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2021-03-20 08:56

#310 固定化された距離感で凝り固まる

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固定化した振る舞いを行うためには、流動的な自分を抑える必要がある。抑え込み続けるうちに、だんだん流動的な自分がしぼんでしまう。ただ、固定化された距離の中でうまく振る舞おうとした結果、なんと自分自身まで固定化されてしまった!大人が凝り固まるのはそういう事情も大いに関係しているのではないだろうか。そんなことを、学園ものの夢を見て考えた。/うえみずゆうきの活動を支援していただける方は、noteマガジン【脳内議事録】をぜひご購読いただけると嬉しいです。 https://note.com/y_uemizu/m/md0e3af51acf5

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みなさんこんばんは、上水優輝でございます。
サイコパスのラジオ、ぜひ最後までお付き合いください。
今日は、固定化された距離感で凝り固まる、という話をしたいと思っています。
昨晩、学生時代に戻る夢を見ました。
学校の中で、友人たちとバンドをやっていたのかな?
音楽の話をしていて、自分がプレイする方の音楽の話をしていて、
先生みたいな人からも何か言われたりとかして、
なんでもない学校の中の一コマ。
夢の中ですから、時間軸がよく分からなくて、
とりあえず3日間ぐらいはそこで過ごした、学校で過ごした、みたいな夢でした。
詳細はいいんですけど、要は学校生活を送ったということなんですけど、
その夢から覚めて、朝起きて思った感想は、
固定化された距離感ってしんどいなって思ったんですよね。
人間関係が固定化されている、つながっているということに問題があるんじゃなくて、
物理的な距離感が毎回同じっていうのは結構しんどいなって思ってしまいました。
思い返してみると、学校時代って来る日も来る日も前の席にはあの人、
隣にはこの人、後ろにはその人ということで、席替えが起こるまでの間はですね、
毎回同じ人たちが自分の半径5メートル以内、もっというと2メートルぐらいのところにいるわけじゃないですか。
奇跡的にですね、自分が恋している人とかが隣にいたりとか、前とか後ろにいたりとかすれば、
それはね、ちょっとテンション上がるのかもしれないんですけども、それは恋愛感情を前提にしているので、
ちょっと今回は例外というか、3人、4人好きな人がいて、前後左右好きな人も囲まれているとかだったら、
それはちょっとまたすごいことだと思うんですけど、そういう例外的なことは一旦さておきですね。
多くの場合、普通みたいな人たちが四方八方を囲んでいるというような状況の方が多いんじゃないかなというふうに思うんですね。
振り返ってみても、波風立てる必要ないし、波風立てたいわけじゃなくて、うまくやっていきたいって思うから、
そこそこ気を使いながら、そこそこ仲のいい振りとまではいかないけども、仲良くできるように頑張るみたいなことが起こってたと思うんですよね。
それは、なんか気持ちが盛り上がってね、みんなと仲良くなりたいなとか、みんなのこと好きだなみたいなことでやってるんじゃなくて、
このコミュニティの中で、この社会生活の中で仲良くしといた方が、いろいろスムーズだよなっていう理由だったような気がしますね。
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どうなんですかね、皆さんはその辺を気持ちでやるのか、僕はサイコパスっていうのもあって、どうしてもその辺も合理的に考えてしまう、
どこかそんどく感情って言ったんですけども、このコミュニティの中でやっていく上で、仲良くしといた方がいいよね、みたいなことを理屈で考えてしまうみたいなところがあるんですけども、どうなんでしょうかね。
常々ですね、僕は言ってるんですけども、このポトキ活動でもそうですが、人間関係は距離感がめちゃめちゃ大事だってことを何度も何度も言ってると思うんですね。
いい人悪い人、会う人会わない人がいるって結構思われてる方も多いかもしれないんですけども、単純によく見える距離感、悪く見える距離感、会う距離感、会わない距離感があるだけだと僕は思ってるんですね。
極端な例ですけども、顔も声も喋り方もムカつくみたいな人がいたとして、でもその人がブラジルにいてくれたら別にムカつかなくないですか。
隣の席にいて、このうるさい声でムカつく喋り方する人がいるなっていうのにムカついてるようになって、ブラジルでその声でその喋り方をしてその顔でいてくれても別にムカつかないと思うんですよね。
つまり、自分が持ってるその五感から遠ざけて、感じられないところにあれば、別に会わないとかもないし、悪く見えるってこともない、なんなら見えてもないし、会う会わないというか存在すらしてないっていう状態になると思うんですよね。
それは極端な距離、日本とブラジルみたいな極端な距離感ですけども、その中間にどこかちょうどいいところがあるだろうと、あらゆる人間関係はブラジルと日本の間にあるだろうというふうに思うわけです。
もちろん物理的な距離を取れればいいんだけども、距離を取れない場合にはもっとテクニカルなことってあると思うんですよね。
例えば視点を変えてみる、距離は変わってないけども見方を変えてみるみたいなこととか、自分がそのかかってるフィルターみたいなのをちょっと変えてみるとか、その入ってきた情報の解釈を変えてみるみたいなこととか、そういう認識レベルのテクニカルなことはあると思うんですが、
それはちょっとテクニカルなので、距離を取るっていうのが比較的誰にでもできるわかりやすいシンプルな方法だなというふうに思うんですね。
それを進めているんですけども、やっぱり距離を取るのも若干テクニカルだなと思いました。
リモートワークとかが普及してきていると思うんですけども、だいぶそれで緩和されてくると思うんですが、やっぱり来る日も来る日も隣にはあの人、向かいにはあの人みたいな感じで、固定化された物理的な距離感の中で人間関係を行っている人って結構仕事の中とか家庭の中とかでもあるんじゃないかなと思うんですね。
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奇跡的に全員仲良しだったらやっぱりいいんですけども、そういうことは滅多になくて、やっぱり仕事の中で人間関係があって言っている人ってたくさんいますよね。
それは確かに人間関係が作れなかったということでの人間関係があって言っているパターンもあると思うけども、距離が近すぎて無理ゲーになっている人間関係もたくさんあると思うんですよね。
つまり相手が悪い人とかそういう話とかじゃなくて、距離上悪い人に見えてしまうような距離に固定されちゃっている状況みたいなのもあるんじゃないかなって思うんですよ。
仕事で物理的に距離を取ろうと思うと、外の案件を無理やり作って、そこの物理的な制約から逃れていくとか、異動願いを出すとか、やめるとかですね。
そういう極端な選択肢はもちろんお昼ご飯を別々に取るとか、雑談の時間を意識的にちょっと減らしてみるとかっていうちょっとマイルドな距離の取り方もあると思うんですよね。
そういう大きいもの小さいものを入れると、いろんな工夫が距離を取る、物理的な距離を取っていくにしてもいろんな工夫があると思うんですが、これもやっぱりテクニカルなんですよね。
なのでそうした工夫が得意な人と苦手な人がいて、苦手な人はそういった固定化された距離感の中で固定化した振る舞いをしてしまうと思うんですよ。
なぜなら固定化されないような工夫ができないわけだから、その固定化された距離の中で適応する以外に生存する道がない、安全な道がないから、
最も安全なのは固定化された距離感の中で固定化された安全な振る舞いをするっていうことだと思うんですね。
そうしていくうちに固定化した振る舞いを行うためには流動的なというか、本来揺れている自分っていうのを抑えて安定した固定的な対応をしなければいけない。
そういう流動的な自分を抑え込み続けるうちに、だんだんその流動的な自分が絞んでしまう。だんだんそういった揺れも起こってこなくなる。
だんだん固定化された距離の中で、固定化された振る舞いをする中で、自分自身まで固定化されてしまう。
大人が凝り固まるっていうのは、こういう事情も大いに関係しているんじゃないかなというふうに思ったりしました。
本日は以上です。またお会いしましょう。さよなら。
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