KGR初ボランティアを終えて考えた、日本のトレイルランニング・カルチャーとスポーツ文化。トライアスロンとトレイルランニングを長年行ってきた市民アスリート目線でひもときました。
サマリー
このエピソードでは、トレイルランニングとトライアスロンの文化、特にそれぞれの歴史や発展について語られています。KGRというトレイルランニングレースを通じて、競技の多様性や個人の経験と成長についても触れられています。トレイルランニングは2000年代初頭に草の根的に広がり、独自の文化を築いています。同エピソードでは、トライアスロンとの違いや熊野古道を舞台にしたトレイルランニングの出会いについて語られています。また、日本のトレイルランニング文化と、その背景にある修験道の関連についても探られています。トレイルランニングがスポーツとしての特性や文化的な側面の豊かさをどのように表現しているかに焦点が当てられています。トレイルランニングとトライアスロンにおけるスポーツ文化の違いについても触れられ、地元の理解やボランティアの不足が大会の運営に影響を与えていることが述べられています。また、日本におけるスポーツ振興の文化の欠如と、ヨーロッパの多様なスポーツ文化との対比についても考察されています。両者がどのようにスポーツ界に影響を与えているかについても議論が行われています。
トレイルランニングのボランティア体験
ラジオ版、今日も浜曜日。私になる僕になる、食うのも走る人生。
この番組は、浜幼稚園の61歳のチーフディレクターでトレイルランナーのハタが、
幼児教育とランニングに満ちた毎日の中で、今語りたいと思ったことを気軽にお話しする番組です。
僕の経験や考え、そしてささやかな挑戦が聞いてくださる誰かの心に、少しでも響いてくれたらいいなと思ってお届けします。
どうぞあれこれしながら、気軽にお聞きください。
12月30日火曜日です。
昨日、京都グレートラウンドというトレイルランニングレースですね、略してKGRと言われているんですけども、
そのレースのエイドステーションのボランティアに初めて行ってきました。
KGRというのは200キロ、130キロ、160キロ、80キロ、70キロ、30キロの6つのレースで、
スタートは大津ですね、琵琶湖の大津で、130キロ、200キロ、160キロは京都をぐるっと一周してくるみたいなコースで走るトレイルランニングレースなんですけども、
だいたい200キロは二晩、130キロ、160キロは一晩を過ごして開けてゴールする。
今、続々とゴールに帰ってきている今の時間は13時24分なんですけども、最終ランナーは3時40分に帰ってくるらしいです。
僕は昨日、嵐山ですね、京都の都喫郷の近くの乱山亭の前のむすびスイーツカというところの場所、店の前をお借りしたエイドステーションで設営から、
撤収は最後、残ってやってくれるということなので、ある程度の撤収まで、午後の2時から夜の22時30分くらいまでボランティアをしてきました。
面白かったですね、すごく興味深かったし楽しかったしね、あんまり寒くなかったので、ボランティアのために作ってくださったというマフラーは使うことがなかったのですけども、
トレイルランニングの歴史
むちゃくちゃ暖かそうな、暖かいと思います。使ってないのでわかんないんですけど、見るからに暖かいマフラーだったんですけども、それを全く使わなくていいほどの気候でしたけども、
ランナーの人は暑いって言ってる人がいて、寒いって言ってる人はいないんだけど、タンクトップの人、一番薄着の人はタンクトップの人、途中雨も降ってきたので嵐山に入る前にレインパンツ履いてる人、着込んでる人がいるかと思えばTシャツに短パンの人もいるし、
ジャケットなしの人もいるし、ウィンドブレーカーの人もいるし、様々でしたね。本当に人間それぞれだなというのはすごくよくわかる。
だから体感の感じ方っていうのは全然違うから、例えばトレールランニングレースっていうのは人の装備が気になるんですけども、
今日はこのレースはこれぐらいの気候になるからこんな装備で行こうと思うというのを人に尋ねても人から聞いても自分には全く適応できないというか、参考にならない場合も少なくないし珍しくないという競技ですね。
それがまた面白い。その気候に合わせて、自分の体調に合わせて、山のプロフィールに合わせて考えるっていうのが面白いんですね。
今日はその流れでちょっとトレールランニング会になってしまうので、トレールランニングとか、それからトライアスロン、僕が30数年前、20代の半ばからやっていたトライアスロンとの比較をしながら、
トレールランニングのことについて、かなり多分これは話し出すとすごく長くなると思うんですけども、話したいと思います。
山のプロフィールというのは2000年代の始めと言われていますね。しかし、それ以前から日本の中で山を走るっていう、そういう楽しみ方、山の楽しみ方っていうのはあったんですけども、その中でやっぱり発祥は登山ですね。
登山から、登山のトレーニングとして走り始めるとか、そういうことが多かったように調べると出てきますね。
一番古いレースっていうのは富士登山競走ですね。富士登山競走が1948年に始まっているらしくて、一番古いんですね。
単純に発祥からすると、日本で一番高い山をゼロメーターから駆け上がるという、そういう競走というのは分かりやすいと思うんですけども、
そういう富士山の駆け上がるというレース以外に他に何があったのかなというところなんですけども、実は1980年代に山岳マラソンっていう一つのジャンルっていうのがあったんですね。
その頃に出された下島圭さんの本の山岳マラソンの本があるんですけど、今日話すのにその本持ってくるの忘れたので、正確な名前がわからないんですけど、当時僕も買っていて、
1980年代から盛んになっていたようですけども、その頃、1980年から90年代にかけては、西の六甲全山十相タイムトライアルと東の富士登山競走、そのくらいしか、
1980年代から90年代初めにはそのくらいしかなかったようで、東西で。僕自身は1980年、89年にも出てたかもしれないですけども、記録に残っているのは1990年の六甲全山十相タイムトライアルに出場して、それは鮮明に覚えていて、
それまでは全山十相大会かな、全山十相大会と全山十相タイムトライアルというのは明確に違って、その名の通り十相大会というのは今も行われていて、走ってはいけないんですね、歩いて六甲山の西の端から東の端まで歩くという大会なんですね。
主催は産学協会かな、産学連盟とか、勤労者産学連盟かな、兵庫県勤労者産学連盟かな、そういうところが主催している。
タイムトライアルも同じく、産学連盟の人たちが主催してくださっていたんです。
六甲全山十相タイムトライアルには、日本でその頃山を走る競技というのがなかったんですね、その登山競技、富士登山と高校屋敷か。
日本中からその者たちが集まっていたんですけども、僕はその頃トライアスロンをやっていたので、トライアスロンは夏場の競技で、冬場をトレイル、その頃トレイルランニングという言葉はなかったんですけども、
トライアスロンの発展
近くの六甲山、山、自然が好きなので、六甲山に走りに行ってたんです。
出会って、六甲全山十相タイムトライアルに出たんですけども、30歳以下かな、年代別で表彰されるぐらい走れたんですけど、
その頃で、スマウラ公園から宝塚の塩平寺までを42キロかな、校舎を50何キロって言ってるんですけども、ちゃんと測ると42キロぐらいしかないんですけど、それを5時間15分ぐらいで走りました。
今では考えられないんですけど、今だと多分8時間半から9時間ぐらいはかかると思うんですけど、それぐらいで走ってたんですね。
それが僕の一番初めのトレイルランニングの始まりだったので、歴としてはもう30年ぐらいになるんですけども、その頃やっていたトライアスロンですね。
トライアスロンっていうのは、アメリカで生まれて、ハワイでアイアンマントライアスロンっていう競技に発展して、
そのアイアンマントライアスロンというのが、3.9キロ泳いで180キロ自転車乗って42.195キロ走るという3つの競技を連続して行う、それを1日でフィニッシュするというレースですけども、
それが日本にやってきたのも1980年代の半ばかな、初めかな、初めぐらいで、僕が一番最初に出たのは88年かな、89年かな、だったと思うんですけども、
ちょっと余談になりますけど、僕のデビュー戦、デビュー戦がその頃、明石ですね、兵庫県の明石、神戸市の西の隣にある、でやっていたトライアスロンレース、ショートのレースですね。
1.5キロ泳いで40キロ自転車乗って10キロ走るというレースに初めて出たときに、実は招待選手だったのが神さんだったんですね。
もうその頃有名なアマチュアでトップアスリート、トライアスリートになっていたという、そういう曰く付きというか関係があるんですけども、それは置いておいて。
トライアスロンっていうのはアメリカから来て、最初というか早い段階から体育系のスポーツとして、早い段階から競技団体、トライアスロン連合とかトライアスロン協会とかっていうのがあって、
早い段階から2つの団体が立ち上がって、1つに統合されて日本トライアスロンシリーズ、ジャパントライアスロンシリーズ、JTSというシリーズ戦が行われたり、
どっちかというと、そういうアスリティック系のスポーツ競技という文脈で普及されていきました。
ですから、各地に競技団体があって、全日本で統合する団体があるという、そういう組織が早くからあって、僕たちは大阪を拠点にチームを作って、
梅田にあるスポーツクラブの仲間でチームを作ったんですね。
僕がリーダーとしてチームをまとめるっていうことではないですけども、一緒にやっていて、多いときで30人ぐらいチームメンバーいたと思うんですけども、
今でいうトレラン会、ランニングカルチャー会でいうグループラン。
グループランっていうのをその頃から、1990年ぐらいですね。
90年ぐらいからグループランを毎週何曜日にやって、グループスイムを何曜日にやってって言って、みんなで仕事終わりに集まって練習会をしていました。
だいたいグループラン、やってる頃は7時ぐらいからグループラン行って、帰ってきて1時間ぐらい走ってきて、8時半から10時までスイムをするという、
そういう仕事してからそんなことしてたんで、仕事終わってからちょっと考えられないんですけど、
まあなんか豊かやなと思いますよ、今考えるとね。
毎日のようにそうやっていて、練習みんなでしてました。
そしてレースにみんなで参加して、駅伝とかトライアスロン駅伝とか懐かしいですけど、琵琶湖であったトライアスロン駅伝出たりとかしてましたね。
いくつか大阪にも有名なクラブがあって、一番大きなのはクラワンカですかね。
クラワンカ、アペックス、池田のアペックス、大阪の南のほうの頭脳が3大かな、3大クラブ。
もう何十人、もう100人超えぐらいの、クラワンカなんか100人超えぐらい変わったかと思うんですけど。
うちはスポーツクラブのチーム109っていうチームを作って、ユニフォーム作ったりして楽しんでたんですけど、うちは4番目ぐらいだったので、
大阪トライアスロン協会かな、連盟かな、その団体にも僕は理事として出なくちゃいけない。
多い人数のチームからは1人出さなくちゃいけないということで、連盟のほうに出て行って会議したりとか、運営を作ったり、
競技会ですね、その頃グリンピアミキーとか大阪ワンでのトライアスロンレースを主催するのにボランティアで参加して、何年かやっていたんですね。
今やっている自転車のレース、シークロクロス、今やってるって偉そうなこと言いましたけど、今年始めたんですけど、
まだ2戦しかやってないし、完走すら、完走はしてるらしいんですよね、ルール上完走なんですけど、みんなが3周のところ2周しかできてないでカットオフされるんですけど、
そのシークロクロスというのも、トライアスロンもまずレースに出るためには、JDSというシリーズのレースに出るためには、
全日本トライアスロン連合のレースに出るためには、まず協会に所属しなくちゃいけなくて、各地の協会に所属して、入会金、年会費払って、個人のIDが発行されて、それからエントリーできるというシステムが確立されていたんですね。
そういうことは、古くからある陸上競技だとか、自転車競技の世界では当たり前のことだと思うんですね。
シクロクロスのレースも最初に自転車の協会に登録して、ライセンスカードを発行してもらって、参加しているわけなんですけど、
何が言いたいかというと、トレイルランニングというのは、全然そういうふうにスポーツとしてはっきりと組織が構成されていて、大会の共通したルールがあってというようなものでは全くないんですね、現状。
トレイルランニングの始まり
導入のされ方も全然違う、とても草の根的に一部のトレイルランニングが好きな人たちが草の根的に始めた大会というのが、いくつか各地に同時多発的に生まれたというのが2000年代の始めだと認識。
そういうふうに僕はしています。
ラストランナーまで、ほぼラストランナーを見てきて、やっぱりトライアスロンとは全然違う。時間も全然違いますし、速度も全然違う。競技の速度、競技が進行していく速度も全然違うので。
トライアスロンもエイドステーションというのがありますけれども、トライアスロンのエイドステーションとは全然違うんですね。
トレイルランニングというのは、そういうスポーツ競技の文脈とは違う草の根で起こって、各地で運営されている大会ということで、スポーツというよりカルチャーというほうがあっているかなと。
というふうな広がり方をしてきたものだと思います。
僕は2000年代の初め、日本にトレイルランニングというのが広がってきた、始まった時期というのは、実のところランニングから遠ざかっていたんですね。
遠ざかっていたというのは、やる気がなくなったというのではなくて、過ぎてなくなったというのではなくて、生活的に事情があって、自分の事情でやめざるを得なかったというところがあって、
10年間離れた、ほぼ競技から離れた形の時代にトレイルランニングというのがいつの間にか出てきていたんですね。知らぬ間にです。
ですので、詳しくは、その早々期のトレイルランのカルチャーが生まれてきた時には、一番最初の頃にはあまりレースに出たりとかは関わってはいなかったんですけれども、
初めて参加したトレイランという名前のレースで初めて参加したのは2007年かな。
今後、高野山から和歌山、熊野、熊野の本宮大社までの、いわゆる熊野古道ですね。
熊野古道の一つのコヘチという70キロの道のりを走るトレイランコヘチという名称のトレイラン大会でした。
これは、昨日参加したボランテージで、今日もまだ今走っているKGRとの文脈の以前に、日本でおそらく初めてぐらいのノンマーキングのトレイルランニングレースでした。
事前に地図を渡され、iPhoneもないですから、2007年、8年、9年、10年、iPhoneもないですから地図を渡されるんですね。
主催者から地図を渡されて、地図を読みながら進んでいくんです。
エイドステーションはなし、主催者は1人、スタートしてから主催者にほぼ会わず、コヘチは全く会わないから、ゴールで主催者が待っているところに誰も、ゴールテープあったかな、ゴールテープあったかもしれない。
多分、主催者が持ってくれているのかな、誰かが持っている、先に入ったランナーとか持っていたのかな、とにかく運営者がいないんですよ、主催者以外に、ボランティアとかいない、そういうレースが初めてだったんですね。
そのレースを主催しているのが、これまた面白いことにトライアスリートなんですよ。
京都のトライアスリートで前田義久さんという方なんですけれども、僕は直接的には面識は、もちろんトレーランニングレースの主催者と選手という関係では存じ上げているし、お話もしたことがあるんですけれども、
もともと知っているのはトライアスロンですね。
トライアスロンで、前田さんは1983年の第3回宮古島トライアスロン。
宮古島トライアスロンが第3回という、そういう時代にトライアスロンをやっていて、日本のトップアマチュアトライアスリートだったんですね。
日本のトライアスロン例明記を代表する選手の一人というふうに言われて、1987年ですね。
宮古島トライアスロンの第3回、1987年です。
男子一位、総合優勝を果たされた人なんですよ。
そういう人が、ちょっと走れなくなったそうで、身体的に。
で、その後トライアスロンを離れて、トレーランニングとか走ったり、自転車とか、泳ぎはなかったように思うんですけれども、主催する、一人で主催するようになったということなんですけれども。
ちょっと調べると、京都トライアスロンクラブの名誉会長とかにもなっているらしくてね。
面白い人なんですよ、前田さんって。面白い人なんです。
そういうアイデアがあって、そういう実行してしまうというね。
そういう面白いトレーランニングレースを実行してしまう人なんですけれども。
で、その前田さんが主催する2007年の告白地というのが、ノンマーキング、ノンボランティアですね、のトレーランニングレースで。
で、僕自身は一度ランニングから離れて、そういった、もう一度ランニングに戻ってくる時に、どこを走ろうかな、何に出ようかな、フルマラソンという選択もありましたけれども。
フルマラソンも離れる前まではサブスリーというのをね、3時間、42.19キロ、3時間切りで走るというのが、市民ランナーの一種の目標で憧れであって、みんなそこを、みんなというか、早い人はそこを目指したい人もいる世界なんですけれども。
僕も何度かサブスリーをしていて、一番のベストはフラットなレースじゃないんですよ。
一番、その頃関西では一番アップダウンの多いというふうに言われていた、実際そうだと思いますけれども、奈良アスカひな祭りマラソンというのがあって、そこで2時間50分出したのが一番ベストだったんですね。
で、それを出してから10年ぐらいブランクがあって、復帰するときに、熊野古道、熊野古道というのも全然あれだったんですけれども、興味があったわけじゃないんですけれども、
仕事仲間の人から聞いていて、熊野古道というのがあるね、歩いてるねという話を聞いていたことがふと思い当たって、思い浮かんで、
で、調べていたら前田さんが主催しているこのコヘチ、トリュランココヘチ、その頃はコヘチ、大ヘチ、伊勢寺、そして大峰奥崖道のレースを主に、中ヘチもあったと思うんですけれども、
そういった熊野古道を中心にレースを作ってくれていて、僕が参加したんですけれども、それがトレイルランニングとの出会いですね。
熊野本宮とその意味
熊野古道は全くそのように興味があったわけじゃないんですけれども、トレイルランニングとのつながりで、ランニングとのつながりで、熊野古道に行ったときに、
初回に出た2007年のコヘチで、果てなし峠というとても美しい峠があるんですね。
ずっと延々と、いつまで続くねんこの登りというような登りを、ずっと初めて出るトレイルランニングレース、トレイランという名前のレースね。
6個全団重装タイムトライアルで、いわゆるトレイルを走るレースは出たことはあったんですけれども、
トレイランという名前になってから、その文化が来てからは初めてのレースで、果てなし峠という峠を登っていくと、
まず道のずっとその峠を登り始めて降りるまでにずっと観音さんがあるんですよ。置いてあるんですね。
遠感覚ぐらいにずっと。そしてその観音さんを見ながら見つつ歩いていて、そして峠の一番上、最高峰に上がるとパッと視界が開けて、
それまでは森の中、森林の中、あまり眺望のない道をただひたすら登る、登り続けるっていう延々と、いつ終わるのよっていう感じの道を登るんですけども、
一番上に着くとパッと視界がいきなり開けるんですね。畑、美しい花が植えられていたり、畑、作物が植えられている畑がバーッと広がるんですよ、上に。
で、民家があって、その民家の軒下を進む、進む箇所もあったりして、その光景がすごく本当に天国っていうような形容ができそうなくらいに美しい風景、日本の風景ですよね。
そこを越えて降りていくときに、ずっと観音山がまたあるんですよね。そういう森を、山を進んでいくときに、今までと六甲山とは全然違う感覚を得るんですよ。
小平地、すごく古い道なので、開発されていない原生林、杉の何百年という杉がねじり曲がった大木、杉の大木があったりとかっていうところを歩いていったときに、すごく霊気みたいなものを感じるわけです。
感覚的に感じて、歩いたり走ったりしている中で、森の霊気にさらされるというか、それを感じて、これは何なんだろう、何なんだろうというのを思って調べていくと、
そのレースの到着は熊野本宮ですね。熊野本宮ということの、熊野本宮の意味も知らずに出たんですけども、熊野本宮は日本第一神社と言われているところですよね。
江戸時代には、ありの熊野坊で、日本中から人々が熊野に参景しに来るという、その参景堂が小平地、中平地、大平地、伊勢寺。
修行の道が大峰奥崖道、その道が世界遺産になっているという、道の世界遺産というのは世界に二例しかなくて、一例は熊野の吉野大峰、熊野古道の参景道と大峰奥崖道、
日本のそれとスペインのサンチャゴデコンポステラの道だけしかないんですよね。そういう世界遺産になっている。
その道に出会って小平地で熊野本宮に行った時に、そういう熊野本宮というのはそういう古い神社であり、すごく霊言新たか、よみがえりの神様と言われていますよね。
ヤタガラスという三本足のカラスがいて、多くの人におなじみなのはサッカー日本代表の守護神というか、守護動物というか、とてもアニマルというか、ヤタガラスですね。
ヤタガラスをシンボルにしている神社が熊野本宮ですね。
熊野本宮に行った時に、そういう熊野本宮の由来をたどると、おのずと出てくるのが守玄道であり縁の行者さんですね。
その縁の行者さんと守玄道というのにたどり着いて、これはもう導かれていると思うしかなかったというか。
幼稚園を始めて、だから5年目ぐらいか、5年目ですよね、2007年。
5年目にランニングを再開して、ランニングを再開したというのは、娘が小学校に行くようになって、
朝早く電車に乗って登校するというスタイルになって、朝の習慣になって、その娘を送り出すと同時に自分も走りに行くという、
そういう毎日の習慣、ルーティンができることになったので走ることが再開できたということなんですけれども、
そういう流れでランニングを再開して、トレイルランニングに出会って、大峰奥がけ道、駒野本宮にたどり着き、守玄道にたどり着いて、縁の行者にたどり着いて、
これはもう守玄道というのをちょっと調べないとねと思って、守玄道を調べると、大峰奥がけ道というのが縁の行者が開いた修行の道ということがわかったので、
前田さんが主催しているレースの中にもトレイルランニング大峰奥がけというのが一番最高峰のトレイルランニングレースとして前田さんのところで行われていて、2回参加させてもらいましたね。
全長100キロ、大峰の奥がけ、もうすごくそれこそ本当に霊地ですから、本当に霊気を感じるありがたい道なんですけど、
千日開放行という一番厳しい修行ですね、この400年の歴史の中で2人しか完遂していないと言われている修行ですね、千日開放行。
比叡山の方の千日開放行は何人かいてあるみたいですけども、この吉野大峰奥がけ道の金布千日の千日開放というのは2人しかできていないという厳しい行があるんですけど、
その行の行が使う大峰奥がけ道を奈良の吉野金布千日から熊野本宮ですね、熊野本宮まで100キロを2日、一泊、ステージレースという感じですね、2日の。
1日目は50キロ走って禅寄っていうところで泊まって、今鬼の末裔と言われている御毅女さんが営んでおられる宿房に泊めさせていただいて、翌日そこをスタートしてまた大峰奥がけ道に戻って熊野本宮まで行くっていうそういうレースに2度参加して、
トレランニングの起源と修行
1度目は時間切れだった、数分時間に遅れたんですけども、2度目で完走できて、その後にもうこれはレースだけではなくて、トレーランニングレースだけではなくて、
金布千日が今その大峰奥がけ道での大峰奥がけ修行というのを一般の人を受け入れる修行を復活させて、誰でもOKで参加できる。
参加の資格は一応その頃は何か文章を書いたというような記憶があるんですけども、なぜ参加したいのかというのを書いたと思うんですけど、その話はまた後日したいと思いますけど、参加します。
修行、これは修行も行かないといけないと思い、そういってもう流れですからねこれはね、抗うことのできない流れとして、こうなればこう来る、こう来たらこうなるみたいな、そういうトントン拍子というか、どんどん繋がっていって、大峰奥がけ修行に参加することになりました。
それが2010年か、2007年に走り始めてトレイランニングっていう世界に足を踏み込んで、それが小ヘチからですね、前田さんの小ヘチから踏み込んで、もうたちまち虜になってトレイランニングの、ただなかなか走力はやっぱり戻らないですね。
戻らなかったですけども、2回大峰奥がけトレイランニング、2日で走って、大峰奥がけ修行に2010年に参加することになったんですね。
日本のトレイランニングカルチャーっていうのは、そして見渡してみると、主源道の山で行われているトレイランニングレースが割とあるんですね、各地に。
主源道というのは山岳宗教と様々な宗教、仏教、儒教、道教とか、そういういろんな宗教が混ざった宗教と言われる、仏教の中の一つの派生しているものというふうに思われがちですけども、
仏教の中の一つではないよと言われてますよね。仏教とは全く別の流れだけど、お寺っていうものが大峰三寺というものと、もともとそこが金布仙寺だったらしいですけども、
吉野の金布仙寺で、そこに沢尾厳元さんがいてあるというような形になってますけども、
そういう主源道、金布仙寺を中心に日本各地に縁の行者が開いたという修行の場とかお寺があって、その山を使ったトレイランニングレースっていうのが各地にあるんですね。
そのトレイランニングレースの大会名に修行道とか、そういう修行僧とか、そういう名を冠したところもあるし、寺をスタートするとか、レースもあるんですけど、
実は金布仙寺をスタートして、金剛仏寺をゴールするっていう、神保太子の道っていう、神保太子が若い頃に歩いて修行した道っていうのを、
聖誕1200年かな、神保太子聖誕1200年だと思うんですけど、何を検証してかちょっと俺は覚えないんですけど、
記念をして神保太子の道を復活させるっていう事業の一つとしてトレイランニングの大会を起こしたんですね。金布仙寺をスタートして、金剛仏寺。
それには主催者の、自己委員会が主催者ですけども、金布仙寺も絡んでいるんですが、金布仙寺がそのレースに関わる、金布仙寺スタートなんですね。
宿望、東南陰という宿望、金布仙寺の達中って言われるところですかね、宿望に選手たちは泊まって、翌朝スタートするんですけども、そのレースの前に僕は、そのレースが何年かかな、何年にできたのかな、ちょっと覚えてないんですけど、調べずに話しているので。
その前に僕は金布仙寺で修行してて、僕がトレイランナーだということを初めて、トレイランナーとして初めて修行に来た人として、僕は金布仙寺の人たちに迎え入れてもらって、散々な目に遭うんですけど、またその話は別にしますけど。
散々な目に遭って、僕が人柱のようにトレイランナーってなんやねんって思われたっていうことがあって、そういうことがありながら金布仙寺はトレイランニングっていうのを受け入れて、工房大使の道のトレイランニング大会を開いたという経緯があるんです。
それには株楽さんが絡んでいるわけですけども、そういうところでトレイランニングと山岳宗教、修玄道というのは切っても切れない関係になっているんですね。
装備と環境意識
そういうところがトレイランニングがカルチャーとして神話性があって、スポーツとしては神話性が低いっていうような見られ方をするゆえの一つかなというふうに思っています。
昨日見ていて、本当に様々なランナーがいるんだなというのを改めて思いましたね。
例えば一つ、いろんなトレイランニングにそういう長い、例えば今日のレースで言うと何時間、200キロの人は46時間かな、そういうレースですね。
2晩超えるとか1晩超えるとか、そういうので寒いとか暑いとかいう中で装備がすごく大事になってきて、どんな装備を持つかという、大概から指定されている装備、命に関わることですから指定されている装備とか、自分で独自に考えて用意する装備があるんですけども、
その装備の一つに150ml以上のカップ、マイカップですね、マイカップを用意することってあるんですね。ほぼほぼどんな大会もあるんですよ。
それはおそらくヨーロッパのレースでトレイランニングレースでそういうカップを用意するということは何のためかというと、おそらく環境保護とかそういうエコロジーやサステナビリティを考えたときにゴミを出さないということですよね。
そういう使い捨てはしないというところから来ていることも大きいのだろうというふうに思われますよね。
エイドステーションに大量のゴミが出るっていうのは、自然の中でするスポーツとしてふさわしくないというような文脈で、そういうルールが行われるのかもということが予想されると思うんですけども。
日本もトレイランニングというスポーツはアメリカから日本にやってきて、そしてまたヨーロッパに目が向いて、UTMBですね。
目が向いてという、UTMBだと言ってもいいと思うんですけど、目が向いてというようなスポーツのルールの中に筆形装備というのがさまざまあって、その中の一つにマイカップ150ミリリットル以上のコップを傾向することということがあるんですけど、
昨日見ていた中で、本当にさまざま、マイカップって大抵こういうもんでしょみたいなと思っていたものとは全然違うものが出てきてびっくりして、改めて奥が深いなと思ったんですけど、
スポーツというジャンルでくくると、こうはならへんのちゃうかなと思いましたね。
例えば、一般的に僕も持っているんですけど、マイカップというのはやっぱり折りたたみができるようなジャバラのプラスチックのコップとか、ちょっと折りたたんだりコンパクトにできるようなコップ、
ちょっと柔らかいふにゃっとしたコップというプラスチック製のコップを想像するのですけども、実際そういうコップが売られているわけなんですよ。
ところが昨日見たので、一番面白いとは言えへんかな、一番エコな人って言えるかな、牛乳パックね、1リットルの。
あの大きさは1リットルやな、1リットルのほうがコンパクト、細いですよね。
1リットルの牛乳パックの底から、たぶんちょうど150ミリリットルぐらいになるような高さの位置でハサミで切ったもの、それを折りたたんでポケットにしまっている。
それを毎回取り出して飲んでいる人っていうのがいらっしゃったんですね。
これはエコやなと思って感心しましたね。
しかも折りたためるでしょ、そして軽いでしょ、そしてリユースなんでお金かかってないんですよ。
コップとしてお金かかってない、牛乳として買ってるだけなので、それをリユースしているっていうのは、リユースって言わないのか、リサイクルっていうのか、するっていうのはこの発想はなかったなという。
で、それオッケーなんですよね。
150ミリリットル以上入るコップとして、携帯するコップとして、あるいはマヨネーズのボトルですね、ボトルをカットしたものとか。
マヨネーズのボトルはちょっとまだ理解できていたんですけど、牛乳パックを何回も使えるっていうのはなかなかなかったですね。
きれいに折りたたむ方法がありそうだったんですけど、ちょっとね、その方来られたときにボリュームゾーンだったので、詳しくお話しするような時間はなかったので、もうさっと行かれてしまったんですけど。
あと、なんか見たことないようなボトルとか出てくるんですよね。
大きいものとか、ただっていうか、折り畳みできないコップ使っている人もいますよね。
いますし、めっちゃ大きいタンブラーみたいなコップ使っている人もいますし、
中身もそうだ、容器だけではなくて、中身もそれ何ですかみたいなつぶつぶが入っているような、
中葉食品みたいな飲み物を作って貼る人とか、
それはすごいスペシャルドリンクですねっていうのを声かけたんですけど、
お腹が自分弱いのでみたいな、自分で独自に作っているんですって言って貼ったりとか。
スペシャルドリンクもさまざま、ドリンクの作り方もさまざまですね、面白かったですね。
それは本当に個人の文化、個人の文化がこういうスポーツ競技に溶け込んでいるということを感じて、
日本山岳耐久レースの歴史
レトレラーニングっていう文化が豊かになっている様子を見て取れたんですね。
服装も本当さまざまでしたね。
これはランナーとしてレースに出るだけではやっぱりわからないですね。
周り見渡しただけではわからないですね。
エイドステーションでいて、ルカラこそわかった。
そこでいろんな諸差が出てきますから、
トップランナーでもこんなにボトルをバックパックのボトルを入れるスリーブに入れるのにこんなに手こずるんやとか、
出すのにこんなに手こずってるんやとか、
トップランナーでもボトルのキャップつけてるんやとか、
キャップつけてキャップがまた絡んで取り出しにくそうにして貼るんですよ。
それでもこんなに早い人がそんな面倒なことを採用しているキャップつけてるっていうのが面白いなと思って。
全然ライトアンドファストを徹底していないっていうこだわり、
個人のこだわりっていうのも面白いなと思って見ていたんですね。
それはスポーツ純粋なとは言わないけど、
スポーツっていろいろルールをすごく厳格にしていくじゃないですか。
例えば最近の陸上でいうと厚底シューズとかっていうのが、
それを何ミリとか反発力がどれぐらいとか分からないですけど、
そういう厚さを再現なくするとか、そういうことっていうのは規制が入りますよね。
そうやって一定の枠の中に収めていくっていうのがルールだと思うんですけども、
どれらもその一定の枠が緩い。
個人のアイデアとか工夫に寛容であるっていうふうなことを、
昨日改めて感じたんですね。
そういったことが個人の文化、ここの文化を尊重する文化、
ルールというか文化がトレーラーニングっていうスポーツにあるんだなということを改めて感じた次第です。
トレーラーニングの歴史の中では覇説は欠かせないですよね。
今もありますけど、日本山岳耐久レース。
これもトレーラーニングっていう名前の順、厳密に言うとトレーラーニングのレースではなく、
日本山岳耐久レースなんですよね。
山岳耐久レースになって1993年から始まっているということなんですけども、
僕はちょうどこの頃からレースから遠ざかっていって、逆にトレーラーニングとしてはこの頃から徐々に日本に浸透していったというところなんですよね。
日本は森林の国で山の国ですよね。
国土の80%が森林であるということですけど、
日本でやりやすいスポーツだなというふうに思いますね。
トライアスロンがどんどん競技として成り立たなくなっていった、
トライアスロンの文化と課題
2010年代以降かな、どんどんなくなっていって、
アイアンマンジャパンというのが僕たちが毎年出ていて目指していたレースですけども、
それもバブルキーに10年契約、デンツーが10年契約で引き受けて運営をしていたレースだったそうですけども、
それも10年きっかりで終わって、1990何年で終わったかな、7年か8年かな、2000年になるまでに、2000年ぐらいまであったのかな。
僕は6年か7年を最後にだったんですけど、
都市部、都市部というかトライアスロンも田舎でやりますけど、
とにかく行動を長時間使う、バイク180キロですから、
周回するにしても距離の長い距離の行動を占有するわけではないですけど、
でもアイアンマンジャパンは片道占有してました。やっぱり人数が多いから占有しないとやっぱり危険ですよね、バイク競技って。
だから占有する。そこにはやっぱり地元の理解がないとできない。
地元の理解だけではなくて、やはり幹線道路、大きな人数を走らせようと思うと国道になるので、
そうするといろんな物流を妨げる、通行を妨げるわけなので、1日とはいえ費用が妨げられてしまう。
そこには、たかが数百人のスポーツのために、なぜ道路を閉鎖する。
閉鎖ってもちろん片側だけで片側通行したりしたけども、別に止めたりはしなかったと思うんですけど、
そういうことをすることに対する抵抗感、需要されなさみたいな、
一部の人のためになぜ我々が日常道路を迂回しなければならないのかとか、
そういったことがカルチャーとして浸透しないことが、市民権を得られないことが最大の続かない。
それからボランティアですよね。理解していただけないので、ボランティアも集まらない。大変。
大体ボランティアは、今もマラソン大会、多くのマラソン大会もそうかもしれないですけども、
今も地元のシニアの方と学生たちが動員されるボランティア。競技者たちですよね。競技者たち。
そのスポーツもトライアスリー、トレイランニングがそんな感じですよね。
トレイランナー、ボランティアのほとんどがトレイランナー。トレイランニングの大会のボランティアのほとんどがトレイランナー。
あと地元の人が少数いて、トレイランニングに至ってはそんなにボランティアの数も、100枚レースになると多いですけど、
富士はあれか、学生たちも動員されてるのかな、どうだろう。
今UTMFとかという名前で始まった、UTMFも僕は第一回に完走してますけど、
今は僕出てないのでよくわかんないですけど、地元の人たちは割と多かったですね。UTMFは割と地元の人多かったかな。
他のローカルなレースはやっぱりトレイランナーがトレイランナーによるトレイランナーのための、みたいになってますよね。
そんなに地元の人、ボランティアいない。
そこがトライアスロンもやっぱり認めてもらえなくて、日本中にあったレースがどんどんなくなっていった。
続かなかった要因かなと思っています。
トレランニングの文化
ヨーロッパのUTMBに行くと、やはりそのスポーツに対する寛容さというか、文化道の違いをひしひしと感じます。
ボランティアのほとんどの人たちがトレイランナー、トレイランナーは本当に少ない。
パッと見たところ、ほとんどが地元のシニアの方たち、あるいは三角地の厳しいところはやっぱりトレイランナーみたいな人たちが多いですけども、
街々に降りてきたら、だいたいその街の人たちがやってくれている印象です。一般の人たちが。
で、歓迎してくれる。
で、受付なんかもそうだし、エイドステーションもそうだし、装備チェックなんかも裁量が与えられているので、ボランティアの人に時間がなかったら行っていいよみたいな感じでスルーしてくれる。
本当は良くないんだろうけど、僕はテイルエンダーなので、関門切りで走っているので、そこでスルーしてくれたりとかあるんですね。
そういう街を挙げて歓迎するスポーツっていうことの大切さ、人にはこういうスポーツをするっていうことが良か、良かと言っていいのか、趣味か。
そういうものに対する寛容さ、スポーツは生きることに不可欠であるって大事な、アートとか、要するに仕事以外のことですよね。
簡単に言うと遊び。遊びが本当に人にとっては大事で、大人になって真剣に遊んでいる人を真剣、真剣にとは言わないけど、本当に歓迎する。
で、たたえるもちろん。UTMBで帰ってきたら、ゴールに帰ってきたら、誰からなく叩いてくれる、迎えてくれるっていう文化。
日本で走ってて帰ってきたら何してるっていうのは、木の目では見られるけど、頑張れって応援してくれたりとか、KGRでも街中いっぱい走りますけど、僕はKGR出てないので分からないですけど、
言ってみたら、嵐山は街中ですよね。街中でエイドステーションをやってるけど、みんなが立ち止まってランナーを応援しているとか、遠藤の人たち、遠藤というか嵐山ですから観光客いっぱいですよ、外国人の人もね。
その人たちが応援する声なんか全然聞かなかったですね、昨日。ボランティアしていて、ランナーが何百人、昨日600人ですね、エイドステーションに入ってくる嵐山の街中を走って。
そこで大きな拍手が沸き起こるっていうのはないですね、ないです。
だけどUTMBでは、街に降りてくるたびに、その街の人たちが応援してくれる姿があります。その人たちに迎えられるですね。
そういったスポーツに対する、遊びに対する理解、寛容さという理解ですよね。理解が日本は本当に少ない、遅れている。
だけど国民性として、スポーツよりも芸術の国なんかとか、スポーツよりも文化の国なんか、文化のほうが好きなのか、芸術のほうが好きなのかというとそうでもない。
そうでもないどころか、どっちかというと世間にスポーツを主に観戦かな、観戦すること大好きですよね。
プロ野球とかサッカーとかラグビーとかテニスとかゴルフとか、野球は地上派からだんだんなくなっていってますけど、スポーツを見るカルチャーっていうのはある、存在するはずなんですね。
プロスポーツ、競技スポーツ、そういう優れた技術に驚いたり叩いたり、トップレベルのね、そういうのを見るのは好きなのに、
市民スポーツ、市民が参画するスポーツ、マイナースポーツに対する、マイナースポーツだけじゃないが、マラソンなんかも別にそんな大歓迎されているレースっていうのは少ないのかもしれない。
少ないというか多くないのかもしれないけど、そういったスポーツに対する価値観が全くやっぱり違うなと思うんですね。
ヨーロッパ、アジアどうだろう、アジア行ったことないので、アジアも似てるのかもしれない、日本と、っていう気がしますけど。
米も僕は知らないけど、ヨーロッパはやっぱりクラブスポーツ、大人から子供までが一つのクラブで自転車乗ったりとか、水泳したりとか、テニスしたりとか、そういう文化が昔から、昔からって言っても100年ぐらいかあるみたいなようなので、
やっぱり人にとってはスポーツするっていうことは欠かせないことだし、喜ばしいこと、肯定されるべきものであり奨励されるものというふうに見られていて、
日本では一部の人がするもの、誰もがやればいいっていうものではなくて、一部の人が好きでやってるので、別に自分は興味なければ無関心であるみたいなところがあると思うんですね。
それはどうしてそうなるのかなというのは、やっぱり学校文化ですよね。
学校文化の中で体育という中で、やっぱり技術を取得していくこととか能力を上げていくことに返上しているようなふうに受け取られてしまうようなカリキュラムの教え方、子供への教え方がこれまで多かったんだと思うんですね。
振り返ってみると、子供たちの運動離れというのが続いていて、それに伴ってやっぱり体力とかも落ちてきているというような調査、研究もありますが、
日本は一定の一つの競技力を上げていくこととか、そういうところには価値を置く。
能力の高い人には価値を置くけれども、市民が遊ぶように楽しむスポーツ、遊ぶように楽しむ、何も生み出さないように、生産性がないように見えるスポーツに対して、
やっぱり価値をあまり置かないように僕は感じますね。
そんな中でトレーランニングというのは、僕は可能性があるなというふうに見ていて、田舎で行われるというところが、やっぱり波及するところが限定的になってしまうというのはこれから変わっていく。
例えば、変わっていくと思うんですけど、例えば神戸で2年前からか行われている世界シリーズ、トレーランニングの世界シリーズ、ワールドゴールデントレイルかな、日本では神戸とどこかでやってるのかな、どこかでやってると思うんですけど、
神戸の真谷山の山域で行われて、世界中からトップアスリート、トップトレーランナーがワールドシリーズの一つなので、年間の初戦で行われて、
それのセレモニーをメーリケンパーク、街中でセレモニーをして、そこからレースは神戸はすぐに新神戸駅、街中というか山路区にある新神戸駅からすぐに山に入っていきます。
布引き、滝の方に入っていくとすぐに山道になっていくので、そういう地形的な利用を生かして、街の中でセレモニーをして、翌日真谷山、山でトレーランニングレースを本格的に開くというようなことが始まりましたけども、
そういうことを通して、一般の人たちがまたトレーランニングというカルチャーに触れて広がっていけばいいなというふうに思っています。
日本のスポーツ文化の理解
山でももともとハイカーが多かったところに、最近ここ10年トレーランナーという人たちが走って、なんか怖いなとかマナー悪いなとかいうようなことも言われたりすることもあるようですが、
あんまりそういうのを見たり聞いたりは、僕自身はしないというか、SNSを見ないので、そういうね。
でも言ってあるようなので、トレーランナーから聞くところによると、そういうのもしっかりと誤解を招くようなことをしないようにしたりとか、分かり合えていて、共存できたらいいなというふうに思うんですけどね。
昨日のレースで中学生の男の子が参加していて、80キロかな、すごいですね、80キロのレースに中学からトレーランニングのレースが出るなんて、そこそこ早かったんですけど、すごいなと。
そういうのを地域のクラブとしてトレーランニングという競技のひとつではあるんですけども、カルチャーが広がっていけばいいのになというふうに思いましたね。
ということで、今日は長くなりましたけども、この話すると長くなるのは分かっていたのですけども、1時間15分、1時間20分話してしまいましたが、今日はこんなところで。
これから、今日は一昨日のバイクライドで腰が痛くなってぎっくり腰みたいになった、これ2回目なので、これは何でかなと思ったっていろいろ調べているところ、やっぱりフォームが悪い。
いつもそこに、ランニングもそうですけど、フォームが悪いということに今のところ自分は原因を求めていて、フォーム改善しなくちゃいけないなと思っているところで、
なのでちょっとスペシャライズド、僕のバイクはスペシャライズドで買ってスペシャライズドのバイクなんですけど、スペシャライズドに行ってフォームのチェックをしてもらう予約を今日しました。年明けにはそれに行きたいなと思っています。
で、昨日本当に腰曲がらなかったんですけど、曲がらなかった、違う違う逆、伸びなかったんですけど、そんな状態でボランティア行って8時間、9時間立ちっぱでボランティアしたら随分楽になりました。
腰が伸びるようになったんですけど、でも昨日と今日は、今日もちょっとおとなしくして、やっぱりどうしよう、ウォーキングぐらいするかな、ちょっと走るのはやめといてほうがいいかな、衝撃はね、あかんかなと思う。
で、バイクかな、バイクをちょっと真面目にやろうと思って、年明けにフォームチェックしてもらいますけど、今日は和風のKICKER Core 2を購入したので、何かというと固定バイク練習マシンですね。
前輪、後輪をローラーにして、僕のは後輪を外して機械につけるやつですけど、室内でもできる自転車練習のマシンですね。
それを組み立てて、ちょっと試し乗りをしたいと思います。
午前中、コーヒー豆を焼いたんですけど、今から、それからあれだな、僕の大掃除の役割は、風呂場とキッチンなんですけど、
うちのキッチンはちょっと普通じゃないので、力仕事というか、割と油汚れとかも普通じゃないので、レンジフードの周りとか、レンジフードをきれいにするというミッションに、
今から向かいたいと思います。
ということで、長時間ありがとうございました。お聞きいただき。ではまた。さよなら。
01:24:10
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