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  2. 第50回【GODAI港北テニスコー..

両親がテニス大好きな家庭に生まれ、常にラケットがあった人生。
テニスをする度に、自分にはテニスしかないと感じる人生だったが、実は理系男子!
インテリコーチがまったり語る自称パッとしない男の熱いテニスのお話。





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【GODAIスポーツポッドキャストすぽきゃす】
この番組は、スポーツを通じて人々の健康生活の実現を目指す
【GODAIグループ】の提供でお届けいたします。
はい、ではポッドキャストすぽきゃす、これですね。
第50回目、50回になります。
記念すべき。
というところで、もうやめようかなと。
もうやめちゃうんですか?
やめようかなと思ったんですけど、はい、50回目。
じゃあ僕が締めでいいんですかね。
なんか、さっき50回って知った時に、西谷かよって思って。
僕もちょっと見てて、48、あれ?もしかして50回来るかなみたいな。
ちょっと思った?
ちょっと思った。はい、西谷允コーチです。よろしくお願いします。
よろしくお願いします、西谷です。
西谷允コーチです。よろしくお願いします。
今谷幸福の。
今谷幸福の、はい。
今谷幸福って出ましたけど、もともとは博楽視点にですね、長く在籍しており、
後ろ髪を抜かれる思いで、抜かれて抜かれて、剥げる思いで幸福視点に移動となり、
どうですか、最近は。
最近はもうね、この夏快適に過ごしてしまいまして。
快適に過ごしちゃった?冷暖房完備かも。
冷暖房完備。もうね、お客さんにそればっかり言われますね。
あ、そう。
博楽は大変だったでしょ、もうこっちの方がいいんじゃないのって。
みたいなこと言われちゃって。
言われちゃって、いやそんなことないです。博楽の気候がもう最悪、最悪じゃないよ。
本音が出た。
最高ですよ。
あそこのアウトドアを感じながらやるのが試合に出たりするのに絶対役に立ちました。
完全にクルスを今ディスってました。これはもう完全に僕報告しますよ。
西谷がとうとう博楽をディスってきたっていうね。
ちょっとね、口が滑り始めてますね。
もうぬくぬくしてますね。
1年間いたらちょっと…
もう1年間いたらもうあれですか、そっちの人ですか、もう。
しょうがないです、それは。
しょうがないです。
博楽もね、そういった環境の中でお客様も必死に楽しく受けていただいているので、
我々は冷暖房寒眠なんて言えませんから。
というところで、西谷にお久しぶりでなかなかお話しする機会が最近なかったんですけど、
ポッドキャストを始めて50回目を記念すべき、50人目ですよこれ。
最初どうなることかと思いきや、聞いてもらいたいんですけど、
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この前累計で75、6万のダウンロードが…累計ですよ。
いろんな方たちにピッて押してもらってるんですよ。
最後まで離脱せずに聞いていただきたいんですけど。
というところで、今日もザックバラに西谷光一のことを聞いてみたいなと思うんですが、
改めて皆さんのテニスヒストリーを聞いているんですが、
ご出身は西谷光一?
私は茨城県出身です。
茨城県のどちらですか?
日立中市、旧勝田市っていうところです。
まさに中心じゃないですか、茨城を支えてる町じゃないですか。
そんなこと言っちゃダメなの?
まあまあです。
茨城って、この前実は行ってきたんですよ、私は。
どちらへ?
上須市、ちょっと下の方です。
海の方で。
上須市に行ってまいりまして、国体があったわけなんですよ。
その国体に行ってきたわけなんですけど、国体の会場で市長さんが仕切りに言ってたことが印象的で、
知らなかったんだけど、茨城県って名産がピーマンなんだよね。
ピーマン、野菜とかいろいろありますからね。
いやでもピーマン推しだったよ。
市長完全にピーマン推しでしたね。
それ多分上須市だけ。
上須市なら有名なんだよ。
多分そうですね。
上須市長だもんね。
あと鯖。
海流の関係で、鯖がめっちゃ獲れるらしくてね。
上の方に行って大原行くと安康が。
安康なんだ。
だから茨城ってそう考えるとすごい良い場所なんだよね。
あとなんかいろいろ聞いたら結構いっぱいいろんなものが獲れてるんだなと思って。
そんな中で、そんな出身なんだ。茨城の出身だからね。
そう見ると茨城っぽいね。
茨城のことをディスるつもりはないんだけど。
いやでも、僕父親が静岡の人で、母親が栃木の人で。
そうなんだ。
茨城県で育って、茨城弁すごいなったんですけど、
結局家帰ってくるとそうでもないんで。
茨城弁ってあんの?
茨城弁はもうすごいですよ。
聞き取れないです。
茨城弁を聞いたことがないね。
水戸市とか行けばすぐ聞けます。
どういう感じになるのイントネーションっていうか。
イントネーションは基本的に平坦ですかね。
なんとかなんとかだべーみたいな。
なんとかなんとかだべー。
で、すごい方言の表現が独特な時があったりして、
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ちょっと年配の方としゃべったりすると、
何言ってんだろうなっていうのを笑顔で切り抜けるしかない状況に。
あ、そう。
そんな結構あるんだね。
それは知らなかったな。
上須市長はすごい流暢に標準語、市長ですからね。
茨城県出身で、そこで何歳まで?
高校生までいましたんで。
高校生が水戸市の高校に行って、
大学でこちらの方に来て、
今は東京都市大学っていうところですけど、
武蔵工業大学。
武蔵工業大学。当時は武蔵工業大学。
そうですね。
東京都市大学。
東京都市大学の方がかっこいいですね。
そうですね。
でも名前の変更は結構ひともんちゃくありましたけど、
武蔵工をMAXの。
やっぱり歴史がある学校ですからね。
西谷コーチは茨城県でテニスに出会った?
茨城県というか、僕が生まれたときから
多分テニスと一緒に育っていると思います。
家族が全員テニスをやっていて。
ご両親が?
そうですね。
土日はテニスクラブに連れて行かれて、
両親がテニスをしている脇で遊んでいるとか、
みんなに見てもらっているとか。
そういう関係だったんだ。
そうですね。
僕が知らない感じで、
河原田と同じくらいのラケットを持って
こうやっている写真があったりして、
こんなときからやっていたんだ。
じゃあ、青みたいに打つフォアハンドは
お父さんに譲るようになったんですね。
お父さんはドフラット系のウッドラケット時代からの人で、
お父さんはバリバリやっていた方なの?
うちのお父さんは院外も院下にも行っています。
すごいね。
静岡、静岡でインターハイベスト4とか行っていた気がします。
吉田専務と同じ年代で、
ジャパンの高校生を集める合宿があって、
そこで会ったと言っていましたから。
本当?
大学は東北大学だったので、
関東でバリバリという感じではなくて、
東北でちょっと成績があって、
でもインターハイベスト8とかそれくらいまで行った
みたいな話は聞いているので。
すごいね。
すごいんですよ。
その地を潰しかない環境に育ったんだね。
潰しかない環境だったんですけど、
僕は野球の方が途中で好きになっちゃって。
小学生5年生くらいで、ずっとテニスクラブに通っていたんですけど、
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一回つまらないから辞めるって言って、
そこからソフトボール、軟式野球やって、
親はそのとき少しがっかりしたと思うんですけど、
それでも土日はやっぱり中学校のときとか、
ずっと父親と母親とテニスコートに行っていたので、
1回2回はずっとやっていて。
基本的には最初のテニスへの導入の部分は
ご両親のきっかけで。
はい。
その後、いろいろとソフトボールとか野球とかに興味を持ってやっていて、
またテニスをやろうっていうところのタイミングっていうのは?
それが高校ですね。
中学生で軟式野球やってて、
高校に入ったら公式野球をやろうと思ってたんです。
結構中学校でも割と活躍して、
きっと名内矢手になるぞみたいなことも言われつつ、
高校にいざ入るってなったら私立の高校に行くことになって、
そこの高校が特大とかで選手をバンバン集めてて、
そういった高校だったんだ。
はい。僕は進学クラスとかで入って、
そこの特大にはあまり混ざらないでくださいって、
団体競技は怪奇なものも違うし、
部活にあまり参加できなくなっちゃうから、
団体競技は入らないようにって言われて、
そうかって思って。
あれなんだね、西谷光一ちゃんと勉強できたんだね。
そうですね、なんとなく勉強は…
勉強したんだね。すごいね。
じゃあ、普通に入試受けて高校に入って、
大体の人はちゃんと入試受ける。
いわゆるそこで特診みたいな感じの、
ちゃんと大学受験を控えてみたいなところの、
そういう高校に入って、
そこにテニス部入ったの?
テニス部に入りました。
どうだったんですか?
弱小テニス部。
テニス部の推薦ないか?
全然ないです。
テニス部は週1回行けばOKみたいな感じで、
テニスコートもアスファルトのボロボロな感じだったんで、
行ってもやっぱり打てる人あまりいなくて、
チラッと打てる人がいたら先輩で、
俺らテニススクールやってんだって言ってて、
僕もちょっとテニススクールなのかなっていうのが高校2年生くらい。
2年生くらいに感じて。
テニススクール通って、
そしたらもう中3くらいでテニススクール、
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やっぱり親も待ってたんでしょうね。
そういうの。
今までずっと会話してもらってたのが、
中学校で野球なんで、
ここでテニス部入ったってなったら、
じゃあもうやるしかないだろうって感じで、
テニススクールに通い、
そこのテニススクールも県の中では結構しっかりしてて、
プレベルの選手がいたりするところで、
熱心に指導していただいて、
その時にお前は細すぎるからジムに行けって言われて、
すごいマッチョなおじさんが出てくる、
ボディービルの人みたいなところに通って、
それでまたちょっと体が強くなったりとか、
高校の時がテニスにガッとのみり込んだ最初でしたね。
全然太くなってないじゃん。
筋だけ強くなりました。
筋だけ相当強くなりました。
肉がつかなかったんで、
高校の時は弱小だったんで、
軟式野球部と研修していて、
野球は好きなんだね。
野球も大好きで、
西谷光一、運動神経いいよね。
そうですね、割といろいろやってきた。
テニス見てるとバネがあるもんね。
ありがとうございます。
フォームも綺麗だし、
いろんなことができそうな体だよね。
野球をやってたのも良かったのかもしれないね。
そうですね。
その後は3年間テニス部でいて、
テニス部に入ってたのか、活動してたのかどうかは別として、
テニススクールに入ったと。
ずっとテニスを覚えて続けてるにあたって、
お父さんはそういう選手だった。
輝かしい成績を持ってるというところで、
試合に勝つという意識が芽生えてくる?
そうですね。
個人戦で県大会に行って、
勝つ選手が身近にいて、
ベスト32で負けちゃったりして、
勝つ人ってどういう感じなんだろうってずっと見てて、
やるからには勝ちたいなって負けず嫌いな部分があったので、
テニスもやるって決めて、
大学に入っても部活に入るって決めて、
でものめり込んだら一曲戦になっちゃうタイプなんで、
どうやったら勝てるかな、どうやったら強くなるかなって、
考えながらずっとやってて、
指導者に恵まれたっていうのは一つすごいありますね。
どのタイミングで?
高校のスクールもそうですし、
一番は大学で部活の先生が、
日本テニス協会のスポーツ協会員みたいな、
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副委員長みたいなのをやってて、
すごい教えるのもうまくて、
しっかりしてて、
情熱的だったの?
そうです。
いいね。
ましっと、規律も持ち、
考えてやらなきゃ絶対上手くならないぞって。
理系だったんで練習時間も限られてたんで。
理系はどうしてもね、
どこの大学も一緒なの?
多分そうですね。
理系は体育会になかなか入れないんだよね、
学部的にね。
なんでなんだあれ、今考えると。
実験とかそういう絶対行かなきゃならないのがあって、
それにかなり拘束されるんです。
やっぱり違うんだね。
拘束のされ方が違うんだ。
大学のときは練習場所と理系はもはや場所が違ったから、
理系の人たちは入りたくても、
物理的に距離的に練習時間に来れない。
キャンパスが違うから。
そういう理由は分かってたんだけど、
でも他の大学聞いても理系の方って体育会に入ってる人少ないよね。
やっぱりそういう問題があったんだね。
だから理工系リーグっていうのが関東リーグと別にあるんですよ。
あ、そうだ。
あるんだ、大学の世界は体育会でね。
見たことある、それ。
それはあった方がいいよね。
でも理系の方のリーグだったの?
理系のリーグもあって、関東も理系の大学入れるんですよ。
入れる?
一応下の方に固まってる感じで、
たまに5部とか4部とか入ったりしますけど、
だいたい7部、6部くらいに頑張ってやってる感じで、
うちも7部でしたけど、
6部の入り替え戦にかかるかなっていうところで頑張ってやってたりとか。
いやでも、そういう方がね、
指導者が当時の武蔵工にね、
武蔵工業大学にいたっていうことは、
すごいラッキーというか、
情熱的なコーチがいて、
日本テニス協会に属してるっていうことはやはり
テニスのことに関してももちろん、
いろんなことを知ってる人でしたから、
よかったと思うんだけど、
そこの4年、全部で4年間?
そうですね、ちょっと僕、
もう1年伸びてるんですけど。
入る前、それとも後に?
後も。
もう1回余分に受けた?
余分に。
余分に1年間。
5年間?
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そうですね。5年目もちょっと…
テニスやってた?
テニスやってました。
でもやっぱりテニスっていうものって、
もはやそこでは野球という文字は出てこなくなった?
そこではもう出てこなくなってましたね。
もうじゃあもう完全にテニス人になってきた?
テニス人になってましたね。
そこからいろいろと今のところの、
そういった自分の今のテニスコーチっていうところまで
なるにあたって、結構長かったの?
それとも、
要は今までそれで選手としてやってきてっていうところで、
4年間ないし5年間っていうところで、
テニスプレーヤーをずっと続けてきたわけじゃないですか。
理系ですよね。
理系の大学に行って、
こういうことを何か思って、
多分無作法に入ったと思うんですよ。
その中でやっぱりテニスっていう道を選んだ理由って何?
テニス、スポーツが好きで、
体を動かしていないとダメだなっていうのは、
勉強しながら部活やりながら思ってて、
やっぱり体を動かす職業に就いた方が
自分のためになるんじゃないかなっていうのも一つだった。
体を動かしていないんだ。
4年間学部で過ごす中で、
ほとんどテニス部に系統していて、
部活で首相もやってましたし、
試合とかもどんどん出て、
その時、磯部幸太郎さんっていう、
当時アートスポーツ系役のプロの方が
結構練習に来てくれたりとかしてて、
一緒にアメリカについてて、
フューチャーズの試合に出たりとかしてて、
途中からテニスの道に半ばのめり込んでるみたいな、
感じになってて。
で、僕が3年生、4年生の時に吉田裕香さん、
今チームメイト。
社会人学生で入ってきて、
大学に?
引退して、勉強しに来たんだ。
テニス部に関わってくれて、
そこでも僕が連れてってもらって、
プロのヒッティングの相手にさせてもらったりとか、
テニス業界を若干片足突っ込んでるような状況で過ごしてて、
指導する人も見てましたし、プロも見てましたし、
ところで、自分がサーブとか、
いいサーブ打てて、いいフォア打てて、
通用するなっていう部分があったんで、
そこからジョップを回って、
ジョップ回りながら父親が母親が
五代、都治横浜テニスカレッジに通ってたので、
そうなんだっけ?
5年か5年くらい通ってました。
21:01
西谷コーチが日本で行われているオープン大会、
ジョップっていうのは、
日本テニスランキングですね。
日本で何位っていうね、
ポイントを競う大会がね、
それに出ていた。まさに大学生の時に。
大学生で、その後もちょっと出て、
その時に1年間博楽に通ったんですよ。
父親の誘いで。
テニスコーチの仕事っていうのもあるから、
そこから父親から若干言われて、
もしかしたら将来の役に立つかもしれないから、
ちょっと通ってみなって言われて、
通ったんですよ、1年間。
お父さんの誘いだったんだ、スクール生として。
はい。
日曜日に運転手になって、
一緒に行って帰ってきてという感じで、
1年間通ったんですけど、
その最後くらいに、
ちょっとコーチやってみない?って言われて、
じゃあやってみようかなって言って、
やるんじゃないかなって思って、
やるんじゃないかなって思って、
じゃあやってみようかなって言って、
アルバイトで入って、
アルバイトしながら試合に出てっていうのが、
3年くらい続いて。
その時誰に誘われたの?
その時に誘われたのは、
これは池田刺激コーチです。
もうね、伝説の。
伝説の池田刺激コーチ。
もう座刺激に。
座刺激に。1年間教わってたんで。
池田コーチのクラスで、
その時一般のクラス?
トーナメントの。
トーナメントに入ったの?
なるほど。
じゃあ俺のスライスは7枚刃と思って言ってた。
7枚刃と言ってましたね。
俺もそれ聞いたけどね、
1枚刃から7枚刃で説明を受けたんだけど、
1枚刃と何が違えの?って話をした。
あの時面白かったけどね。
なるほど。
その時のきっかけに。
今ね、池田施役さんね、
ジップっていうところでね、
また自分の刺激武将を発揮されてますけど、
そういうところで誘ってもらって、
で今に至るわけなんだね。
今に至るわけ。
博楽でレッスンって何年間やったのかな?
9年間ですか。
9年間か。
結構やったんだよね。
結構やりましたね。
でも9年いたのに、
1年こっちに移って博楽になってみたいな。
なるほど。
でもやっぱりどう?
テニスコーチっていう職業に就いてみて。
もう転職なのかなって感じますね。
いいね。
楽しいですし、
お客様からのリアクションっていうのが、
すごいなんか僕も、
24:00
ちょっとこう、
全部が全部じゃないですけど、
結構いいこと言われるんですよね。
コーチに教わってよかったと。
教えるの上手いですね。
すごい言われて、
すごいそれが嬉しくて、
でもまだまだ、
もっともっと上手くさせてあげたいなって思いますし、
僕ももっと上手くならなきゃならないなって。
すごい相互に作用してる感じがあって、
いつまでも高め合っていけるんじゃないかなっていう感じ。
そういう感じがしますし、
マンネリ化しない感じがしてて、
すごい楽しいです。
なるほどね。
さらに自分としては、
こういうコーチというか、
コーチとしての理想像みたいなのっていうのはあるの?
そうですね。
僕は本当、
フワッとしてるというか、
特徴がそこまで、
バシッとしたものがないっていうふうに言われやすいんで、
西谷コーチといえば、
どうとか、絶対上手くさせてもらえるとか、
そういう域まで達したいなっていうのが一つあって、
やっぱり長く付き合っていくと、
そういうこと言ってもらえるんですけど、
まだまだ自己主張が足りないのかなっていう部分があります。
いわゆるインパクトというか、
自分としては、
一番最初のファーストコンタクトでも
そういった印象を残せるような。
そうですね。
でも、
自分が選手だったっていう経験とかっていうのがあるし、
見せれるテニスっていうのは持ってるから、
十分そういった部分では、
確かにフワッとしてるけどね。
フワッとしてる。
でも、そこがいいとこなんじゃないのかな?
そうなんですけど、結構フワッとしてるんで、
試合とかやっても、試合やるまで
そんなに強そうに見えなかったのに。
選手時代からずっと言われ続けてる。
ちょっとここらでバシッとした雰囲気を
そろそろもう35歳になるんで、
西谷コーチ、35歳になったら、
そろそろ自分を固めていかないといけないかなって思って。
なるほど。
でも、それはね、これからですよね。
やっぱり味が出てくる40歳に向かってっていうのはどうだろうね。
そうですね。
10年テニスコーチやって立つんで。
コーチ歴10年?
そうですね。
テニス歴で言うともう何年?
テニス歴で言うともう30年くらい経ちましたね。
そうだよね。
生まれた時にもうすでに家にラケットがあったっていう環境でね。
そうですね。
そういった中で、
今、コーチのみんなには最後に必ず
今のお客さんに向けてメッセージをいただいてるわけなんですよ。
27:03
はい。
もちろん今、今回これをまたFacebook等でいろいろと
またこうやって西谷コーチですよっていう形でやると
迫楽のお客さんも聞いてくれると思うんで。
そうですね。
今、受けていただいて、西谷コーチが担当しているお客様とですね、
これからテニスを始めてみようかなって思ってる人たちに向けて
多分聞いてくれてると願って。
願って。
最後にコメントいただきたいんですけど。
はい。
迫楽広北のお客様方、神戸船橋のお客様方、きっと皆さん聞いていただいていて。
聞いてるかな。
聞いてるかな。
これからテニスをやろうという方も聞いていただいているということで。
コーチにしたに、私に教わると
必ず上手くなります。
上手くなる。
上手くなります。
そういうところに対しては、本当僕も気を使ってというか
すごい考えてやってるんで
その人その人を見て、この動かし方をすれば絶対パワーが出る。
絶対コートにボールが入るっていうのは
見るとパッと分かるんで、僕。
まさに天職かなって思わせるぐらいで。
見ると、ここを良くすればもっとこの人のテニスは良くなる。
この人は伸びていけるってところが見えるんで
ぜひ僕に一度会っていただければ
その皆さんの道筋をしっかり見つけて
教えて
そこの私を信じて伸びていけば絶対上手くなりますんで
もう一度後代へ、後北へ来ていただいて。
いや後北でいいですよ。
後北に行かないと今会えないですからね。
もう呼ばれれば博楽にも行こうと思ってますんで。
いや呼ばないです。
呼ばないですか。
私はただのインタビュアーですから。
西谷コーチ、だからならではの視点が
もちろん試合で勝つこともゲームを組み立てることも
いろんなことをしているコーチですから
そういった中で体の運動連鎖っていう
キネティックチェーンとか言いますけど
そういったものをよく理解しているコーチですからね。
そういったことも、もちろん初心者の人もね
もともとテニスってどうやって打つんだっていうところの部分から
しっかりと教えてくれるコーチなので
後代、後北視点に来てくださいという
熱いメッセージを最後もらいましたので
僕もちょっと今コミュニケーションを習ってみようかなって
ドライバーが調子よくないんで
最近開いちゃって
30:01
ドライバーの350ヤードくらいシミュレーションでやっとくんで
お前乗っかってくるでしょ
やってるやってる
テニスのコーチですから
ちなみに西谷コーチはかなりドライバー飛ばすので
そっちも話を聞いてみても面白いかもしれません
今日は第記念すべき50回を
西谷コーチに飾ってもらいましたが
最後趣味の話でも聞いてみようかと思ったけど
もう時間がないんで
時間がないということで
引き続き西谷コーチのレッスンを受けていただき
楽しんでいただきたいと思いますので
ありがとうございました
ありがとうございました
31:01

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