病院での経験
中川 浩孝
コミュニケーション力を究めるゴールデン・トライアングル。 仕事でコミュニケーションを扱う3人が、これまでの経験や最新の話題を語りながら、コミュニケーションとは何かを一緒に考えていくポッドキャストです。
田中 愼一
みなさんこんにちは。コミュニケーションを極めると自分が見えてくる、世界が見えてくる。
コミュニケーションの世界に携わって40年以上、コミュニケーション命。 シン・田中こと、田中愼一です。よろしくお願いします。
高木 恵子
SEからPRコミュニケーション業界に転職して、はや四半世紀以上、高木恵子です。
中川 浩孝
外資系企業でマーケティングを経験してきた、アメリカ在住中川浩孝です。
今週は3人揃いました。
田中 愼一
そうですね。よろしくお願いします。
今日の出だしあたりは、昨日経験したことを少しお話しできればと思います。
昨日は、目医者、病院の方、目を定期的に見てもらってるんですけども、検査してもらってるんですけども、
基本的には病院に行って、そこでいろいろと検査した後、診察を受けて、
それを3ヶ月に1回やってるっていう感じなんですけどね。
かかる時間っていうのは、つまり検査をする時間、さらには診察をしていただく時間っていうのはそれほど長くはないんですが、
かいつまんで言うと、下手すると30分くらいなんだけども、
待ってる時間がすごい長いんですよ。大きな病院だけにね。
だから昨日は11時くらいに行って、出てきたのが5時近くっていうのが。
中川 浩孝
ほぼ1日かかってますね。
マンダラと心の構造
田中 愼一
で、一方で番号をね、自分の番号を覚えてなきゃいけない。
で、その都度その都度新しくね、4桁もあるんですよ。だから2395だったかな。
絶えずアナウンスが出てくるんで。
高木 恵子
え、なんか紙とかが出ないんだすね?
中川 浩孝
そう、紙でね、印刷されてこないんですか。
田中 愼一
紙はね、目の前にあるんですよ。
問題は、全部アナウンスで、どこに行くかって全部。
中川 浩孝
あー、まあそうですね。
高木 恵子
表示が出ないんですか?
田中 愼一
表示とアナウンス、両方出るんですけど。
ってことはどういうことかって言うと、絶えずアナウンスを、全てのアナウンスを見なきゃいけない。
2395って入ってたかな、2395。
それが全ての表示を見ながら、今2395はどこかな、どこかなって。
これ同時並行でやって。
かつ、なんでこんなの待たされるんだよっていうこの不満というか、そこの暇ね、暇というか。
そこをどう過ごすかっていうんで。
で、病院っていうのはやっぱり、通信機器を嫌いますよね。
中川 浩孝
はい、そうですね。
田中 愼一
携帯とか。
中川 浩孝
電子機器、はい。
田中 愼一
そう、で、なんていうのかな、携帯使ってると注意はされたことはあんまりないんだけども、周りの目が厳しいんですね。
高木 恵子
へー。
田中 愼一
そう感じるんですね。
そうすると、基本的には、自分としてはしょうがないなと思って、紙の本を持っていくわけですね。
紙の本でNHKのマンダラと生きるっていう、NHKこころの時代、あれ今でも長年やってますから、教科書があるんですよね、小冊子がね、番組と一緒に読むような教科書。
で、それを2018年に買ったみたいで、それは一旦読んだんだろうと思うんですけども、ちょっとマンダラっていうのは、非常に不思議な響きのあるものなんで、
基本的にはそれを読みながらね、耳をダンボにしながら、絶えず2395、2395って表示も見ながら、結構忙しくやってたんですよ。
そしたら、なんでかわかんないけども、言葉として2つの世界が降りてきたんですね。
中川 浩孝
はあ。
田中 愼一
2つの世界がなんで、僕が今経験している病院内での事象と結びつくかどうか、僕は何の意味もわかんないんですけど、2つの世界があるのかなって。
で、教科書になる本を読んでいると、世界の構造と心の構造っていう2つの言葉が出てきたんですね。
で、それに非常に、え?って惹かれて、その2つの言葉にですね。
なるほど、基本的には世界っていうのは、我々で言うと今見える世界ですよね、これ。
この見える世界の構造っていうのは、確かに1つカテゴリーとしては、当然ながら生まれた時からあるわけだから、
そこにはいろいろな宇宙工学とか現代物理学とかいろいろな科学っていうものが、そこの構造っていうのを形にして、
我々に実際見えるもの、その見えるものには構造があるんだよ、メカニズムがあるんだよっていうのを科学っていうところで出している、この世界ですね、この世界っていうのは確かにある。
ただよく考えてみると、もう1つ言葉が引かれたのがですね、マンダラっていうのは皆さんよく聞くと思うんだけども、
一種のですね、仏教における最終ランナーと言われている密教っていうのがあるんですけども、
その密教という仏教の一派が基本的には作り出したのがマンダラって言われてるもので、
でそのマンダラっていうものにはですね、特に興味を示した、初めて興味を示したっていうのは、
実は精神医療っていうか精神医学っていうか、あるいは分析心理学を提唱したユング、
心理学者のユングが非常にそのマンダラに興味を示したんですね。
でそれを精神医療の中でマンダラという一つの図象ですよね。
図象という、マンダラっていうのは丸っぽくてこういろいろ書いてるマンダラっていうやつですね。
っていうものが、実は非常に精神的に病んでいる患者さんを助けるのに役に立つと。
つまり、実はそういうふうに精神的にいろいろ参っている人たちを観察していると、
なぜか何かある図形を書くって言うんですね。
でそれがマンダラの形にそっくりになってるんですよ。
だから人間というのは何か自分の心がおかしくなったときに、
それを一つの秩序立ててバランスを取らせるときの一つの行為として、
あのマンダラみたいな絵を書くんですね。
でそれに気がついたユングが、これは利用できるかもしれないって言うんで、
マンダラの絵っていうものを一つの治療方法、精神病の治療方法として取り上げるんですね。
それがいろんな形で、結構早急に普及してですね。
でいわゆる、今で言うと結構塗り絵みたいな形で、
マンダラの構図が書いてある紙にですね、鉛筆か何かで書いて色を入れてくる。
それをやることによって実に心が徐々に安定してくるっていう効果があるっていう。
で元々この図象ですけども、密教芸術っていう分野があるんですね。
これは仏教の中でも密教っていうのはすごく表現にこだわる宗派で、
言葉では、もともと仏教の基本発想で言葉では真理は伝わらないってよく言われてるんですけども、
ここが結構キリスト教との違いで、キリスト教はまず言葉ありきですよね。
神が基本的には言葉っていうふうに始まるのに対し、
仏教の場合は言葉じゃダメだと。やっぱり言葉以外のものでやっぱり伝えていくっていうのが重要で、
そういう発想が続いたわけであって、マンダラっていうのを作るわけですね。
でマンダラっていうのは、今は日本とチベット、ネパールあたりが一番マンダラっていうのがしっかり確立されてるんですけども、
いずれにせよ色の配色とかいうのが素晴らしくあって、
図形的にも非常に左右対称性っていうか、非常に綺麗なんですね。
幾何学的な図形と言ってもいい。
でそういう中にいろいろな色と、ですからある意味芸術に近い美術って言われてる。
だから密教美術っていうのはもう一つの美術として取り上げられてるんですけども、
本来マンダラっていうのはですね、修行のためのツールなんですよ。
アイテムなんですよ。決してその美術とか芸術じゃないんですね。
あくまで修行をしていく上でそのマンダラというツールを使って修行していくっていう、どっから来てる行、一種の行なんですね。
でこれが東洋の世界の中でずっとほぼ何年前だろう、1500年ぐらい前からもうすでに行われていて、
マンダラっていうのを作って修行のアイテムとしてたわけですね。
でそれを19世紀、20世紀になってユングみたいな精神学者っていうのがそれに注目して、
でマンダラという治療方法、マンダラを塗っていくっていう治療法を作ったっていうことで、
ある意味で言うとユングの今使っているそういう治療方法っていうのは、
2つの世界の認識
田中 愼一
もう1500年からもっと前にインドで、いわゆる仏教の一派で唯識派っていうのがあるんですけども、
どちらかというとその深層心理、これ東洋の方が圧倒的に早いんですね。
深層心理の存在に気がついたのは。
たぶんヨーロッパだと基本的には19世紀だと思うけども、
深層心理っていうのを言い出したのは、だってユングは基本的には言い出した。
そうですね、18世紀、19世紀ですね。
でそれに比べて、東洋ではインドの方でもすでに1500年前から2000年前ぐらいにもうすでにそういう唯識派っていって、
唯一の唯に、識は知識の識かな。
識っていう、だから基本的には意識の世界のもっと下に深層意識があるっていう、
こういう捉え方をすでにもう仏教のインド思想っていうのはですね、
仏教を生んだインド思想っていうのはもうすでに捉えてたんですね。
だからそこの深層意識っていうのを、実は究明するっていうのは、
実は逆に言うと、仏教で言うそういう深層意識、
つまり識論っていう派ですね、唯識派って言われてるグループなんですけど、
そこの考え方を分析していくと、圧倒的にもっと明快にわかってくるっていうことで、
精神学者っていうのは、結構マンダラっていうもの、
欧米の精神医療に携わっている人たちにとって、
マンダラっていうのは結構もはや重要な現代的なツールになってるんですね。
それがマンダラと呼ばれているもので、
実際そこで僕が引っかかった言葉っていうのは、
2つの世界っていうのに、いわゆる世界の構造っていうのと、
それから心の構造っていう、この2つの構造っていう言葉に目が行って、
その後すぐ目についたのが、そこに書いてあった深層意識ですね。
深層意識っていう言葉が入ってきて、
そこでたぶん自分なりに考えたのが、
意識と我々が思っている意識っていう世界と、
深層意識っていうのは、圧倒的な大きさを深層意識が持ってる。
だから意識っていうのは本当の一部の一部、
つまり我々が今意識している世界っていうのはですね、
非常に小さな一部で、
意識というものが、実は見える世界と見えない世界の、
ちょうど接点のところに意識がちょこっと入っている。
こんなイメージが降りてきたんですよ。
そうすると、我々が今見ているものっていうのは、
実は意識して見ているものですから、
意識を通じて見ている世界、
そこには構造があって、
そこにはいろいろな科学とかいろいろな方法論で、
そこを秩序立てて理解するっていう、
そういう意識の働きっていうところと接してるんだけど、
実は同じ意識の世界っていうのは、
もう一つの世界である深層意識っていう、
これも我々が見ている世界と同じぐらいの大きさを持った。
深さを持った世界という、
その2つの世界に、ちょうどその接点に我々の意識があるって感じ。
ってことは、基本的にはですね、
この2つの世界っていうのを認識するっていう、
少なくともこの2つの間っていうのを、
実はこの本を読んで、まだ確証はないんですけど、
どうも読んでいると、そこを繋ぐ一つのツールとしてまんだらがあるっていう。
だから、なんかその、そういうその2つの世界があると認識すると、
結構なんか面白くありません?
要するに、我々らと自分自身で思っている意識っていう世界は、
単にその意識が作り出している存在なんだけど、
実はその意識よりもはるかにでかいね、
深層意識っていうのが実は存在している。
あのユングの言葉を使うと集合意識っていう言葉なんですけどね。
あのいわゆる集合意識でみんなが一つのビッグデータにつながっているっていう発想ですよね。
意識と深層意識の探求
田中 愼一
だからそうするとその集合意識からは、
さまざまな経験とか知恵とかそういうものが引き出しできるよっていう、
ビッグデータみたいな概念で捉えている感じがするんだけども、
その深層意識ですね。
だからそこがね、なんか昨日突然イメージできるようになってきたんで、
これはどうすればこの2つの世界っていうのはどうつながっていて、
どうすればつながるのか。
だからそうなるといろいろ発想が出てきて、
例えば夢なんかそうですよね。
夢っていうのはあれは自分の深層意識との対話ですから。
そういう対話の場も一つある。
それからそうじゃなくてよくあるのは、
なんていうのかな、一生懸命解決策を考えて考えて一生懸命考えていくんだけど、
なかなかいいアイデアが出ない。
なかなかいいアイデアが出ないんだけども、その夜寝る。
朝起きるとシャワー浴びてるときにハタと、
ソリューションが降りてくるような経験とか、
ああいうのっていうのは、もしかしたら考えている、起きて意識があるときに、
何らかの工夫をすることによって、寝て無意識の世界に入ったときに、
あるいは深層意識の世界に入ったときに、
その意識してたときのいろいろなやった方法、
ツールとか行なのかわからないけども、
あるいは一生懸命考えるっていうことでもいいのかもしれないけども、
していると、寝ているとき、もっと言うならば無意識の世界に入っているときに、
それが動いて、朝起きた意識の世界に戻ったときに、
それがアウトプットとしてボンと出てくるようなね。
っていうような考え方も、そう考えると通じつまっていくんだなっていう。
だから、この2つの世界とどう付き合うか。
見える世界と見えない世界の構造
しかも我々は意識しかないわけだから。
中川 浩孝
そうですよね。
だからそれを今思っていて、それを探ろうとすれば探ろうとするほど、
それはもう無意識ではなくなっちゃうのかなっていうのもあるので。
田中 愼一
無意識というよりも、意識無意識に分けるんじゃなくて、
そこに繋がりがあると見るべきなんでしょうね、どっちかというと。
繋がりがあるから、その繋がりを利用して何かできるかどうかって話になる。
だから、夢との対話っていうのは結構ね、昔からいろいろ言われてて、
実際心理学者たちも夢の研究やってますからね。
中川 浩孝
そうですよね。
田中 愼一
あと、昔の日本のお坊さんでは、全ての見た夢を記述してるやつがあるんですよね、本にある。
だから夢っていうのは一つの、その二つの世界を繋ぐ、
その二つの間の対話っていう言葉を使っちゃうんですけど、
やっぱり見えない世界、見える世界、それぞれと対話するっていう意識。
そういう発想とか考えていくとすごく面白いなと。
だから、自分って何?って言ったときに、
それはじゃあ、無意識が、無意識っていうか深層意識が自分なの?
そこが本当の自分なの?っていう人たちもいるけど、
なんか、我々はその二つの世界、見える世界、見えない世界、
両方によって作り出されてる事故みたいなものがあって。
中川 浩孝
まあそうですね、確かに。
田中 愼一
だから、分けることできない自分っていうものを、その二つの世界から。
やっぱり繋がってるっていう表現がいいのか分かりませんけど、
なんかね、そういうところとどう繋がっていくか、
どう対話していくのかっていうのが意識としてね。
だって本当に我々考えてみたら、自分って言ったとき意識しかないじゃないですか、全部。
中川 浩孝
まあそうですね。
田中 愼一
生きてるっていう実感は、意識があるから生きてるって思ってるんで。
でもその背後に二つの世界、というか二つの世界に、
まあいわゆる晒されていてある意味で。
そうするとその二つの世界に対してどう見ていくのかって言ったときに、
さっきちょっと言いましたけど、いわゆる世界の構造という、
これはどっちかというと見える世界のことだと思うんですけど、
その見える世界の構造はどうなってるか。
ですからもう一つは心の構造って書いてあるんで、
それは見えない世界での心の構造っていうのは、一体どういう構造があるのか。
だから二つの世界、それぞれに一つの構造が、それぞれの構造があって、
で問題はその構造がどうお互いに関わって、我々の意識が生まれてきてるのか。
こんなあたり考えていくと面白くないですか。
高木 恵子
なんか夢っていうとすごい、なんだろう、割とポジティブな、
見えない世界かなと思っちゃうけど、
例えばちょっと表現があれかもしれないけど、
少し心が病んじゃってる人たちって、
その妄想、その思い込みで全然実際にない状況のことをあたかも自分が経験してるかのように、
例えば思っちゃってそっちの世界にのめり込んでる、
何て言うんですかね、現実じゃないのに現実にあたかも自分がそういうことをやってるとか、
例えば相手がそういうふうに、それこそストーカーみたいな人って、
相手も自分のことを好いてくれてるって思っちゃってるから、
余計妄想の世界でどんどん現実の動きをしちゃってトラブルになるみたいな、
ちょっとネガティブなアクションっていうか事実もあるじゃないですか。
田中 愼一
基本的には怖い世界だと思います。
高木 恵子
そうですよね。
田中 愼一
だから怖い世界でもあり、素晴らしい世界でもあるけど、
ただそこにはやっぱりある一定の構造とメカニズムがあって、
でトラウマっていうのはまさにその一つで、
今言ったのはある意味トラウマに近いですよね。
要するに勝手に思い込んで現実じゃないんだけど、現実だって考えたり、
非常にそこの見える世界っていうのはある程度今科学的な思考とかそういうもんで、
それも完璧じゃないんですよ。
完璧ってのは分けるっていうことしかできないから、あの認識方法は。
でもいずれにしても我々見える世界も今言ったように素晴らしい世界でもあるけど、
一方ですごい怖い世界にもなる。
で一方この見えない世界も同じで、
だから多分その精神的に病んでいる人がマンダラの絵を描くっていうのが、
実はそれは一旦外れてしまってトラウマ的に悪い世界に入ったのを少し引き戻す。
つまり心の安定を図ることによって、
精神的な病っていうものを治療していくっていうんで、
欧米の精神医学者たちっていうのは、その効用を認めてるってことだったと思うんですね。
高木 恵子
ああなるほど。
田中 愼一
だからその見えない世界、見える世界、
まあ見えない世界っていうのが非常に多分、見える世界以上に今精神分析心理学とか、
いろいろ科学的な方法でそういうふうに入っていこうとしますけど、
多分これ見える世界でも同じだけど、
科学的な方法っていうのは限界が間違いなくあるわけですよ。
物事を分けて考える以外は理解できないんですよ。
でも物事を分けると見えなくなってくるものっていうのはたくさんあって、
分けるっていうのは対立概念を作ることですから。
高木 恵子
こっちはこれで、こっちは別のものだっていう。
田中 愼一
だから必ずそれは科学には入ってくるわけですね。
要素に分けて、その中でメカニズムを見つけ出そうっていうアプローチですから。
ところが、やっぱり生きてるとよくだんだん分かってくるのは、
分けちゃダメ。分けられないもんってあるじゃんって話になってくると、
科学だと手がつけられないっていう世界は見える世界にもある。
だから多分見えない世界にもかなりそういう意味では、
秩序っていう安定バランシングっていう機能もあるけど、
アンバランスになってしまうっていう世界もあって、
非常にある意味怖い世界かなとは思います。
多分宗教なんていうのは、そこあたりに対して、
一種の安全装置を作るっていう宗派と、それから逆に利用して使っていくっていうことで、
多分この無意識の世界っていうか、深層真理の世界っていうのは、
悟りへの道
田中 愼一
今までどこが一番関与してたかって言うと、多分宗教だと思うんですよね。
だからその修行ツールであったマンダラっていうのが、
実はある意味、その見えない世界っていう、無意識の世界っていうものに対して、
何らかの影響を与える。
つまりそのマンダラっていうツールを使って、そことどう対話できるかっていうのが、
仏教で言うと修行っていう形になっていて、
だから多分、いろいろと仏教書を読んで悟りって何かって、
一番わかりにくい言葉を一生懸命何十年も考えてますけど、
悟りっていうのは、だいたいみんな説明してるのが、
いろんな仏教書でもいろいろな精神心理学書でも、
悟りっていうのはなんとなくその無意識の世界の中の、
実際にユングが集合意識っていう言葉を作ったんだけど、
極端に言うと密教っていうか、
例えば日本の密教の代表である真言宗の弘法大使空海なんかは、
その無意識の世界を分析してるわけですよ。
例えば8あるとか10あるとかいうレベルがあって、
悟りっていうのが一番下の10だって言われてるんですね。
人によって、宗派によって8と10どっちか分けるんですけども。
だからある程度東洋の方ではもうすでに、
その無意識っていう部分を10段階から8段階にもうカテゴライズされてて、
それをどうやって悟りの世界に入っていくかっていうと、
その階段をどうやって降りてってね、
最終的な悟りのところに行くかっていう発想自身はもう、
1500年ぐらい前あるいは2000年ぐらい前にもうすでにやってるわけですよね。
だからそこにいわゆる19世紀になって、
いわゆる精神心理学っていうか分析心理学っていう科学がある程度出来上がって、
で、それがそこにすごい興味を示したっていう。
多分こういう流れが今の流れなのかなってちょっとね、
病院の中で暇持て余して待ってる間に考えてきた無双というか妄想というか、
なんかそんなイメージですね。
中川 浩孝
なるほどね。
田中 愼一
どうでしょう?なんとなく不思議な。
中川 浩孝
そうなんですよね。見えない世界なのでそこ、
まあそういうのがあるんだろうなっていうのはなんとなく感じる時はありますけれど、
じゃあそれをどうやってそこと対話するっていうのは、
実際にはどういうことができるのかなっていうのはちょっとこう。
田中 愼一
今はね、やっぱりいろいろ考えるのは禅が一つそうですよね、座禅。
座禅っていうのは、
あれは一つ、どうもいろんな本も読んでると、
無になる、無我になるっていうのは自分の欲望をどんどん抑えていくっていうか、
要するに欲望をどんどんどんどん抑えていって自我というものを消していくわけですよね。
自我というものを消していくと、
まあ僕も別に座禅で悟りの境地得たわけじゃないから、
ここあたりは本読んで頭でイメージしてるだけの話なんですけど、
少なくとも自分をどんどん無くしていく。
自分で無くしていくと、いろんな本を読んでると、
あるいはいろんな人の話を聞いてると、
時間と空間と自分が一緒になるんですよ。
時間の流れと空間の、時間軸、空間軸っていう、
いわゆる今の我々の世界っていうのはその2つで切れるじゃないですか。
空間軸と時間軸。
イメージで言うと空間軸と時間軸が交差する一点がありますよね。
今ってことなんでしょうけどね。
その今っていうところに自分が同化できるかどうか。
これが座禅の方法。
今僕が語ってるのはあくまで、僕自身の知識をベースとしたイメージですからね。
僕自身は決して悟りを得てるなんてのはないです。
ただ、そんなもんだろうって考える。
瞑想と自己暗示の方法
田中 愼一
あともう一つの方法がですね、
これは今言った禅っていうのは禅宗っていう一つの仏教の流れですけども、
密教とか他の仏教でもいろいろ儀式がありますよね。
行と呼んでるんですけど、要はお経を唱える。
南無妙法蓮華経、南無妙法蓮華経。
あるいは阿弥陀仏、阿弥陀仏、阿弥陀仏、阿弥陀仏っていう。
で、あれを唱え続けてると徐々に心が落ち着いてくる。
で、それによって自我がだんだん薄れてくる。
で、だんだんやってるうちに周りとの一体感が出てくる。
一種の瞑想の、座禅も一種の瞑想なんですよ。
でもアプローチが逆なんですね。
座禅はどんどん自分を無にして静かなところに落とし込むのに対し、
今言った、いわゆる南無妙法蓮華経、南無妙法蓮華経っていうふうに
お経を唱えるっていうか、声に出して唱え。
で、姿でこうやるっていう。
これなんかはどっちかというと、
もっと積極的にこっちから声出してやっていくっていう自己暗示の仕方。
両方とも自己暗示なんですけどね。
で、それ以上になってくると、
例えば密教のぐらいになると、
基本的には身口意っていって、身体の身
口は口の口(く)。
意は意識の意っていうことで。
身はいわゆる体の動きですね。
で、その体っていうのは様々な動きがあるんだけど、
それを陰という、
例えば、
あ、そっか、見えないもんね。
あの、いわゆる陰というものがあって、
それぞれたくさんの陰があるんですよ。
意味があって。
で、それを陰というものを結ぶことによって、
あの身の身口意のうちの心を表現し、
次に口は言葉で唱える。
いろいろな、例えば真言とかマントラとか、
そういうものを唱えていく。
同時に身口意の意ですね。
ここの心をしっかりと一つの集中する。
で、この三つを同時に行っていくと、
徐々に心が落ち着いてくるっていうか、
どんどん自分の自我っていうのが薄れてきて、
だんだん自分がゼロになっていくっていう感覚を持つようになる。
これはできるんですよ。
だいたいみんなそこは経験できると思うんだけども。
そういうような、いわゆる業と呼ばれている、
あるいは儀式って言ってもいいんですけども、
それぞれの、少なくとも仏教の流れでは、
それぞれの流派がそういうやり方をやってる。
一番儀式が少ないのはどっちかというと禅なんですけども、
でも禅も、例えば永平寺の雲水の人たちの修行を見てると、
ほとんど動きなんですね。
だから朝起きて布団をたたんで、
それからすぐ掃除をし、
掃除をした後洗面をし、トイレをし、
でいよいよ座禅っていう。
で座禅をやった後食事、食事も全部プロセスが決まって動きが決まってるんですよ。
だからいずれにしても動きっていうものっていうのが心に作用する。
もっと言うならばさっき言った、
意識無意識の世界にも、
そういう座禅を組んだり、
それからお経を唱えたり、
あるいは身口意っていうことで自分を表現して、
で儀式を行ったり、
あのマンダラを見ながらね、
マンダラを見ながら儀式を行ったりとか、
さらにはもっと言うなら普通の寒と呼ばれてるんですけど、
いわゆる仕事です。
仕事というか、作業。
きれいにして掃除をするとか、
洗濯をするとか、
あるいは食事をするそのものの動きもすべて利用して、
食べ方とか、
すべてつまり身口意、つまり動きと話す言葉と、
それから心の在り方を全部一つにするっていう。
こういう方法ですよね。
多分こういう方法が、
これは仏教だけじゃなくて、
あらゆる宗教がそういう儀式を持ってますから、
多分そういう儀式をやることによって、
見えない世界との繋がりを作っていくっていうか。
繋がりを作っていくと対話し始める。
だから対話ってことは向こうからのフィードバックも来るわけですよ。
でそれが夢を見たり、
あるいは朝起きた時に突然いいアイディアが浮かんできたり、
よく僕なんか言うように、
とにかく無意識も働かせろってことは、
よくうちの連中に言うんですけども、
人間は起きてる時だけじゃねえぞと、
寝てる時もね、
無意識が働いてくれるんだぞと、意識の代わりに。
だから両方24時間働けって言うと、
みんなブーブー言うんですけど、
いずれにしてもそういう2つの世界があるなってのを、
昨日、待合室でずっと延々と待ってた中で夢想してて、
どうですかね。
中川 浩孝
この続きは次回お送りします。
儀式と無意識の役割
中川 浩孝
どうぞお楽しみに。