畑中亜弥子の経歴
芸大ラジオmymyは、京都芸術大学の人気先生坂井先生と、舞台芸術を学ぶ学生の私谷口菜の葉がお送りする芸術・デザインのラジオです。
様々な領域で活躍する卒業生や先生をゲストに招いてやっていきます。
未だに芸術・デザインは絵が上手いこととか、あるいは自分とは関係ない遠い物事と感じておられる方が多いと思うのですが、
芸術はすごく身近で生活のそばにあるものなので、その辺の誤解も解いていけたらと思います。
改めまして、菜の葉です。よろしくお願いします。
そして、
坂井洋介です。京都芸術大学の先生です。
個人的にはこのラジオは卒業生とか先生を呼んで芸術の話を、デザインの話とかもしていくんですけど、
人と自然とかっていうことをテーマにしながら、みんなの話を聞いて学んでいけたらなと思っております。
よろしくお願いします。
本日もこの2人でゲストをお招きしたいと思います。
前回はドイツのビール職人の大村臨さんをゲストにお招きして、ビールの作り方の話を聞いたり、発酵とデザインのお話を聞かせていただきました。
私は人間同士もカモスよねって大村さんが言ってたのが印象に残ってるんですけど、
そうですね。
坂井先生はいかがですか。
カモしてる人間で採用するとかしてないとかっていう話から、
うちの大学の入試もカモス入試にしたらどうだっていうような話で終わっていきました。
はい。
すごく面白かったよね。
面白かったです。めっちゃ。
今回もだからちょっと食べ物系のゲストになりますね。
はい。今回のゲストは奈良県の天川村からお越しいただきました。
卒業生の畑中彩子さん。
坂井先生はもともと進行とかあったんですか。
ないですね。
なかったんですか。
ないけど、俺天川村には行ったことあったんですよね。
あ、そうなんですね。
たぶん。
へー。たぶん。
たぶんキャンプに行ったと僕は思ってまして、畑中さんのことは知らないけど、
楽しみだね。
はい。新鮮な話題ばっかりで楽しみですね。
はい。行ってみましょう。
はい。早速お招きしましょう。畑中彩子さんです。どうぞよろしくお願いします。
よろしくお願いします。
よろしくお願いします。
ちょっと緊張してるらしいんで。
緊張してますね。緊張してます。
僕らも緊張してるから大丈夫です。
みんなで。
みんなで緊張してる。
はい。えっと、では自己紹介をお願いしてもよろしいですか。
はい。
京都芸術大学の立体造形のコースで入学して、そこから添加して最後は木版画で卒業しました。
いいですね。僕版画大好きです。
私も好きです。
今もやってるんですか。
ちょっとしたスタンプとか趣味で彫る程度でやってます。
はい。
その後和食の道に進みまして、料理人としてしばらくずっと働いてたんですけど、妊娠・出産を機に経営側に移行して、そこから飲食店経営と今いる天川村で地域づくりみたいなことをしています。
はい。では今回はそんな畑中さんを招きしてお話ししていこうと思います。
第1話では畑中さんがオーナーを務められているお寿司と和食畑中について伺っていきたいと思います。
それではよろしくお願いします。
お願いします。
和食の修行と経営
あのちょっとさーっと流れるように言ってますけど、そもそも立体造形から木版画ちょっとやって、そこから料理人に転向したっていうところがまず引っかかるよね。
実家が天川村にある旅館なんですけど、ちっちゃい時から職人はずっと身近なものとして料理人っていうおじいちゃんの姿とかを見ながら育ってきたので、将来的に自分は村に帰って料理をするんだろうなと思いながら美術大学に来たっていうような感じなんですけど。
そうなんや。
村に戻った時に何かといろんなことできるように料理以外のこともできるように美術大学に来たような感じで。
村に戻るのはもう大大大前提なんですね。
好きだったんで帰りたいなと思ってました。
どういうとこがだってさ、みんな普通の若い人たちって都会が好きじゃないですか。
そうですよね。
だからそういう、電波も届かない。
届かないんですか、電波。
ちっちゃい時は届いてなかったですね。
届かないし、コンビニもないし、何なら道路に明かりもないみたいなところは、やっぱりもう絶対帰りたくないっていう方がマジョリティかなと思うんですけど。
もう少しちょっと都会の田舎とかだとそうなってたかもしれないなと思うんですけど、あまりにも山の中すぎて、自分が特別だと思ってたんですよね。
どういうこと?特別って山から生まれたの?
同級生とかもすごい少なくて、自分の時は9人だったんですけど、地域の人との近さとか、ちょっと村から出ると、え、あんなとこに人住んでんの?みたいな。
自分って普通の人が住んでる場所と違うところで住んで、違う文化の中で生きてて、そういう特別感みたいなのがあって。
それから、自分の住んでる地域って特別なんだっていう思いが強くて。
あとは、父とかが歴史のことがすごい好きで、この地域にはこんなものがあるよとか、文化を教えてくれてたんで、余計に土地が好きだったんですよね。
で、戻ってきたいなと思ってました。
素敵です。
プライドやな。
プライドが育まれたい。
土地への愛みたいなのは、やっぱり同級生とかもすごく強くて、みんな村のことは好きですね。
素敵やね。
素晴らしいね。
今思えばそうだなと思います。
僕は多分中途半端、金沢の出身。
あ、そうなんですか。
皆さん、今から紹介される畑中さんのお店は金沢のお店なんですよね。
そうです。
金沢出身なんですけど、金沢の田舎のほうで、本当にそれこそ中途半端の田舎と言われるような場所かなと思うんですけど、
でもそんな僕でも小さい頃、小学校から一人でとぼとぼ家まで30分くらいかかって歩いてたんですけど、
秋に帰ってる途中にトンボがむっちゃいっぱいだ。赤トンボが。
それでトンボたちに向かって歩いていくんですけど、
トンボが俺を出迎えてくれてるって思ったことがあるんですよ。
中途半端な田舎やのに。
そういう気持ちがいいなと今でも思う。
確かにそうですね。金沢綺麗なとこですしね。
外から見ると。
話が逸れましたけど、いつもの通り話は逸らしていくんですけど、
なんとなくわかりましたね。
料理にルーツがあるっていう。
大学卒業するときに進路でもやっぱり悩んだんですけど、
やっぱり自分は村に帰って何かできる人になりたいと思って、
料理の道を選んで和食屋に修行に入りました。
どこの?
京都ですね、その時は。
京都で和食をして、和食の後に和菓子もちょっと製造で学んで、
その後にお寿司を学んで。
それって店の名前とかは言わんほうがいいもんなんですか?
そうですね、ちょっと後から言おうと思ってたんですけど、
その労働環境とか、やっぱり厳しかったんで、
一つ一つのお店で長く働けなかったんですよね。
で、てんてんとしたというような感じで、
その場その場で技術を教えてもらいながらてんてんとしてました。
そうですよね、漫画とか本とかで読む限りですけど、
やっぱり日本料理のお店とかって本当に厳しいというか、
そうですね。
なかなか包丁さえ握らせてもらえないみたいな。
そうですね。
そんなんやったんですか、やっぱり。
そうですね。
で、やっぱり大学が自由で、
それぞれの人の考え方とか生活とか、
いろんな世界を広げるために入ったようなところもあって、
広がった先に行った修行先がめちゃくちゃ狭いというか、
もう一回戻るというか、昭和に戻るような。
そういう男社会だったりとか、女性と一緒に働いたこともないですし、
環境に慣れるまではやっぱり長くかかりました。
いやでもすごいオールドスタイルやなって思う反面、
でも僕グラフィックデザイナーとかでもあるんですけど、
地域づくりと国際経験
グラフィックデザイナーの世界なんて、
Macあってイラストレーターとかフォトショップとか大学ソフトがちょっと触れたら、
もう何か作れちゃうわけですよ。
そうすると本当に修行みたいな時間が全然なくて、
どっちがいいかなって正直思うこともありますね。
あとは飲食ってすごい身近にあるものなんで、
皆さん3食食べられるかわかんないですけど、2食だったりするかもしれないですけど、
毎日食べるものなんで、
それってすごい安いものからすごい高いものまであって、
自分の技術を磨いて価格を上げていくためには、
やっぱり安い仕事じゃないですけど、
安い仕事に見せないようにどう修行していくかっていうのは、
今でも難しいなと思います。
はたなかさんがお寿司を最終的に修行なさって、
お寿司と和食はたなかを経営開始されたと思うんですけど、
お店の名前、お寿司と和食って入ってるじゃないですか。
両方が中心になって提供されるものなんですか?
そうですね。今はちょっと変わってきてるんですけど、
今は自分が抜けて任せてるんで、
私が立ち上げた時は、自分が和食で修行した期間の方が長かったので、
和食も食べれて、カウンターでお寿司も食べれるようなお店にしたいと思って、
そういう名前にしました。
それを金沢でやったわけですよね。
でも京都で修行期間はやってたんでしょ?
そうですね。
どうやって金沢に行ったのかとか、
その辺の縁の話も聞きたいなと思います。
京都で働いてる時にすごくお世話になった先輩がいたんですけど、
その先輩が石川県の金沢で料理長をされてる時期があって、
お前手伝いに来いよみたいな感じで、
3ヶ月ぐらい住み込みでちょっとお手伝いに行った時があって、
その時に金沢って新幹線が通ったばっかりで、
すごい活気があったんですよ。
私平成元年の生まれなんですけど、
ずっと不景気で生きてきて、
勢いのある場所を見たことなくて、
その時の金沢がバンバン新店が出たり、
県外からいろんな店舗が来たりとか、
町の人にも商売に対しての活気だったりとか、
商売以外にも活気があって、
工芸のもともと町なので、
作家さんがいっぱいいたりとか、
すごく魅力的に映っていいとこやなって思って、
その滞在期間は終わったんですけど、
その後に私マレーシアに行ったんですよ。
マレーシアのお寿司屋さんで副料理長として働かせてもらえることになって、
それはなんでな。
マレーシアに行ったのか。
そうですよね。
そういうの細かいとこ気になるんですよね。
そうですよね。
マレーシア行ったのは、
京都で働いてる時に、
外国人の観光客の人がすごく多くなってきて、
カウンターで働いてる時に、
日本人と同じように説明したいんですけど、
外国人の人に同じお金払ってるんで、
今日このいいものが入ったんで、これも入れときましたとか、
この時期の季節感とか、
伝えたいけど英語力がなくて、
外国人の人も何かわからんまま食べるみたいなのを見て、
和食って季節感とともに食べるものだなっていうのは思って、
それを伝えられるぐらい、料理の説明ぐらいは、
英語でできるようになろうと思って、
海外で働こうかなと思って、
就職先を探して、
ネットとかで?
ネットで。
調べてると、ヨーロッパとかアメリカとかは、
ちょっとやっぱりフュージョンというか、
アボカドロールみたいな、カリフォルニアロールみたいなのとか、
お寿司でも現地のお魚使うんで、
なんかちょっといいなと思うところがすごく少なくて、
ただアジア圏は、
日本からの輸入で魚が入ってきて、
同じように仕事ができるような環境だったので、
最初はアジアで同じような仕事をしながら、
英語を磨こうかなっていうような感じで探して、
英語圏がマレーシア、シンガポールとかだったので、
そこに絞って、求人探して、
飛び込んでったって感じですね。
すごいな。
まあまあすごいですね。
普通考えなさそうやけど、なかなか。
そうですね。楽しかったです。
めちゃくちゃ楽しかったですね。
マレーシアからの帰国
どれぐらいの期間マレーシアは?
マレーシアは1年半ぐらいですね。
それも3年ぐらいは行こうと思ってたんですけど、
その途中で石川県の神沢から、
最初私は立ち上げで、
雇われ店長としてその旗中を立ち上げさせてもらったんですけど、
そのオーナーが宿泊施設、ゲストハウスをやってて、
宿泊施設にするには小さい物件やけど、
飲食店はできそうな物件を紹介してもらって、
なんか寿司屋やりたいみたいな気持ちの時に、
私が一瞬だけ、3ヶ月だけ神沢行ってた時の人脈で、
いい人いるよみたいな感じで紹介していただいて、
オーナーとスカイプでその時連絡して、
話もあったので、一回神沢の物件を見て決めてみたいなので、
一時帰国して、もう話が決まって、
神沢に行ったという感じですね。
そういうことか。マレーシア楽しかったのに。
いや、めちゃくちゃ楽しかったです。
楽しさを教えてくださいよ。
それはもう仕事と関係あんまないんですけど、
やっぱり暖かい。燃料が暖かいし、
それこそ勢いがある。
なんかみんな働いてる人たちも、
自分の給料がどんどん上がるって、
なんか分かって使いまくって、
なんていうか生活してる。
貯蓄とか考えてないし、
そういう国民性なのか、そういう経済なのか、
なんか分かんないですけど、
そのなんか元気さとか、
あと食べ物とかもやっぱりいろんな目新しさがあって、
スパイスとか、
違う文化の中に飛び込んで、
全部新しさしかなかったのと、
あと宗教、宗教観とかもやっぱり学ぶことが多かったし、
毎日がすごい楽しかったですね。
ぐっちゃぐちゃですよね、たぶん。
ぐっちゃぐちゃですね。
マレーシアはイスラム教の国なんですけど、
その中にカ教の、イスラム教じゃない人たちも一緒に住んでて、
インド人のヒンドゥー教の人も住んでて、
いろんな価値観と宗教と人種が混ざってるけど、
なんかぐちゃぐちゃに混ざり合ってるんじゃなくて、
それぞれがそれぞれの、なんていうか、
ものをキープしながら、
一緒に生活してるっていう感じで、
面白かったです。
日本には全然ない。
全然ない。
そうそうそうですね。
マレーシアの有名な料理って何なんですか?
僕知ってんのかな?
バクテイとか。
聞いたことはあります。
食べたことはないです。
バクテイは、でもその、
チャイニーズ系のカ教の人たちの食べ物なんですけど、
薬膳豚肉煮込みみたいな感じで、
マレーシア、
マレーシア、やっぱりカレーっぽいのが多かったです。
そうなんやね。
行ったことないからな。
ないです。
行ったことあったらもうちょっとこれ喋れるんですよ。
申し訳ない。
で、まあとにかく、
1.5年後に声がかかって、
金沢に行くことになったと。
店舗立ち上げの苦労
はい。
で、もうその時は店長というか、
責任者として雇われたってことですか?
そうですね。
全くそのもう内装も何もない状態からなので、
内装から器の選定、
メニューの価格帯とか、
自分が実際に独立するのと同じように、
オーナーと一緒に話し合いながら決めていって、
お店が出来上がりました。
うわ、結構嫌やな、それ。
大変そう。
結構嫌や。
大変そう。
夢やけど、ふって湧いたみたいな話で来たから、
自分やったら緊張めちゃくちゃするな、みたいな。
めちゃくちゃ緊張もしましたね。
選べないというか、器を選ぶにしても、
選択肢めっちゃあるじゃないですか。
そうですね。
中からこの器で行こうって、なかなか決めれなそう。
そうですね。
で、あとはやっぱり自分がお金出してるわけじゃないので、
自分で立ち上げるんだったら、
この予算の中でとかしわりがあるけど、
これでいいですかとか確認するのと、
これやっぱ高いから嫌な顔されるかなとか、
そういうオーナーとの、初めましてのオーナーなんで、
それも含めて価格帯決めるときとかも、
揉めもしなかったですけど、
私はこんくらいがいいです。
どんくらいがいいって言ったんですか?
オーナーはもっとゲストハウスとかされてたんで、
カジュアルに外国人がサッと来て、
予約なしでパッと食べれるような、
カジュアルポップな寿司屋をしたいと思ってて、
私には逆にそういう技術がなくて、
価格の高いところでしか働いてこなかったので、
これだったら原価どういうふうに抑えるかわかんないですとか、
ある程度はやっぱり売り上げ作りたいですとか、
最初はでもアラカルトメインで、
コースが6,000円と8,000円ぐらいでやろうみたいなことで始まりました。
そこがオーナーとはたなかさんの折り合ったところ。
そうですね。折り合ったところで、
やっぱり営業していくにつれて、
どんどん価格は上がっていって、
今はコース1万5,000円ぐらいまで上げれたので、
その路線でいってよかったなとは今思います。
成功と未来の展望
菜の葉ちゃん、1万5,000円のコースとか食べたことあるんですか?
ないです。
じゃあ6,000円は?
どうだろう、あるかな。
あるかないかわからない。
自分では行ったことはないです。
ターゲットじゃないですね。
そうですね。
そんなことないです。
いやでも俺もね、あんまりないですけどね。
そんなに食べないですね。
やっぱりでも最初にアラカルトメインにしてたのは、
寿司屋ってめっちゃ高級そうで、
コース料理ってなったら入りづらいというか、
予約とかもちょっとドキドキするみたいなところを、
働いてる人が、私その当時29歳だったんですけど、
スタッフも若くて、大学生のアルバイトもいて、
トップが29やもんね。
そうなんですよ。
自分より年上の人はいなかったんで、
内装も含めてリラックスして、緊張感なく、
美味しいものを食べれる場所にしたいなと思って、
お客さんも寿司屋行ったことないみたいな人が、
カウンターでお寿司を食べるっていう体験をしてもらったりとか、
意外に緊張せんでいいんやみたいな場所にはしたいと思って始めました。
それが大成功したんですよね。
大成功、自分の中では成功してると思ってます。
世間的にもたぶん成功してるんですよね。
たぶんね。
なんかここはちょっと失敗してほしいところなんですけど、
物語としてはね。
でも初っ端から成功ってことですよね。
それがミシュランプレートをいただくっていうようなお店になっちゃった。
この辺のポイントに関しては、第2話に聞いてみたいかなと思うんですけど、
ミシュランとかってさ、これも言ったことないでしょ?
ないです。
俺もあるんかないんかちょっと記憶にないんですけど、
でもよく聞く言葉ですから、
一つの料理屋を図る物差しではあるのかなと思うんで、
この辺のプレート取得の物語は第2話にちょっとしてもらって、
本当は今ジェラートの話をしていくんですけど、
その話も交えながら2話はやっていきたいなと思います。
ではエンディングのお時間ということで、
お寿司と和食、畑中のこととか、
お店をするにあたって大事にしている平等にお客さんに説明したいとか、
そういうことを聞けてよかったです。
次回は畑中さんの現在経営されているペンからジェラートについて伺っていこうかと思います。
畑中さんどうもありがとうございました。
ありがとうございます。