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一日一筆・岡本喜堂
品川の台場
3. 品川の台場。曇った寒い日、私は高輪の海岸に立って、灰色の空と真っ黒の海を眺めた。
明治座一月興行の二番目をもっか寄港中で、その第三幕目に高輪海岸の場がある。
今初めてお目にかかる景色でもないが、とにかくに筆を取るにあたって、その実地を一度見たいというような考えで、わざわざここまで足を運んだのである。
海岸には人火が連なってしまったので、眺めが自由でない。
かつは風が甚だしく寒いので、さらに品川の町に入り、海寄りの小料理屋へ上がって昼飯を食いながら、硝子戸越しに海を見た。
暗い空。
濁った海。
雲は低く波は高い。
かのお台場は浮かぶが如くに横たわっている。
今さらではないが、これが江戸の形見かと思うと、私は何とはなしに悲しくなった。
今日の目をもって、この台場の有用無用を論じたくない。
およそ六十年の昔、初めて江戸の海にこれを気づいた人々は、
これによって江戸八百夜町の人民を守ろうとしたのである。
その当時の江戸幕府は金がなかった。
やむを得ずして悪い金を作った。
したがって物価は投棄した。
市民は難銃した。
また一方には慣れない工事のために多数の死人をいだした。
核の如く。
上下ともに苦しみつつ、
予定の十一か所を全部竣工するには、
全部竣工するに至らずして、
徳川幕府も滅びた。
江戸も滅びた。
しかも、江戸の血を受けた人は、
これによって江戸を安全ならしめようと苦心した徳川幕府の投露者と、
彼ら自身の祖先徒に対して、
努力の労を感謝せねばなるまい。
今日は品川公人の秋季大祭とかいうので、
品川の町から高なあへかけて往来が激しい。
男も通る。女も通る。子供も通る。
この人々の徳さんやおじいさんは、
六十年前に孤高すぎて、
工事中のお台場を望んで、
まあ、これができれば大丈夫だ、
と、心強く感じたに相違ない。
しかも、それはほとんど何の用をなさず、
むなしく、びょうぼうたる海中に横たわっているのである。
公人さまへ参るもよい。
ついでにここを通ったならば、
しばらくこの海岸に立って、
諸君が祖先の労苦をしのんでもらいたい。
しかし、電車で帰りを急ぐ諸君は、
暗い海上などを振り向いても見まい。