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2023-09-08 07:31

11 - 信仰のために衝突を選ぶか?

聖書の話を聞いて考えたこと。自分の信仰を選ぶことで迫害される、家族と衝突するとして、信仰を選べるか?選ぶことは大袈裟なことなのか?

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日々、駐妻。この番組は、アメリカで駐妻として暮らす私、かやこが、日々の生活で感じたこと、驚いたこと、考えたことなど、ありのままお伝えするポッドキャストです。
不定期ですが、たくさん配信しようと思っているので、よかったら番組をフォローしてもらえると嬉しいです。
今日はね、久しぶりにバイブルトークしてきました。
バイブルトークというのは、日々、駐妻のエピソード5でも話したかな。
あと、私のノートにもつらつら書いているんですけど、アメリカ人のおばあちゃんJとユダヤ人のおばあちゃんDというキリスト教徒の2人から聖書についていろいろ話をしてもらっているというやつです。
旅行とかいろいろ重なって、久しぶりに今日話したんですけど、今日やった内容も結構面白かったというか、考えることがあったので、アウトプットしておこうかなと思っています。
今やっているのが、マッシュの10章なんですけど、私、聖書ってそもそもこっちに来て、アメリカに来て初めて触れて、英語で学んでいるので、
マッシュっていうのかと思ったら、日本語の聖書ではマタイなんですね。なんでそうなんだろう。マッシュだけど、みたいな。
それを置いといて、今回の10章では、パルセキューションズについて話しました。パルセキューションズというのは、迫害とかですね。
イエスが自分が選んだ12人の弟子に、自分が持つ特別な力、人の傷を癒したりとか、治したりとか、みたいな力を授けて、これからあなたたちはどのように活動していくか、みたいなことを指示して伝授しているところなんですけど、
これからあなたたちはイエスキリスト、つまり神を信じて行動していくことによって迫害されるでしょう、ということを言っているんですね。神を信じない人とか、よく思わない人から、つらい目に合わされるでしょうと。
でも、信じて頑張るのです、みたいなことは書いてあるんですけど、結局は、そんなひどい目にあっても、最終的には救われるよ、みたいな話でもあるんですけど、この迫害について、その章でだけ言及しているかと思いきや、
その少し後の章でも、宗教とか信仰心にまつわる家族間での対立、みたいなことに言及されます。それは、結構言い方が面白くて、私がこの世に平和をもたらすと思ってやってきたと思いますか?違います。私はこの世に剣を持ってきました。
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剣というのは、おそらく衝突とかいうことを意味しているんだろうなと思うんですけど、どういう意味かというと、愛し合っているはずの家族でさえ、キリスト教を信じるということをきっかけに、衝突するということが起こる。
要は、例えば娘がキリスト教徒になるということを、親がよく思わないとか、兄弟がよく思わないとか、それによって、一つだったはずの家族の中に亀裂が走るということもあるでしょう。
そこで、面白いなと思ったのは、それでも負けずに信仰するんだ、というふうに書いてあるよりは、It's your choice. あなたの選択です。
そこで、神を信じて、亀裂とか衝突というものを受け入れて、そこに向き合っていくのか、信仰を諦めて、家族とうまくやる道を選ぶのか、みたいなことが書いてあるんですね。
別にそれはあなた次第だし、あなたが選んだ選択に応じた経過が返ってくるよ、というふうには言っています。
日本人からすると、私が日本人と主語を大きくして語るのもあれですけど、信仰のために家族と衝突することを選ぶって、よほどじゃない?
結構凶器を払ったふうに一瞬思ったんですけど、まず一つに、キリスト教徒の人にとってキリスト教を信仰するっていうのは、生き方なんですよね。
君たちはどう生きるのかじゃないけど、映画まだ見れてないけど。
自分がどういう人であって、どのように人生を選択していくかの指針そのものが、キリスト教徒なんですよ。
信仰っていうとやっぱり身に馴染みないけど、信念に近いものがあるなっていうふうに思うんですよね。
人との相対し方とか、自分が生きていくにあたって何を大切にするかとか。
これは宗教っていう枠組みなので、日本人からするとちょっと凶器じめたふうに思えるけど、
信念だとすると、全然その信念を選んだことによって家族と対立するってあるよなって思うんですよ。
ほとんどほぼあらゆることに適応される。
例えば価値観で言うと、女は働くべきじゃない、家にいるべきだみたいな価値観の人がいたとして、私はそこと相入れないわけですよ。
女性が家にいることを自ら望んで選択すればいいけど、誰かからそれを許容されるっていうのはおかしいって私は思っていて。
そういう人とは私は家族にはなれないし、そういう考えの人が例えば私の親だった場合、ラッキーなことに違いますけど、
多分そういう親とはうまくやっていけないだろうなっていうふうに思うし、
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子どもの教育に関することだってそうだし、何にお金を使うかだってそうだし、
人とコミュニケーションする手法とかやり方とか内容とか、とにかくありとあらゆる価値観にこれって適応されるなって思ったんですよね。
で、そういうありとあらゆる価値観を包括的に定義しているものがキリスト教なので、
キリスト教徒にとってはそこに足を踏み入れた途端、否定されるとか言うっていうのはほとんど自分自身を否定されるに等しいので、
それで家族と対立してしまった時にどっちを選ぶのかっていうのがものすごく大きな問題になるっていうのは全然あり得ることだなと思いながら聞いてて。
で、これね、本当に聖書が、聖書って歴史の中でたくさん書き換えられてると思うし、ある意味、今ある聖書だってバージョンとかどこから出してるかによって中身が違うから、
詩的なものっていろいろ混じってるだろうなとは思うんですけど、なんかすごく大事なことだし、それを自分が大事にしている価値観を
衝突を選んででも貫くのか、そこを曲げて衝突を避けるのかが自らの選択であるっていうのも、本当にありとあらゆる場面でそうだなって思うし、やっぱり聖書面白いなと思った今日の学びでした。
おしまい。
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