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2025-12-13 22:10

「酷い畜産は非道い」

言い忘れたこと

環境への負担

 

 

うまく喋れなかったので、ChatGPTにまとめてもらいました。

農業革命以降の畜産と動物倫理

――人類史的視点から見た畜産における動物虐待への遺憾――

要旨

本稿は、農業革命以降に成立した畜産という生産様式を、人類史的・倫理的観点から再検討するものである。特に、現代の集約的畜産において広く見られる動物の扱いが、単なる「命をいただく行為」の範疇を超え、深刻な苦痛を伴う構造的虐待に近い状態にある点を問題として取り上げる。『サピエンス全史』における議論を手がかりに、人類の繁栄、DNA的成功、文化・宗教による価値判断の相対性を踏まえつつ、「種の成功」と「個体の幸福」が必ずしも一致しないことを示す。その上で、畜産における現状の在り方に対し、倫理的観点から遺憾の意を表明するとともに、より人道的な選択の可能性について考察する。

1. はじめに

農業革命は、人類が狩猟採集生活から定住生活へと移行する大きな転換点であった。この変化は、植物の栽培のみならず、動物の家畜化、すなわち畜産の成立を伴っていた。畜産は人類に安定したタンパク源や労働力をもたらし、文明の発展を支える基盤となった一方で、動物を人為的に管理・利用する構造を不可逆的に作り出した。

本稿の目的は、畜産そのものを全面的に否定することではない。しかし、現代の畜産、とりわけ工業化・集約化された畜産の在り方が、動物に過度な苦痛を与えている現実について、倫理的な検討を加えることにある。

2. 農業革命と畜産の成立

農業革命はしばしば「人類をより豊かで幸福にした進歩」として語られる。しかし、書籍「サピエンス全史」では、農業革命は必ずしも個々人の幸福度を高めたわけではなく、むしろ人類が特定の作物(例:小麦)の生産サイクルに拘束される「奴隷化」に近い側面を持っていたと指摘されている。

同様に、畜産においても、牛・羊・豚・鶏といった動物は、人類の都合に合わせて繁殖・管理される存在となった。種としての個体数は爆発的に増加したが、それは必ずしも個々の動物にとって望ましい生の拡張を意味しない。

3. 種の繁栄と個体の幸福の乖離

DNAの観点から見れば、「成功」とは種が存続し、個体数を増やすことである。この基準に従えば、小麦や家畜動物は人類史上きわめて成功した存在である。しかし、この「成功」は、個体がどのような生を送ったか、どれほどの苦痛や制限を受けたかを考慮しない。

現代畜産においては、肉や乳製品を効率的に生産するため、動物の行動や生理が極端に制約される場合が多い。こうした環境は、種としての繁栄とは裏腹に、個体の視点から見れば「幸福」とは言い難い(控え目すぎる表現かもしれない)状況を生み出している。

4. 「命をいただく」ことの倫理的射程

人類は動物だけでなく植物の命も利用して生きている。その意味で、「命をいただく」こと自体は不可避である。しかし、植物と動物、特に高度な神経系を持ち、苦痛や恐怖を感じる能力を有する動物とを、完全に同列に扱うことには直感的な抵抗がある。

また、「最終的に食べる」という一点だけでなく、そこに至るまでの飼育過程が倫理的評価の重要な対象となる。命を奪う行為を正当化するとしても、その過程に過度な苦痛(もし仮にこれが人間であったとすれば、残忍極まりない、というレベル)が含まれてよい理由にはならない。

5. 文化・宗教・価値判断の相対性

どの動物を食べ、どの動物を食べないかという判断は、文化や宗教、歴史的文脈によって大きく異なる。ある文化では日常的に消費される動物が、別の文化では強い忌避感を持たれることも珍しくない。

この相対性を踏まえるなら、特定の食文化を単純に非難することは慎重であるべきだろう。しかし同時に、「文化的に許容されている」ことと「倫理的に問題がない」ことは同義ではない。

6. 人類の優位性と責任

人類が地球上で支配的地位を占めている理由は、身体的強さではなく、知能と協力能力にある。この優位性は、他の生物を利用できる力であると同時に、その扱いに対する責任をも伴う。

将来的に、人工知能が人類の知能を上回る可能性が議論されている現在、人類が「知能の差」を理由にどのように扱われるかという想像は、他者(他種)をどう扱うべきかという問いを反射的に突きつけてくる。

7. より人道的な選択の可能性

畜産には多様な形態が存在し、「ひどい畜産」だけが唯一の選択肢ではない。動物福祉に配慮した飼育方法や、生産過程を可視化する取り組みは、フェアトレードの思想と通じる部分がある。

消費者がすべての現実から目を背けたまま恩恵だけを享受するのではなく、少なくとも直視し、理解した上で選択する姿勢が求められる。

8. 結論

本稿では、農業革命以降の畜産の歴史と構造を踏まえ、現代畜産における動物の扱いを倫理的に検討してきた。その結果、種としての繁栄と個体としての幸福が大きく乖離している現状、そして残酷なまでに過酷な飼育環境が存在している事実を確認した。

以上を踏まえ、本稿は、現代畜産において見られる動物虐待的な扱いに対し、強い遺憾の意を表明する。
命をいただく行為そのものを全否定するのではなく、その過程における苦痛を最小化し、より人道的な在り方を模索することこそが、人類の知能と責任にふさわしい態度であると結論づける。

 

補論:人間の人生観と生命の連続性

人間はしばしば、自らを他の生物から切り離された特別な存在として位置づけてきた。しかし、生物学的に見れば、人間もまた地球上に連なる生命の一系譜にすぎず、他の動物と共通の進化的基盤を持つ存在である。生命は断絶した点の集合ではなく、連続した網の目のような構造をなしており、その意味で人間と畜産動物は「根においてつながった仲間」と捉えることも可能である。

この視点に立つとき、畜産動物の生を完全に道具的なものとして割り切ることは容易ではない。なぜなら、人間自身にとって「生きている期間がどのような内容を持つか」は極めて重要な価値だからである。仮に最終的に死が避けられないとしても、そこに至るまでの人生が尊厳や充足を持つかどうかは、人間にとって決定的な意味を持つ。

現代社会では、人間の平均寿命は延び続けている。しかし同時に、その人生が本当に「良い生」となっているのかについては、労働環境や社会構造をめぐる多くの疑問が存在する。畜産における動物の扱いを知ることは、人間自身の生の質を問い直す契機ともなり得る。

自分の人生を大切にしたいという感覚は、他者の人生を尊重したいという倫理へと自然に拡張される。そしてその「他者」は、人間に限られる必然性はない。苦痛を感じ、時間の中で生を経験する存在である以上、畜産動物の人生もまた、倫理的考慮の対象から完全に排除することはできない。

このように、人間の人生観と畜産動物の扱いは別個の問題ではなく、同一の価値軸――すなわち「生の質を重んじる」という軸――の上で連続しているのである。

 

 

 

サマリー

このエピソードでは、「酷い畜産」についてテーマが深く掘り下げられています。農業革命から始まり、動物の命をいただくことの意義やその道徳的側面、さらに倫理的な畜産の可能性について議論されています。

畜産の始まり
こんばんは、しゃべる練習をやります。今回のテーマは、「酷い畜産」です。 かなり込み入った話だったり、重い話だったりするのとうまくしゃべることが難しそうなテーマです。
長くなる可能性があるのと、重くて楽しくない話、重いテーマという感じがするので、スキップしていただいてもいいかなと思います。
サピエンス全史を引き続き頑張って読んでいまして、今まで28%ぐらいであまり進みが良くないんですけれども、ぼちぼち読んでいます。
今回話すのは、今28%ぐらいの話ではないんですけれども、ちょっと前の第5章に含まれる話からします。
テーマの話ですけれども、酷い畜産ということで、農業革命というのが起こりまして、人が植物を育てて食べてみたいなことをするようになった中で、
もう一つ、畜産ということで、動物、羊とか牛とか豚とか鳥とか、そういうのを畜産するようになってきたという流れが説明されているところがあるんですけれども、
これは昔、前年前の話というよりは最近の話として語られる部分がありまして、結構動物に対して、この辺が難しいところではありますけれども、
命をいただくことになるというところではあるわけですけれども、そこでの育て方というか、命をいただくに至るまでの流れというか経緯というか、その部分ですね、そこについて話されている部分というのがあります。
ちょっと私はここで口に出して言うのは暴かれてしまうので、もしご興味がある方はサピエス全史の第5章の後ろの方に書かれていますけれども、
ある程度想像がつくというか、ご存知のことかなと思いつつも、改めてですね、そういう動物にとってかなり過酷というかひどい扱いで畜産というのが行われていると。
最後のお肉を食べるというところのみじゃなくてですね、牛乳とかそういうあたりもですね、そういうところの説明があったりとかして、
人間ではないにしても、ゲームオブスローンズ的なつらい描写がありましてですね、なかなかヘビーだなと思いました。
最後というか、結局命をいただく、それは動物でも命をいただくことになるし、別に植物でも命をいただくことになるし、いろんな命をいただきながら人間は生きているのはそれはそうなんですけれども、
それにそうだとしてもですね、私の感覚としてまだ受け入れがたいものがあるなというふうに感じました。
けっぺき少年、この先つらいわよという感じかもしれないですけれども、個人的にはそんなに多くはないんですけれども、
とはいえ日々いろいろな生き物のお肉をおいしくいただいている僕としてはですね、
お肉も牛肉にしろ畜産の製品みたいなものについてもっと理解と高めていけるといいのかなというふうに思いました。
いろんなラインがあると思うんですけれども、結局ベジタリアンとかヴィーガンとかというラインもあると思いますし、
あとはその畜産の中でももっと人道的なというか倫理的なというか、これも何が別に動物たちが人権を求めて言葉を発するわけではないので、
それを結局一人よがりということの面もあるかもしれないですけれども、
少なくとも自分の手で動物の命をいただくということをするのであればというラインもあると思いますし、
少なくとも自分で直視する、静止することがした上でいただくというか、それは静止できない、目を背けつつ食べるというのはどうかなというラインもあるのかなと思ったりするんですよね。
あとはクジラとかもどうだという話もあると思いますし、僕は別のエピソードで話しましたけれども、うなぎはというラインの話もあると思いますし、いろんな観点があってややこしいですけれども、
あとは例えば犬とか猫とかを食べるって言ったら、それはやめてほしいとか残酷だとか考えられないとかいうのは日本人のマジョリティの感覚じゃないかなと思われますけれども、
その辺の何がオッケーで何がオッケーじゃないかというところは宗教によって決まってくる面もあるかもしれないですし、それぞれの文化とか歴史とか経緯とかいろいろあるのかなと思ったりしますけれども、
大きく見た話でいうと、やっぱり大きな生き物っていうところ、大きな原始の集合体というか有機組織というか、何になればなるほどやっぱりそこは難しさがあるかなと思ったりする、改めてしました。
本の中でも書かれてますが、農業革命で農業革命は、これはこないだ別のエピソードでも喋った話ですけれども、農業革命は人間が素晴らしい生活、道具というかそういうのを手に入れて、
より豊かで幸せな生活ができるようになったということではなく、小麦の奴隷になったんだみたいな話がありますけれども、
小麦の奴隷になった人類、ホモサピエンスがさらに家畜をひどい畜産をするという悲しい感じがしました。
小麦は人に食べられて命をいただかれてしまうわけですけれども、でも小麦と牛はイコールではないということを、これは僕の感覚として、少なくとも僕の感覚としてはイコールではないということ。
人間と生き物の関係
本にもその趣旨が書かれていましたけれども、イコールではないということを改めて突きつけられた感じがしました。
ちょっと別の余談をしますけれども、今年の春に安泰寺というお寺で修行旅行、リトリートというのに行ってきましたけれども、その最終日にですね、なんか宴会的なパーティー的なイベントがあったんですけれども、
そこでですね、鹿の肉の唐揚げというのが出ました。
仏教のお寺ということで、そこの判断というか、非常に難しさがあるかなと思われるところでしたし、
その住職さんもそういう趣旨の話をされたりしてましたけれども、
命をいただくっていう話もあるし、そのいただく命としての、なんていうんですかね、
生を全うすることについて、それは最終的には命をいただくんだから、その過程は全部一緒だということでもないと思いますね。
さらに打足的な話をしますと、もともとはね、肉体的な大きさや強さはあまり高くなくてですね、
最近でも熊の方が強いということを感じさせられるニュースを目にすることもありますけれども、
貧弱、弱い人間がみんなで力を合わせたり、さらに道具や言葉でのコミュニケーションというのを通じて、
脳が大きくなってね、いろんなことを考える言葉でコミュニケーションできる、いわゆる知能が他の生き物よりも高いということで、
今はもう地球上については人間、ホモサピエンスが牛耳っているという状態になっている。
その差というのは体力、肉体の強さではなくて知能の高さによってこの強があるというわけですけれども、
これがですね、どうも人工知能の方が知能が高くなってくるみたいという話がありまして、
そうなった時にね、知能の劣るホモサピエンスはどうなってしまうのかなというのを、そういう視点でも恐ろしいなと思ったりしました。
おっと、肉食全体の否定的な色が濃くなったような気がしましたけれども、
そういう考え方もあるし、私としてそれが全部だという話ではないというところはもうちょっと喋っておきたいんですけれども、
ひどい畜産もあればひどくない畜産もあるはずだと思いますしね。
そういうのでひどくない畜産でひどくない焼肉を美味しく食べれたらそれはそれで楽しいし嬉しい感謝と思っています。
この話は農業でいうところのフェアトレードみたいな部分の話に近い部分もあるかなと思ってますね。
昔よく聞いた話として、昔はバナナがむちゃくちゃ高かったのに、今はバナナなんてむちゃくちゃ高かったから家族で一本のバナナを分けて食べてたのに、
今はもう一人で一本食べれるようになってすごい豊かになったみたいな、今は贅沢だみたいな文脈だったと思うんですけども、
そういう話を聞いたりしまうことがありますし、あとコーヒーとかチョコレートとかもそういう側面があるようですけれども、
そこで安く美味しく食べられる裏には非常に厳しい労働を強いられている人がいる、搾取されているみたいな話もあるかと思います。
チョコレートさんのものに関しては、これは労働者の話じゃないですけれども、よりベターな選択状況というのが作っていけるといいかなと思ったりしますね。
あとは次の話としては、AIがスーパーインテリジェンス、AGI、そういうのはまだだとしても、
現状の重さ比演数の社会の中でもいろいろと分断とか差別とかあるという話も書かれているわけですけれども、
私がよくする話で、パソコンが使えるように一人一台付けるようになったので、どんどん仕事がはかとって残業も減って仕事が楽になるという話を
30年ぐらい前に社会人が始まった頃に聞いて、そろそろ休休3日になるのかなと思ってから、はや30年ぐらい経ちますけれども、
いまだに全然気出しもないので、これはひどいなと思う。牛さんと比べては全然マシと思いつつも、なかなか労働者はつらいよと思う面もありますね。
サピエンス全史の中で弊社の方が言っているのが、小麦とか牛にしろ、畜産の種にしろ、DNAの定めというか、
DNAにとっての成功、成功イコール幸せなのであれば、幸せというのは種が絶滅しない、種がどんどんコピーが増えて個体数がどんどん増えていけば、
種としては超繁栄して、超この種大成功ということなので、そういう意味では小麦もすごい増えて素晴らしいって感じだし、牛さんにしろ羊さんにしろ種が増えてね、
うれしい、幸せ、DNA的には超ハッピーということだと思うんですけども、それとは別軸でね、その牛さんの畜産の扱いというのは、
その牛さんにとってハッピーとはとても言えなさそうというね、そういうのがあるし、これはね、人間でいうと、だんだん長生きして平均寿命は増えているわけですけども、
その生きている間の、その中の質というか、生きている間はどれくらいいい感じなのかというところも大事ですよねと思いますね。
なんか、人生100年とかってね、50、60、70あってもまだ元気で働けるみたいな、働くという言葉もね、2つのものが混ざっていると思うんですよね。
社会の中の一員として自分の能力というのを発揮できるという、やりがいのある働くというのもあると思うし、
その一方でね、自分の絞り取られまくるブラック企業とかに勤めていると、そういう感じで、人によっては過労死とかしちゃうみたいな、そういうのも働くという言葉で表現されていて、
これをうまく分離して、そっちは奴隷に近い話だと思うので、うまく分けて考えられるといいんじゃないかなと思ったりもしますけれども、
そんな感じで、人間としても自分の人生を大事にしたいと思いますし、牛さんの人生を大事にしたいと思いますし、という話でした。
では今回のしゃべりゃんは以上です。ではまた次回。
22:10

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