なんか、見られながらは、すごい恥ずかしいですね。
そう?
友達とはいえね。
はい。
1発目ということで、よろしくお願いします。
お願いします。
で、大人って自由じゃないのという子を、すごくグッとど真ん中の質問してくれましたが、
なぜこの質問してくれたんですか?
はい、幼稚園とか保育園だと個性を伸ばすとか、遊びを勉強の一環として取り入れるとか、
自分の自由なこと、好きなこととかをする環境にしてくれたり、
自分の好きなことをやることが、その成長につながるっていう風に勉強をしてるんですけど、
ただ、小学校、中学校、高校って上がってくにつれて、
高速ができたり、特に中学校だったら、すごい高速厳しかったりとかっていうのがあって、
ルールにだんだん縛られていって、
で、大人になったら、朝何時に起きて、会社に何時に行って、何時に退社してとかっていうのが、
もうずっと、ほぼ毎日続くようになるっていうので、
自由に使えるお金はあっても、自分自身がルールに縛られて自由じゃなくなってるんじゃないかって思って質問しました。
ずばっときましたね。
すごい。
みなさんもそう思いますか?
うなずいております。ありがとうございます。
確かに、幼稚園とか小学校とかって、結構個性を大切にしてくれるってイメージあるよね。
でも、中学、高校になると、やっぱり受験ってことになってくるのかな?
そうですね。やっぱり、今学力だけで見ないっていうのも流れとしてできてるのに、
そこで、なんだろう、この学校、中学校、高校に入学したんだから、
生徒像はこういう生徒像を目指しなさいみたいな、
拘束ってわけじゃないけど、学則みたいなのが、理念とかがあったりして、
結局個性を潰しにいってるんじゃないかなって、
今まで育てた個性を、同じ形に戻そうとしてるんじゃないのかなっていうのが、
ちょっと疑問というか、日にかかってますね。
確かにね。
はい、というわけで、小川さんからの質問、「大人って自由じゃないの?」でした。
小川さんの言うとこの自由は、ルールをメインに話してくれた感じですね。
幼稚園、保育園とかだと、個性を伸ばしましょうって言って、
ある程度自由にさせてくれるけれども、中高になったり、また大人になったりすると、
その場所でルールが決まっていて、自由な時間ってあんまないんじゃないかなということ。
他にもですね、彼は学校の研修で、学校に行くことがあるみたいなんですけど、
そこでももう一人前の先生として見られるんだからということで、
髪型、服装とかを指定されていたりとかして、見た目からもあんまり自由がないのかなとか、
そんな、どうせルールで縛る社会だったら、もう小中高から、
社会ってルールで決められてるんだよっていうふうに、初めから言ってほしいよ、なんてことも言っていました。
はい、いかがでしたでしょうか。じゃあ、めいむさんから聞いちゃおうかな。
いや、なんか、そういうふうにそっか見えるのかっていうイメージでしたね。
なんか、大人になればなるほどルールが増えていって、自由がなくなっていくように感じるんだなっていうのは、
だから、たぶん幼稚園、小中高、大までの流れの中で増えていって、やっぱ不自由をすでに感じてるっていうことなのかなっていう。
だから、周りの大人を見てそう思ったっていうよりは、これまでの経験からいってもっと増えそうみたいな、
いう予測の中でお話しされてるのかなっていうふうに感じたのが、私の印象なんですけど、
どうなんでしょうね、私はそんなに不自由になっていくイメージはやっぱりなくて、
大人になっていくと、子供の頃でも本来できるんだと思うんですけど、ルール自体にも大人が作ってるものだから、
大人、子供も作っていいんだけど、ルール自体のメイキングが入ってくるので、自分で変えていけばいいって思っちゃうし、
あとは、自由って何だろう、責任を伴うものだと同時に思ってるんだ。自由っていう言葉の意味のところになってしまうかもしれないんですけど、
価値とっていくものっていうか、ある種の責任を伴って自分で作り出していくものっていうか、私そういうイメージだったので、
そういう意味では、大人になった方が取れる責任が大きくなっていくから、その分自由にできる部分が増えていくような印象が私はあって、
だから、与えられるものだと思うと窮屈に感じるのかもなっていう、先生から許してもらう余白?やっていいこと?
与えられるものだと思っていくと、誰かに決められたルールにどんどん縛られていっちゃうけど、自分で作り出していくものとか、生み出していくものって思えば、自由度が高いんじゃないかなっていうのが、私が今とりあえず感じた印象です。
たしかに学生さん、生徒さんのうちって、言っても保護者の下にいる子供っていう立場でもある程度はありますからね。
誰かが決めたものを守らなきゃいけないかもしれないけど、大人になったら自分で作れる立場にも自分の動き方次第でなるし、そこには責任も伴うけどねって感じは確かにありますよね。
はい、ありがとうございます。じゃあ、だいちゃんお願いします。
まずいい質問ですね。ありがとうございます。さっきメイン文がさ、勝ち取るって言葉言ったでしょ。
で、きっとその人は大聖堂を作ってる夢を持ってるし、あとその工夫をいろんなところでしてるはずだし、で、その男はレンガ職人はすごい自由を感じてるんだよね。
なんでこんな楽しいことをやらせてもらった上でお金ももらえて、最高じゃないかと思ってやってるっていう。
だから同じことを味わってるんだけど、同じことをしてるんだけど、捉えが違うっていうのはあると思っていて。
もしかしたらその自由っていうのも近い。同じ環境なんだけど、それをこう自分なりに創意工夫していく自由が実はあるかもしれないっていう。
そんななんか視点を持ちながら進んでみるっていうのは、なんか僕は普段すごい大事にしてるかなって思いました。
いや本当に、本当にでもなんか自由の捉え方次第だね。
うん。
本当に思います。同じ状況でも本当主体性なのかな。
物事への関わり方の主体性なのかもしれないけれども、自分が自分の意思で関わっている、それはなんか。
いいね。
だからね、どんな場所においても、そうそう、私も結構あれなんですよ。
夫と結婚してね、で、夫が海外に働いていたので、私結婚して出産してすぐに子供、3ヶ月の子供連れてアメリカに移住したんですよ。
で、それって言ったらまあ、中妻みたいなもんですよね。
夫の仕事の都合に合わせて、まあその妻が帯同するみたいな感じで、アメリカに2年半、デンマークに2年半いたんですけど、
それって、ともすると夫に振り回されてる妻にも思えるんだけど、
私は自分で選んで夫と一緒にいることをまあ、選んでるっていうのもあったし、
なんかその場所すらも、夫が働いてる場所だったんだけれど、でも私がたどり着いた場所でもあるから、
ここでの暮らしは私のもんだみたいなぐらいに思ってたんですよね。
いいね。
そう、だから全然なんか振り回されてるっていうよりは、ワクワクして飛び込んでいったので、
結構アグレッシブにいろんな人との出会いとか、いろんな経験させてもらって、
で、今の自分でもかなり影響があるようなキャリアを詰めたので、
ほんと捉え方次第だよなっていうのはすごく思いました。
今のめいむさんの始まりの主体性っていうね、主体的な側面から見た話をすると、
確かにこの小川さん言った通り、ルールっていう面から見ると、
あ、縛られてるなとか、なんでそこを選ばせてくれねえんだよとか、
そこ何、決めてあるのっていうイライラ、僕も結構感じる方なので、
ここがすごいね、わかるなって思うんですよね。
ただ、主体性の研究って結構されていて、実は制限がされている方が、
自由に感じることがあるっていう研究結構されてるわけですよ。
例えば、教室の中に子どもたちが30人いますと、
その30人に先生がこうやって言います、
もう今から30分あげるから、めっちゃ何でもやっていいよ、好きなことやってください。
何にも決めません。30分だけあげます。
どうぞって言われる自由と、もう1個はルール3つあるよって言って、
この教室の中で遊んでねとか、危ないことはしないようにしようねとか、
あと使っていい道具ここに置いてあるから、これは自由に使っていいよ、
これすごい今例えばで言ったんですけど、
で、30分どうぞって言われるのが、どちらの方が自由を感じるかっていうと、
ちょっとこれ議論なりそうですよね。
例えばその前者の方で行くと、誰かが教室の中でドッジボールをやりだしたとしますと、
そしたらその人たちは自由なんだけど、
周りの人からしたら自由が阻害されている状況になることもあるじゃないかって考えると、
実はその後者の方が、全員の自由っていう観点では確保されているみたいなのがあるとして、
だから実は制限がちょっとあった方が自由に感じやすいんだっていうのはよく言われますよね。
それ初めて集団でっていうことですか?
そう。
えー面白い。個人だったら私もすごく同じような意見があるんですけど、
集団として自由の確保、全員の自由がより確保されるっていう面においても、
制約制限があった方がいいっていうのを初めて聞いたので面白いなと思って。
そうなんですよ。
へーそうなんですね。
例えば熊本大学のトマノさんって、この放送でもラジオでもよく出る名前ですけども、
その方の言う自由の相互承認っていう考えは、自由を相互に承認し合うだから、
あくまでも他者がいて、その他者にももちろん自由があるわけで、自分にも自由があるよねって。
なんかお互いをこう大事にしていくっていうので見ていくと、
その縛られているって感じてるルールが実は守ってくれてるっていう。
あーわかるな。
ルールになることがあるんじゃないかなってそういうことかな。
相互承認ね。
確かに。
自由って確かに一人の中で担保されるものではないですもんね。
他者との共同生活の中で生まれるものだから、相互承認面白いよね。
そうなんですよ。
なんかそこらへんって、すごいいろんな場面とか目的で違うから、
一概に例が出せないっていうのはすごい難しいんですけど、
例えばね、すごい難しいもので出しますよ。
服装とかとっても、僕割と自由でいいなって思ってた人なんですよ。
でも、なんかその服装がある程度の一貫性を持ってる方が、
その雰囲気とか世界観が大事にされる場面って意外だったりするじゃないですか。
そういう時に、なんか自分は何でも服装自由でいいじゃんっていう派だったのに、
なんかそのルールがある場所に僕踏み込んだ時に、
これはこれでなんか悪くないのかもって思った。
で、その縛られたドレスコードの中で自由にできるって考えたら、
全然選択肢あるじゃないって思ったのね。
だから見えやすい不自由の先に、実は自由がたくさん広がってるっていう、
見えにくい部分の自由っていうのが、ほんとこの年になってね、すごい見えてきたかも。
めちゃくちゃわかるな、わかりますわかります。
文章とか書いててもあるんですけど、
結局ルールがたくさんあるじゃないですか。
ライターとかやってると、メディアって表記ルールとか結構あるったりとかするんですよね。
この言葉をこう書かなきゃいけないとか、丸の付け方とかカッコの付け方とか、
いっぱいめちゃくちゃルールがあるんですけど、
でもそんなにルールに縛られても、やっぱそのライターの個性ってやっぱ残るんですよ。
で、なんかどこかでね、これ本当に参照が言えなくて申し訳ないんですけど、
制約されてもされてもされても、ルールの中に入っても入っても削れないのが個性だみたいな。
削れないの部分に個性があるみたいなことを言う話もあって、
だからその自由に表現することだけを求めるじゃなくて、
どんな制約の中でも消えない部分が個性だし、発揮できる部分はあるみたいな話を聞いた時に、
なんか逆にそのルールの中で残る自分の個性ってなんだろうとか、
いうふうになんか見て書き始めたりとかしたら面白くなってきたりとか、
いうのもあったなーって思ってね。
個性って消せない最終的にっていう。
まあ自由さと個性っていうのが今ちょっとごちゃになっちゃったけど、
だから多分どんなところに行っても勝ち取れる自由っていうのは必ずあるんだろうなーって。
それこそ文章で言ったらあの俳句なんてね、柔軟さしかなくて、
しかも記号を使わなきゃいけないルールでガッチガチだけど、
それでも有名な俳人とか、あの人の世界ってすごいよねっていうのがありますからね。
そうですよね。まさにもうごっせごなんて究極ですよ。
究極だよね。
ひらがな45文字?50文字?とかしかないのに。
なんかそれだけで表現しろって言っても、それでもやっぱ個性出ますもんね。
今の俳句って例えが出てきたつぼけんすごいよね。
やったー。
確かに。あれってさ、不自由なルールって見るのか、ありがたい制限って思うのかっていう、確かにありがたいんだね。
むしろ膨らむよね、いろいろ自由が。
なんかクリエイティブ系はだって制約があった方がありえない発想にいけるから、より面白いものができるとか言いますよね。