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  2. #49 「努力」について現役保育..
2025-03-19 45:24

#49 「努力」について現役保育園看護師が本気で考えてみた【ビデオポッドキャスト】

現役保育園看護師のチロ先生と高校の同級生たちによる保育の情報ラジオ「ホイクベースラジオ」。

今回は「努力」というものについてチロ先生を中心に三人で議論を交わしました。

また、今回は特別編としてビデオ形式でのお届けとなっております。


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▼ラジオの感想、質問などは以下フォームよりお送りください。

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BGM : MusMus

サマリー

このエピソードでは、現役の保育園看護師が保育における「努力」の概念を掘り下げています。特に、自由な環境で子供たちがどのように努力を形成するか、保育者としてのアプローチの重要性が強調されます。保育園看護師が「努力」の重要性について考察し、成功体験やチャレンジの精神が子どもの成長に与える影響が強調されます。また、努力を続けるためには成功体験だけでなく、小さな失敗経験の価値も語られます。 現役保育園看護師が「努力」について考え、向き不向きや時間の使い方の重要性が強調されます。さらに、メンターやフィードバックの必要性、および自己認識が成長に与える影響も語られます。保育園看護師が考える中で、個人の成長やその方法が重要視されます。幼少期からの自己肯定感の確立や教育環境のあり方が強調され、社会に出てからの役割についても触れられます。 このエピソードでは、保育士が努力というテーマについて深く考察し、子供たちの成長における多様性の重要性や努力の意味について語ります。特に、努力が自己認識や成長にどのように関わっているのかを探求します。

努力の概念を考える
こんにちは、保育園看護師の千尋先生こと佐藤です。
新規事業の力で日本を開国せんとす行動会社黒船の基礎です。
同じく黒船の川尻です。
僕たちは高校の同級生3人で、保育業界向けの新規事業を作ろうと日々頑張っております。
このラジオでは、現役の保育園看護師である僕、千尋先生と、保育未経験の高校の同級生を2人で、
一緒にいろんなテーマを語りながら、結局は保育や保育園看護の面白さにつなげていきたいなと思います。
これが着地のラジオでございます。
今回はちょっとビデオポッドキャスト風にやってみようということで、
あの、いつも基礎さんが新規事業の力で日本を開国せんとすって言ってる時に、
千尋さんがこうやってるっていうのを、初めて皆さんにお届けできました。
これね、今までの40数回全部やってます。
せんとすっていうワードが出てきた時からずっとやってます。
誰も気づかないことをようやく皆さんにお伝えできる、今日のテーマです。
ありがとうございます。
お願いします。というわけで、今日のテーマは?
努力の強制と個性
はい、今日のテーマを持ってきまして、
実は僕今、黒船をと言っておきながら、普通に会社で働いてるんですが、
その会社で働いてる社長がですね、とあるポストをXでしておりまして、
Xね。
Twitter、ツイートではなくて、
ポストで?
ツイートXで?
Xでポストをしてたんですよ。
なるほど。
なんでもいいんだよな。
どんなポスト?
ちょっと長めなんで要約するんですが、
よく努力できない人はサボっているわけじゃなくて、
様々な理由で努力できないんだから、
無理に努力させるのとか良くないよね、みたいな論があるじゃないですか。
特に最近だと、ブラック企業とかユトリアル労働じゃない、
ホワイト企業みたいな、あんまり働かせすぎないみたいなのがある。
そうだね、風潮がね。
一方で、一定強制されないと努力できないっていう層もいるじゃないですか。
間違いない。
今なおさらオンラインで働けるとかになっちゃうと、
もう一日寝ててもバレへんしみたいな。
そうだよね。
寝れへん。
本当は頑張れば努力できるとか、強制されれば努力できるっていう人たちも、
強制が実はできないから、
リモートだとね。
努力できなくなっちゃうみたいなのがあるなと思っていて。
っていうのが面白いなと思ったんですけど、
これって、どの段階からこういう個性って出るんだろうというか。
強制されないと。
そうそうそうそう。
それこそ自由保育なのか、習い事を強制させるべきなみたいな話って、
多分千朗先生とも何度かしたり。
そうだね。
それはなんていうか、親の方針とかって指針によるよねっていうのがありつつ、
千朗先生が見てて、この子は努力強制させた方がよかったなとか、
とはいえ自由にのびのびやらせた方がいいよなとか、
特に子供の場がどうなんだろうって気になったので。
確かにね。
何歳くらいからってもありそうだよね。
そうそうそうそう。
なるほどね。
努力ね。
努力を強制するっていうの言い方はちょっと難しいけど、
場を設定しないとやらない。
そうそうそうそう。
強制っていう言葉強いけど、
仕組み化してやるようにさせるっていうのが、
仕組みの構成の一種だからね。
それで言うと、その努力をしてやろうとしていることが、
このポストの場合は要は学校だったり会社だったり、
要は仕事だったり勉学だったり、
ある程度やらないと先に進まないようなことじゃないですか。
基本的に僕が普段デイをするというか、見ている子供たちは、
0歳か6歳の乳幼児なので、
絶対的にこれをせねばならぬみたいなものっていうのは、
変な話、本来ないじゃないですか。
そうだね、仕事と義務はない。
努力として絶対にしなくちゃいけないなんてことはないはずで、
ただ、強いて言うならば、
そのまあ、小学に向けて、小学校に上がった時に、
それなりに集団生活が遅れて、
授業が聞けるだけの、
基礎力みたいなものをつけた状態で上げてね、
みたいなのがなんとなく、
いろんな指針によって固められている今、
求められているところでもあると思うんですけど、
それを努力させて、
努力で培うものなのか、
自然と培った結果、
努力できる体制を作る、
っていうところなのかで言うと、
保育園で今僕が関わっている、
その乳幼児期の子供たちは、
努力するためのベースを作る期間だと思うので、
努力させること、
強制的に努力をするということが、
求められているわけではないのに、
そんなことを求めてやっている保育者さんたちは、
大変というか、どうなんだろうな、
というのも思うし、
ただ、個性という意味で言うと、
確かにそういう環境に置かれれば、
やれますってタイプの子もいれば、
保育者の役割と挑戦
逆にそういう、
努力しなきゃいけないぞ、
みたいな場面、シチュエーションが苦手です、
むしろ一人の方が黙々とできます、
みたいなタイプももちろんいるだろうし、
個性そのものは生まれ持ったものとして、
やっぱり最初からあるのかな、
という気はする。
たしかにでも、
子供を特に保育園で預かる年代の子たちは、
義務はないっていうのはその通りだよね。
むしろそれを義務化して何かにやらせません、
みたいな保育って、
ある種の不適切保育にもつながりかねないし、
もう心次第だよね。
それをどう考えるかっていうのは、
保育者それぞれの考えもあるだろうし、
僕個人としてはそれがとても良いもの、
っていうふうには思わないので、
ただ、いろんな遊びを通じて、
やっぱり子供たちが発達していく。
その遊びっていうものを、
強制ではなくても、
ある程度の狙いが、
保育者側からの狙いがあって、
そこでこういう集団の作用が生み出されて、
こういうところに課題があるけど、
そこは保育者がバックアップしながら、
最終的にこういう形を作っていきたいな、
みたいなもの、ある種の流れみたいな、
そういうのを計画だけでやってると思うんですけど、
それが努力する場、
練習という意味ではそうだろうから、
そこでやっぱり座ってられないとか、
やりとりがうまくいかなくて、
そこから離れちゃうとか、
その中で黙々とやるタイプの子はやる、
みたいなところで言うと、
それぞれのお子さんに対して、
じゃあどういうアプローチを取って、
どう支援でいくか、
っていうのが、
お子さんの個別の計画にもなったりとか。
なるほどね。
結果的にはみんな、
じゃあその目標を達成できますよ、
になれば一番良いのかなと思うんですけど。
そうだね。
だからその保育園の子供においての、
努力の幕踏み、
確かにそれ以前のレベルの話だよね、
っていうところがまずありつつ、
じゃあ努力の仕組み化の話で、
保育園に転用できるとしたら、
保育園で働いてる人っていうのは、
どうなってるかっていうのが、
いいね。
保育士さんとか、
看護師もそうだけど。
よく言われることは、
保育もそうですし看護師もそうだと思うんですけど、
業界的にはやりがい作種じゃないか、
給料が低い。
みんな看護が好きで、
人のことを助けたくて、
子供が好きで選びましたっていう方の方が、
大半だと思う。
もともとはあこがれてて、
実際やって働いてみて下金で、
給料もそんなに高くなくて、
やっぱりやっていられなくて、
バンナーとして辞めちゃいます。
みたいなのもたくさんあると思うと、
そういった頑張ってる人に
努力しなさいっていうのは、
国じゃないですか。
そうだよね。
ちょっと話しとくけど、
努力ってさ、なんだろうね。
そこも好きでやってたら、
それが端から見たら努力に見えるとかもあるし、
やりたくないことをやるのが努力なのか。
ある意味、
監査のために必要な書類があります。
これは絶対ないといけないです。
それはだからある種、
努力が強制される場面。
ある種強制される場面。
それで書類を書けるようにならなきゃいけない。
整理をできるようにならなきゃいけないっていうのは。
自分がしたくてするわけじゃないもんね。
それに対して、
ためずにコツコツやるタイプと、
ちょっとドバッと時間を使ってやるタイプの仕事は、
ある程度違いはそれぞれあるけど、
デッドラインはあるから、
そこまでに仕上げ切りっていう意味では、
絶対やるんだけど。
そこは、
同じね、
仕事の書類を書く時間として、
じゃあ1人30分あげます。
毎日あげますってやっていても、
できるタイプの人、できないタイプの人がいるっていうのは、
もうしょうがないのかなと。
そこを30分で絶対やりなさいにするんだったら、
記録を書くための、
最低限の努力でできるような、
フォーマトだったり、やり方だったり、
っていうノウハウが全部シェアされていたして、
独人的じゃなくできる。
誰でも、
そのグループの保育に入った人は、
誰でも同じように書ける。
みたいな状態になっていればいいんだろうけど。
言い方はあれだけど、
考えなくてもある程度できるように、
言い方として書いているのが決まっていれば、
何をしていいかわからなくなっちゃうと、
時間がかかるじゃん。
こういう仕事の努力とか、
勉学の努力って、
難しいな。
急にぼやっとしたけど。
強制的に言われないとできませんっていうタイプがいたりとか、
何も言わなくても黙々とできるタイプの子がいたとしても、
仮に感覚で言えば、
デッドラインまでの記録が仕上がっても別にいいわけじゃない。
それこそ個人個人に計画を立てるような感じで、
ある種管理者側の先生が、
職員に対しても、
この人はマイペースだから。
毎日ちょっとずつでも時間を上げておいて、
やってもらおうって思うのか、
あの人は本当にお尻叩かないとできないタイプだから、
ちょっと時間余裕を持ちつくのを、
皆さんによって葉っぱ掛けにいくタイミングを作らなきゃな。
っていうところまでマネジメントできてる縁って、
もしあるなら、それは素敵かな。
たぶんこの話、ポイントが2個あって、
マネジメント側の思想。
千代先生が言ったように、
努力できる人とできない人がいるんだから、
できなかったとしても、
努力と成功体験
仕組みで解決しようねとか、
マニュアルで解決しようねっていう、
マネジメントする側の思想もあると、
そういう見えない差みたいなものが、
働く側にとって生まれちゃうよね。
っていう課題定義だと、
俺は解釈していて、
仕事を終えるという一点においては、
マネジメントの方が問題だと。
誰でもできるようにしなさい。
組織である以上大事なので、
大事なんだけど、
その中で、努力できる人は、
こうやって5分で終わらせて、
25分で何か別のことができるぞ。
でもそれに気づけないと、
30分全部使って、それだけで終わっちゃう。
このステップで埋まらないのかな?
っていう課題感だと思う。
埋まらないのかな?は、
埋まらなそうだな、正直な話。
さっきの努力ってなんだ?
みたいな話をしたけど、
それができる人って、
成功体験を持っている人な気がする。
努力ができる人って。
努力したことで、
ちゃんと結果が出たことがある。
成功体験をやることによって、
脳内の導火網じゃないけど、
報酬がね、何か得られるっていう
回路ができてるからできる。
みたいなことがあるかなとは思っていて、
そうじゃない人って逆に
成功体験とか回路があんまりしないから、
うだうだするみたいな。
チャレンジする心
そういうことはやっぱ子どもにも
成功体験を早めに積ませるって
一個ある?
ある意味、積み木を積み上げまして、
あ、できたよ。
できた。
その子積み玉ね。
そういうことで褒められないから。
フィードバックが。
そこで人との関わりがね、
やっていったりとか、
もっとこういうことをチャレンジして、
要はチャレンジする心みたいなものは
やっぱり乳児期育つと思う。
乳児期の関わりとか保育が
あんまり適切でなかったら、
チャレンジしようという気持ちにはならない。
そこになかなか行きにくいというか、
チャレンジしにくいというか。
チャレンジできるって、
自分を表現できること自体が、
そもそも自分をちゃんと分かって、
恥ずかしいとか、
かっこ悪いとかっていうのを乗り越えて、
やれるわけじゃないですか。
多分言い方で言うと、
子供ってさ、やっぱ自分のやりたいことに正直だから、
大人になるにつれてそれでできない。
そうそう。
その中で必要なのは成功体験以上に、
失敗しても大丈夫だったみたいな経験のほうが、
もしかしたら努力する、
努力を継続するとかっていう意味で言うと、
必要かもしれない。
大人になってからさ、
大きい怪我とか、
それこそスノボに行って、
失敗してこんでおりましたとかあると、
そこからスノボやろうと、
なかなか思わないじゃないですか。
確かに牡蠣に当たると、牡蠣食べたくなくなる。
でも子供のうちのスモールステップの中で、
ちっちゃい失敗を繰り返して、
でもフェータルのものではなくて。
失敗しても大丈夫。
失敗から学べるんだっていうことを、
どれだけ積み重ねていけるかによって、
大人の努力の質
これは言い方を変えば、
こういう感じの解釈になるんじゃないですか。
セーフティーネットみたいな。
確かにね。成功体験と同じくらい、
そっちも大事だしね。
確かに。
その話でちょっと思い出したのが、
起業家が大きく分けると、
2種類いるのではないかみたいな話があって、
1つは、
ある程度実家とかが裕福で、
実家が太いと言われる。
失敗しても大丈夫なわけじゃない。
まあまあまあ。
否定はしないけど。
実家が太いと。
失敗しても大丈夫。
チャレンジしても大丈夫っていう前提がある人。
そうじゃなくて、逆で、
成功しないといけない。
ハングリー精神。
そのどっちかが成功しやすい。
イメージしやすい。
両方のモデルの人が見たことがある。
たぶん実家太いは、
挑戦何回失敗しても大丈夫だろう。
みたいなメンタリティがあるから。
少なくとも食ってはいける。
食えなくなることはない。
そのセンシティネットを持ってる人。
逆にハングリー精神の人は、
これはやらなきゃいけないから、
そこにフルコミットして、
自慢法になってやる。
それにも近いかな。
確かに。
それもコツコツできる。
でもコツコツできる。
けいさんがさっき話してたことに戻すと、
コツコツできるかの差を生み出るかって、
めっちゃむずいなと思ってて。
要するにみんなが中継の宿題を
ちゃんとピッタリ終わらせられるか。
俺もそれはむずいなと思ってて。
ちょっと例えを
そうしてしまったんだけど、
むずかしくて、
個人的には夏休みの宿題を
どう終わらせられるかではなくて、
時間を何にどう振り分けるかっていう
発想が生まれるのが
大きいかなと思うんで。
サイルマネジメント。
一応そうなんだけど、
30分の仕事を5分で終わらせて、
25分別のことっていうのを、
例えば仕事のスキルを
上げましょうに使ってもいい。
逆に別の趣味を始めたって
当然いいわけじゃないですか。
手札を増やす方向に増やす。
でもそれはすごい。
自分でしかできない。
みたいなことをやってる人ってやっぱり
結果的に本業も伸びるっていうか。
そうだね。
それこそケータみたいに
本業の仕事をやりながら
こういうことが変わっていく
みたいな時間配分を取れる人と
そもそもその発想がない人。
そうそうそうそう。
自分はこの仕事の中でうまくやっていくんだ
みたいな視野の人って。
そうそうそうそう。
なるほどね。
時間配分の問題ってめちゃくちゃ
視点があるかないかは1個めっちゃあるなと思うんだけど
当然ね。
でもその30分の仕事を
5分で終わらせられるやつがいるのと
5分で終わらせられない人がいるっていうのは
明確にある気がしてて
みんなが5分で終えられて
25分も使えるわけじゃない。
そこの差がまずあるような気がする。
でなんかそれって多分さ
いわゆる容量がいいか悪いか
みたいな話に近いと思ってて
その容量がいい人って
今言ったように5分で終わらせて25分別のこと
自分の好きなこととかに
使える人みたいな。
容量が悪い人っていうのが
それを30分すぐに使って
でもできないケータになるし
みたいなところで
そこの話に近いなと思って
その差はじゃあ埋めれるのかっていうと
発想がじゃあ
これを5分で終わらせて別のことやろう
みたいな発想があったとして
それを達成できるのか
っていうところに
めっちゃ差がありそうな気がする
難しいな
本当になんか容量を
容量の良さね
本質的なことこれ終わらせればオッケー
っていうことに対して
多分賢い人とか容量のいい人っていうのは
そこピンポイントでチャートやって
残りの時間とかスキンとか
でも一生懸命やってるけど
みたいな
それは多々にしてあるよね
一生懸命、要は努力不足なのではなく
その人の努力100%で
やってるんだけど
その容量の良い人からすると
いつまでそんなことで時間かけてるんだろう
みたいな仕事の向き合い方というか
記録とか特に
確かにね
記録書くの早いタイプの人と
すごい時間がかかるタイプの人と
やっぱいるし
その辺は
子の記録に関してはほぼ
文章力と経験と
あとはパソコンの
タイピングの技術と
何をパソコン化するかというか
何をアウトプットすればいいかみたいな
そういうことを考えながら保育をしてると
要はその子の記録を書くために
グループ
例えば10人ぐらい子供見てて
その子の連絡書を書くとするじゃん
だいたい連絡書を書けるエピソードなんて
1エピソードぐらいしかないんだから
Aちゃんは砂場で何とかして遊びました
Bちゃんは何とかして遊んでた
みたいなのを見て覚えておいて
こういう風に書こうって
仕事しながら組み立てて
じゃあ記録の時間ですってなった時に
ドバッと書けるタイプの人は
確かに保育においては
容量が良いし
記録が書くのが早いタイプの人
でもそうじゃなく
その場面では子供に
すごい集中して関わって
素敵な保育をされていて
ふーってなってから
Aちゃんはこういう風にやってたな
こういう思いだったのかもしれないな
A先生この時のAちゃんってどうだったと思いますか
みたいな会話の中で
自分の頭が整理されて
じゃあAちゃんはこういう風に思ってたんだ
じゃあ私の関わりってこれで合ってたんだ
こういうやり取りを繰り返して
初めて素敵な文章が1個仕上がる
でも
組み立てながら書く人に比べたら
すごい時間がかかる
でも保育において今のこのやり取り
僕が提示したようなやり取りって
本来すごい本質的で
大事だとは思う
一瞬一見記録を書くという意味では
無駄に覚えるんだけど
情報をまとめるとか
でもその人の保育がちゃんと
共有されて
できれば主任とかリーダーとかからの
フィードバックがあり
そのAちゃんという人間に対して
じゃあどういうアプローチを取っていくか
どういう支援が必要かっていうところまで
ちゃんと話せる
話す時間が現場であんまり
上手に取れないから
それこそ記録が溜まって
いろいろ大変で
上手いこといかなくて
っていう保育園も多いと思うと
今ちょっと話がずれちゃいましたけど
そんなずれてないと思っていて
個人的にその
努力の話を同じ延長線上の
高に置いてしまったのは
ちょっと悪かったなと思っていて
この間
全然別の社外の人と
話してる時に
その人自称めっちゃインド派だって
言ってて
なんだけどすぐ
外で友達ができるんですよ
ちょっと行ってるコワーキングスペースの
オーナーとこの間仲良くなって
飲み行ったりとか
その人のさらにつてで
努力の向き先と時間の使い方
民家再生プロジェクトみたいなのに参加してた
みたいので
めっちゃアウトドアじゃないですかみたいな
アウトドアだね
よくさ強みを活かそう
あなたがインド派なんだったら
インド派でできることをやる方が
強みを活かしてるじゃないかって思うんだけど
めっちゃその苦手って言ってる割に
アウトドアなことを挑戦してるじゃないですか
努力というか
好きなことって気づいたらやっちゃうもんだから
そこには努力しない
逆に自分が
苦手なことに時間を使って
努力しようとするんだっていう話をしてて
その努力の取れ方は面白いな
だからその
努力の向き先を変えるっていうのも
一個当然あるんだなと思って
そのさっきの
千尋先生の記録の例であれば
記録が苦手な人はもう記録を
いかにやらないかに注力するみたいな
努力の向け方がいいよね
記録を上手くなる努力ではなくて
自分が5分で書くようになるんじゃなくて
早く書ける先生に10分で
話して要約してもらう方が早いよな
その代わりその人にめちゃくちゃ
話せばいいわけで
みたいなそういう
隅分けを上手く使うってのもあるし
さっきの時間の使い方とは
言いたかったのがそっちが近くて
適切な
向き不向きとかあるので
それに時間を振り分けようよ
っていうのが
生まれるといいなというのはすごくあるね
それするにあたっては絶対やっぱり
メタ認知的な能力が必要だよね
フィードバックと成長
自分が
客観的にっていうか
何が得意で何が悪いのか
ちゃんと分かってない
その配分って基本できない
一般的な就活とかで
なんとか診断とかさ
それこそストレングスファインダー
保育業界でやってる人
見たことない
生まれる就活だとか
そういうの受けて
診断で
保育士って出たから
なろうとならないもんね
適性があって
保育士としてすごいね
優しくて人当たりがよくて
っていう方
でも
延々に続けられるかと言われたら
そうでもなかったりするだろうし
他の業種の
お仕事と比べて
やっぱ女性がほとんど
9割女性だったりとか
属性に偏りがある分
そういう
診断とかしたらみんな同じような人に
なっちゃう可能性もあるんだろうな
ってちょっと思う
たしかに多様な人間が
入ってきやすい環境にするっていうのは
一個
分担がしやすくていい
適材適所でね
お互いの強みを生かして
っていう意味でいうと
そういう環境のほうがやりやすい
みんなが同じことをやらなきゃいけない
同じことを同じレベルでできるようにならなきゃいけない
っていうのがあると
努力の方向性が
一方向になっちゃうけど
そうそう
保育とか看護とかでその辺が難しい
やらなきゃいけないことは基本一緒だから
同質的なものではある
その中でちゃんと
キャリアパスがあってラバーが
看護師としてのレベル感が
これぐらいだとか
いう風に看護はちゃんと進化をしていったから
ある程度その
同じ看護師でもレベルの違いで
層があって
看護っていう尺度の中での評価体系が
基準があるからね
保育はまだそれがしっかりとしたものではないから
余計にもちもちしてますけど
自分が何が得意で
何に時間をかかるべきか
みたいな発想がないが
イコールちょっと容量悪いというか
別に
公一中になれっていう話でもない
そうだね
でも確かに容量悪い人
例えばさ学校時代の話でいえば
ノートめっちゃ取るけど点数低いみたいな人が
中学ちゃんと聞いてるのに
超真面目に綺麗なノートがあるけど
実際点数があんまり
みたいなのが
ノート作り
趣味
それを
それで
点数だけどんだけ綺麗に取ったら
点数が伸びないぞ
って思って
考えてみようって慣れる人だったら
多分時間の配分を変えれる
けどそれが
分かんない人ってそこをやり続ける
もっと綺麗に取らなきゃ
それが多分努力の向き先を変える
ってことなのかなって気がするけど
そうなるとやっぱ自分じゃない
外からの
フィードバックだったり
スーパーバイスだったりが必要なんじゃない
大人も子供も一緒なんじゃない
できるとしたらどうなんだ
努力の向き先
それがさっきのマネジメント論
要はその人のマネージャー
だったり
メンターみたいな人が
それをどうするかっていう課題そのものなんじゃない
一方でそれ
本来のマネージャーとか
組織におけるマネージメントって
個人の育成って本来は対象外
だと思っていて
そのもう一個手前に組織として
アウトプットを出す前提があるので
すげえ極論
そのマネージメントされる
プレイヤーが成長しようが
しまいがどうでもよくて
組織的に
っていうのが本来の
マネージメントの
第一義だと思うんだよね
それのための
個人の成長が必要だよっていう順序だと思う
マネージメントは組織のための
方法を持って個人の成長の
方法を持って
個人がそれをやりたいんだったら
自分でメンターになってくださいみたいな
アプローチは結局多分個人発信でないと
本来は筋が通らない
業務外ではあるよ
そうそうそうそう
それをな
そういう人ができるかと言われると
ちょっと厳しいな
民間ですらなかなかね
最近はようやくメンターとか
コーチングみたいな話がちょっと出てはいるけど
シリコンバレーじゃないと
難しいみたいなそんな話ですか
保育園とかでそれを実現するとは
なんかでも看護師って
絶対その何年
自分に近しい
年代の人が
プレセプターみたいな感じで
自己認識と職場の環境
ついて最初いろいろ教えてくれたり
とか
業務一緒に回って
お手本先輩な
おそらく
でやっていく中で一人前になるまで
そうやって面取っていくみたいな制度があるんだけど
保育ってやっぱ
はいじゃあ現場今日から担任です
ほぼそこから
子供見るみたいになっているから
病院とはやっぱ
規模感も違うだろうし
基本はOJTでやらざるを得ない
中でのOJTが
難しい
育成というかマネジメントというか
非常にこう
ほっとかれてる感があるな
っていうのは旗から見ていて
自分は看護師として
一人職だからそんなにいなかったけど
確かに
なんかすごい思うのは
なんか昔どっかでも
なんか言われてた言説な気がするんだけどさ
あの
都定制度
っていうのはすごく実はいいシステムだった
っていう話があって
ヨーロッパの方のギルド方式とかね
師匠がいて弟子がいて
あれってなんかそういう育成を引き受ける代わりに
この人の得意なジャンルで
師匠を見つけて
面倒を見るみたいな関係性ができるわけだ
なんかそれって
取りこぼしがないというか
絶対に面倒を見てくれる
師匠がいるっていうことの安心感って
そのマネジメントとはまた違う
精神的師匠とか
社会とかでもいいと思うんだけど
なんかそういう
メンターではないけど都定制度みたいな
仕組みとかは
実は現代求められている必要は
ないんじゃないかな
さっきほら組織的には
本来その人がどうなるのか
それ以上の利益が上がれば良いみたいなのが
大筋だとしても
やっぱ立ち返って
その人と人との関わりみたいな
ところが結局は大事なんじゃないか
って時代に戻ってきてるような気もする
多分いろんなさ
会社辞める理由とかってさ
孤独感とか分かってくれないみたいな
結局人との関わりでさ
難がありまして
相談できないとかもそうだし
そういうのってなんかその
都定制度みたいな仕組みがある
自分には絶対この人がついてるみたいな
ものがあると精神的な
安定感が結構変わるかなと思ってて
なんかこういう保育とか看護みたいに
ある種技術職的な
要素もあるような
本職は
大いにそうだろうな
そこで悶々としていては結局認知も最初に
いかなくて
スーパーワイドがあって初めて認知できて
そこから初めて成長があってって思うと
そういうのを丁寧にやれる
仕組みを作れてる演出さんの方が
やっぱり定着力のあるし
それを会社のマネージャーに
負わせるタスクとするというよりは
そういう都定制度に近い
メンタリングできる師匠というか
みたいな存在を一人に
最低でも一人付けられる仕組みになったら
なんかこの
努力運営の話も
それってこうなんじゃないみたいな感じ
努力できないっていう風に自分でも見てて
そういう風に見られてる人でも
そういう人がいることで
実は努力の方向性が違っただけで
それを正してあげたら
グッと伸びるかもしれない
認知を変えなきゃいけないっていうのは
自分でやるのめっちゃむずいじゃん
ほぼ無理に近い
本とか読んだりとか
それが変わるみたいな体験があるから
よく自分が好きなこと
得意なことを集中しちゃってるけど
正直分かんないもん
いろいろやってると
何が俺の得意なんだみたいな話になるよね
どっちかというと具体度の
高いものに集中しちゃうというか
主観だと
資料が作れますとか
それこそ記録書くの早いです
っていうのも
主観としてはそう思ってても
実はもう一個上から見ると
言語化が得意なんだよ
観察力がすごいんだよ
ほうが本当は根源にある
そっちのほうが汎用性が高い
これが得意だからこういうこともできそう
展開できるから
っていうのは確かに他社の視点が気づきにくい
自分一人だとどうしても
当たり前だけど分かんないし
昔の職人片木の
俺の仕事を見てみようとめみたいな話も
悪くはないけど
もうちょっとちゃんと
ケアしてくれる人がいる
再現性がないものだと
努力の重要性
結局難しいから
特定の技術書
焼き物を作りますとかは
言葉で伝えられないことも当然多いから
見て学べようっていうのは一定あると思うけど
ポイントもちょっとそこに近い部分があるから
難しいんだよね
OTDとかもとりあえずぶち込んでやる
みたいなことも当然あるんだけど
なんかそういう
見てくれる人っていうか
その分自分を逆に将来的に誰かを見る
という責任を引き受けるということが
続けばもうちょっと良い社会になるみたいな
気がする
勝手に師匠作りまくればいいと思うんだけどね
この分野においてはこういう人を師匠にしちゃって
僕の師匠になってくださいって
弟子にしてくださいって
言いにいけるタイプの人間だったら
言いにいけばいいんだよ
言いにいけない人はサボってるわけじゃなくて
様々な理由からがあって
言いにいけてないだけ
言いにいけない人もいるからさ
全事例をするのは当然無理って
みんな分かってる中で
どうするといいんだろうね
っていう
おだしょー 個人の幸せ
今日の話の中で個人の幸せを
面倒見るのは会社の仕事ではないわ
本当にその通りやなって思うし
そうなると個人側に
その努力の配分とか
自分で築くというメタ認知とか
そういうものが要求されてくるんだけど
そもそもその認識がない人に
それを持てというのは無理な話で
なんか難しいねここはね
確かに
保育で預かるような幼児たちに
フィードバックに
そこを意識するっていうのもまた難しいよね
それらの
いろいろ発展していった中
教育環境の影響
本当に土台の部分を思えると
積極的信頼がちゃんとあるかどうか
確かに
子供って言ったら先ほどのセーフティーネットじゃないけど
失敗してもオッケー
転んでも立ち上がれる力をつける
レジリエンス力
それをしないと愛されないみたいにならない
そういう努力の方法ではなく
自分という存在が
ちゃんと認められて
肯定感があって大丈夫だ
っていう認識があると
羽ばたいていけるんじゃないですか
そこを丁寧に丁寧に関わってあげられる
時間をかけてあげられるのは
やっぱり乳幼児期
がメインだし
そこで獲得してほしい力だと思うから
そうだね
努力の配分にはもうちょっと
大人になってからだけど
義務が発生してからの話
それこそそういう時にヘルプを求められる
そうだね
私に助けてほしいんですって言いに行ける
自分で分かんないことを人に聞ける
この力の基礎を培う
それって多分
人に聞いたことで冷たくあしらわれた経験があったら
やらなくなっちゃうから
そこにちゃんと対応してくれる人が
いたからこそそういう人になる
そういった意味で
保育者っていうのは全ての子どものメンターであり
センターであり
それこそ師匠であり
そういう関係性が
子どもと大人っていう
立場の差がこそあれど
ちゃんとそこには今の固定制度が
あるといっても過言ではないと思うから
そこで培われている
子どもを社会に出てからも
そのままいけるように
してあげたい
やっぱ保育を
手でやってあげること
本気的な自己肯定感をちゃんと
作れるというか
持たせられるっていうのは
保育への持続
むしろそこでつまづいていると
そこから先発達しないから
その先また小学校という集団生活
ハードルが上がって
社会的な繋がり
またちょっと
ハードルは生まれ続けるんだけど
スタートラインはね
最初のステップという意味では
ちゃんと大人がそのお子さんに関われるか
関わるだけの人が
本当に保育はいるのか
6対1で
大地基準
大地基準は本当にこれでいいのか
っていうのをやっぱり国が考えていただかないと
こういうふうに努力ができないみたいな
大人がいっぱいになっちゃって
国困っちゃうっていうのは
見える感じがします
確かにね
やっぱり保育は大事なんですよ
誰もが通る年代の話なんですね
保育の中で
保育と家庭と連携して
そういったものをちゃんと
幼少期に
経験があるかどうかっていうのは
大人になって
こういう形で出るっていうのも
あるし
セキュリティネットを作れる
精神的な
ベースを作れるという意味では
保育園の時代にそういう経験があることで
挑戦する人が生まれる
っていう可能性はある
自己肯定感下がる
やる気が出る
何それやる気なんかに頼った
急になんか
正論言われちゃった
構造化して
仕組みでやらないと
やる気とかないんで
確かに努力って
好きなことを自分がやってる上では
努力と認識しないかな
癒やしたくないこととか苦手なことをやるのを
努力でできるし
受験の時に
生物だけはすごい得意
生物だけは勉強しててもしてなくても
それが
頑張ってやってるみたいな感じは一切なかった
楽しくてやってた
ただやってた生物だけ
ケイタが古文は全然やらなかった
古文は努力したけど
通学は確かに
問題得意の時代は
パズルみたいなもんだと思ってたから
楽しくやってた
そこもあるよな
自分が得意なことって
気づけてないよね
自然にやっちゃってた
めちゃめちゃ集中して
漫画が読める
すごく没入感を持って読める
それもやっぱ才能だなと思う
最近思うような
月100冊をずっと読み続けてるって
冷静に考えたらそんなに
確かに
継続という
すごいよね
みたいなのが
やっぱり自分が気づけないなっていうのがあるので
幼児の段階から
気づかせてあげてください
それが社会的な
お仕事として性格とかお金に
結びつきやすいかはいろいろある
漫画100冊読めますって
仕事に行きましょうみたいに
言われても
できないことはないけど
集中力はあるんだけど
それはさっきの
強みの話になっちゃうけど
意外と俺は努力しないで
やられてるなみたいなのも
結局他社との比較の中でしか
認識できない気がするから
結局好きなことやろうぜ
好きなことをやるのに躊躇しない
好きなことにチャレンジできるだけの
マインドをちゃんと育てる
と思うと
保育の時期から人との関わりがないとできない
というところで保育をちゃんとやっていないと
そういうチャレンジのような人間も
育たないんだぞ
ということを国の皆さんにお伝えして
古典ラジオみたいになるけど
メタ認知と教養というか
一つのことに対して複数のアプローチができるか
っていう時間範囲も変えるのも
多分その一つで
マインドを持てるか
結構ありそうだね
試されてる
今回はね
そんな感じで
ちょっとまとめてください
今日の話
目がダメになるともう言葉しか出ない
鼻も出てくる
はい
どうですか
感想
何が本質的なことか
っていう気はしてて
結局俺的には
要領良い悪いっていうのが
メタ認知的な能力の話だと思うんだけど
メタ認知的な能力を
持てるかどうかって結構環境に
今のところは異論してるよって
確かに
比較したりとか成功体験があるかどうか
なんかだから
その環境をどう作れるか
自分でそこに
いけるかどうか
幼少期からの体験踏まえて
そこまでの過程でどれだけそういう経験できる場が
あったか
が結構大きいから
もちろん普遍のものではないから
大人になってからでも変えられるんだろうな
っていう気がするし
今ダメだからダメとかいうわけではない
と思うんだけど
そこをもっと持てるように
するといいなって思う
保育業界の転職において
そういうメタ認知的な
プロセスがあんまないみたいな話
っていうのは
そこがうまく加わると
みんな幸せになれる
確かにね
保育士さんとかの仕事に
マニュアルとか
仕組みがないってもちろん
組織側の問題もある
本来的には
作るべきではない仕事かもね
当然あるから
その人なりの良い
保育みたいなものを
おのおの考えて実践できる場だといいよね
っていう話もあるんだな
っていうのを聞きながら
それはすごい常々
もっといろんな
外国人もそうだし
GDTQもなんでもそうだし
あるとあらゆる多種多様な人間と
子どもたちが触れ合うことで
もっともっと
多様な人間性を
肌で理解して
それを認め合う
当たり前のようにそこにあるということがわかる
っていう経験を幼少期から持っている子の子が
すごい
僕の今までの経験として
男将のお子さんがいて
やっぱりその子と同じグループの子どもたち
すごい自然にその子が
いるのが当たり前だった
当たり前のようにその子が何か困ったら手伝ってくれたり
先生何とか教えてくれたり
これが欲しいの
共生社会だよなって思ったグループが
多分勝った
それが今そのまんま
その形のまんま
大人の社会でもあれば
この人たちが取り残されることもなければ
内賀収されることもなければ
っていう
福祉業界が考える共生社会の
縮図があったわけで
そういった経験を
持っているか持っていないか
っていうのが大きいなと思うと
インクルーシブ雇育とか
そういったものの重要性もうなずけるな
確かに今ってその
LGBTQもそうだけど言葉でやっぱ
ラベルができてそれが社会的に
隔離されているとか自分とは違うもの
みたいな認識になっちゃってるけど
保育における多様性と努力
それらが当たり前に
自分の隣にある状態っていうのが
本当はいいよね
だからなんかやっぱね
窓口が広く
保育っていうところで言えば
もっといろんな大人が
いろんな形で子供たちと一緒に
育っている
であってほしいなと思うと
保育ってもっともっと
面白くなるような
努力の配分の話してた
多様性の話になってるっていう
努力できる子供
努力できる大人になる
っていうような狭い言い方すると
になるためには
幼少期からの広い経験と
転んだ経験が必要で
安全に転める環境を作れるのは
保育士の専門性なんだ
それはするための
必要な人事
人員配置を
努力
今日の話の中でやっぱり努力ってキーワードが
改めて何なんだろうって
すげー思った
確かに何なんでしょうね
あんまり好きじゃない
言葉が好きじゃない
多分客観的に努力って思われることは
みんな知ってると思うんだけど
自分でそれを努力だと思って努力する
ってことがあんまりない
俺がんばってる
みたいな感じの気持ちにはならんから
苦手なことは普通にやってると
頑張ってる感じするけど
努力かと言われるとちょっと
違うような気がするし
努力という言葉がめちゃめちゃ俺は今日は
心に残った
いやするって言ってないよ
努力ってなんだっけみたいな話が
すごい今日の中で
一番きっかかりが多い
もっと深掘っていろんな話ができそうだね
努力の意味と自己認識
何歳からできるようになるのか
確かに
幼児がするものじゃないもの
努力
やっぱなんか努力ってしたくないことを
するニュアンスの言葉だと思う
我慢に見えた気がするんだけど
我慢だったら
要はちゃんとおしっこを我慢できる
濃厚に溜めて
それをトイレに排出するまで
耐えられる力が育って
初めて人間で我慢ができるようになるんだ
だから要はおしっこが
ちゃんとおトイレでできるようになるぐらい
からじゃないと我慢っていうのも本来効かないから
それより前の子に
我慢しなさいとか言ったってできるわけがない
っていうのが肌感覚としてある
努力とかもそういう違い
ある一定の年齢まで
努力しなさいって言ったってできるようなものではなくて
何が努力か分かるんだ
好きでやってることがいっぱいある中で
努力しなさいって
子供たちは普通に定型で育って
真っ当にお育ちになっていれば
当たり前のように
何かのおもちゃがあれば遊ぶし
自由な発想で遊べるし
どんなことでも遊びにできるし
それは努力してるわけ
でも大人になると
そういうクリエイティビティを
努力で出さなきゃいけない
努力って義務的にするのがあるかな
言葉の定義が珍しいのかもしれない
終わりがなさそうなので
強制的に
これでもう1本取れちゃうから
今後もこんな感じで
いろんなテーマについて話しながら
保育屋保育屋官房に関する情報だったり
保育的なんだって
話を皆さんにお伝えできたら良いな
と思って頑張っていきますので
ぜひぜひ皆さん
概要欄のGoogleフォームのURLと書いているので
質問だったり意見だったり
それは違うぞみたいな反論だったり
推論だったり何でもいいので
感想質問どんどん送ってください
というわけで
本日はVlogバージョンということで
動画と撮影しておりました
ちょっとお巡りすると困ったかもしれません
よろしくお願いします
ありがとうございました
ありがとうございました
45:24

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