞いててすごい思って。
やっぱ新人さんとか学生さんとか、
習ってるうちはまだそういうふうにやるものぐらいの認識でいると思うけど。
最初的にやることは同じだとしても、そこに対する深みが、
深度が変わればなんかこう、もっとやっぱ深くわかっていくのかな。
改めてちょっとここでもずっと話してきちゃったんだけど、
改めて何でこの本、保育園従事者の方が読むといいかってのを最後にちょっと話していこうかなと思います。
今まで話したところとかなり寄る部分であるんだけど、
大きく3つあるなと思っていて、
1個目は正しさを教える側だからこそ読もうねっていうのがまずあります。
これまでも話してきた部分であるんですけど、
正しい教えを教えてる側だからこそ、
正しさが持つリスクをちゃんと知っておくべきだと。
社会で生きていくために最低限必要な正しさみたいなものと、
大人の都合で押し付けてる正しさっていうのがあるんだよっていうのを意識的になってほしい。
意識した上で大人の都合で押し付けてるならまだいいの。
これは子供のためだと思ってるのに、本当は大人の都合みたいなのが一番怖い。
自覚なきそれは怖いな。
だからこそ、そこに自覚しようねっていう視点を持つためにまず読んでほしい。
し、2つ目の理由として、とはいえ、
保育士の皆さん、保育園充実者の皆さんも正しさに苦しんでる側面もあるよね。
産女労働って言葉を何度もこのラジオで出してるけどさ、
やっぱりいい保育士さんは笑顔でいるべきとか、子供には平等に接するべきだとか、
保護者対応は丁寧にすべきだとか、
子供のためなんだから家で遊具を作る時間を作るべきだよねみたいな。
これによって苦しんでるみたいなものがあるんじゃないか。
悪魔のまた発言を本文から引用するんだけど、
正しさについて疑っている期間は苦しみが消え続ける。
なぜなら苦しんでいるものっていうのは例外なく正しさを前提に抱えているからだ。
そして疑っている期間はその正しさが揺らぐ。
だからこそ正しさの副作用でない苦しみっていうのは疑っていれば必ず消えるんだ。
だからこんなに正しいと思っていることを疑ってみることで、
自分が苦しんでいるものがちょっと和らぐかもしれない。
保育士さん自身も正しさに苦しめられてないかっていうのはちょっと疑ってみてほしい。
非常に大事だね。
最後3つ目が、子供に対して手のかかる子とかを悪い子っていうラベルを張っちゃうっていうのの前に立ち止まれるようになろうねっていう話があって。
素晴らしいね。
言うこと聞かない子とかちょっと協調性がない子って囚われちゃうものを困った子とか悪い子って思っちゃうかもしれないんだけど、
それは悪いんじゃなくて大人が設定した正しさに当てはまらないだけだよね。
でもいっぱいそういうラベルを張られてきた身からするとさ、
あなた多分で張れなかったんだよ。
それは本当そうだね。
いつそうなったのかわかんないけど、
そのラベルを張られていることで苦しむ人っていうのもいるだろうし、
ただ自分とかはそういう大人がそういうラベルを張ったことに対して何も思わなかったから、
健康に生きてこられたんだろうなと思うし。
人から張られたラベルに苦しむ人っていうのはやっぱいるよね、絶対。
いるいる。
張られていても、自分は自分であり続けることができたみたいな。
そうだね、たぶん。
そこに何か左右されるものはなかった。
だからある人、自分より上の大人とか、
いわばちょっと権威があるというか、自分よりありそうな人たちが何かを言ったところで、
その人の理解としてはそうなのかもねっていうマインドは。
面白いよね、赤康の幼少期からあるその感覚。
これさ、アプローチは全然きそくんと違うんだけど、僕もわかるっていうのがあって。
何かっていうと、僕はいろんな人からレッテルを張られるんだけど、
そのレッテルが張る人によって違いすぎるっていう事象を感じたんですよ。
なるほどね。
とある人からしたら真面目じゃない不良だし、
とある人からしたら勉強ができる真面目君だし、
とある人からしたらいい子だし、とある人からしたら性格が悪いだしみたいな。
その人が見た解釈によって相対的に決まるっていう、
自分がなさすぎるせいでその人の鏡にしかならないみたいな感覚があるから、
自分っていうよりその人が見たい自分を見てるんだなっていう感覚を持ったがゆえに、
こいつの解釈だなって思えたっていう。
なるほど。
すごい面白いね。
あるっていうよりは、自分がなさすぎて周りの解釈でレッテルが変わりすぎた結果、
自分っていうよりその人にどう見えてるかなんだなって思えた。
すごいな、二人とも面白いな。
異なるアプローチで似たような道にたどり着いてる。
実像と虚像と誰か。
懐かしいな、その用語。
面白いな。
きそくんは多分誰からもある程度こういう評価を受けちゃうみたいなのがあるし、
自分もこうみたいなのがあるから気にしなかったけど、
俺は結構本当に人によってこういう人だよねが変わる。
辞任としては自分がないな。
自分がないっていうか、相手にとっていいコミュニケーションを取りたいっていう感覚値だからやってるだけで、
環境における最適化みたいなものを追い求めてるだけだから。
前も言ってたよな。
環境の生き物だから。
すごいね、もうね。
プロだな、それは。
考える足そのものやな。
自覚とか意味わかんないから。
なるほどね。
二十歳超えるまで物心ついてなかった。
22歳で物心ついたから。
そうだよね。
面白いわ。
で、なるとレッテルっていうものは他人がつけてるものなんだっていう感覚が逆アプローチで辿り着いた。
なるほどね、確かに。
ラベルって貼る方からすると、分かったような気になれるから楽だし気持ちいいんだけどさ。
そうだね。
解釈も揃えられるからね。
この人はこういう人だっていう角度で見ることを決められるから、
それこそ疑い続けると逆のアプローチだよね。
こういうとこもあるんじゃないかって思って人に対し続けるってめちゃくちゃ多分大変でしんどいと思うんだけど、
この人はこういう人だわっていう形を作ると、
自分にとって脳の負荷の、リソースの負荷がちょっと減るっていうか。
この人は俺をこういう人だと思いたいんだろうなって思ってるんだろうなって思って動いてる。
ゲスタルトが。
ゲスタルトが。
俺の中の思ってるゲスタルトが崩壊してくれる。
俺の中の空想なんだけどね、もちろん。
感覚だからさ。
そうだね。
すごい分析したくなるね、面白いね。
そうね、でも確かにそのレベル入る前に立ち止まれるようにっていうのは非常に。
そういう子育士さんにとってはすごく大事なことだね。
なるほど、深いわ。