日本の教育制度の現状
こんにちは。英語指導メンタリストのはじめ先生です。このチャンネルでは、思考を変えることによって、英語力と人生を劇的に好転させる決意についてお伝えしています。
今日のテーマは、日本の教育について考えてみた、というお話です。
まず最初に告知をさせていただきます。今週土曜日6月7日、20時からライフスタイルエキスポというイベントで、AIと英語で世界に自分を打ち出そう、個人ブランドのグローバル戦略というテーマでお話をさせていただきます。
今、自分で何かの個人事業をやっている方、あるいは会社経営されている方ですね。もうすでにグローバル戦略を取っていらっしゃる方もいると思うんですけれども、なかなか英語力というものが障壁になってできていないよ、という方もいらっしゃるかもしれないんですけれども、
今、AIを使うと意外といろんなことができるかもしれませんよ、というお話をしますので、興味のある方は、ぜひ概要欄からのURLからお申し込みいただければと思います。
はい、では今日の本題に入っていきたいと思います。
最近、うちの下の娘も高校に入って、最初の中間テストがあったんですけれども、そこでちょっとびっくりしたことがありました。
なんと今、学校のテストも自動採点になってきてるんですよね。
丸がちゃんと先生がつけてるような丸がついてるんだけど、よく見てみると丸の形が全部同じ、バツの形も全部同じ、手書きっぽくなってるけどね。
で、自動採点ができるんだ、すごいな、どんな風にやってるんだろう、この辺は実際に今教育現場にいる方はご存知なのかもしれないんですけど、
僕は離れてだいぶ経つのでね、もう浦島太郎状態で全然わからないんですけれども、ただそうやってテストを見てみると、
やっぱり自動採点できることを前提に作っているので、ほぼほぼ全部記号問題みたいになってるんですよね。
でね、それ見てね、これはどうなのかなーってちょっとね、思ったんですよ。
まあね、一つは、理解できるところは先生がめちゃめちゃ忙しいので、採点業務がそういう自動採点で軽減されれば、それはいいだろうなーっていうのはね、思います。
学校のテストの採点って結構大変なんですよね。テストを作るのも結構大変だし、採点も本当に大変で、大抵みんな家に持ち帰ってね、よなよなやってるんですよね。
もちろんそれって全然残業代も出なかったりするんですけれども、それで点数をね、集計してそれを書いてコンピューターに入力してみたいなこともやって、
それを成績処理っていうのをやったりするのがね、これは本当に大変な業務なんですね。
だからそこを軽減したいから自動採点にするってのはわかるけど、どうなんかなーっていうのはね、非常に僕は疑問に思っちゃったんですよね。
やっぱりね、ずっと本当に変わんないんだけど、日本ってどれだけ何を知ってるかっていうので、測るところがね、あって、それは全然変わんないんですよね。
それでその日本のね、今の知識中心的な教育っていうのがいつから出てきたのかっていうのを、ちょっとね、チャットGPTも使ってね、調べてみました。
どのくらいね、正確なのかちょっとわからないですが、一応出たところだと、まずね、本当にさかのぼっていくとね、平安時代ぐらいになるらしいですね。
平安時代にはですね、大学寮というね、管理養成機関、要するに官僚の養成機関みたいなのがあったんですよね。
で、そこで儒教の経典とかね、漢文とかね、律令制度っていうのが行われていて、それをね、やっぱり筆記試験的な形でね、昇進試験が行われていたと。
で、これね、なんかドラマとかで僕なんかチラッと見たことがあるような気がするんですよね。
で、これね、やっぱり中国の影響がかなり強いらしくて、中国の唐の時代ですね。
科挙、科目の科に挙手の挙っていう、その科挙っていうのがあって、それが中国のそういう昇進制度みたいなのがあるんだけど、それにかなりね、影響を受けていたらしくて、
そこでその時の中国の科挙という試験が、知識とか暗記とかね、文章能力というのが昇進の鍵になっていたということなんですよね。
で、日本ではね、そんなに本格的な科挙というのは導入されていなかったんだけど、要するに知識がある人がより上に行くという文化は、そこに源流があるということなんですよね。
知識を持つイコールエリートへの道という思想というのは、なんともう千年前からあるということで、今でもなんか色濃く残ってますよね。
国家公務員になってエリートになってみたいなね。そして今、国家公務員がやっている官僚制度みたいなものが色々問われていたりするということもあります。
で、その次、こうダーッといって、江戸時代になってもですね、江戸時代に一般民衆に教育が広がっていくわけなんですけども、
儒学というもの、朱子学というのが広がっていって、まず江戸幕府自体が統治をしていくときに、儒教の中でも特に朱子学というものを採用したと。
で、その朱子学というのが知識の体系化していくことであるとか、正解主義だとか、秩序重視という、そんな考え方があったみたいですね。
で、民衆の受けの教育ではですね、寺小屋で読み書きそろばんをやって、それぞれの藩が、今の都道府県みたいなね、藩がやってた藩校というのがあるんですけど、
そこだと、孔子の論語とかね、あるいは漢詩だとか、詩書五経、これは意気描なんかも含むんだろうけど、そういったものの暗章や解釈をやった、この暗章ですよね。
で、武士階級はやっぱり知識によって徳を収めるということが結構重視されたということで、この頃からできる子が漢文をすらすら暗用できるというようなね、知識がある子が優秀だよというようなね、そんな価値観が強く定着していったという流れがあるようです。
そして、開国後ですね、日本は福国共平政策、食産工業というね、国策のもとにどうやって国家を引っ張るエリートを養成していくかということで、教育制度がまた作られたんですけど、その時は近代国家を作るためにフランスとかドイツがモデルにした学校制度みたいなものを導入したということで、
非常に統一試験制度みたいなものを作って、いわゆる帝国大学ですね、今の旧帝大とかっていうのが今でも残ってますよね、強くね、で、それから管理東洋試験、要するにエリート東洋試験みたいなもので、国家のエリートを選抜するという仕組みができていったということなんですね。
大学受験の業界構造
なので、教育の目的っていうのが明治維新以降、国家の役に立つ人材の育成みたいなところにあったというところがあって、そこからですね、テストというものが効率的に人材を奮いにかける手段に使われたと、で、そのためには記憶力、理解力、計算力などを図る試験が従事されたということで、それがずっといって偏差値教育とかいうものになっていったりとかね、して、
今の大学入試に直結してるというようなところがあるわけなんですね。で、それで一体、じゃあ日本の教育の成果ってどうなるかっていうと、まず一つはね、日本ってめちゃめちゃ識字率も高くてね、一般的に教育水準はすごく高いんですけれども、これは残念ながらどんどんどんどん国際的にはプレゼンス存在感みたいなものがどんどん低下してきてしまってるというところがあると思うんですけれども、
それは一体何かっていうと、この辺から僕の本当に意見になっちゃうんですけど、やっぱり特に大学受験というものが非常に大きな産業になっていて、言っていいかどうかわからないけど、利権構造がやっぱりあるんですよね。
大学を、複数の大学を別の日程でこんなにたくさん受けるっていうのは世界的に見るとね、結構珍しいんですよね。これもあんまり言っちゃいけないのかもしれないけど、その大学入試がかなりの収益につながっている。
大学自体もそうだし、その大学入試にまつわる周辺の産業、予備校とかもそうだし、いろいろあるじゃないですか。そういったところの構造的なものが出来上がっちゃってるっていうところも大きいんじゃないかなと思います。
でもこれが一方で、例えばアメリカとかだとね、共通テストとエッセイっていうね、そんなものの書類を使って、オンラインでいっぺんに10校以上に一括出願するのが一般的らしいんですよね。
イギリスとかは最大5校までっていう制限があったり、あとフランスとかドイツとかフィンランドになってくると、そもそも試験すらないと。
学校時代の成績で大学にマッチングするような、そんな仕組みがあったりしていると思うんですけど、やっぱり日本の入試制度っていうのは今でも試験を当日受けるっていう仕組みがあって、
しかも真冬のね、雪が散々降ってインフルエンザになる時期にやるっていうところもあるから、一発勝負で決まってしまうという、めちゃめちゃそういうプレッシャーがありますよね。
さっきも言ったように、試験内容というのは相変わらず知識変調で、創造性とかそういったものが全然養われない教育になっていると。
共通テストじゃなくて、個別試験になると、旧停台とかの問題になると、なんか古臭い問題が多いんですよね。
特に今、これから機械採点がまた増えてくると、知識就寝的なことが一層加速しちゃいそうな感じもしますよね。
結局、高校の勉強っていうのが大学入試のための勉強になってしまっているというところがすごく強くて、
特にその教育が、小学校までは人間性を育むとかいう言葉がよく使われるんです。
義務教育の時ってね、育むって言葉がよく使うなと思ってね、高校から3年間ぐらい中学に勤めたことがあったんですけど、
だいぶ文化が違うなと思ったんですけど、高校はね、やっぱりね、呼び子とそう変わらないみたいなところがぶっちゃけあるんですよね。
自分は英語の先生なんで、英語に限って言えばそれでどうなん?って言った時に、やっぱり上手くいってないですよね。
ぶっちゃけ、これだけ、小学校から始めている頃はどうなるかわからないし、今の学校教育の絵はどういう風になっているかわからないけど、
最低限、高校教育の出口である大学入試の問題なんかを見れば、共通テストは以前のセンターテストにくればだいぶ変わってきて、
知識の問題というよりは読解力を試す問題もありますけど、一方で読解力を試す問題っていうだけでもなく、
どっかちょっと、なんていうかな、知能検査みたいなところもあるしね、情報の統合能力みたいなところもあって、
それはどうなのかなとか、正直思うところもありますね。
やっぱり最大の問題は大学に入っていくぐらいのレベルになった時に、
ぶっちゃけ英語が普通に話せるくらいのレベルになる人って極めてレアなわけですよ。
帰国子女とか留学してたとか、めちゃめちゃ英語教育に親がお金使ってたとかいう人なら別だけど、
普通に学校教育で英語を話せるようにはなってないんですよね。
実際、喋れますという自信を持っている人は少ないと思うんですよね。
日本が島国で実際に英語を使う必要がないというところも色々あるけど、
やっぱり制度としてそういうスキルが身についていないというのはやっぱりちょっと問題あるんじゃないかなと思うんですよね。
官僚制度と教育の関係
例えば日本人ってほとんど水泳ができるんですよね。
これは世界でもかなりレアなんですよ。
だからみんな泳げるようにはなるけど、みんな英語を話せるようにはならないというのはやっぱりそのやり方に問題があるんじゃないかなと。
常々思っております。
とはいえ、自分のやっている今の教室ビジネスもその仕組み、構造の中でやっぱり矛盾を抱えながらやっているところがあるので、
なんか複雑なところはありますよね。
自分自身が自己矛盾を抱えているというところがあったりするんですけれども、
一方でですね、今色々ちょっと話題になっているところで言うと、
いろんな省庁の中に官僚制度があって、その中での独自の論理というのがあって、それが実際に国家を動かしている。
それが政治家がどうにもできないというところが、これは農水省の問題でもそうでしたよね。
今財務省の問題も言われていますけど、ここがやっぱりね、結構変わっていかなければいけないところなんじゃないかなと。
そのやっぱり知識を得た頭のいい人が官僚になって国家を動かしていくっていう制度、
これが本当にいいんかなというのはめちゃめちゃ思います。
でもね、別に僕に何かできるわけではないんで、ただ言っておしまいなんですけど、
まあまあ皆さんね、どういうふうにお考えになったでしょうか。
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OK, thank you for listening and have a great day.