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2021-03-21 11:09

#311 感謝に包まれて生きる感覚

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すべてに感謝する。すべての物事に感謝を持てば、感謝に包まれて生きる感覚になる。今、私はコーヒーを飲んでいるのだが、この豆は、マグカップは、水は…(以下、無限ループ)。この感度である。周囲からは変人扱いされるが、とても気持ちよく生きられるのでおすすめしたい。/うえみずゆうきの活動を応援していただける方は、noteマガジン【脳内議事録】をぜひご購読いただけると嬉しいです。 https://note.com/y_uemizu/m/md0e3af51acf5

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みなさんこんばんは、上水優輝でございます。
サイコパスのラジオ、ぜひ最後までお付き合いください。
今日は、感謝に包まれて生きる感覚、という話をしたいと思っています。
先に言っておきますけども、宗教ではございません。
そういう話ではないんですけども、感謝についてですね、改めて考えてみたいなというふうに思っています。
小さい頃は、結構感謝について教えられる機会って多かったなと思うんですけども、
その多くはですね、どっちかっていうと、ありがとうって言いましょう的な例みたいなところですよね。
ありがとう、その感謝をどう表すか、みたいなところの、なんていうのかな、振る舞い方について教えられてきたっていうことの方が多かったなというふうに思いますね。
親からはどっちかっていうと、完全にそうですよね。
外の人に何かしてもらって、ちゃんとありがとうって言ったのかとか、そういうことですね。
あと親戚からお年玉もらって、ありがとうって言いなさいみたいなね。
そんな感じで、感謝しているということを、言葉とか態度とかで振る舞いとして表せるということを、
教えられてきたっていうふうに思うんですね。
その感謝にも2種類あって、まず今言ったみたいに、感謝を伝えるっていうところもあるけども、
まず感謝を感じるっていう、その感度の部分の教育というかですね。
感度を高めるみたいなところっていうのは、あんまし教わってこなかったなというふうに思いますね。
道徳の授業なんかは、ちょっとそういうのも入っていったような気がしなくもないけども、
あれは今度、感度を高めるというよりは、これは感謝すべき対象です、みたいな。
なんていうのかな、感度が高まるというよりは、これは感謝しなきゃいけないんだ、みたいな、
押し付けみたいな感じの記憶が僕はありますけども、
今の道徳の授業とか、今の学校教育がどうなっているか知りませんけども、
少なくともね、僕が若い頃というのは、感謝の表し方は習ってきたけども、
感謝の感度みたいなものを高めていくような、そういうところを考えさせてもらえるような機会というのはあんまなかったかなというふうに思いますね。
大人になってからも、やっぱり感謝について教わる機会ってあるんですが、
それもやっぱり感謝の感度よりは、感謝の仕方ですよね、表し方、振る舞いについての言及が多いと。
やっぱりどこの社会に所属するか、国とか地域はもちろんなんですけども、
大学とかビジネスシーンとか役所とかでも違うだろうし、業界ごとにも違うだろうし、世代ごとにも違うだろうしっていう感じで、
感謝の表し方の相手にとって適切な感謝してますっていうのが伝わるっていうための振る舞い方っていうのが、
そういったいろんな条件が違うと、全部違うと、
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例えばアフリカ人にありがとうって伝わらないじゃないですか、何言ってんだろうってなると思うんですよね。
だんだんありがとうって言い続けたら、これ感謝されてるんだなって伝わるかもしれないけども、
ありがとうって一回言って何のことですかって、逆にアフリカの方が自分のところの言葉でありがとうって僕に言ってきても、
何言ったんだろうって思っちゃいますよね。
っていう感じで、地域は違うけれども、ありがとうっていう言葉が違ったりとかもするし、
言葉だけの話じゃなくて、そういう態度を取ってると感謝が伝わらないよねとかっていうのも日本人同士でもあったりするわけじゃないですか。
だから振る舞い方での感謝みたいなことばっかりが先行して、感謝の感動みたいなところの話はできてないなと思うんですね。
その極めつけが親に感謝しなさいみたいなセリフだと僕は思ってるんですよね。
親に感謝しなさいって自分が言われたことないにしても、ちょっと頭の中に言われてる人のイメージがつくと思うんですよね。
僕はですね、この親に感謝しなさいとかっていう言葉にすごく違和感があるんですよね。
具体的には、親にまず違和感があるし、感謝に違和感があるし、しなさいに違和感があるんですよね。
この短い文章の中に3つの違和感があるっていう感じなんですが、具体的に言っていくとですね、
まず感謝って言ってるけども、親に感謝ねって言ってるけども、どの部分に感謝すればいいのか。
今の自分があることに感謝しなさいってことだと思うんだけど、その上で親に感謝しなさいってことだと思うんだけども、
その親に感謝しなさいって言うときに先天的な文脈と後天的な文脈があると思うんですよね。
例えば先天的なところだったらもう感謝せざるを得ないですよ。
例えば父の精子と母の卵子が出会ったおかげでその遺伝子があるのかって言われたらもうそうですよねってことなので、
ありがとうございますってもう言うしかないと思うんですよね。
あとはあなたが背が高いのはお父さんの遺伝なんだよって言われると、確かにそうなんだろうなと。
遺伝子上、背が高いような遺伝子を引き継いだっていう意味では、これもまぐれもなく父のおかげさまでっていうことだと思うので、
親のおかげでっていうのはそういう意味ではね、先天的な意味ではね、遺伝子レベルの話でいくと否定のしようがないのかなと思うんですが、
結構親に感謝しなさいっていう時っていうのは、そういう先天的なところに感謝しろとかっていうパターンよりも、
後天的なね、社会的な生まれた後の話の部分で、こんだけ面倒見たんだから的な形で言われることって多いと思うんですよね。
そっちの方が多いと思うんですよね。で、この後天的な方っていうのはすごく厄介で、
ここでね、親にっていうのにすごく違和感があると。監禁して、親以外の誰とも会ってなくて、
情報統制もしてっていう状況で大人になったんだったら、親に感謝する以外に感謝する対象がないので、
なかなかね、逆に言うと監禁されて情報統制されてるから感謝していいのかっていうその問題あるんですよね。
今のあなたがあるのはっていう意味ではね、それもあるかなと思うんですけども、
実際はそんな状況にもなく、兄弟がいたりいないにしても友達がいたり、親戚がいたり、学校の先生がいたり、地域の人がいたり、
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なんだか今で言うとね、インターネットでこう情報に触れて、YouTuberの影響を受けたり、音楽を聴いてね、このアーティストの影響を受けたりっていう感じで、
いろんな人の影響を受けてるはずなんですよね。だから今の自分があるのは親だけではないですよね。
いろんなものを総合して今の自分があるってことだと思うんですよ。さらに言うと目に見えたね、誰々さんの影響っていうものだけじゃなくて、
自分が飲んでいる飲み物だとか食べ物だとか着ている服だとか、自分が歩いている道、道路とか、家とかね、家具とか、いろんなものが人が作ったものじゃないですか。
つまりそういう人たちのおかげで今の自分があるっていうふうに考えられるとも思うんですよね。
今日コンビニ行きましたけども、そのコンビニっていうのを作った人がいるし、そのコンビニの商品を作った人がいるし、そこで働いてくれてる人がいるしとか、
まさにその人と人と材料を作っている人、取ってきている人、加工している人、運んだ人とかいろんな人がいるわけじゃないですか。
今自分が生活しているってことは親のおかげでとかそういう次元じゃなくて、この世のすべてのもののおかげで生きている。
しかもそれは今という時間軸だけじゃなくて、この歴史がね、ずっと積み上げてきた上に今自分がいると。
すべての人たちのおかげで今自分がいるというふうに考えると、親に感謝しなさいっていうのはちょっと意味が僕には分からない。
親にも感謝するけども、すべてに感謝すると。
この感覚ですね、これぐらいの感謝の感度を持ったときに、いろんなものに感謝すると。
この感度を持って接していれば、多少ね、確かに動作では伝わらないかもしれないけども、コミュニケーションしていく上でですね、
あ、感謝してるんだなって伝わると思うんですよね。
形だけすごい綺麗な例をしてるとか、形だけ言葉だけすごい丁寧だけども、本当に思ってますかっていうときに、中身が伴ってないことってよくありますよね。
だから意外とその感謝みたいなものは、確かにそこのね、その村の掟上をこういう振る舞いが感謝として伝わるメッセージなんだっていうのは、
確かにその人に合わせてね、やっていく必要は確かにあるんだろうと、その村でやっていく。
人と人との村でとか、人と人との対処に対して感謝を伝えたいと思ったら、相手に伝わる方法で伝えないといけないという意味では、
いろんな感謝の表し方とかあるっていうのは十分理解してますし、それはそこに適応するってことには抵抗はそこまでないんですけども、
それだから感謝しているというわけではないよねって思うので、なんかそこの感謝の感度がそもそも低い感じがしてしまうな、
そしてそれは親に感謝しなさいみたいな、その全く本質からずれている感謝の要求、全てに感謝しなさいって親が言うんだったら、
ああなんかすげえこと言ってるなって思うけど、親に感謝しなさいとかって言われると、なんかすごい視野が狭くてなんか怒ってる人だなっていう風に見えてしまうので、
そういう特定の誰かに感謝するっていうのは、すごく特定の場面においてはあると思うんですよね。
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例えばお金がどうしてもなくてジュースが買えないと、ジュース買いたい、喉が渇いて仕方ないという時に100円くれてなんか飲み物買いましたっていうのは、
その人に感謝するっていうのはあると思うんですよ。でもそれはすごく限定された場面の限定されたある事柄についてその人に感謝しているだけであって、
なんか親に感謝しなさいレベルの壮大なやつっていうのは、もうそこまで壮大なことに感謝するんだったら全てに感謝しなさいって僕は思ってしまいますね。
そしてそれはなんかいただきますとかありがとうとか、なんかそういう振る舞いとしての話ではなくて認識の話としてですね。
感謝の感度というかありがとうの感度を高める。実際にありがとうと言いましょうみたいな、なんかよくわからない。
そういうことを僕は言いたいわけではなくて、あくまでありがとうと感じるというね。そっちの話ですね。
ありがとうということによってありがとうって感じれるのかもしれないから、それは一つのやり方としてはいいのかもしれないけど、
僕が推奨したいのはそういうみんなにありがとうって言ってありがとうの輪を広げようとかそういう話ではなくて、
ありがとうって感じれる感度をものすごく高めていく。それはさっき言ったみたいに、
全てのことにおかげで今自分があるって思えれば、どんなことにも感謝ってできると思うんですよね。
その認識を持って生きているというか生活しているとすごく感謝に包まれてというか、
いろんな人のおかげさまに包まれて生きている感覚っていうのを持てるのかなと。
その感覚を持つときにちっぽけでもあるし、そんな自分が何か貢献しようという気持ちが湧いてきたりっていう感じで、
すごいバランスがいいような気がするので、感謝に包まれて生きるみたいなのはすごくいいんじゃないかなと僕は思っています。
何度も言うけどもそれは念仏唱えるみたいなそういう話ではないので、あくまでそれを感じる感度ですね。
認識の解像度を上げていくということ。感謝の解像度を上げて、どんどんいろんなことに感謝できるような体質になっていくと、
結構平和な感じの認識で生きていけるんじゃないかなと思いますので、
ぜひいろんなことのいいところというか感謝できるところを見つけていくというトレーニングをやってみると面白いんじゃないかなと思います。
本日は以上です。またお会いしましょう。さようなら。
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