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皆さん、こんにちは。編集者・ライターの杉田麻里子と、
プロジェクト・ディレクターの石川由加子です。
この番組は、都市というテーマが好きで好きでしょうがない二人が、
都市に関する様々なグッドニュースをザックバランに話す場所です。
都市をテーマに、国内外のプロジェクトやトレンド、スポット、音楽など、
毎回気になるテーマを一つ取り上げて、フリースタイルでおしゃべりしていきます。
今回は、私たちの友人であり、現在インドネシアのジョグジャカルタに
スタジオを構え、活動している美術家の北澤潤さんをゲストに迎えて、
おしゃべりします。
今回は北澤さんがインドネシアから、インドネシアのジョグジャカルタに
いらっしゃるということで、ジョグジャとつないでお話をしていきたいと思います。
北澤さんを知らない人もいるかと思うので、簡単に自己紹介をしていただいてもいいでしょうか。
北澤潤と言います。僕は今、インドネシア共和国のジョグジャカルタという町にいるんですけど、
もともとは東京出身で、美術家をやっていて、
社会と関わるプロジェクトを芸術実践としてやっている。
どんなことをしてきているかというと、
最近の一番近々のプロジェクトでは農家オアシスというプロジェクトを作りました。
これはインドネシアのジョグジャカルタの町にあるシートに覆われた屋台、
外からは中が見えない屋台なんですけど、そのシートにトロピカルな熱帯の路上の写真が
印刷されていて、それを東京に丸ごと持ち込んで池袋の町中に
ジャワの風景と、実際にジャワ、インドネシアにある屋台の中身が出現する。
これは東京に住んでいるインドネシア人の人にも関わってもらって作ったプロジェクトで、
東京の中なんだけど、東京じゃない場所が出現する。
東京という場所のそこにオアシスはあるのか、どこにもないオアシスということと同時に、
ノーウェア、どこにもないというのと、ナウヒア、今ここにあるオアシスという意味で、
東京に住んでいるインドネシア人の人たちにとってのオアシスというところを、
この屋台を持ち込むことによって作っていくというような形で、今は2つの都市を往復しながら、
両方の視点からあり得るはずのあるべき社会を作っていくというのを、
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美術館とかギャラリーに限らず、社会的な実践としてプロジェクトを作っていて、
もともとは日本の各地でプロジェクトをやって、今はインドネシアを2016年ぐらいから、
17年ぐらいかな、こっちに来始めて、今は割とインドネシアをベースにして、
サカ活動をしています。
ありがとうございます。
プロジェクトごとにいろんな地域で入っていって、プロジェクトをやっているイメージなんですけど、
今はインドネシアのジョグジャカルタ、大都市なのかな?
いやいや、もうちょっと小っちゃいですよ。
希望的には小っちゃいです。
インドネシアの京都みたいな話を聞きました。結構古い、
言われますね、すごい。
美術的な都市なんですよね。
コトですね、いわゆるもともと王宮があった、今も王宮があって王様がいるんですけど、
文化都市、芸術文化の街で、アーティストがたくさんいる街ですね。
そこに家をスタジオ借りながら、そこで制作をして、東京に戻ってきたり、
ジョグジャに行ったり、インドネシアに行ったり、みたいな生活っていう感じですかね。
今は割と自分の気持ちとしては、インドネシア、ジョグジャが家があって、
そこでプロジェクトがあると日本に行くっていう感じで、
メインなんだ、今。
そうですね、そういう感覚で、プロジェクトがあると日本に戻って発表をしてるっていう感じですね。
なるほど、なるほど。
いろんなところを飛び回りながら、いろんなプロジェクトをやられていて、面白いなと思うんですけど、
そもそも我々の出会いって3年ぐらい前でしたっけ。
4年前ぐらいですかね。
渋谷でみんな出会って。
そうだそうだ。
それぐらい前かもね。
北沢さんの例えばリビングルームっていうプロジェクト、商店街にリビングルームを作ってしまったりとか、
あとホテル、団地の一室をホテルに変えてしまったりとか、
そういった場に関わるようなアート作品みたいな。
そうですね。
美術館の中で見るものというよりもパフォーマティブなアート作品、
場に関わるパフォーマティブなアート作品っていうところで、
すごい私たちとしても興味があって、
それからずっと連絡を取り合っている中っていう感じですかね。
まさにまさにそうです。
それからインドネシアに行ってしまわれたんですが。
そうですね。
その後直後、あの頃って多分2017年の末とか2018年ぐらいかな。
ちょうどもうインドネシアに移ろうかなって思って、
インドネシアに移ろうかなって思いながら多分話してたかもしれないですね。
そうそう。
東京の大雪の降った。
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そうだね。
記憶がある。
あれが何年でしたっけ。
あれ多分ね、僕がネイバーズランドって横浜での展覧会のプロジェクトの直前で、
2月ぐらいだよね、2018年の2月とかで、
むちゃくちゃ雪降った時ですよね。
覚えてます。
すごい覚えてる。
その話を、北沢さんが雪の話をしてた文脈を思い出してて、
全部が床が白く雪の下に隠れてしまって、
いろんな境界がなくなって全てがフラットになったみたいなお話をされていたのを思い出してて。
まさにまさに。
ちょうどその頃僕も銀座でのプロジェクトも控えてて、
ロケ版してたんですよね、2人には話したことですけど、
ロケ版してて、それもね、小っちゃい屋台を作って出現させるっていうプロジェクトだったんですけど、
置き場所がすごい許可必要じゃないですか、東京特に、銀座とか。
だからどの場所が私有地で、どの場所が公有地でみたいなところとかを探りながら、
どこに出現させようかなと思ったら、何もなければね、
遠跡の内側がこの会社のビルの私有地でとかってわかるんだけど、
雪降って全部が私有地と公有地の公共の空間の境目が全部なくなっちゃって、
これはもうロケ版無理だなって思ったんですよね。
っていうのがあったし、あと大雪になった時に思ったのは、
Googleマップが赤色に染まったんですよね、大渋滞で。
だからあの赤だらけのGoogleマップ見て思い出したのは、
ジャカルタの日常なんだよね、あれはね。
ジャカルタは常に真っ赤だから、
この真っ赤をどうやってくぐり抜けて家に着くかとか、
目的地に行くかっていうのはもう基本能力なんですよ、人間のジャカルタで生きる。
久しぶりにジャカルタ感覚使えるぜと思って、
みんなジャカルタ感覚知らないだろうってちょっと優越感に浸りながら、
酒飲んでしばらくしてみんなそろそろ渋谷から吐けたかなって思った時に、
電車乗ったら普通にいつもの電車に戻ってたって感じですけど。
だからそれもすごい、僕の中でもすごい印象的な感覚ですね。
非常事態とか変化に強いジャカルタで生活したからこそだし、
逆に東京にはそういうシステムで守られてるからこそ、
そういう時の自分をアジャストする感じっていうのが、
なかなか難しい部分があるのかなっていうのは、
あの時すごく感じたのは。
なるほど。
ジャカルタに1年ぐらいいたんでしたっけ?
そうそう、経緯としては2016年の4月から2017年の4月まで、
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国際交流基金のフェローシップっていうプログラムで1年間滞在したので、
それでその時は首都のジャカルタ、
都市人口1000万人、東京とほぼほぼ変わらない大都市に僕は住んで、
そこのアーティストたちとかと交流したり、
プロジェクトの構想ネットでリサーチしたり、
ジャカルタだけじゃなくジャカルタからいろんな町見に行って、
その時にジョグジャンにも訪れてはいたんですけど、
それで1年間国際交流基金のフェローとして滞在した後に日本に戻って、
1年間さっきの銀座だったり横浜だったりっていうところでプロジェクトをやった後に、
その2018年日本でのプロジェクトでもちょこちょこジャカルタにまた、
自分の感覚としてインドネシアをベースにした方が、
何か日常の中で得るものは大きいだろうなっていうような気がしてて、
それでやっぱりインドネシアをベースにしようって思ったのが、
本当に2018年末ぐらいかな。
で、2019年からちょうどジョグジャカルタ、今度は違う、
コトジョグジャカルタですね、文化の町に移り住んで、
ちょうど1年半ぐらいかな、今経つという。
今年私もインドネシアに行ってジャカルタとジョグジャカルタも行ったんですけど、
結構その2つの都市って印象が違うなっていう風に思っているので、
まあぶっちゃけ北田さんはシティボーイじゃないですか、東京の。
そうですね、ぶっちゃけ。
で、ぶっちゃけシティボーイだなと思ってるんですけど、
北田さんはなんで、結局私ジャカルタに行くのかなって、
なんとなく話聞いてた時思ってたんですよ。
結局ジョグジャカルタに行かないで、ジャカルタ。
で、ジョグジャカルタ結構アーティストも多いし、
結構コミュニティがしっかりある。
だからこそ、ここの刺激が本当にあるのか、みたいな。
ジャカルタ、東京にあるヒリヒリした部分っていうのが、
ジョグジャにあるのかっていう話をしてたりもしてて、
でも選んだのなんでかなっていうのはちょっと聞いてみたいなと思ったんですけど。
そうですね、だから、
ジャカルタっていうのはさっき言った通り真っ赤な街なんですよね。
渋滞ばっかりだし、社会問題もめちゃくちゃあるし、
都市環境的な部分でも問題があるし、
ただすごいいろんなものがうようよして、屋台だけじゃなくてね、
いろんなものがごめいてるような混沌とした街で、
めちゃくちゃ刺激が強くて、
最初国際交流基金でインドネシアに行くってなった時、
もちろん僕が選んでインドネシアに行くことになったんだけど、
いろんな人からジョグジャカルタを勧められたんですよね。
アーティストがたくさんいるし。
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でもそれを聞けば聞くほど嫌だなと。
嫌だなと。
みんながそうやって言ってるところで行くのが嫌だしね。
確かに。
そんなにね、
僕は地域でずっとプロジェクトを日本でもしてたことをしてたんで、
やっぱり現場は地域にあるっていうのをすごい思ってる。
社会の中にあるって思ってるから、
アートのコミュニティ、
もちろんそこにいる人たちは当然好きなんだけど、
街と関わったりするっていうことが大前提になるので、
だから一年間、機嫌つけて行くときに、
ジャカルタっていうのはこの混沌のした街に
身を投じようっていう気持ちがやっぱり強かったんですよね。
それでジャカルタを中心にちょっと世界を見直したことがすごく、
今の自分にとってはめちゃくちゃ大きくて、
ジャカルタでのプロジェクトを2年くらいかけてやったんだけど、
それで一つジャカルタのすごいコアな地域に関わったりとかもしたので、
そういうところで。
見に行きましたよね。
見に行きましたよね。
そうそう。
頭フラフラした。
頭フラフラ。
すごい特別な、何て言うんだろう。
あの雰囲気はすごく、
夢みたいだった、私の夢。
そうだね、本当に。
現実かどうか。
そうなんだよ。
だからその地域が、
ジャカルタのない中だけで考える、中をリサーチしていく中では、
一番俺にとって衝撃的な地域だったんだよね。
スラム街みたいなエリアなのかな。
取り残されたエリアの開発の中で、
元々住んでいた人たちが。
そうそう。
ジャカルタの北部、
ジャカルタって北が海で、
南が山になるんだけど、
その北部の一番際際の海と接しているような地域で、
元々オランダの当時時代、
そこに水族館があったってところから、
アクアリウム村って呼ばれているんだけど、
オランダの当時後に、
土地の権利を誰が持っているのかっていうと、
やや中ぶらになった状態っていうのもあったし、
あとどんどん人口が流入してくるんだよね。
そういう場所に。
で、そこである種、
スラム街が構築されて、
でもスラムって言うほどスラムじゃなくて、
結構ごちゃごちゃした路地街みたいなところだったんだけど、
それが北部の都市開発を理由に、
ふんぐする、立ち向きにあうんだよね。
それが2002年に、
それが2016年の4月で、
俺が最初に行ったときは、
立ち向きにあって、
全部がれきの山になったんだけど、
そのがれきの山、
自分の住民たちが、
自分の崩された家のがれきを集めて、
お金に変えて、
その部品を使って、
またバラックというか、
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その土地をもう一回住み直す、
オーケパイし直すっていうことをして、
政府に対してある種の提言をして、
政府に対してある種の抵抗と、
自分たちの生存権を訴える活動をしてて、
それがすごい、
なんだろうな、
やや異様な光景というか、
なんかすごい、
掘ったて小屋みたいなものが、
だから純粋なスラムじゃないんだよね。
純粋なスラムじゃなくて、
土地が奪われて、
そこにもう一回、
元住民たちが住み直してるっていう状況で、
今までいろんなとこ見てきたけど、
どこにもないような景色だったし、
そういういろんな社会的な緊迫した状況あるけど、
家3日で作れちゃうんですね、
あの人たち。
その素材を使って、
その土着の想像力というか、
っていうところにすごい見せられたところもあって、
この人たちすげえなと。
プロジェクトで、
社会をある種、
作り変える、
そこで生きる人たちが生き直すような場を作ってきたつもりだったけど、
リアルに日常をこの人たち自分たちのために作ってるから。
その力強さがね、
熱気がすごかった。
本当に人たちの。
もうプロジェクトやってるじゃんってすごい思ったんだよね。
でもあれにつきに、
よくそこにたどり着いたなって、
北沢さんもそういう、
そういう景色だったり、
本当にぶっちゃけすごく変彦なところにあって、
探すの大変で。
迷ってたね、そういう。
本当に世界がいっぱいにある。
それ私が聞きたいかったことで、
まさにその2つ聞きたいなと思ったんですけど、
1つ目が、
ヨグジャカルタでもいいんですけど、
インドネシアの新しい町に行った時に、
身を投じた時に、
なんかリサーチというか、
どういうふうにその町を知っていくのかっていう、
北沢さんのプロセスっていうのがすごい気になるなっていうのと、
エリアを、
スラム街のようなところを発見した、
その床越しが迷ったような、
すごいいわゆる変彦なところを発見できた経緯であったりとか、
あともう1つ聞きたいなと思ったのは、
それを見つけた時に、
どうコミュニティに入っていくのかっていうところで、
特に言葉、
今言葉もインドネシア語とかも学ばれてると思うんですけど、
最初の最初で全然喋れなくて、
そこの文化とか、
身の振る舞い方みたいなところがわからない状態で、
その場所にいても、
いろんな現象が見えてこないと思うんですよね。
それが見えるようになったというか、
そこに入れるようになったみたいな、
そこのプロセスの作り方みたいなのが気になります。
【佐藤】じゃあアンクアリウム村の事例で、
応答できればなと思うんですけど、
実は石川さんの質問にも答えられてないよね。
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なぜ属者か。
ここちょっと後回しにしますかね。
【石川】後回しにしよう。
【佐藤】そうだな、
アクアリウム村っていうのは、
僕の作家人生、作家活動の中でも、
かなり重たいというか、
自分を本当に、
結果的には成長させられたし、
すごい印象に残っている現場で、
それぞれ強いんだけど、
自分が試される感じがすごいあったんですよね。
作品を発表すると呼ばれて発表したわけでもない、
完全に自主的な活動だったし、
発表するんだっていうよりも、
これをやることによって自分が問われるっていうか、
ある種の修行にも似たような現場だった。
そういう現場っていうのは、
震災の後に福島の現場でプロジェクトをやった、
アクアリウム村ってこの2つが、
自分の中ではすごい大きな
ターニングポイントになっているんですよね。
アクアリウム村っていうところなんだけど、
ここをまずどうやって探していたかっていうと、
結構それまでもいろんなところに興味を持って
足を運んでいたんですよね。
アクアリウム村にたどり着いたのはちょうど1年経ったぐらいですね。
ちょうどジャカルタ生活1年ぐらい経ってから。
だからちょっとは言葉はそこそこ話せたところはある。
っていうのもあるんだけど、
その前段階では、
国際交流基金のときに受け入れ先として、
現地のアクアリウム村に行って、
国際交流基金のときに受け入れ先として、
現地のアーティストだったり、現地のキュレーターだったりと
事前につながっていたところもあって、
あとは日常を過ごす中で、
家の門番とめちゃくちゃ仲良くなって、
門番?
門番が、愛っていう門番がいたんだけど、
彼からすごい言葉も教わったし、
例えば、よくわからないニュースとかについて話を聞いたりとか、
わりと、日常の延長線上で気になることが
自分のフィルターにかかったときに、
初めてそこにアンテナが向くって感じかな。
だから、まずは半径10メートル。
どうやって卵を買うのかみたいな話があるじゃないですか。
日本語と違うから、どこで卵が買えるのか。
どこで総材が買えるのかみたいなところから。
じゃあ、この道はどこにつながっているのか。
この道を作ったのは誰なのかとかいう風にして、
どんどん半径を広げていって、ようやくその主要が広がっていったときに、
現場とかが目に入ってくる。
だから、飛び急で立ち向きの場所に興味を持つっていうことではあんまりなくて、
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自分の日常が少しずつできたときに、
それにすごいまず時間がかかったんだよね。
まずジャカルタで生きていくってことは超ビッグプロジェクトなんで。
サバイブ。
なので、それがある程度できていった中で視野が広がっていって、
じゃあこういう路地の地域を見に行こうかっていうふうに行動範囲が広がっていって、
それで最終的に、その中で足を、規模を広げていった。
日常範囲を広げていったときに、立ち向きに合っているエリアとかがあるってことを
たくさん目にしたり聞いたりする機会があって、
そういう場所を、逆にそのときにそういうエリアに絞って地域を見に行ったんだけど、
そこが衝撃で、その最終地点がアンカリウム村っていうところだったんですよ。
だからいきなり知ったわけで、もちろんアンカリウム村っていうのは
メディアにも取り上げられてたし、有名だったんだけど、僕はそんなに知らなくて。
そうやってどんどん日常の範囲が広げていった先に、
アンカリウム村があったっていう感覚です。
結構僕の中ではそれはすごい重要っていうか、
そこが飛びすぎちゃってると、やっぱりプロジェクトにならないんですよね。
自分のこととして捉えられてないと、
だからそこの身体感覚っていうのはプロジェクトを作るときにすごい大事にしてるから、
だから単にメディアで知って、そこで何かしたいってやってると、
やっぱり何か違うなってなってたこと。
だから1年間かけて出会ったのはすごい大きかったなと思います。
関係を広げていくっていう表現がすごい分かりやすかったです。
じわじわと自分の。
日常の延長線上でね。
村さんらしいなと聞いてて。
で、何かね。
覚えてますよ。
どうやってその関係を作っていくかですね。
コミュニケーションをとっていくか。
これはやっぱり経験もあるのかなと思いますけどね。
いろんな地域とか知らない人たちのところとかで
プロジェクトを日本でもやってきたところがあったので、
そういう他者と関わることだったりとか、
何かコミュニケーションを最初に取るみたいなことは
やっぱり何か慣れてたっていうところもあるですね。
で、その輪に入っていくというか。
何か抽象的に言っててもしょうがない。
例えば言語の話だと、これ結構よく人に話してるから
話したかもしれないけど、例えば日本の地域でも
僕なんか方言のとっかかりをつけるようにするんですよね。
そのエリアの方言に興味を持って
それをちょっと話せるようになっておいたりとか。
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それは予定調和的かもしれないけど、
実際そこの地域に興味があってきてる部分もあるから
それに対して自分も興味があるというか
入っていきたいっていうメッセージが何か
伝わりやすいようにっていうふうに思ってて。
今回の場合は本当にインドネシア語っていう
本当に全く違う言語なんだけど、
それをある程度覚えていくし、
肩苦しい言葉じゃなくてすごい日常的な言葉。
本当に路上で集まったときに、
それこそそのときモンバンとのカンバスレーションが
すごい大きかったんですよね。
モンバンと話す言葉。
本当に地元の人、モンバンさんって
本当にすぐ隣のちっちゃなお家に住んでる人が
うちのエリアのモンバンがやってくれたから
めちゃくちゃ地元の人で、
全然いわゆる教科書に載ってるインドネシア語じゃないんですよね。
5年間早い言葉を話すんだけど、
そういう言葉を取得しているから、
いざ地域に入るときにそれで話しかけて
お前何人みたいな。
日本人本当にみたいな感じになるんで。
それだから100%インドネシア語うまいっていう人とは違うけど、
なんかこう現地人感がすごいある。
異質な人間みたいな感じなんで。
それはインドネシアだろうが、
日本の現場であろうが変わんない感じ。
自分の角を取ってから地域に入るっていうか、
っていうことを意識はしてますね。
言葉っていうのはすごい実は大きい。
意識してるところですね。
なるほど。
めっちゃ仲良くなりましたよ。
速攻で。
なんか想像できますね。
まず仲良くなった。
それは大事ですね。
それって芸術家だけじゃなくてリサーチャー、
それこそ社会学者とか文化全体学者とか
ジャーナリストとかあらゆる項目が
リサーチャーに必要な振る舞いだと思うんですけど、
結構私もまだできてないなっていうところがあったりとか、
難しいですよね、実際にやると。
時間もかかるし。
やっぱ体の振る舞いっていうか、
体の身の使い方というか、
でやっぱ伝わるところが大きいと思う。
言語もあるけど。
でも同時に僕もアーティストだけど、
文化人類学者のフィールドワークで入るときに、
まず言語を覚えて、2年間かけて言語を覚えてから
地域に入るだったりとか、
そういうところをやっぱり尊敬してみれるところも
すごいあるので、
そこからの影響もすごいあるなと自分では思ってます。
影響っていうか、関連性というか
シンパシーみたいなものが絶対に分かっている。
なるほど。
そんなアーティストとして入るみたいな感じに
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固くなではないのはやっぱそういうところもあるのかな
と思います。
いいですね。
そんな木澤さんが最近始めたプロジェクトについても
ちょっと聞きたいんですけど。
話の途中ですが、長くなってしまったので、
ここからは後半でおしゃべりを続けたいと思います。