早速なんですけど、今日お土産を持ってきていただいて、釜ヶ崎のお土産めっちゃ探すの難しかったです。
ちょっと俺場所がわからんから、そんなに難しいんですか?
えっとね、今商店街のほとんどはカラオケ居酒屋なんですよ。
中国の方がされてるんだけど、何百軒ってそんな感じだな。
え、商店街が?
商店街が。
カラオケ居酒屋?
ばっかりなの。
みんなそれに行く?
うん。
昼間から?
うん。
すごい場所ですね。それだけ聞くと。
でも私が拠点移した2008年の姿ではないんです。
変わっちゃった?
2008年はまだ商店街で八百屋さんもあったし、文房具屋さんもあったんです。
そうやってあった商店街の中で、もう喫茶店してたんだけど、おじさんたちがやってきてくれてたんだけど、だんだん音が変わっていくの。
威勢良かった足音がゆっくりゆっくりになって、歩行器使う人が増えてきて。
年をとっていくってことね。
そう。で、それに気がついて、ここで待っててもあかんなと思って、おじさんたちのもうちょっと暮らしのそばっていうか、なじみのある場所のそばに行こうと思って。
それで考えたのが釜ヶ崎芸術大学。
釜ヶ崎という街を大学に見立てることで、いろんな場所、例えばデイサービスの部屋とか、炊き出ししてる会場とか、公園とか。
炊き出ししてる場所とかあるんですか?
毎日どこかで炊き出しがあるようなところなので、そういうおじさんたちが行きやすい場所、なじみの場所に、そういうプログラムを持っていく。2時間ぐらいの講座っていう形にするんだけど、
その場を街の中にいくつか持って、スケジュールを決めて、こんな風にやってることを、街を大学と呼ぶっていうことにしようっていう風に考えたのね。
そんなことが釜芸なんだけど、このバームクーヘンに話を戻すと。
お土産に話を戻すと。
商店街の中でお店がどんどん減っていくから、本当はどれだけ買ってこようと思ってたの?売ってる場所があるから。
でももう閉まってて、斜め向かいに喫茶店があって、そこのおばちゃんが作るサンドイッチがめちゃくちゃおいしいのよ。
でもサンドイッチはちょっとお土産に向かないかなと思って、一緒に売っているバームクーヘンを買ってきました。
ありがとうございます。
食べよう。食べながら芸大について聞かせてもらおうか。
いただきます。
どうぞ。
見た目、何の変哲もないバームクーヘンって感じです。
この古包装感がすごいでしょ。この街は本当に古包装なんですよ。
土屋街なんだけど、ちっちゃな山城一間に暮らしていて、共有のキッチンしかないし、皆さんは料理するのはほとんどできないから、
商材屋さんが一パック100円とか、そういう商材をたくさん売っていて、それを買って食べるか、あるいは配食のサービスがあって、見守りの機能もあるんだけど、
お弁当を届けてもらうかっていうような、そんな感じの皆さんの暮らしなんだね。
ちなみに人口密度日本一と二なんだよ。
この鎌ヶ崎の東京よりも。
でも今ターマンとかできてるから世の中とちょっと変わるかもしれないけど、10年くらい前はそう言われていて、本当に山城一間で一人住んでるわけだから、それが10階建てとかがたくさん住んでるわけよね。
今おじさんっておっしゃってましたけど、おばさんはいないですか?
おばさん大変少ないですね。82、3%男性の町です。
町ってすごいね。
ちょっと待ってください。上田さんすごいモテた。
その町で?
あのね。
だってすごいレアなんじゃないの?
そうなのよ。
30何歳ってさっきおっしゃってましたよね。
そうそう。
もう上田、金谷ちゃんって言ってみんな。
金谷ちゃんみたいになるんだけど、大変よ。娘の役、妹の役、姉の役、お母さんの役、恋人の役、もう全部させられるもんね。
すごいね。
大変よね。知るかって感じよ。
本当に変わった町っていうか独特の町で、日本が戦争負けて復興するでしょ。
そして60年代高度経済成長するわけよ。
その時に道作ったり建物を作るための労働者が必要でしょ。
スマホもないわけじゃん。
だから労働者の人たちを集めるのに一箇所に集めておいた方が効率がいいわけ。
東京は三谷、横浜琴吹、名古屋笹島、そして大阪はこの西成がその拠り場になるわけ。
日本で一番大きかった。
多い時で3万とか。
そんなたくさんの人たちが働くために集められて、
でも土木の仕事だから大体ヤクザが仕切ってて、不払いとかリンチとか殺人とかいろいろあるんだけれども警察も守ってくれなくて、その怒りは暴動になると。
これまで24回暴動があって、多いのは60年代70年代なんだけど、そのイメージが未だにへばりついてて、
この町っていうのは怖い町、イタラカン町っていうふうに思われてる。
オイル職とかの時は仕事がなくて大変だったけど、仕事がいっぱいある時はみんな楽しく暮らしてたし、いろんな経験もされてると。
ところが90年代以降、バブル崩壊後仕事がなくなって、年齢的に50代60代が仕事がなくて路上に押し出されて、そして2000年代に入って生活方向に変わられる。
今現在74歳くらいの人たちが平均寿命なのよ。
どんどんなくなっていってるっていうふうに町が変わっていってて、
その町の変わり目の生活方向の方が増えるぐらいに私は来ちゃったわけね。
おじさんたちが自分の人生の最後を過ごすところに私は現れてしまって、
じゃあこんなこの日本を作ってきた人たちが、でもたった一人死んでいくので、どんな思いでこの仕事をしてきて生きてきて、便利になるけどいろんなものを私たちになくしてもいるじゃない。
これ作ってきた人たちはどう思ってたのかなって聞きたいみたいな気持ちがあって、
無名の人の働き、人生がどんなふうに未来につながっていくのかを私は知りたいと思ったんですよね。
でも聞きたいと思って、教えてって言っても教えてもらえないじゃないですか。
これは話し相手になって、お姉さんになって、お母さんになって。
会って聞くしかないわけね。
それ聞いて私はどうすんのやろっていうのももちろん自分の中に問いが生まれて、政治家でもないし。
なんで聞いてどうすんのと思ったんだけど、やっぱり私は興味があったのと、いつかこれを死にしたいと思ってたの。
そのこと。
なかなか言葉にできなくて、だってもう本当にすごすぎて。
できなかったけど、でも焦らずにずっと十数年、もう22年経ったんだけどいるっていうのが、私の心もずっとやっている一つの気持ちなんだよね。
いや、なんかやっとわかったぞ俺。
よくわかりました今ので。それも1話で話してくれと思ったもん。
ごめん。
だからその西成、この地域のこととかその歴史みたいなことも今聞けて、
なんか大阪の友達とかに、例えば西成とか言ったら知恵が悪いみたいな感じのこととかを、大阪の人でさえなぜそういう町なのかってことを知らんのじゃないかなと思って。
だって今話されたこととかってすごく知りたいことやった俺は。
なぜそこに人が集められていたのかということも全然知らなかったので、すごい勉強になったのと同時に、なんで上田さんがここルームだったり芸大をやろうとしたのかっていうことがスッときた。
確かに私もです。
そしてこの大学もそうだし、例えば芸術やってる人だったら美術館だったり劇場っていうのが外せない大事なものじゃないですか。
でもそれ作ってるの労働者の人たちなんだよね。
彼らは作るまではいるけど、出来上がったピカピカになったらいないじゃない。
それでそこもちょっと気になっていて。
一緒に表現っていうかいろんなことしてたら一緒に行けるかなとかって思ったら本当に美術館に行ったりとか行けるよって面白くて。
一緒に前ねサントリーミュージアムに行ったの。
みんなで?
おじさんたちと。
そしたらさ、コンクリートうまいこと張ったんだなって。
そういう目線ね。
めっちゃ面白かった。
面白い。
鎌ヶ崎芸術大学っていうのは大学っていうから卒業があるんですか?
卒業ないのよ。
誰でも入学できて、誰でも卒業しなくていいの。
誰でも来れるの。
単位とかもない?
単位もなくて。
いない。
ある方がいいやろ。
でもある方がモチベーションになる人もいるんじゃない?
そんなね、町角保健室なのね。
素敵。
すごいな。
鎌原は2012年始めた時は、浜ヶ崎のおじさんしか参加者がいなかったんだけど、本当に面白くて。大学生って授業寝るでしょ?
寝る寝る。
寝ないのよ。本で先生捕まえて、自分の思ってることをともかく先生に喋りまくって、先生困るっていう。
めんどくさいなそれは。それされたら。
おるおる。
本当にそんなんばっかで。すっごいおかしくて。
一人ね、腰おじさんがいたわけ。みんな困ってたんやけど、来るわけ毎回ね。なんで来るんですかと聞いたら。
よくそんなこと聞いたね。自分で呼んどいて。
コミュニケーション学びに来たっていうわけで、鎌原の中にそういうコミュニケーションセンターとかの先生とか来てたから、
それで、この人自分がコミュニケーション下手くそなの分かってて、だからここに来たんかってみんながなんか腑に落ちて、
なんかすごい、まあそうかみたいな。
そしたら教えたろう。
そうかみたいなね。とかね、本当に面白くて、初期。
そう。
そうしたおじさんたちがクラスメイトができていくわけだよね。道端であったり挨拶できる人が増えたりとか、そんな風になっていって、
横浜トリエナーレに呼ばれてみたりとか、各所に美術館に呼ばれたり、演劇祭に呼ばれたりとか、そんな風にして活躍していくんだけど、だんだんこれなくなるのよ。弱って。
歳とって。
歳とって。天国に卒業される方も多くて、実は今はほとんど鎌ヶ崎の方の参加が少ない。
そうなんですね。
本当残念なんだけど少なくて、じゃあできなさそうなもんなんだけれども、なんとかギリギリいろんな人たちが新幹線乗ってきたりとか、遠くから来てくれる人も多くて、
関心持ってきてくれる人もいてて、で、鎌ヶ崎のおじさんたちの態度、のびのび自由に過ごす、そしてその場にいるっていうことの責任を果たしてるっていうことで、鎌ゲイの口訓っていうんですか、それはのびのび自由に責任を果たすっていう言葉にしてて、聞いてもらってるのね。
コロナの時に、ユーチューバーが海外に行けないから日本の秘境っていうことで、結構鎌ヶ崎に来ちゃったの。
なるほど。
そして、やっぱりわざと炎上するような動画を流して、おじさんたちをわざと怒らせたりとか、そういうことをしてて。
で、さらにちょっと最近若い人の間でも、鎌ヶ崎暴いみたいな雰囲気もあって、相変わらずやっぱり偏見は持たれてて。
例えば、うちいろんな大学からボランティアとかインターンとかフィールドワークしてるんだけど、この間もインターンに来たいって言って面談を済ませた人が、後日親から行くなって言われたって言って断られるの。
なるほど。
連絡が来るぐらいの、やっぱり今もそんな状況だから。
でも、本当に鎌ヶ崎に来た人がそれ言ってるのかって言ったら、そうじゃないから。
じゃあ、鎌毛っていう枠組みが、もし興味あるんだったら来てもらえたらいいと。
で、自分の足でここを歩いて、匂いを嗅いで感じたことで、自分で考えてもらったらいいわけだから。
鎌毛を一つの装置っていうか入り口というふうに考えようと、地域の中のね。そんなふうに思って今も続けている。
ちょっと詳しく聞きたいことがあって、鎌毛さんで井戸を掘る。
井戸を掘りました。
があったと聞いて、前回の山城さんの会の時も井戸を掘るっていう話題ですごい盛り上がったんですけど、それについてちょっとお聞きしていいですか。
井戸掘ろうと思ったんだけど、大阪上下水道整ってるからいらんやんって言って、3年ぐらい悩んだんですよね。一人で私の中では。
でも、おじさんたちがどんどん亡くなっていくことで町が変化していって、空き部屋が出るとやっぱりそれがホテルに変わっていって、たくさん泊まりに来る人が増えて町が綺麗になっていったのね。
そしたら、よその人が、最近鎌ヶ崎綺麗になってよかったねって言ってくれるわけ。悪気はないと思うのよ。
でも、それは鎌ヶ崎っていう場に対して、ちょっとこう蓋をして綺麗にしているように聞こえてしまって、本当にそれが嫌やなと思ったのね。
でも、変わりゆくことは止められないから、じゃあこれまでの鎌ヶ崎の記憶とか、おじさんたちやいろんな人たちの存在を次に伝えていくっていうことをしようと思って、こういうココルームであったり鎌芸をやってるわけだけど、
おじさんたちも苦手なことを歌ったり踊ったり、そんなことをしてくれてるわけだけど、一番の表現の得意は土木なわけよね。
じゃあ、おじさんたちに先生になってもらうっていう鎌芸の目標だったので、今こそと思って、残念ながらだけど井戸掘りをしようと思ったんですよ。
簡単な方法でしたら、2週間ぐらいで掘れちゃうから、スコップで掘ることにして。
簡単な方法だったら、2週間で掘れちゃうって言ってた。
言ってた。
おじさんたちが。
機械使ってね。
結局半年かかったんだけど、スコップで掘ることにして、いろんなことが起こるわけ。
そうした不確実なことに取り組んで、いろんな人が関わることができて、面白かったな。
障害を持っていらっしゃる方も関わってくれたし、海外の人もだし、ちっちゃい3歳ぐらいの子とか子供たちとか、中には難民の人も掘ってくれてね、一緒に。
彼は30代ぐらいの難民の人だったけど、すっごい頑張って掘って、すっごいエネルギーが満ちてきたのかな。
掘った後出てきて言ったの。
わしのことはみんな難民って呼ぶけど、違う、人間なんやって言って叫んで。
すごい印象深い。
掘って地面に力を入れて振れていくっていうことは、すごい人間を揺さぶる運だなと思った。
おじさんたちがまた素晴らしかった。
いろんなことが起こるのを、その知恵と経験と技術で私たちを守ってくれて、掘り上げることができて。
一人のおじさんはね、17歳の時に家出して、37年間帰れてなかったのね。
一緒に井戸掘ってた時、最初主題とか全部仮名でって言ってたのに、途中からいいですよ、東名で。
自信がついてきたんだよね、きっとね。
掘り上がったぐらいの時に、家帰ってみたいって聞いたら、うんって言って。
もしかしたらもう死んでるかもしれないね。墓参りになるかもしれないね。
それでも行くって言ったら行きたいって言って。
で、私自分の出張が四国にあったので、なんとかして彼を連れて行こうと思って、探し出して。