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グッドバイです。ミッドナイトラクザー、 by くらざむけいさん。
こんばんは。ただいま3月31日金曜日の午前3時22分です。
今日は昼間、美容院に行ってきましたね。これがちょっと久しぶりでして。
最近、私はかなり短くバッとベリーショートにして、私の行っている美容院のオーナーさんというか、私の担当の方が腕がとても良いので、
このベリーショートから伸ばしていっても形が崩れないっていうような良い切り方をしてくれるんですよ。
だからこれがそれなりの長さになって、そろそろうざいなという、こんな感じになった時にね、
美容院に行くというサイクルでやってるんですけども、もう一つ、私の髪の毛というのがちょっと一つ特殊な癖がありましてね。
ある程度の長さになると、急にこの先端がカールを始めるんですよね。くるくるっと巻き始めるっていう。
若い頃は、この癖を利用してマッシュルームカットをやってたんですけどね。バンドやってた頃はね。
本当に見事なマッシュルームカットだったんですけども、これが出てくると、本当に一気にこの髪型がまとまらなくなるんですよ。
だからこれが私にとってはね、このベリーショートにしてから美容院に行く合図みたいなね。
その間も3段階ぐらいどんどん伸びていって、別の髪型になっていくんですけども。
今回ですね、ちょっとやることがたくさんあって、なかなか美容院に行く時間が取れなかったんですけどもね。
今日ようやく行ってきまして、本当にすっきりしてね。またこの短い髪の毛から始められるんだっていう。
だからビデオとか見るとね、だんだん伸びていく様子がわかるんですけどもね。
そんなわけで今日はちょっと気分がいいと。
そしてつまりね、この美容院に行けたということは、わりとこの数ヶ月ぐらいかな、かなりかなりツメツメだった。
その私の仕事が少し余裕が出てきたというか。
これはどういうことかというと、以前からね、この番組で宣言していた。
ようやくこの瞬間をかける時間が私の手に来たんじゃないかという、そんな感じなんですよね。
ジャジンワークの中で、いつも私がやっているこのジャジンワークの中でね。
やりたいことができない時間をいい感じで過ごすというメソッドが一個入ってるんですよ。
僕らはね、往々にしてこの本当にやりたいのに何かできないっていうと、やっぱりなんかこう、いらつきますよね。
そしてなんか自分に罪悪感も感じるし、そうこうしているうちにその罪悪感をね、やっぱりこの周りのせいにしたくなるという。
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こういうこと、こういうこと、こういう環境があるから自分はこれができないんだみたいなね。
そういうふうにこう、自分の周りを攻撃したくなるので。
そうするとですね、その時間がやってきてもなかなかこの気分が入れ替わらなくて、せっかくもう描けるのになかなかやっぱり描き始められないということが起こるのでね。
私はその遠距離恋愛をしている時のような気分で待つということをお勧めしているんですね。
数ヶ月会えなくても必ずまた会える日が来るだろうと。
その時のためにね、この恋心というか、会いたいな、つまり描きたいなというね、この心を大事に温めておきましょうということをお勧めしているんだけど。
私も今回それをね、バッチリ温められましてね。
もういつでもこの時間が来れば描けるぞっていう。
時々エディターを開いてはね、書き足し書き足しして。
一章の今3分の1か3分の2ぐらいかな。半分ぐらいか。
そのぐらいは描けてるんですけどもね。
これをできたらですね、ノートに公開しながら連載のようにして不定期になると思うんですけどね。
これはさすがにその週に1本とか決められないかなっていう感じがしてるんだけども。
書けたらその掲載するという感じで。
最後の本までね、公開しながらこの本は書いていこうと思っていまして。
楽しみにしてるんですよ。
なんかこのポッドキャストとね、そしてそのノートの新連載というか、新年連載って言うのも変ですけどね。
ノートの新しいブログというのかな。
この新刊を出筆することを想定したブログという。
これがなんとなく書き始められそうだなというそんな予感。
まだ予感だからね。
またここから1ヶ月2ヶ月空いてしまうのかもしれないんですけども。
ちょっとね、燃え上がってるんで書きたいなという気持ちがね。
それからいろんな構想というかね、この本をどんな風に作っていくかというアイデアもね、たくさん浮かび上がってきてるんで。
本当に私としては1日も早くこの第1話をノートに公開したいんですけどもね。
多分その日は近いんじゃないかというね。
そんなことを感じていた1日でしたね。
書いてはいないんですけどもね。
なんかいけるんじゃない?そろそろみたいなそんな感じ。
そういうわけでね、ちょこっとね、私はそろそろ書くんだなと思ったときに
緑の本でグッドバイブスご機嫌な仕事をパラパラっとめくってみたんですね。
そうするとある一節がね、ポンと目に飛び込んできまして。
これがですね、前回その考え、心象を作らないように考えを手放すというお話をしたんだけども。
この続編というかね、実は心象を作り出す。
この僕らがね、なんで心象を作り出すかっていうのは、これまでそのガーディアンが自分を守るためという、そういう感じでお話をしてきたんだけど。
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実はもう一つ視点が必要じゃないかと思ってるんですね。
それはどういうことかというと、僕らは多分ですね、この今生きてるね、この世界の中で生きてるんですけども。
それぞれの人生をこう暮らしてるんだけども。
この自分のね、背後にね、ある種のこのストーリーのようなものがないと生きてはいけないんじゃないかなっていう、そういう感じがしてるんですね。
だからなんていうのかな、この僕が役者だとしますね。
そうすると、自由にアドリブで何でもやっていいよって言うんでも悪くないんだけど、多分そんな感じだとね、なんかあまり生きてて心地よくない感じがする。
それよりも、やっぱりこの役者に台本、シナリオが与えられるように、僕にもやっぱりここの人生を生きる上でのシナリオ、ストーリーみたいなのが必要なんじゃないかって、そういう感じがしてるんですね。
なんとなくこれは皆さんその思い当たる節があると思うんですよ。
何にもこうなんつーのかな、何にも行くあてもなく、ただ彷徨うように漂うように生きていくっていうのはね、なかなか難しいですよね。
だからまあこの自分のね、人生の方向とかね、どちらに向かうんだよっていうのを定めるそのためにもね、それぞれがこの思い思いにね、ストーリーを作り出して生きようとするのは自然な行為かもしれませんよね。
もしこれがね、僕らが作り出している心象だとすれば、このストーリーを手放すというのは、なかなかやっぱり不安な感じがしますよね。
もしかしたらこの私が言うとこのガーディアンというのは、ここに目をつけているのかもしれませんよね。
ほらほらお前にはストーリーが必要なんだから自分で作り出すんだよ、みたいな感じでね。
だからそうなると、この自分の思考で作り出すこのストーリーを、もし手放すとしたらね、その後どうするのよっていう話がないと、やっぱりここは繋がらないというか、これ手放して終わりっていうわけにはいかないんじゃないかと。
そんなことを考えていた時に、このミドリの本を開いたら、ある一節がね、自分の書いた一節なんだけど、ぽっと目に飛び込んできたんですよね。
それが何というか、今私が言ったね、この自分で作り出す心象を手放した後、僕らはどんなストーリーを自分の背後に置いとけばいいんだっていう、この答えになりそうな部分を見つけたので、
ちょっとそこを一回読んでみますね。
これは第一章の初めの方にあるんですけども、この世界で幸せを模索するのなら、まずここが寒いのか暑いのか、はたまた海のようなところなのか、それとも山のようなところなのかをしっかりと見極めなければなりません。
その上で、その世界に沿った幸せが得られる生き方を探すべきです。
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魚を捕ろうとして山に登っても、山菜を摘もうとして海に潜っても、すべては虎に終わってしまいます。
っていうね、この一節があったんだけど、これ要は何を言いたいかって言ったら、私たちが暮らすこの世界にはね、僕らがこの幸せに生きていける文脈があるっていうことを言いたかったんですね。
ここでね、文脈という言葉が出てくるんだけど、この本を書くときもね、この文脈という言葉を使うかどうかって非常に迷ったんですね。
これを文脈として紹介するというやり方もあったんだけども、なかなかね、この文脈という語句がね、分かるようで分からないややこしい差があるんですね。
英語で言うとコンテキストって言うんですけどもね、文章における文脈っていう風にまず捉えるとね、なんとなく分かってくるんだけど、文章においての文脈というのは、ある語句がどのような意味を持つかっていうのね、これを決めるある種の背景のような役割を果たしてるんですね。
例えば、私は酒が好きだっていうのをね、文字で書いたとします。
この酒がカタカナになってたとします。
私は酒が好きだ。
でね、この面白いことに会話の中では、この文脈がね、発音として盛り込まれてるとかね、インストールされてるんですね。
だから、私は酒が好きだっていうのと、私は酒が好きだっていうこの発音でこの酒の区別ができるんですよ。
私は酒が好きだって言ったら飲むお酒の方ですよね。
私は酒が好きだって言ったら魚の酒の方なんだけど、これを文章でカタカナで書くとこの発音がなくなりますよね。
だから、私は酒が好きだ、私は酒が好きだっていう風にカタカナで酒と書くと、酒なのか鮭なのか分からないんですね。
でも、この文章をね、変えて、あえて発音は同じにしますが、
昨晩は酒を飲みすぎたと書けば、これはお酒のことだなって分かりますよね。
魚の酒は飲まないですからね。
それから、酒が川を登ってきたって書けば、カタカナだったとしても川を登ってくるのは魚の酒だと分かりますよね。
この酒を取り巻く文の脈略とか道筋、いわゆる背景ですよね。
この背景を文脈と呼ぶわけですね。
面白いことに、自分を極と見なす、だからこの酒ですね。
自分を酒と見なして、この周りに酒を取り巻く文の他の脈略とか道筋、背景みたいなものを世界と捉えるわけですよ。
そうすると、僕らが自分が何者なのか、もしくはどのように生きれば幸せになれるかっていうのを理解するためには、
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やっぱりこの語句だけではなくて文脈が必要だってことが分かりますね。
もしこの文脈がなければ、私というだけでは、さっきの私は酒が好きだっていうのと同じで、
一体どの酒なのか、酒なのか分からないっていうね。
やっぱりこれは面白いんですよ。
私だけでは私が何者かが分からない。
私を取り巻く文脈、すなわち背景ですね。
世界というその文脈、背景があって、初めてその中で私は自分が何者なのか、
あるいはどう生きれば幸せなのかっていうことがこう見えてくるっていう、そういう関係になってるんですね。
だからまさにこの酒とその周りを取り巻く文脈、これと同じように私たちとこの世界というのはね、同じような関係になっているということ。
そのように見てみると、このまさにね、世界という文脈というのは僕らにとってまさにね、
この世界とはそもそも何だろうかとかね、人生とは何かっていうのを綴っているこのストーリーのようなものですよね。
さっき言ったそのシナリオみたいなもの。
これが僕らの、自分とは何かどうすれば幸せになれるのかっていうのを決める一つのストーリーっていう感じがする。
この中で僕らは生きているからまさにさっきの答えが出るわけですね。
シナリオがあるわけで最初にね。
シナリオって言っても、ここで言うシナリオは文脈なのでね、これがちょっとややこしいんですよ。
ストーリーのようなものなんだけども、それがいついつお前はこうなるぞとかってそういう運命を記したものではないんですね。
背景に流れている物語みたいな感じ。
世界ですね。まさに世界観みたいなものなのかもしれない。
これがあるから僕らはその中で自分が何者かどうすれば幸せかが分かってくるっていう。
これが冒頭に書いたね、さっき引用したその世界に沿った幸せが得られる生き方を探すっていう話。
魚を捕ろうとして山に登ってもそこには見つかりませんよっていうね。
まさにその世界が山なのか海なのかっていうこの文脈を見極めた上で、
そして自分がそこでどのように動くのかっていうのが決まってくるっていう、そういう話だったんですね。
だからやっぱりここに文脈という言葉を持ってくると今のようなちょっとややこしい説明をしなくてはいけないんで、
私はここではね、この本ではそれをしなかったんですよね。
もう少し例を挙げるとね、
例えば会社とかで会社の文脈って何よとかって思い浮かべるとすごくイメージしやすいんですね。
例えばある会社が利益が第一だと、
お客さんにも少々不便をかけてもコスト削減すべきなんだみたいな、こういうコンテキスト、文脈を持っていたとしますよね。
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だからもう一方、もう一つ別の会社があって、
こちらの文脈は真逆なんですよ。
お客さんの満足が第一だと、そのためだったら少々コストをかけても構わないから、
お客さんが心地よいサービスを提供しよう、みたいなね、この真逆の文脈があったとします。
これが僕らのいつも背景にあるわけですね。
片方は利益第一、片方はお客さんの満足が第一、全然違う文脈がそれぞれの会社にあると。
ここで自分が働く様子をイメージすればいいんですよ。
そうすると何を大切にして、何に幸せを感じるか大きく変わりますよね。
前者の会社ではおそらく利益が第一なんだから、まさにいかにその利益を出すか、コストを削減するか、みたいなことを大切にするだろうし、
それができた時に、よし、よくやったと褒められて、やった、僕はここの会社で活躍できたっていう様な感じで幸せを抱くことができるわけね。
もう一個の会社は真逆で、その様にやっていたら何をやっているんだって怒られるわけよ。
そうじゃなくて、そうじゃない、そうじゃない、お客さんの満足が第一なんだっていうことを大切にするわけよね。
だからお客さんの喜ぶ笑顔みたいなものを見た時に幸せを感じるっていう風に、この文脈が違うだけでね、
自分の在り方とかね、動き方、そして私とは何かっていうこの認識も随分と変わってきますよね。
前者であれば私とは利益を上げるために動くその一人のスタッフなんだ。
後者であれば私はお客さんを喜ばせるためにここにいるんだっていうように随分といろんな認識が変わってくるわけです。
これがその自分とこの世界という文脈の関係というね、まるで違ってくるわけですよ。
そして私はね、さっきのその引用の中でお伝えしたかったのは、これに加えてね、その文脈というか世界と自分との関係というものに加えて、
もう一つ実は大きなメッセージをお伝えしようと思ってたんですね。
その世界に沿った幸せが得られる生き方を探すべきだと。
魚を捕ろうとして山に登ってもダメだと。
これは何を言いたかったかっていうと、
この僕らがね、この生きていく上で背景にあるこの文脈、ストーリー、シナリオみたいなものは、
これはまさに壮大な物語なんだけども、
これは僕がね、主に宇宙の誕生と同時に生まれ、今もまだこの世界と共にあるというメッセージが伝えたかったんですね。
つまり僕らはこれを作り出す必要がないってことが言いたかったんですよ。
でも僕らはね、やっぱりこのさっきね冒頭でお話ししたように、自分のストーリーを自分で作り出そうとするんですよね。
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まさにこの世界の文脈に対抗するかのようにね。
自分の人生の文脈はそれぞれがここに作らなければならないみたいな、
私に言わせればこれは大きな勘違いだったんじゃないかなって気がするのね。
しかもここからおそらく私が言うとこのバラバラ意識っていうのが始まったんじゃないかと予想するわけです。
さっきのね、この会社と同じように僕らはこの世界にそもそもあるこのストーリー、
これを基本的には無視して、ないものとそんなものはないと思ったんでしょうね。
だから自分で作らなきゃいけないと思ったんですよ、きっと。
例えばよくこの番組でお話しする成長志向みたいなストーリーを作りましたよね。
僕らは生まれた時には生産性ゼロ、能力ゼロで生まれてくるのでね、
価値を高めるためにいろんなスキル、能力、経験、そういうものを身につけながらね、
成長していかなくてはいけないんだっていうこのストーリー、これはストーリーですよね。
まさに文脈なんですね。
この中に自分を置いておくわけです。
そうするとどうなるかというと、以前にもお話ししましたが、
今の私には不足があるというこの認識が生まれるわけね。
まさにこの私とは何かという認識がこの文脈から生まれてるじゃないですか。
こういう関係になってる。
この文脈をそして僕らはね、自分でここに作らなければならない。
もしくは自分で作らなくてもね、もうすでにこの世界には、僕らが住むこの世界にはですね、
誰かが書いた良さそうなストーリーっていうのがあるんですよ。
これに乗っかっとけばいい、もしくはこれに乗っからなければならないっていう風に考えたのかもしれないね。
そしてその一つが例えば成長志向。
自分に不足を見て常に切磋琢磨をする。
それから例えばこの成長志向と同時に恐らく競争というストーリーもこの中に生まれますよね。
そうするとこの努力の度合いによって人の価値には差がついていくという、
まさにこのストーリー、この背景からはそのような自分が生まれてくるわけね。
もちろんこの中で勝ち続けている人にとっては非常に良いストーリーなんですけども、
なんか自分が成長していないとかね、なんか競い合う場面ではなかなか勝てないと。
いつもいつも中の上か中の下ぐらいにいちゃうんだよねみたいなね。
そして下手すると、それどころかなんかもう一番下のあたりに置かれているんじゃないかみたいな恐れや不安を感じてしまう。
こういうストーリーを僕らは作りながら生きてきたわけですね。
それからここによく言う罪と罰というストーリーも入っているでしょうね。
何かをすると、何か悪いことをする、人に迷惑をかける、失敗をする、そういうものは全部罪なんだと。
そうするととても怖い罰が待っている。
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これが以前も言いましたけどね、現代社会では社会的な罰みたいな。
このコミュニティの中では生きていけないっていう、これもやっぱりストーリーなんですよ。
文脈なんですね。
この文脈の中に自分を置くとどうなるかっていうと、やっぱり罪悪化に苛まれながら今までお話していたようなことになっていくわけね。
これがまさにこのバリエーションの中に一つバラバラ意識というのが入っていたんでしょうね。
もしかしたらこのバラバラ意識という文脈は今言ったような成長志向とか競争とか罪と罰という様々なストーリーのベースに流れているものかもしれないね。
しかもこのストーリーというのは面白いことに時代とともに変わっていったりもします。
ある部分がものすごく突出したり、ある部分がものすごくピックアップされて、ストーリーの中に含まれているサブストーリーみたいなのがとても重要なんだって僕らの人生にのしかかってくるような感じ。
これを多分やってしまったんだろうなと思うんですね。
でも私が最初に言った、この壮大な物語は宇宙の誕生と同時に生まれ、今もまだこの世界とともにあるというね。
これは僕らが作り出したストーリーではなくて、もともとこの宇宙が生まれた瞬間に出来上がったオリジンですよね。
オリジン、原初のストーリーというか、この世界に脈々と流れている、僕らの意志とは別に流れている、もっともっと大きなストーリー、壮大な物語、文脈なんですよね。
この文脈を僕らに書き換える力があるはずがありませんよね。
だからどれだけこの成長志向だ、狂想だとかってこうであってほしいと願ったとしても、この宇宙の真羅万象のこの文脈は一ミリも動かないわけですよ。
そうすると、現実ではない別のストーリーというのを作り出すしかないですよね。
こうして僕らは真正の世界に生きるようになったんじゃないかと、そんな風に思うわけです。
この見方というのも、まさに私がこのGood Vibesご機嫌な仕事を書きたいなと思った大きなきっかけでもあるんですね。
というのは、僕もこの40年以上、この本を書き始めた頃まで、まさにその狂想のオリジナルの文脈をいくつもいくつも創作しながら生きてきたわけですね。
その時代時代によって、音楽をやっていたり雑誌を作っていたり、本を書いたり、セミナーをやったり、コンサルをやったりしていたんだけども、
その時々に応じて、これはどうやって作っているんだろうね。
一つはまず自分の願望みたいなのがあって、このようになってこのように生きれば、私はきっとうまくいくんだろう、幸せになるんだろうみたいな仮説をまず作るわけですね。
これが文脈、まさにストーリーになっていくわけです。
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当時の私は、まさにこの世界に最初から大きな文脈が流れているみたいなことは全く夢にも思ってませんでしたからね。
まさにこれはそれぞれが自分で作って、自分で作り出したストーリーの中で何かを達成していくっていう、こういうふうに考えていたので、
もう本当にいくつもいくつも作った感じがしますね。
でもこのいくつもいくつも作らなければならないってところに、このやり方のおかしさがちょっとあるんですよね。
一つ作ってそれがOKであれば、二込みを作る必要がないんだけども、多分うまくいかないからまた別のものを作るわけですね。
私はそのストーリーを作りながら、いろんな職業を点々としていたような感じもするんですよね。
もう音楽じゃねえなとかね。
その度に今度はうまくいかせようとして、自分のこのストーリー文脈を作っていくと。
でも私が40年以上いくつもいくつも作ったその文脈を背景にして、さっき言ったようにこの文脈によって私というのが決まっていきますからね。
どんな自分がそこから現れるのかっていうのが。
このいくつもいくつも作ったこの文脈から浮かび上がるね、この僕クラソノという人物はね、今思うとやっぱり弱くて臆病で、ある意味狡猾でね、それから冷酷さもあるな、それから嘘つきだったなって感じもする。
そしていつもいつも自信がなくてね、なんかこう底なしの孤独みたいなのを抱えているんですよ。
まあでもしょうがないですよね。僕の作ったストーリーなんで、これは非常に拙いわけですよ。
で、2013年頃からこの緑の本を書き始めてようやくね、この自分のまさにこの拙いストーリー、これよりもね、はるかに完璧な文脈がこの世界にすでにあるんじゃないかと。
そして今も変わらずね、この私の背景にはそれが脈々と流れているんじゃないかなっていうことにね、まあ気づいたというのも変だけどそんな感覚がしたんですよね。
で、その時に、じゃあこの試しにね、私が今この漢字だ、今までは作っていたんだけども、その後はこの漢字で見たんですね。
この世界にはどんな文脈が流れているんだろうと、用意されているんだろうと、私の背景にはもともとどんな文脈があるんだろうみたいなことをね、一生懸命こういろんなやり方を通して感じながらね、
あ、これはちょっと違うかもしれないみたいなことに気づいてからは、私自身の見え方がね、さっき言ったその弱くて臆病でみたいなことではなくてね、ずいぶんと大きく変わり始めたんですね。
だから私がお勧めしたいのはね、この自分のストーリーというのを自分で作り出すのではなくて、もっとすごいものがこの世界に用意されていると。
つまり僕らが暮らすこの世界にはね、どんな文脈が流れているんだろうっていうこの問いをね、なんかこう機会があるたんびに立てるというのがね、とても僕は大切だなと思ってるんですね。
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これはおそらくすぐにわかることではなくて、何年も何年もかかるもんじゃないかって気がするんだけども、それでもいいから自分でストーリーを作り出す代わりに、
いやいやいや、こんなね私のちっぽけなこのクラゾノという人間が世界に対抗して作り出すストーリーなんて多分ロクなもんじゃない。
だから何度も何度も作り直すし、そのストーリーにずいぶんと苦しめられるっていうね、まあそのわからないからなんですよ。
まさに本当のことがわからない私がこの世界をね、描写してこういう世界に私は生きてるんだよねっていうのを決めてしまって、
それに応じてさっき言ったようなその成長思考とかね、競争とか罪と罰とかバラバラ意識とか、あるいはその利益が第一なのかお客さんが第一なのかみたいなことをその場その場で作り出し、
その文脈に沿って生きていくというね、とてもたともやっぱり無理があることをやっていたんだなって気がします。
これが私をずいぶんと苦しめていたんだなっていう。
この代わりにね、そもそもこの世界に流れている、もともとあったこの宇宙の誕生からね、宇宙の誕生の時から今も変わらずに流れているこの文脈っていうのを探ってみる、感じてみる、感じるしかないんでしょうね。
多分これがなかなか言語化できないんですよ、どんな文脈なのかっていうのがね。
さっきのその会社のわかりやすいその文脈とは全く違っていてね、もっとものすごくシンプルなんだろうけど、とても頭で理解したり言葉に変えたりすることができないようなものなのかもしれない。
でもなんとなく私はここからね、その一つ意識であるとか、そしてその一つ意識というその文脈を世界に置いた時に、自分がカチマックスという風に浮かび上がってきたりね、よく言うその愛そのものである自分みたいなことが見えてきたりする。
これはまさにその文脈から得られた感覚であるわけですね。
だからそのこの世界の文脈、もともとあった文脈、ストーリー、壮大な物語みたいなものを感じるためには、やっぱり勝手にそれを自分で作らないということが最初にね、まず大切なんじゃないかなと思うんですよ。
だからその意味でもこの心象を手放すというのはここにつながっていくのかなと思うのね。
だからなんと言うのかな、その心象というのはそのガーディアンが僕らに強いる防御みたいなものですからね、世界をこのように見なさいと。
例えば世界はとても危険なんだよと。周りにいる人たちは敵だらけなんだよ。
そしてお前はちっぽけの存在で、何かあればすぐに傷つく、そして儚く消えていく存在なんだと。
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安心していてはダメでしょうというね、準備万端に整えなさいと、いつでも最悪の事態を想定していなさいというようなこのストーリー作りを僕らに敷いてくるんだけども、
この防御をできるだけ解いてみて、なるべく私が言うとこの意味付けをせずにね、フラットな目でもう一度この世界を見直してみるっていうかな、感じ直してみるっていう感じですかね。
何というのか曖昧な言い方なんだけど、このフラットな感性みたいな感じがね、自分で何かを作り出すんではなくて、文脈を作り出すんではなくて、
その前にね、そもそもこの世界にはどんな文脈が流れているんだろう、どんなストーリーが流れているんだろうってことをできるだけフラットな感性で感じてみるっていうね、これが大切な気がします。
だから当然この世界にはね、自分と他の人、そしてそれを取り巻く環境、この3つがありますからね、このどれもこの3つともにそのようにこう見てみるということがね、まさにこの何ていうのかな、私がその言うところの元々あった文脈というのを感じることなんじゃないかなと思う。
例えば具体的にはね、この日々出会う人をね、できるだけありのままに見てみると。
その日々出会う人というのはまさにこの文脈ストーリーの中でね、活躍する登場人物でもあるわけですね。
この人たちがどんなキャラクターなのかっていうのを自分で決めないってことです。
だからなるべくこの私はね、意味付け心象、罪悪感みたいなことを手放しながら、ありのままにそのこの私の周りを取り巻くね、登場人物たち、私のこの世界に登場する人物たちをそのように見ようという、その目的で許すというね、このメソッドを提案しているわけですね。
だからいつもじゃなくていいんで、何か思い出した時にね、この話を何となく思い出した時に、私が暮らすこの世界にはどんな文脈が流れているんだろうということをね、この自問してみるというのをね、おすすめします。
これをやって、もしこういうことかっていうのがね、かすかにでもつかめたら、もうその私が40年間やってたようないくつものオリジナルの文脈ストーリーを自分で作らなくてよくなるんですね。
これもなかなかそれがどんなものかみたいなお話抜きには難しいんですけども、お伝えするのがね、少なくとも私の感覚では、私が作り出したもう何百本のオリジナルの文脈を遥かに超えてね、やっぱりすげえなって感じがしますね。
よくできてるわっていうそんな感じ。これが私がね、その現実なら何とかなるとかね、心象は手放す方がいいというこれを提案する根拠でもあるわけですね。
自分で心象を作り出さずとも、世界にはもっと素晴らしい完璧な文脈がしっかりと流れているから、だからそちらを信頼してもいいんじゃないかというそれをおすすめする根拠でもあるわけね。
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ただし、このさっきの問いね、私たちがクロス世界にはどんな文脈が流れているんだろうっていうこの問いね、この問いだけはやっぱり学んだり教えてもらったりするんじゃなくて、自分自身で感じることが大事だと思うんですよ。
なぜならば、僕らはね、すでにこの歴史を振り返ってみるとわかるようにね、この誰かが書いた良さそうなストーリーにみんなで乗っかるっていうね、これをやって結構いろんな悲劇を何度も繰り返してきたからなんですね。
だからこれに関しては、それがどんな答えかっていうのは、私はこの逆に言うとこの文脈ではあまり話さないようにしてるんですね。
ここのどん妻の答えとして、私はこの世界にはこんな文脈が流れてるっていう風な文脈ではこの話はしないようにしてるんです。
だからここだけはね、この私の話だとしても、私の話もやっぱりこの疑って書かなきゃダメなんですね。
そうしないと、このやっぱり人が作ったものに乗っかるってことになりますから、これは本当に自分自身で感じなければやっぱり意味がないというか、こうだろうなっていうこの確信がないとね、やっぱなんかまずいんですよね。
そうしないと下手するとやっぱり誰かがこういうこと言ってたんだけどそれっぽいよねみたいな感じでね、やっぱり人が作ったってストーリーに乗っかってしまうんですよね。
これはあまりよろしくないなと私は思います。だから本当に何年かかってもいいんですよ。さっきも言いましたけどね、人が作ったもんじゃなく、私の話も含めてですよ、ここに関してはね。
多分僕が話す話もこの人が作ったものの一つなのかもしれない。
だとしたらやっぱりこの宇宙の誕生と同時に生まれてね、今もまだこの世界と共にある文脈、これは本当に自分の感性で解き明かしてみてほしいなと思います。
もうこれは本当何年かかってもいいんじゃないかと思うんですよ。これを一生やっててもいいかなという、これだけでも何か生きる意味があるのかなというそんな感じがします。
そしておそらく私たちもこの宇宙の死んだ万象の一員として生まれてますから、僕らとこのストーリーは一つであるはずなんですよ。
なぜ僕らの作り出したストーリーがうまくいかないかというと、僕らが頭で考え出したストーリーは私たちの一つではなかったんですね、きっとね。
だからそこにいろいろおかしなものだったり不具合みたいなものが含まれている。
でもおそらく私が言うこの世界にもともとあったこの文脈ストーリーというのは僕らと一つであるはずなんですよ。
だからこれを解き明かすのは絶対に難しくないなと思います。そんなもんだとしたら役に立ちませんからね。
たぶん本当に邪魔をしなければいいんですね。
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まずさっきも言いましたけど、自分で勝手に作り出さない、これが第一ですよね。
次にできるだけ意味付けとか真正の目で世界を見るのではなくて、できるだけフラットな感性で眺め直してみる。
もちろんその世界だけじゃなく、僕の人生、この世界に登場する登場人物たち、他の人たちですよ。
ここをどのように見るかっていうのもこのストーリーをありのままに感じるためにはとても大切なことなんじゃないかなと思います。
これが冒頭にお話しした、私たちが頭で作る新書を手放しても大丈夫という根拠になるわけですね。
もともとすごいものがあったんだから、個別に一人ずつこれを作り出さなくてもいいし、誰かが作った良さそうなストーリーに乗っからなくてもいいということですね。
これが前回お話しした頭の中で自分を苦しめるようなことを考え始めたら、
この時に私は今自分が生きる世界のストーリー、文脈を作り出そうとしているんだなと。
そんなものを私が作らなくてももっとすごいものが用意されているはずだと言って、そこでちょっとだけ信頼して現実を見に行くというふうにつながっていくわけですね。
これが行詞形調を感じるということのもう一つの意味でもあるわけです。
そんな感じですかね。
そして明日1時半から午後口で加藤さつきとありのままを見るデッサン教室という、これは私が毎月開催しているイベントの中で最も楽しみにしているものの一つなんですけどもね。
このテーマがまさに今日お話ししたありのままを見るという、この練習になるということですね。
頭で何か作り出すのではなくて、モチーフをひたすら凝視すると。
そうすると僕らの思考がピタッと止まってね、不思議なことにここでひとつまず心が非常に穏やかになるんですよ。
それをやっているとまたこれが不思議なことに僕らが作り出したストーリーのひとつであるね、たぶん時間の束縛ってやつですね。
ここから逃れられるんですよ、なんとなくね。
そうするとこの時間の流れがパンと止まったときに僕らの五感の解像度っていうのは非常に高くなって、
普段はこの時間の流れとともに僕らの解像度っていうのは随分劣化してるんですね、焦ってますからね、先に先にと急いでるんで。
これを今ここでピタッと止められたときに解像度が上がり、そして面白いことに動きが非常にゆっくりになっていくんですよ。
この動きがゆっくりになるってやつは遅くなるのではなくて、このゆっくりの動きというのが実はものすごく最速のパフォーマンスを発揮してくれる。
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それから面白いことにこのそのように描いているとね、なんかもうこのまさにさっき言った競争とか比較みたいなストーリーからスッと抜け出すことができてね。
本当に毎回感じるんだけど、だいたい7,8人、9人ぐらいになるんだけどね、総勢で。
そのメンバーたちで一つの作品を作ってるような感覚になっていくんですね。
だから最後に必ずブワッと一列にそのみんなの作品を並べて見渡すんだけど、まさにこの3時間半かな。
その中でみんなでこの一つの作品を作り上げたんだなっていうこういう感覚が得られるんですよ。
だからこういうものが全部相まってね、僕はとても癒される感じがするこのイベントはね。
そしてこの講師の加藤さつきファミリー、奥さんとかわいいお子さんがやってくるんだけど、この3人がまさにこの雰囲気にぴったりなんですね。
癒しの雰囲気にこの皆さんと会えるというね、お目にかかれるという機会としても僕はこのイベントをとても楽しみにしています。
そんな感じなので、まだまだ空きありますのでね、当日も参加できますんでよかったらトライしてみてください。
ありのままを見るデッサン教室ね、まさに今日のテーマである世界に脈々と流れていたこの文脈、これをつかみ取るためのね、一つのとても良いレッスンになると思います。
そんな感じですね。
では今日は本当に先ほどの問いですよ。
自分で何かこの自分の人生のストーリーを作りたくなったらね、その前にちょっとそれをね、一回止めてちょっと待てと。
私たちが暮らすこの世界にはね、どんな文脈が流れているんだろうっていう問いを立ててね、しばらくそれを感じてみるみたいなことをやってみてください。
そんな感じでそのね、大きな大きな壮大な文脈の中でいい一日をお過ごしください。
ありがとうございます。