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2025-12-09 20:45

【8-3】どうして詩人になると決めたのか。安心して居られて自分の思っていることを言える場所をつくることが「表現」。【mymy_ 詩人_Guest:上田假奈代(ココルーム・インクルーシブデザイン)】

詩人として、釜ヶ崎でインクルーシブデザインまたはアーティスト・コレクティブのような活動を続ける、国宝級の「生き様」。詩は言葉と言葉にならないものでできている。
“芸大ラジオmymy”は京都芸術大学の開学50th(2027)を記念して始まった、芸術・デザインをひもとくラジオです。

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京都大学西部講堂(Wikipedia)

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「自分の命が川のながれのようにあって、いま流れている川って、その流れはそこにしかない。」鴨長明「方丈記」(青空文庫)

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サマリー

上田假奈代さんは、幼少期や学生時代を振り返りながら、表現の重要性や詩を仕事にすることについて考察しています。彼女は、詩が自己表現や生きる力としてどのように役立つかを探求し、自己のキャリアの変遷を通じて、表現の場を提供することの意義を語っています。今回のエピソードでは、上田さんが表現の重要性について語り、自分の思いを安心して言える場を作ることが詩人としての使命であると述べています。また、自己肯定感に関する考え方やアートNPOの役割についても触れています。

幼少期と学生時代の振り返り
こんにちは、芸大ラジオmymyです。アシスタントの谷口七葉と、そして京都芸術大学の先生、坂井です。よろしくお願いします。
前回に引き続き、詩人ココルーム代表理事の上田さんをゲストにお招きしてお届けします。
前回は、釜崎芸術大学と井戸堀プロジェクトについてお伺いしました。
今日は、上田さんの幼少期、学生時代について伺っていきたい。
1話で話して突っ走ろうとしたところを、俺が止めたので、
あの続きから、言葉がしゃぼんだまになって、
世界に見つけられた漢字。
世界に私が見つけられた漢字を、それが山奥で起きたことで、
そこから都会である京都に出てきた、田舎はもう嫌だと言って出てきたというところからいきましょう。
はい、京大西武高等でいろんな人たちに出会って、びっくりするわけよね。
これまでこれしなさいって言われてたのが、自分で発案してこれしたいって言ったらできたっていうようなことが面白くて、
裏方してたんだけど、自分も表現をしてみたいものだと思って、
朗読を企画して、朗読会を企画していくっていうふうなことをしてたら、
当時あんまりなかったのね、リーディングのイベントとか。
だから自分で企画するよりなかったら、いろんな人たちがちょっとずつ集まり始めてくれて、
その中に大学生の若者が来てくれて。
ちょっと待って、自分はそのとき大学生じゃない?
ごめんなさい、もう卒業してたね、私の中で。ごめんごめん。
もう卒業してた?
もう卒業してコピーライダーしてたな。
ちょっと待って、うちの大学の卒業生ですよね。
うちの大学時代の話はここにはない。
今日はない。
俺なんか大学入る前の話をしてるんやと思ってた。ずっと西部行動は。
大学生になって、単大生になって、兄弟に入り浸ってた。
うちのね、うちの大学生のときに、うちの大学ではなくて、兄弟に入り浸ってた。
だからうちの大学っていうのは、兄弟に入り浸るための、そういうもんってことですね。
上田さんにとっては。
何コース?
ビジュアルデザインコース。
ビジュアルデザインコース。
だから、みんな一生懸命デザインの勉強してるのに、
私は根は真面目なんで、学校は行ってるんですけど、
ずっとね、表現って何かなっていうのを考えてた。
詩の仕事への志向
西部行動に入り浸ってた。
卒業するんだけど、卒業したときも、そうだ当時はフリーター化がちょっと始めてる頃だから、
なんだけど、ビジュアルデザインコースって結構就職を勧められるコースなんですよね。
そうなんよ。
やっぱデザイナーになる人多いから。
でも、とうとう先生からもういいあんたはって言われて、就職せんでもええって言ってもらって、
うちの親ももう就職せんでええって言ったんですよ。
就職せんでええって。
やったみたいな話なんだけど、映画好きでね、よく単館の映画を見に行ってて、
で、ふって気がついた。これ35ミリのフィルムのものを私見てるんやなって。
35ミリのこの連なってるリールのこれってどうやって作られてるのかなと思ったら、
いろんな人たちがいろんな働きをして、お金を集め、そしてタイムスケジュールを組んで、
で、できたものをまた上映する人がいてっていう、いろんな枠組み、いろんな役割を
みんなが制限の中で最大限をやってくれて、やっと私これ見てんねやと思ったときに、
私なんかの枠にいたかなと思ったら、自分の家族っていう枠と、そして大学単大っていう枠とぐらいしか知らないわけよね。
じゃあ世の中にはどんな枠があるかなと思ったら会社っていう枠もあるよなと思って、会社行こうと思った。
職員室行って、私就職したいですって言って。
職員室?研究室?
研究室に行って、就職したいですって言ったら、ピッタリなとこあるわって言って紹介してもらって、
デザイン事務所に入って、でもデザインではなくて、コピーライターになりたいですって私言ってて。
で、なぜか言ってて、文章を書く、言葉を書く仕事に就くことができたんですよ。
本当に幸運でした。
それでコピーライターをしながら、よく時間を使って、相変わらず朗読の場とか、いろんな人たちと遊ぶ場をいっぱい作って活動してたとき。
セーブコードを拠点に。
でももっといろんなとこ、もっとちっちゃいとことかも使いながら、セーブコードでいろいろマネジメント、今で言えばきっとマネジメントなんですよね。
企画していく、作っていくっていうことをなんとなく覚えていったんでしょうね。
おかげさまで、自分でちっちゃな企画できるようになってやってたら、いろんな人がそこに集ってくれるようにもなって、
大学生の若者が、とことことこって私のとこに来て、原田さん、ぼく詩を仕事にしたいんですって言ってきて、
え?ってなったの。私の母親は詩人なんだけど、私に詩を仕事にするなって言ってたんですよ。
で、その言い付けを守ってたんですね。だから私は。
でも彼がそう言ったときに、少し違うとしか言えなくて、まともな返事をしなかった。
で、それから2ヶ月ぐらい経ったときに、知らせがあって、その男の子が死んだと。
私と話をした1週間後にね、飛び降りてたの。
で、そこからですね、私はなんであのときに、詩を仕事にしたいっていう彼に、死んじゃうみたいな言い方してしまったんやろうと。
そんなの分からへんやん。分からへんのに、私が決めつけて、そんなこと言ってしまったなと思って、めっちゃ後悔したんね。
もちろん私の一言が、彼が自殺に追い込んだとは思わないんですよ。
でも自分の中の後悔はどんどん膨れ上がって、そして、詩の仕事って何かな?
で、私自身も生きるのは下手くそやったし、何回も自殺したいなみたいなことはそれは思ったわ。
ココルームの始まり
だけど詩がそばにあって、この一行があるから私一人ぼっちちゃうわみたいなふうにも思ってきたし、
詩の仕事ってそんなふうに、もう明日自分が起きなくても世界は動いていくわみたいな気持ちのときに、
いやいや私自分の命ってあるやんっていうことを自分で気づくことができるようなそばにいる言葉とかっていうのが詩の仕事なんちゃうんかな。
じゃあなんで死ぬねんみたいな、こうやっぱり堂々巡りが起こって、これはじゃあ私自身がそれを一回やってみるか。
詩を仕事にしてみるか。
そう。で、失敗しても別に無理でした私にはって言えばいいだけの話やから、ごめんなさいって言えばいいだけの話やし、
私が詩を仕事にしようとして誰かの迷惑になるかなって考えたら、いや誰も別に迷惑をかけるわけじゃないよね。
何をストッパーかけてたんやろうと思って、それに幸い日本はですね職業選択の自由があって、
なんかそんなことしても別に逮捕されたりしない。この国は本当ありがたい今。だから失敗するまでしたらええんやって気がついて。
取ってくわれるわけじゃないしと思って修行課宣言をしたんですね。
何歳ぐらい?
それがね30過ぎ。
そっかそっか。そしてここルームに。
そして1年間ぐらいは何とかしていき乗り口をフリーランスみたいな感じで、大阪市から声をかけてもらったので場所を運営してここルームっていうのを始める。
32ぐらいかな。
なんで大阪市は上田さんに声かけたの?
それは私、そうそう。そのきっかけが京都で9年10年コピーライターしてて、一緒に若い頃に遊んでた人たちがどんどんどんどん活躍するようになってね、アーティストとして。
京都を卒業していくのよ。私はいかるつ京都に卒業できなくて、みんなにありがたいことに頼りにされるわけですよ。受付手伝ってとかさ。
いろいろいろいろいろ声かけてもらえてて、なんか楽しいんですよ。でもこの楽しみに甘じてたら、なんかあかんなと思って。私卒業できひんわと思って。
で、1回卒業しようと思って、吉野に帰って調理師学校に行って、調理師の免許持つんですよ。
で、調理師として生きていこうかななんて思っていて。
コピーナイターの後にね。
で、鹿とか猿とかしか住んでないような山の奥に住み込みで調理師の仕事に行くんだけど、これまたですね、やっぱり言葉の仕事に戻りたいってことになっていくんですよ。
で、京都に戻りたかったんだけど、京都たまたまどこの事務所も空きがなくて、大阪においでよって言われて大阪に行くんですよ。
で、その時にこれまで一緒に遊んでたような人たちが大阪市の人と仕事してて、フリーペーパーを発行してるんだけど、そこにコラムの連載を持たないかっていう風に。
詩人のコーナーいるよねって言って探してたので、私がちょうどそのコラムを書くっていう仕事をもらえることになって、そこから付き合いが2年ぐらいあったのかな。
で、その中でその担当者の方が面白いと思ってくださって、声をかけてくれたんですね。
で、じゃあコッコルームを始めてからっていうのが、学生の時に表現ってなんだろうっていうのをね、こうめっちゃ考えてたっていうことの一つね、転換点が鎌ヶ崎で起こるんですよ。
で、2008年にその商店街にちっちゃな元スナックを借りてオープンしたら、その日からやってくる一人のおじいちゃんがいてて、おじいちゃんというかおじさんがいてて、安藤さんっていうんだけど、この人が大概で優しい人がいたら入ってきて、
で、誰かの隣に座って腕つかんで時計してんなーって言って詰んでるんですよ。でもお客さん帰っちゃうわけ。で、1日何回も来んのよ。で、注文もしないのよ。
注文もしない。
彼のパトロールコースに入っちゃったんだよね。で、スタッフからはもうデッキにしてくれと、この人って言われて。だけども、私はなんかそれが納得がいかんというか、でもそれも説明は当時はできなくて、で、まあのらりくらりね、その安藤さんがデッキにしてくれっていうスタッフにのらりくらり。
で、安藤さん来ても見かねたら声をかけるし、本当にもう大変やったらちょっと一緒に外に出て、あのもうみんな怒ってるし、安藤さんも気悪いやろうと。
今日は帰って、明日来たかったら気持ち切り替えて明日にしてちょうだいみたいなふうなやり取りをずっと続けてて。
表現の重要性
で、店内では窯の人たちとなんとかこう関係を作りたいから、ちょっとしたワークショップをしてるわけね。ワークショップってそんな大したことない。カルタとか、ちょっと墨とすずり出してきて、一緒に修辞してみたりとか、写生大会してみたりとか、そんなこと、アーティスト呼ぶほどのこともできなくて。
やってて、安藤さんいつも来るから誘うんだけど、絶対に参加しないのよ。暇そうやのに。で、そんな付き合いをしてて、1年ぐらい、1年半ぐらい経った時に手紙を書く会っていうのをしようとしてて。
で、始めようと思ったタイミングで、また安藤さんが来て、きっと事あるやろうなと思ったんだけど、しつこく声をかけたっけ。手紙書く会やでって言って。だから、書くって言ったのよ。で、あーとか珍しいと思いながら、私の隣に座って手紙を書き始めたんだけど、手が止まってね。
安藤さんどうやって書くの?って言って、字の書き方を聞いてくるの。で、こうやでって、こうやって書くね。見本の字書いて。あー、安藤さん、字書かれへんかったんや。ってやっと気がついたの。これまでいろんなこと誘ってたけど、断ってたのは、そういうことやったんやなと。
自分が字が書けへんなんて別にバレる必要ないよね。で、そんなこともわからんとずっと声かけてたんやなと思って。そりゃ苦労してきたやろうなと。
でも、ここでみんながワイワイいろいろやってたりとか、私のこうした安藤さんとの付き合いの態度を本人が、ここで自分がその字を聞いても私が笑ったりもしないし、もし馬鹿にする人がいてもね、そんな馬鹿にすることじゃないって言って間に立つっていうことを安藤さん信じてくれたんやなと思って。
で、これまで私はその表現をする、生きることは表現やってて、仕事にするんだって言ってきたし、それはこれまでいろんな大人の人から自分の気持ちを言いなさいとか、そういうふうに教育されてきたし、その上でそうやってたけど、でももっと大事なのはここに安心していれて、自分の思ってることを言えるっていう場を作ること。
表現をしたくなって、していいっていう場所を作ることが、これアートNPOをやってる詩人としての私の仕事やわっていうふうに鎌ヶ崎のおじさんにね、教わるっていう。
だから、芸団の時に、表現って何かな、人と表現の関係って何かなって考えてたのが、鎌ヶ崎に来て、なんかあって気がついたっていう。続いてたんだなっていうこと。
この流れで聞きたいんですけど、毎回のゲストに聞いていることがあって。
この流れでそれ聞くん。
めっちゃ気になっちゃって。
自己肯定感っていう言葉は聞きなじみありますか?
自己肯定感よく使うよね、みなさんね。
そうですね。それについてどう思われますかっていう、ふんわりと。
最近の私たちの世代とか若い人とかって、その自己肯定感がちょっと低いとか、諦めちゃうとか、そういう、なんて言ったらいいですか。
自分のことがあまり自信がなくて。
自信がないとか。
あまり好きになれないとか、そういう人が多いみたい。
その自己肯定感が低いという風に言いますよね、多分。
自己肯定感について、このこと。
その時によって多分、言葉は答え方変わるんだろうなと思うんだけど、相手の人によって。
私自身は自分の命が川の流れのようにあって、今流れてる川ってその流れはそこしかないじゃない。
古典のあれと一緒やね、方丈紀だけあれと一緒だけど。
それなんだっていう感覚があれば、多分その自己肯定感っていうのは、それでジャストなんだと思うのね。
後にも後ろにも別に思い患うことはなくて、今のこの命、この流れみたいなところを信じてれるわと思えたらいいんだとは思うのね。
また別の言い方をしたら、金太郎飴あるじゃないですか。金太郎飴。
それをパツンと切るじゃない。そうすると断面が金太郎飴がいるよね。
この断面の時に、これは何かを捉えたりとか、節目だったりとか、表しちゃった時とか気づいた時とかなんだけど、空気に触れたこの瞬間があって。
そしてまた時間が進むと金太郎飴になるんだけども、実は金太郎飴の顔が最初と最後では変わると思うんですよ。
この切った時の瞬間っていうのは、右と左あんまり変わってないように見えるけれども、実は変わっていってる。
だっていうふうに思った時に、その切られた時に、空気に触れた時に、そんなに動揺しないで。
そのままに1日1日っていうか1分1分っていうか生きていったら、金太郎飴の最後の顔っていうのは自分が納得できる顔だといいなみたいな。
この空気に触れる実はすごい私重要だと思ってて、飴作る時に、ドロドロの飴をパンパンって引っ掛けて空気に触れさせると色が変わってくるんだよね。
あれ空気入れるっていうことって、でもノイズっていうか雑っていうか埃っていうか、そうしたものにいっぱい含まれることによって飴ができていくんだなと思ったら、
表現するとか表すっていうのは空気をいっぱい含んでいくことなんじゃないのかなと思っていて、空気に触れたりすることによって実は美味しくなったりとか、変化を持っていくっていうことだと思うんだよね。
だから自己肯定感も変わりますって言えばいいのかな。
変わります。確かに。ありがとうございます。
さて今回もエンディングのお時間となりました。第3話では上田さんの学生時代について。
学生時代ほとんど語られてないからね。何なら5秒ですよ。我が大学のことは5秒でしたね。
そうですね。兄弟に入り担っていた時代と詩人活動。
大阪に行ってから安藤さん。すごい良かったです。
良かったですね。
良かったと言っていいのかわからんけど。だからもう日本って感じもしないもんね。
そういうところもだからなんか既存の価値観に僕ら縛られて生きてるけど、そういうのを気にしないような新しい代替えとなるような世界みたいなものをデザインしてるつもりはないと思うけど、作ってるんだなっていうのは思います。
上田さんどうもありがとうございました。
どうもありがとう。
番組が面白かったという方はSpotifyやApple Podcastなどお聞きのアプリでのフォロー、高評価をお願いします。
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