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2025-07-15 1:10:46

#25【顔を捨てた男】前編 過去を物語化できているか ※監督脚本 アーロン・シンバーグ氏インタビュー付き

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7/11公開 アーロン・シンバーグ監督、セバスチャン・スタン主演新作映画『顔を捨てた男』を深める回前編

シンバーグ監督のインタビュー音源付き

[[[今回のトピック]]]

インタビューしてきたよ / 過去を割り切れる人と割り切れない人 / ジメジメしたもの / 社会の視線を内面化 / 自分の人生を物語化できているか / 勝手に他者にエモ付けする瞬間 / MISIA事件 / 共感できないイングリッド / 傷を修復してくれるイングリッド / 呪いのタイプライター / 監督の無意識 / 自分で紡いだ監督 / 顔を変えないといけない時 / 内気さは配慮 / スピは物語化

配信スケジュール:火曜19時(基本)

監督インタビュー吹き替え担当:

⁠こじらせ平成夜話⁠』津田顕輝(⁠X⁠

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■出演・運営メンバー


■その他プラットフォーム

オープニングテーマ

Hizuru Saito (新音楽制作工房)

サマリー

このエピソードでは、映画『顔を捨てた男』の監督アーロン・シンバーグへのインタビューを通じて、主人公エドワードの物語と彼の自己表現の課題が探求されます。また、隣人のイングリッドやオズワルドとの対比を通じて、彼の成長と運命の逆転について議論します。エドワード、オズワルド、イングリッドというキャラクターを通じて、自己認識や他者からの評価との関係について語られます。また、タイプライターや天井の穴が物語にどのように関連しているかについても掘り下げられます。このエピソードでは、アーロン・シンバーグ監督が「顔を捨てた男」という映画について語り、キャラクターのエドワードが他人の目を気にする描写や、物語を語ることの重要性について深く掘り下げています。特にエドワードの内面的な葛藤と物語化の必要性が強調されます。エピソードは、ミーシャに関する思い出を基に、彼女の音楽キャリアと社会からの視線の関連について語ります。また、映画『顔を捨てた男』のキャラクターと彼らの物語がどのように形作られるかを探求します。アーロン・シンバーグ監督とのインタビューを通じて、自身の物語を語ることの重要性や、彼の過去やコンプレックスが映画制作に与えた影響について探求しています。特に顔の変形をテーマにした新作映画におけるキャスティングの選択と、その背後にあるメッセージが深く掘り下げられます。また、顔を捨てた男の葛藤や物語を語ることの重要性についても掘り下げています。

インタビューの準備
ありがとう、A24。
まあ、まずは、まずはお礼をっていう。
まずはお礼をね。A24の方角どっちかなっていう。
まあ、ニューヨークなんだろうけど、まあまあまあ、だいたい東よね。
東。
日本からしたら、見といて。
そうね。というのも、監督のアーロン・シンバーグさんにインタビューをさせていただきましたよ。
おめでとうございます。
ありがとうございます。
映画ジャーナリストのトリビアさん。
映画ジャーナリスト。
映画ジャーナリストっているのかな?なんかわかんないけど。
わかんない。
映画プロインタビュアーの。
トリビアです。
インタビュアーさんでいいんじゃない?
肩書き。
名前変える?
しかも、今をときめくA24作品ですよ。
そう。
びっくりだなあ。
まあ、Zoomでね、オンラインでの取材ではあったけど。
時間もかなり限られた中で、なんとかねじ込んでいただいて。
A24の方角を向いて。
そして、ハピネットファントムさん。
そうですね。
どっちだろう。東京。俺はじゃあちょっと北側の方を向いて。
じゃあ俺は東側の方を向いて。
そうね。ありがとうございますっていうね。
手分けしていかないと。
そうね。
監督にも感謝なんだけど。
そうね。監督はどこ住む?ちょっともう。
監督はニューヨークに住んでると思うよ。
じゃあ、1階で住んでいいね。
A24、あれじゃない?カリフォルニア州とかじゃないの?
え、そうなの?困ったな。
LAとかじゃないの?
大体の方向は一緒だっていうことで。
いいんだよ。頭を下げる回数の話は。
1階でいける?
1階でいける。
本当に貴重な体験でしたよ。
前々からね、そういうのをやれるんじゃないかとかやってみたいんじゃないかみたいな話はしてたけども。
映画のあらすじ
本当にね、できる日が。
しかも、こんなに作品見て語りがいのある作品の監督に話し聞けるっていうことで。
いろんなこと聞きたいなっていうふうにやっぱなって。
そうね。今回もオン試写で見させていただいたんですが。
それ忘れてたわ。
オンA24さんの作品を、イカ同文というか省略で。
イカ同文、イカ省略で。
試写で見させてもらってね。これは面白いと。
というか、深めるシーンまでやるしかないというような作品よね。
本当に深めがいがあるなっていうね。
深めしろ、俺らの専門用語をね。
これ深められるなって。
業界人だから我々も。
まあまあまあ、おふざけはあれだとしても本当に短いインタビューだったけども、なるほどって感じになった内容でしたね。
ありがとうございます。
いやいやいや、さすがですよ。インタビュアーさん。
ありがとうございます。
インタビュアーさん。
いやー、そんな本心のトリビア改めインタビュアーのインタビューがどこで聞けるんでしたっけ?
それはね、やっぱね、ポッドキャストのね、深めるシネマで聞けるらしいですよ。
マジかー、最近あのちょっと久しぶりにっていうか、ほぼ初めてぐらいにエゴサしまして。
深めるシネマ。
おーマジマジ。
エゴサしたら、すごい嬉しいことに、どういうポッドキャストいけばいいかなーみたいなので、友達同士でどのポッドキャストっていうので、深めるシネマあげてくださってた方がいて、本当にありがとうございますっていう感じなんだけど、深める映画ってなってて。
惜しいっていう。
ほぼそうなんだけどね。
概念としては合ってる。
そうだよ。われわれ日本人なんだから、やっぱ変えてく?深める映画。
深める映画。
で、なんか他のお友達が、っていうか、どういうポッドキャスト聞けばいいかなっていう風に聞いてらっしゃったアカウントの方が、深めるシネマで出てきたけどこれで合ってる?みたいな感じで。
おー。
それだ!みたいな感じになってて、訂正までできて、何も俺はだからすることがないなっていう。
ありがとうって思ったっていう感じでしたけどもね。
エゴサしよう、俺もちょっと。
ね、ちょっと。そんな深めるシネマの歴史に。
やりにくいなー、なんか今日。
まあ、頑張ったんだけどっていう。
まあ。
だからね、最終的にやっぱりこの深めるシネマでこの映画取り扱いたいなって思ったんだけど。
もうその、まあ2ヶ月ぐらい前からいろいろ準備したりしてて、監督のインタビューも結構早い段階で終わって。
で、まあXの方ではトリビアウィークみたいな感じでちょっとコラボさせていただいて、映画と。
やってますねー。
そのトリビアみたいな情報をもうガッツリ調べて投稿してみたいなのやって。
ね、リツイートしてください。
小っちゃい声でリツイートしてください。今です。
サブリみたいな。
いいねとリツイートよろしくお願いします。
で、それやり尽くした今なわけ。
どうもね、もうなんかお疲れ様ですっていうね、こう。
もうなんかね、やり終えた俺っていう。
今からこれ撮るんだけど、なんかもうやり切ったなっていう感じの状態ですよ。
いやー困ったなー、アフタートークのみみたいな感じのこの。
もうだって死ぬほど映画も見たし、いろいろ考えて。
その質問内容考えるのもさ、やっぱり大変だったしね。
その何を聞こうかみたいな。
そうねー。
なのでまあ、もちろん今回もネタバレ全開で映画の内容の話もするし、
監督とのその会話に関しても、映画の内容について触れているので。
うん。
まあ、わかってますよね皆さん。
皆さん。
まずここで見てない人は停止ボタンを押して。
映画館に走り。
A24の方角を向いて、二拍一礼。
しかももう日本人なのかな、私本当に。
再敬礼で映画館に走り。
A24の新作、顔を捨てた男のチケット3枚くださいっつって。
そしてパンフレットね。
パンフレットも3冊くださいと。
そうね。
ただただ3冊買うだけにしときますんで。
まあ、ちょっと楽しみにね。
トレイラさんも頑張ったんだから、ここはもうちょっと気合を入れつつ、
ザック・バランに面白かったこの映画についてしゃべりましょう。
しゃべっていきましょう。
過去を過去にできるっていうか、エドワードはずっとできてない。
できてないね。
この物語はタイプライターを渡しちゃったことの呪いだと思う。
スピンって結構物語家だなと思う。
これは本当そうよね。
いや、こういうの聞かれなかった男なの。
聞かれなかった。
揚げ出し豆腐って英語でも揚げ出し豆腐かなっていう。
ヒールじゃなくて本当に死が近づいてくるみたいな感じするのよ。
顔面セロシャンスターなのに。
顔面セロシャンスターってなんだよっていう。
より良い未来のために。
何党だよっていうね。
はい、トリビアです。
トモヒーです。
今回深めていく映画は新作映画、顔を捨てた男です。
はい。
7月11日、もうつい最近公開、日本公開の新作映画。
あらすじは顔に極端な変形を持つ俳優志望のエドワード。
隣人で劇作家を目指すイングリッドに惹かれながらも、自分の気持ちを閉じ込めて生きる彼はある日、
外見を劇的に変える過激な治療を受け、念願の新しい顔を手に入れる。
過去を捨て、別人として順風満帆な人生を歩み出した矢先、目の前に現れたのは、
かつての自分の顔に似たカリスマ性のある男、オズワルドだった。
その出会いによって、エドワードの運命は想像もつかない方向へと猛烈に逆転していく。
監督脚本はゴーダウンです。
チェーンド4ライフに続き、本作は長編監督作3作目になるアーロンシンバーグ。
出演は、本作でゴールデングローブ賞のミュージカル・コメディ部門主演男優賞を受賞した、
物語のテーマ
セバスチャン・スタン、レナーテ・レイン・スウェ、アダム・ピアソン等となっています。
まずは、僕が撮ってきた監督脚本のアーロンシンバーグさんへのインタビューなんですけど、
これを皆さんに聞いてもらおうかなと思うんですが、
その前になんと、当然インタビューなんで英語でしてるんですけど、
ポッドキャストなのに英語で流れてもしょうがないので。
そうね、困ったこと。
困った。
何より俺がわからない。
困った時はあいつだっていうことで、今回何度目の登場かな。
何度目の登場かな。
おそらく3、4度目なんだよな。
3回ぐらい。
1回目はあなたが寝込んだ時に大学でシルバニアファミリーの映画を一緒に見てくれて、
劇場版。
助けてくれて。
そして最近はシネマ嫌いを決定戦のSE担当してくれた津田さん。
はい。
コジラセ平成夜話の津田健一さん。
なんと現役の声優さんでありますので。
ありがたい。津田さんどこに住んでるんだっけ。
津田さんはね、どの辺だったかな。
言わないほうがいいよなってかっつう。
朝ヶ谷だったかなっていう。
違ったかな。
方角を。
津田さんに今回は監督役として吹き替えを担当してもらってます。
ありがとう。
ありがとうございます。
津田氏、津田氏ありがとう。
津田氏、感謝しております。
津田さんの見事な吹き替え技術も一緒にお楽しみください。
ぜひ。
どうぞ。
こんにちは、アーロンさん。
こんにちは。
僕の名前はちょっと変わってるんですが、トリビアと言います。
もちろん本名じゃないんですけどね。
日本で映画についてのポッドキャスト、深めるシネマをやっています。
今日はこうしてお話してきて本当に光栄です。
こちらこそありがとうございます。
こんな長いプレス日にもかかわらず、お時間を抑えてくださって本当にありがとうございます。
お疲れですよね。
ああ、大丈夫。何とか持ちこたえてます。
よかったです。
今回は約8分ほどのインタビューなので、質問は少しに絞らせていただきますね。
ええ。
それにもう何百回も着想はどこからとか、インスピレーションはと聞かれてると思うので、
そういう基本的なことはすっ飛ばして、映画の中身そのものについていきなり聞かせていただけたらと思っています。
何でも聞いてください。
ありがとうございます。
まずは物語を語ることというテーマについてお聞きします。
映画の中で、エドワードは自分自身の物語をうまく形にすることができずに、
最終的には自分の人生の物語さえ奪われてしまいます。
一方で、オズワルドやイングリッドは、自分自身の物語を積極的に形作って前へと進んでいくように描かれていると思います。
エドワードとオズワルドやイングリッドの違いは何だと思いますか?
言い換えると、エドワードができないことを他の二人ができる、その差はどこにあると考えますか?
ああ、すごくいい質問ですね。
正直、簡単に答えられるものじゃないと思います。
正直に言って、私にもよくわからないんです。
でも、映画が掘り下げようとしているのはまさにその部分で、
内部の葛藤と他者の視点
エドワードは他人が自分をどう見ているのかという認識に自ら縛られてしまっている。
つまり、彼に対する社会の反応を内面化してしまっているんです。
ただ、私はイングリッドとオズワルドをそれぞれ別の存在として見ているかもしれません。
イングリッドも社会の視線を内面化しているように私には思えます。
でも彼女の場合、それが違う形で現れているんです。
例えば、彼女の方が社会にもう少し受け入れられていたから、よりポジティブな形で出てきたのかもしれません。
じゃあ、オズワルドはなぜ自分のままでいられるのか?
それは私にもわからないんです。
彼が本当に自分のままでいることに満足しているのか?
それとも、それはある種の防衛反応なのか?
それははっきりとは答えが出ない問いだと思います。
でも結局のところ、それは問題ではなくなるんです。
なぜならば、重要なのはオズワルド自身ではなく、それを見ているエドワードの視点なのだから。
エドワードはオズワルドを見て、自分にはあんな風に生きることができないと感じています。
その差はどこからくるのか、それもわからない。
でもそれは、私自身の経験からきている部分もあると思います。
私には口外裂があって、顔の外見的な違いの中では軽い方だけど、それでも人生に大きな影響を与えました。
そのせいで、ある種のトラウマや性格の形成があったと思います。
一方で、オズワルド役のアダム・ピアソンに初めて会った時、彼はまるで自分を受け入れているように見えて、それがすごく衝撃的だったんです。
もしかしたら、私も違う人生を生きられたんじゃないのかと、自分の自己認識を見直すきっかけにもなりました。
だから、その違いがどこからくるのかは答えられないけれど、映画ではまさにその違いに焦点を当てています。
ありがとうございます。
次に物語を形作ることに関連して、タイプライターについてお聞きしたいです。
作中でエドワードがそのタイプライターをイングリッドに渡す場面がありますよね。
それは、彼が自分の物語を手放す象徴のようにも感じました。
自分の物語の決定権を人に委ねてしまっているように感じたんですね。
なるほど。
彼はなぜああいう選択をしたのだと思いますか?
正直、彼がなぜそうしたのかはわからないんです。
でも面白いのは、そのタイプライターとか、あと天井の穴もそうですが、よくこれは何のメタファーなんですかって聞かれるんですよ。
でも僕自身はあまりこれは○○の象徴だとかは考えながら作ってないんです。
あのタイプライターは実は私の家にあったもので、今もすぐそこに置いてあるんだけど、ずっと使わずに放置していて。
だからちょっとした罪悪感が出発点だったんです。
使いたいんだけどパソコンばかり使ってるなって。
そこから映画の中で語りの道具として使われるようになったんです。
天井の穴も実際に私の部屋にあった穴から着想を得たんですよ。
映画よりももっとひどかったですが。
そうやって生まれたものが後から物語上の意味を持ってくるんです。
でも私も映画を見返すと、あなたと同じようにこれは象徴的だなとか思うこともあるんですが、書いている時点では特に意識していません。
象徴的な意味があるとすれば、私の無意識の中から出てきたもので、脚本を書いている時には自覚できていないものなんだと思います。
なるほど、とても面白いですね。では次の質問です。
イングリッドについてですが、彼女は劇中でエドワードの物語のどのバージョンを語るかを選ぶ立場にありますよね。
それは社会の視点の象徴でもあるし、同時にあなた自身、映画監督や脚本家としての立場を投影している存在にも思えました。
個人的にあなたはイングリッドに共感しますか?あるいは理解できない部分や、むしろ苦手に感じるようなところはありますか?
うーん、強いて言うのであれば、私が一番共感しているのはエドワードかもしれません。
でもよく言われるように、登場人物っていうのはみんな作者自身の一側面なんですよね。
だから映画を見返していると、ああイングリッドにも自分の一部が出てるなと思うし、オズワルドにも同じことを感じます。
印象と感情の共鳴
ただ、私は脚本を書くとき、登場人物の動機についてあまり明確にしないようにしているんです。
というのも、その方が人間らしくなると思っているからです。
私たちのいる現実では、他人の心の中なんてわかりませんよね。
それが私の登場人物とのつながり方なんです。
彼らはある行動をとるけど、その動機はあえてよくわからない状態にしておくんです。
例えば、イングリッドがエドワードのことを愛しているのか、利用しているのか、恐れているのか、それとも惹かれているのか。
映画のある場面では、そのどれかのように感じるかもしれないけれど、実際のところはわかりません。
もしかしたら、彼女を演じたレナーテであればわかっているかもしれないけれど、私にはわからないんです。
でも、この物語を語ることに対する葛藤という意味では、確かにイングリッドには共感するところもあります。
ただ、私の場合は、自分自身の体験をもとに脚本を書いて、それを俳優に渡して演じてもらっています。
でもイングリッドは、劇中で明らかにその状況を自分のために利用していますよね。
そこには違いがあると思います。
ありがとうございます。そろそろ時間のようなので、改めて本当にありがとうございました。
物語を形作る道具
ありがとう。
お話できて本当に光栄でした。
どうも。
この映画の問いには、個人的にもすごく共感できて、この会話自体も含め、とても貴重な体験でした。
ありがとう。
また次回作でお話できることを願っています。
ありがとうございました。
はい、いかがでしたでしょうか。
いやー、聞き応えがあったんじゃないでしょうか。どうなんでしょうか、つって。
聞き応えあっただろう。
なかなかちょっと10分ぐらいの時間しかなかったんだけど、かなりガッツリ喋ってくれて。
そうだね。
ありがたかったですね。
まずは、ちょっとその、なぜこういう質問したのかみたいな。
そうね、もう短い時間だったから、ちょっとかなり絞ってっていうか、聞きたいところの確信部分を聞いたっていう感じだったわけよね。
トリビエさん改め、インタビュアーさんは。
はい。
割と手前の話はもう全部すっ飛ばして、ちょっとなんかこう聞いたらどう返ってくるかなみたいなのをちょっと聞いてみたんだけど。
最初の質問ね。
映画の中でエドワードが自分自身の物語をうまく形にすることができず、最終的には自分の人生の物語さえ奪われてしまう。
一方で、オズワルド・イングリッドは自分自身の物語を作って前へ進んでいくように描かれている。
この違いはなぜだと思いますか?っていうことを聞いたんだけど。
まず、僕がその映画を見て、一番最初に思い浮かんだ感想が、
エドワードとオズワルド・イングリッド。
監督がこのオズワルド・イングリッドは結構別の存在として見てるって言ってたけど、
やっぱりそのエドワードに対してオズワルドやイングリッドっていうね、2人がポンポンこう次に自分たちで進んでいくじゃん。
そうね。
よく喋るんだよね、やっぱりね。
エドワードは顔の手術をするまでもかなり内気な性格っていう感じで、
顔の治療が終わった後に一応性格も外交的になったようにも見えるんだけど、
外っていうね、人になった。
でもその状態で見てもやっぱりオズワルドとイングリッドってかなり過去を過去にできるっていうか、
そうね。
オズワルドに関しては本当にもうちょっとあんまり見えてこないんだけど、
でも元妻と子供がいるみたいなのとか、
まあその顔のことだよね。
同じようにエドワードと同じように顔に変形があるんだけど、
自分の顔を受け入れて積極的に前向きに進んでいってっていう。
全然そこに追い目とか、コンプレックスとかいわゆる劣等感みたいなのとか、
そういうのがもう、それ全部もう過去になりましたね。
過去の話も整理がついてますのでっていう感じに見えるし、
2人の話っぷりからすると離婚みたいな過去ももう済んだことですので。
今はいい関係になっていてっていう感じの後編で風船をポンポンするシーンみたいなさ。
楽しそうだなあ。
楽しそうだ、牧歌的だなっていう、何にも過去に対する後悔や追い目みたいなのが表面的には見えないんだよね。
片谷エドワードはずっとそれをさ、すげえイケメンの顔してるのに完全にストーカーになって見てるっていうさ。
探偵者みたいになっちゃう。
こいつ全然整理ついてねえなっていう感じが常にし続けるっていうね。
本当はもうどうでもいいことなの。
だって自分が求めたものが手に入ったから、過去の自分とそっくりな自分というか人が現れたとしても、
あれは過去のことっていうふうに割り切れる人は多分割り切れるんだと思うんだけど。
そうねえ。
それに執着してるし、イングリッドもすごく後半の方になるとさ、自分の過去を作った劇に対してあれはダサくだみたいな。
あれはもう無くなってよかったみたいな。次々みたいな。
しかもエドワードのこと言ってるからね。あれはピースオブシッドだって言ってるからさ。
ひでえ!みたいな。
本当に。
それを巡る物語だったんですけど、もう終わったことのようでみたいな。
次からもうLSDとファックが来ていかれるのですねみたいな。
あと恋人とかもさ、この映画の中で3人くらい変わるわけよね。
オーズワルドに出会う前に、エドワードの隣に住んでた時に男が部屋に来るシーンがあって、付き合ってたんだなっていう。
で、ガイと付き合い始める。
そしたら元彼が来るみたいな。
でもその時の対応も、もう終わったことだから、勘弁してよみたいな。
つらいっていうか、見る人が見たら、それこそ終わらせられてない過去のトラウマがバッと蘇りそうな。
もう終わったじゃない?
もう分かったでしょ?みたいな。
ゲームは終わったのよみたいな感じで、えー!っていうね。
で、その後、オーズワルドが出てきて。
オーズワルドと付き合って、子供で作ってるのかな。
で、その時もガイ、エドワードね、に対しては何の見れもなさそうだし。
普通に、ある意味優しさではあるんだけど、生活にウェルカムじゃん。
なんかそれって、たまに聞くけど、そういう人。
元彼同士が会うことを全然何も思わないみたいな。
それの極地をね、あれはね。
だって終わったことだしっていう。
ジメジメしたものがもうないみたいな。
いいね、ジメジメしたものっていう表現はいいよな。
だってこの映画ずっとジメジメしてんじゃん。前半とかね、特に。
なぜなら、やっぱエドワードスラッシュガイが主人公だから。
相手はジメジメしてるからっていうね。
そう。だからそこの違いがすごいはっきり表れてるなと思って。
ここに、エドワードがずっとジメジメしたままである原因があるんだろうなと思って。
エドワードの葛藤
この作った、監督客がやってるアーロンさんに何かそういう意図があって作ってんのかなと思って。
この2社というかね、エドワード、ガイとオズワルドとイングリッドっていうのの違いがどこにあるんだろうかっていうのは明確にあるのかなと思って聞いてみたんだよね。
そしたらわかんないらしいです。
わかりませんっていうね。
いい質問ですね。アイドンノーっていうこの。
あーなるほどって感じになったけどね。この答えは。ちょっと痺れたなっていうね。
つまり監督が言ってるのは、エドワードのことは結構わかるんだと。
多分監督本人の思いがすごい載ってるから。
だからエドワードについては他人が自分をどう見ているかっていう認識に縛られていて。
要するに社会の範囲を内面化してしまっている。
自分の中に取り込んじゃってるのね。
自分のことを人がどう見るかっていうのを。
てか嫌な目で見られるとかそういうのを自分の中に取り込んでしまってて。
つまり自分の中に自分を嫌な目で見るある種の他者みたいなのが済んじゃってるっていう。
そういう状態になってると。
そうだね。
嫌だね。
まあ一種の被害妄想的でもあるんだけど。
この映画ずっとエドワードが他人の目をずっと気にしてる描写がいっぱいあるじゃん。
物語化の重要性
そうね。
電車の中でもみんなが自分を見ているように見えているっていう。
いろんな会話しながらもふと周りに目が行っちゃったりしてるんじゃない?
会話してる相手じゃなくて。
全然別のとこに目行っちゃったりとかしてね。
そうね。
実際にこっちのことをいわゆる嘲笑しているような目で見るとか。
差別的な目で見ているかどうかはわかんないんだけど、
そういうふうに見られていると思っているし、
そういうものがその外、実際に見ているかどうかは重要ではなくて、
自分がそう見られていると思っていることが重要ってことだよね。
内面化してしまっているって。
そうね。社会の視線を内面化してしまっていると。
物語を語ることについて聞いてみたっていうのは、
やっぱり最初言ったみたいに、
オズワルドとイングリッドが次に進んでいけるのは、
俺にとってはすごく自分の中で物語化できているかどうかが重要なんじゃないかなと思って聞いてみた。
自分の人生を、これまでの人生とか経験とか、
そういったものを物語にしているっていう、
比喩的な言い方でもあるけど、実際的な言い方でもあるけど、
とにかくこういうことだったっていうふうにできているっていうことだよね。
それができている人とできていない人に見えたっていうことだよね。
オーディションのシーンでさ、
イングリッドがエドワードっていう劇をやるときに、
オーディションするじゃん、エドワード役を。
そのときに、エドワードと同じ顔に変形がある役者さんみたいなのが来て、
落とされたんだろうな。
劇場の外で佇んでるときに、ガイになったエドワードが外出てきたときに、
いやもう本当にこれ自分の役だと思ったのにみたいな。
ようやく報われたって思いたいのにみたいな。
ママに報告したいんだというふうに言ってたよね。
そう、ようやく報われたよってママに報告したいって言ってたよね。
そういうことなんだよな。
今このある状況っていうのが辛かったとしても、
今までやってきた辛かったことによって今があるんだって繋げられるっていうのが、
いわゆる物語家だなと俺は思ってるんだけど。
そうね、一つの形よね。
簡単に言えばこれまでの辛い経験があったから、
今がある、今の成功があるんですみたいなこととか、
今の幸せがあるんですみたいな。
今があるのは過去のこと、経験があったから。
辛かったけどこれで良かったなみたいな感じにできるっていうのが、
一つの物語家の物語ることの典型よね。
そうね。
イングリッドとの関係
それがエドワードはずっとできてない。
できてないね。
できてないね。
辛いよなこれ見てて。
ずっともじもじしているっていう。
今だってもう外見は変わっているし、
セバスチャン・スターンの顔になってるわけ。
セバスチャン・スターンの顔になってるんですよっていうね。
過去いろいろあったけど、今はもうこうなんだって。
すごい物語化しやすそうな話なのに、
その話ができない状態だったから、
勝手にイングリッドがそのエドワードっていう劇を作ろうとして、
勝手にされるわけね。
物語化を他者によってされてしまう。
ってことにやっぱ動揺を隠せずに、
やっぱそうじゃないんだっていう風になっちゃうのかなっていう。
ねえ。
だから途中でその傾向の場面とかでさ、
いやそうじゃないんだみたいな感じで、
途中から結構抵抗するっていうかさ、
口出すみたいな感じなんだけど。
こぶしで。
俺らは抵抗するで、こぶしで。
こぶしで最終的に帰り道に遭うっていうことになるんだけど。
なんていうのかな。
それもでもやっぱりね、
それは抵抗するじゃん。
理不尽な話だなっていう風に、
この間見てるとそう思うんだけど、
でもよく考えてみたら、
イングリッドも作ってる劇だから、
口出しする権利がないっていうこのね、
ああーみたいな、
いやそうなんだよなーみたいなこのさ、
悔しいよねなんかね。
でも本当にその自分の中で物語化みたいなの完了していたら、
別に他者がどう見てようがこっちの方で、
別に気にならないんだよね。
たとえ誤解されていたとしても別に、
自分は自分だからっていうものになっている。
そうね。
のはずなんだけど、
害は、害になった後も、
全然納得できないし、
周りの目を気にし続けるし、
ここぞという場面で、
まごまごしてるっていうか、
もごもごしてるっていうね。
なんか上手く喋れなくてみたいな感じになってしまってるっていうね。
悲劇なんだよね、だからやっぱりね。
でもこの質問の中でもあったその、
イングリッドにどれくらい共感しますかみたいな質問もしたけど、
いるじゃん、イングリッドみたいな人っていう。
あなたの周りにもあんな脚本家いませんかっていう。
人というかね、人というか、
こうやって、
他者に意味付けしてしまう瞬間が、
分かる分かる分かる。
自分にもあるなっていう。
別に勝手っちゃ勝手なんだけど、
自分から見た他人がこういう人なんだなとか、
俺はこういう意味があるんだっていうふうに、
意味付けをしてしまう。
特にやっぱりその障害を持っている人とか、
特にマイノリティである人とか、
っていうのはやっぱりそういう役割を担いがちであるっていう。
それがすごい、
皮肉が効いてて、
嫌な感じで描かれてるなっていう。
面白いんだけど、
それにアタフタしてるエドハードは。
だけど、これやるよなっていうのもあって。
それこそ最初見た時さ、
イングリッドすげえ嫌な奴だなと思ってたわけ。
なんかほんといるよねっていうか、
都合のいいように、
美しい話に物語にね、
それこそ悪い意味での物語か、
みたいな感じで思ったりもしてたんだけど、
何回か見てるうちに、
イングリッドとエドハードが最初に会って、
部屋に招き入れて、
玉ねぎ切って手ギャッと切っちゃうっていう、
怖いところから始まる、
あそこの一連のところでさ、
エドハードが家に招き入れて、
あそこでイングリッドは、
エドハードに対して質問詰めにしてるのよ。
結構。
出身は?とか。
ずっと喋ってる。
そうそう。
お母さんは?とか。
この写真お母さんは?みたいな感じで、
言ったりとか、
顔それどうしたの?みたいな感じで、
聞いたりもするんだけど、
よく見ればわかるっていうか、
あれなんだけど、
質問に一個も答えれてないんだよ。
そう。
エドハード。
そうだよね。
会話として慣れたってなかったもんね。
そう、全然慣れた。
うわーと思って、
何回か見てるうちに。
で、もう、
お母さんはもう死んだ、
みたいな話してるじゃん。
の時も、
ちょっと悲しい。
もうエモい話が出来上がってきてるわけよ。
カラダちゃんの中で。
エドハードに対する。
で、何やってる人?って言った時に、
あれ多分英語の関係もあるんだろうけどさ、
玉ねぎ切ってて、みたいな話。
それもずれてるんだけど、
でもタイプライダー見た瞬間に、
あ、作家なの?みたいな感じになって。
エモいじゃん、作家の方がだって。
玉ねぎ切ってるより。
そうね、顔に変形があって、
内気で、
活発的ではないけれども、
なんか芸術的な才能がある、みたいな。
そういうこの、
個性を見つけようとするみたいなやつでしょ。
みんな違ってみんなEを見つけようとするみたいな。
おしきい。
この言葉の持つ軽さも含めて、
これはもうね、エモいでいいと思う。
エモい話にしようとするし、
エモい人物のエモい物語っていうのを、
勝手にこう、なんていうか、醸成していく。
その人を見てるんじゃなくて、
作り上げていっているっていうのがあって、
しかもその後に、
質問にもあったけどね。
監督への質問にもあったけど、タイプライターさ、
あげるじゃん。
エドワードがイングリッドに対して。
お礼だっつって。
あの時にも、タイプライターあげるよっつって言った時に、
これお母さんのじゃないのっつって言うの。
お母さんからもらったんじゃないのか、
お母さんのだったんじゃないの、みたいな。
なんか言ってたね。
聞いてない。聞いてねえよ。
道で拾ったんだよって言う。
何エモい話。
タイプライターもやっぱ母からの固みみたいな感じする方がエモいじゃん。
確かに。母からもらった。
大事なタイプライター。
その固みで独白的な文章とか書いてんだよ、
エドワードはっていう。
ずっとこの人がやってんだよね、それを。
なんだけど。
投げつけてんだな。
でもこれ、別に俺らはやるよねっていうことなの。
断片的な情報でさ、特に初対面とかだと。
あ、苦労人なんだな、みたいなさ。
そうそうそう。
勝手な話だなって。
自分の中のタイプみたいなのに振り分けて、
この人はこの人、いろいろ苦労したんだな、頑張ってるな、みたいな。
決してネガティブじゃないこともあんだけど。
それはもちろん。
ミーシャの思い出
特に苦労していることにしたくないんだろうな。
本当に、自分でそんな残酷なものは受け取れないっていうことで
そういうふうにしてるんだと思うんだけど。
それはトリビアさんがってこと?
うん、でも俺だけに限らずなのかなと思うんだけど。
っていうのは、俺すごい子供の頃に覚えてる思い出が1個あって、これ。
小学校、高学年ぐらいかな。
中学なってないと思うんだけど、
ミーシャっているじゃん。
いるかいないかって言ったら、いるとしか答えようがない。
シンガー、ソングライターというか、R&Bシンガーというか。
今もまだ活動されてるけど。
結構当時人気だったわけ。
そうね。
ドラマの主題歌とかやってね。
これ全然関係ない話に聞こえるかもしれないけど、
この映画を見た時に思い出した強烈な思い出なんだけど、俺が。
ミーシャのこと思い出したのかわからない。
ミーシャのこと思い出したわけ。顔を捨てた男を見て。
ミーシャさんっていう。
当時ミーシャって、
要するにシンガーソングライターなんだけど、あんまりテレビに出なかったわけ。
そうね、確かにね。
ブランディングというか、戦略的に顔を出さずに、
実力があるっていうことに、
本格派みたいな感じで売り出してたのかな。
実際歌も上手いしさ。
確かに確かに。
で、テレビとかでも顔が出ないなーみたいな感じで思ってたんだけど、
うちの親、父親かな?がすごいミーシャが好きになって、
で、ライブ映像みたいなのを、
DVDかビデオか何かを買ってきたか何か。
テレビでそれが流れるみたいな。
いずれにしてもリビングで見てたのかな?
そうそう、家族でね、見てて。
でも俺も結構ミーシャ好きだったから見てたわけ。
そしたら大きいコンサート会場だったわけ。
武道館みたいなぐらいのデカさで。
スタジアムみたいな。
ステージ上で歌ってんだけど、あんまりミーシャ自体を見たことはなかったわけ、俺は。
この人がミーシャなんだって思ったときに、
衣装なのか、機材の関係で何、それが何なのか俺には分からないんだけど、
背中に何か背負ってたの。
ランドセルみたいな?
いや、ランドセル背負ってたのそれ。
それ知らなかった俺か、ごめんごめん。
97ミスをちょっと失礼しました。
背中がぼっこりした衣装みたいな。
銀色のドレスみたいなのなんだけど、
背中に何か背負ってるのか、そういう衣装なのか、ちょっと特徴的だったわけ。
ってなったときに、うちの父か母か忘れたけど、
何かそれことについて触れて、
何か背中は出てるよね?みたいな。
え?みたいな。本当だ?みたいな。
家族の中でなって。
どうしたんだろう?みたいな。
うちのトリビア家の中では、
彼女がテレビに出ない理由は、何か背中に変形があるみたいな。
なるほど、なるほどね。
ことになったんだよ、それが。
あー、なるほどなーっつって。
そうだったんだねー、みたいな。
そうだねーっていう。
なんのしたり顔だよっていう。
勝手になんかなってんの、それが。
俺もそうなんだと思って。
うちトリビア家は人権意識高いから、やっぱり。
さすがのね、さすがのトリビア家ですから、本当に。
あんまり触れていいのかどうかな?みたいな空気が流れ。
こんなに頑張ってるしね、みたいな。
そういう障害を乗り越えて、こんなに彼女は今輝いている?みたいな。
いやー、本当にみんな違ってね、みんないいねっていう。
空気になったんだよ。
エモいねー。
エモいでしょ。
いいエモ設定入りましたね。
エモエモ。で、なんかそれにちょっと感動してるわけよ、こっちは。
でも歌うまいしね、みたいな。
そうだね。
勝手に。
でも歌うまいしねじゃないんだよっていう。
それ、その空気をすごい覚えてて。
で、俺はそうなんだと思ってたんだよ。
繋がったんだよね。物語が繋がったわけ。
テレビに出ないってことと、歌がうまいってことと、背中がなんか出てるってことが。
なんかポップなってるっていう。
こんな綺麗に繋がったんだよな、たぶん。
社会からの視線
断片がね、まさにね。
しばらくして全然そんなことはないってことは気づくんだけど。
もちろん、皆さんもご存知だった方がいい。
別に全然そんなことないっていうね。
これなんだよな。
なんか気持ちよくなってんだよ、ちょっと。やっぱりこっちも。
断片をエモで繋いでも物語にして気持ちよくなるっていう。
でも、これをだからさ、悪質だよねっつって。
ミイちゃんをそういうふうに見る人は、いや、悪質だよねっつって言えればいいけどさ。
同じじゃん。やるじゃん、なんか。
苦労人なんだな、この人はみたいな。
乗り越えてきているっていう。
勝手だよな。
そして、そういうのを問いされるときもあるしな。
されてるんだよ、たぶん。めっちゃされてると思う。
そこの素語がやっぱり他人と話すときにやっぱりなんかずれてるなって感じることはやっぱあるもんね。
そうねー。
認識が。
そうなんよなー。
逆にでも全然こう、なんていうの。
こっちから、こっちもうちょっと大変なんですけどみたいなときもあったりするしさ。
あるね、そうそう。
どうしたってずれるじゃん、そんな。
ずれるねー。そうなんよなー。
これは本当になんか、そのイングリッドのことを考えるとやっぱそれをすごい思い出して。
これなんでやってんのかなっていうのも結構気になって。
監督にも聞いてみたんだけど、わからないと。
わからないと。
ただ、監督もその答えてたように、イングリッドはイングリッドで、
その社会の視線を内面化してる。
ように見えるっていう。
ように見えるって言ってたよね。
その発想は俺は最初映画見たときなくて、なるほどなーと思って。
お前が言うように単純に嫌なやつだなっていうふうにちょっと思ってたんだけど。
そこは何だと思う?お前は。
いや俺ね、でもいまいちそのなんていうのかな。
彼女はそんなに社会の視線を内面化…
てか、俺があんまり共感できないのかな、イングリッドに。
っていうことではあるんだけど、もちろんあれだよ。
教科書的にはっていうか、教科書なんかねえけど。
何の教科書?
いやだって彼女は売れない脚本家で、売れたいわけよね。
だから脚本家って名乗ってるけど、まだ一作も書いてない、あの段階ではね。
っていうので、初めてやる舞台もオフブロードへのちっちゃいところね。
冷房も聞いてねえようなところっていう。
そういう売れてないアーティストみたいな脚本家みたいなものに対してどういう目線が来るのかっていうのは、
なんとなく想像がつくし、それを内面化しちゃってて、
ひげもあるし、ものすごい必死になってるっていうのはある。
っていうのはなんとなく想像はできるよね。
でも嫌いだなって感じじゃないかな。
でもやっぱり嫌なやつではないと思うんだよな。
初めてエドワードに会ったとき、引っ越してくるじゃん、アパートに。
のときに、外で家具が入っていくのを見てるときに、
エドワードが階段から上がってきて、一瞬顔をパッて見るときに、やっぱびっくりした顔をすんだよね、イングリッドは。
顔に違和感を感じて、うっっていう顔をやっぱするんだけど、
その後、平然とどうぞみたいな感じになるんだけど、
エドワードが部屋に入っていった後に、めっちゃ落ち込んだ顔をしてるのよ、一瞬。
反省、やっちゃったっていう顔をしてるんだよな。
それを何回か見てたら気づいて、
やっちゃったかも。
で、それで多分心配になって、ちょっと悪いことしたかなと思って、様子を多分見に来るんだと思うんだよね。
確かに、あれ何の用事で来たねんっていう話やもんね、あれ確かに。
洗剤貸してみたいなことを最後言って、ありって帰るけど、それで来たんではないような気もするかも。
なさそうだよね。
でも、エドワードからしたら、すごい象徴的だなと思ったのが、部屋のドアを傷つけちゃうじゃん。
引っ越しの時のね、ソファーが当たったのが何なのかわかんない。
すごい傷がついてるな。
で、それを彼女は直してくれるのよ。
はいはいはい、そうね。
で、その前も手を切った手に包帯みたいなのが入ってるとか、その傷を癒してくれるっていうことを彼女はしてくれるんだよ。
だからエドワードは、この人なら自分の心もそうだし、顔がその人と違うっていうこと、顔にできた傷だよね。
それも癒してくれるかもしれないっていう思いで、どんどんどんどん好きになっていくのかなと思って。
あの、いつも受け身だったっていうか、基本受け身である、その後にエドワードの劇の表する時にオズワルドが、
彼はずっと受け身だけど、みたいな感じで、サラッと言うんじゃねえって感じでもあるけど。
そういう受け身だったエドワードが、タイプライター持って、
胃を消して、カンカンカンカンって訪ねていくっていう。
だから何か癒しを与えてくれる存在として見ているし、
実際に癒しを与えてもくれているわけだな。
でもちょっとだから、でもあれか、エドワードの中で物語が非大化してるのかな。
その人はもうなんか、
そうか。
キュアしてくれる人だみたいな。
物語の形成
聖母的な意味?
だって、ねえ、嫌な奴じゃんって。
会話にはなってないからな。
で、タイプライター持っていったら。
タイプライターはだから、俺が質問した内容と同じく、
やっぱ物語デバイスじゃん。物語を紡ぐデバイスだから。
で、やりかけてたんだよね。ちょっと打ってたね。
エドワードは顔を見せろとせがまれて見せたら、みんな怯えて顔を背けたみたいな。
自分なりに気持ちを整理するために書いたりとかするのかなと思いきや、
それあげちゃうっていう。
あげちゃうんだよ。
期待してあげちゃったらもう最後っていうふうに俺は思ったんだけど。
すごい象徴的な行為だよな。
自分で物語るんじゃなくて、人に預けちゃったから故に、
人が紡ぐ自分の物語に身を委ねちゃったように俺には見えて。
でも結局タイプライター使われないっていう。
イタリア製じゃなかったっけみたいな、忘れちゃったみたいな感じのさ、後々に。
あげるよとか言って、すげえ軽いものとして扱われるっていうね。
本当に、これ多分トリビアさんが最初に気づいたっていうか、
とこだし、もう完全に同意するところだよね。
この物語はタイプライターを渡しちゃったことの呪いだと思うよ、本当に。
タイプライターの呪い。
渡したことによって呪われたタイプライターになっちゃったみたいな。
むしろ、ごめん、どっちでもいいんだけど。
どっちでもいいよ。
物語を語る意義
俺の物語り方が下手っていう。
お前もタイプライター買ったほうがいいよ。
そうね。
持ってなきゃいけなかったものを手放してしまったっていう、
自分で自分の人生を物語っていくんだっていう、
ある意志でもあるし、行為の象徴なわけよね。
ちょっと書いてたわけだし、試し書きとか言ってたけど。
でもあれはすごい序盤で、
みんな顔を見せるとセガンで来たけど、見せたら怖がって顔を背けたっていう。
けどその経験があったからじゃんだって。
からのってやつか。
からのじゃん。
そこで終わっちゃったんだよね。
だからだよ。
これがなあ。
もうあの時点で負けは確定しているっていう。
この映画のエドワードにおける。
でも監督はそれは別に、
意図したメタファーみたいなものではなかったっていうのがめっちゃ痺れたよね。
すげえ。
映画すげえってなったよ、ほんとに。
もちろん監督の才能もすげえんだけど。
エイトエイティフォーもすごいし。
ハピネットさんもすごいし。
津田さんももちろんすごいし。
すごいね。
マジックだよね、多分これは。
監督も言ってたけど、もしそうなんだとしたら自分の心理。
無意識から。
無意識から来たものだって、多分その通りだと思うんだよね。
本当にその通りだ。
監督自身がやっぱりこの映画を作るっていうことが、
俺はある意味タイプライターを使うことなんだと思うんだよ。
監督自身がやっぱり自分が肛外裂っていうのを持って生まれて、
手術を何回もして今の顔になってるらしいんだけど、
やっぱりそれですごい、自分の顔に追い目があるのかな?
やっぱりそのコンプレックスがあって、
それによってすごい性格が形成されたみたいなことも言ってたけど。
肛外裂って一応説明しとくと、生まれるときに、
鼻の下の陣中というか、部分が割れて生まれてきてしまう人が結構な割合でいるんだよね。
結構いるよね。
先天的な病気というかなんていうんだろうな。
特徴的なものだけど、今は結構手術で全然、
昔は結構そのままの顔になったままの人いたっぽいけど、
今は割と普通に治すらしいよね。
芸人さんとかでもいるもんな。公表してるっていうか。
言われてみればそうかっていう感じの。
でもその病気をある種抱えて生まれてきた監督なのよね。
外見の違いっていうものに対して、
一個前の映画、チェーンド・フォー・ライフっていう、
日本ではちょっと未公開なんだけど、
それの中でもアダム・ピアソンっていうね、今回オーズワルド役で出てた人が出てたんだけど、
同じく、結構今回顔に変形がある人たちが何人も出てたけど、
その人たちも一個前の映画に出てたりとかして。
その映画を作ったときに、ヒットしなくてほぼ。
実際に顔に変形を持つ人たちを変形を持つ人としてキャスティングすることが、
作主的であるみたいな批判とかがあったらしいんだよね。
なるほど。
側しか見てねえなって感じなんだけど。
ポリコレ、君言ってるのは多分ポリコレだっていう。
逆に顔に変形を持たない人が特集メイクで、
顔に変形を持つ人を演じたら、
それはそれで顔に変形を持つ役者さんの仕事を奪ってるとか、
よく例えばゲイじゃない人がゲイ役を演じるのは良くないとか、
そういうハリトとか結構言われたりするけど、
それはそれで作主的である。
じゃあもうどうすりゃいいねん。
どない声優ねんっていうね。
どない声優ねんって監督が多分思って、
じゃあこの次の映画では、
本当は外見に対してコンプレックスを抱いてるって話は、
もう絶対撮らないって決めたらしいんだけどね。
一個前の映画があんまり上手くいかなかったっていう。
なるほど。
商業的にね。
なんだけど、でもやっぱり自分が描きたいのはこれなのに、
なんでそれを取り上げられないといけないんだろうっていう違和感が、
たぶんフツフツと湧いてきたらしいんだよね。
なるほど、なるほど。
だから今回の映画の中で言えば、
エドワード的立ち位置だね。
これ自分の話なのに、なんで自分が紡いじゃいけないのみたいな。
いやー、そうだね。
同じなんだよね。
今回は、じゃあハリウッドスターであるセバスチャン・スタンに特殊メイクで、
エドワード、顔の変形っていうのを施して映してもらうのと、
もともとそういう顔の変形を持つアダム・ピアソンを対決させようと思って、
この映画を作ったらしいの。
なるほどな。
どっちが勝つかっていうか。
対決させるっておもろいけどね。
そしたら文句ねえだろっていう。
どっちも出すからっていう。
それで見事ちゃんと評価されてよかったなって思うんだけど、
やっぱりそこで諦めずに自分の物語を自分で作ったっていうことが、
さっき言ったタイプライターで自分の話を紡いだわけよ。
アーロン。
アーロン・シャンプー・アーク監督。
監督は、にとってのタイプライター、およびタイプライターを打つっていうのは、
映画を作るっていうことで、彼はそれを手放さなかったとか。
手放さなかった彼が作った映画が、主人公がそれを手放す人。
このなんつったらいいやっていう。
さっき言ったみたいに監督は無意識から来るものだって言ったら、
そういうふうにしか、これまた俺も勝手に物語化してるのかもしれないが。
そうなんやけどね。エモい話ね。
してるのかなと思うんだけど。
もうちょい時間があったらこういう話を聞いてみたかったんだが。
そうとしか思えないし、それでこんなに面白い映画作ってるっていうことに、
すごい勇気づけられたなっていう。
個人的に。
顔を変える話じゃんこれって。
顔を変えないといけない時ってあるじゃん。
成形的な意味じゃなくて。
顔の変形と映画制作
成形的な意味じゃなくて。
ポッドキャスターとして売れていくためには、二重成形みたいな。
鼻を高くして。
死亡吸引みたいな。
そういうことじゃなくて、抽象的な意味での顔っていうか、性格だよね。
メタファーとしての顔。
つまり、パルスマッチュ、仮面的な。
どう見えるか、どう見せるかの方が合ってるのかな。
そういう意味での顔だよな。
自分が目指すものとか、キャリア、仕事とかでもそうだし。
創作でもいいんだけど。
何かをするためには、やっぱりその環境で成功するために顔を変えないといけないみたいな。
大内緒なのにみんな知ってると思うんだよね。
そうね。
こうあらないといけないみたいなやつ。
特に仕事とかだったらね、あるよな。
それはすごいみんな簡単に知ってるような人もいるし。
そう見えるっていうね。
イングリッドみたいにね、根っからそうなのかなっていう。
オズワルドとかもね、根っからそうなのかなみたいな。
根赤すぎん?みたいな。
どんだけ生まれつきなのかなみたいなね。
じゃあ、そんなにみんなが安々としてるんだったら、自分がそれを簡単にできないのって、やっぱ自分がおかしいのかなとか、自分が劣っているのかなとか。
思うよね。
俺の顔が悪いのかなっていう。
やっぱ性型かなっていう。
冗談じゃなくて、こういうふうになっていく人もいるからね。
顔が良くなればね、なんか全部それでいわけかもね。
ルッキーズムの内面化が、まさに内面と結びついちゃうみたいなのはあったりするが、
そういうのにとらわれなさそうなトリビアさんもそういうのに若干苦しむ時があるっていうことだよね。
なんか監督もこの脚本書いた時に参考になったというか、あるエピソードがあるつって、なんかのインタビューでも言ってたけど、
なんか女性の友達がいて、彼女はすごい、やっぱり陰キャドというか、うち気な性格をずっと持っていたけど、でも心優しい彼女が、
すごい友達としてすごい好きだなって思ったんだけど、
仕事の面ではやっぱりそれじゃ上に行けないみたいなことをずっと言われ続けて、それをずっと悩みにしてた人がいた話ね。
そうなんだって話を聞いてたけど、ある日久々になったら、
それを彼女は乗り越えて、職業の中で必要なグイグイね、いく、要するにイングリッド的な、いろんなものを断ち切れている人にすっかりなってしまっていて、
それはまあ彼女の中では目指した先だから良かったと思うと同時に、彼女の良い面も失われたのではないか、彼女の彼女らしさがなくなったのではないかって疑問を持ったって言ってて、
まあこれいっぱいあるよなと思って。
そうね、ある種の打ち気さはね、どう見られるか恐れているみたいなことでもあるのと同時に、やっぱ配慮だからな、端的に。
で、打ち気な人って、打ち気な人は打ち気な人の気持ちが分かるわけよね、やっぱりね。
自己理解と変化
だからこう、想像力が働くし、想像力は優しさだよね、そのまんまね。
ってなるんだけど、いやもうそういうの終わったんだよ、あたし、みたいな感じになっちゃったら、これでもよくあると思うんだよね。
なんか心理療法とかの本とか読んでても出てくるもん、やっぱり。
これは治ったと言えるのか、みたいな。
そういう疑問の問いの立て方があるよね。
すごい打ち気じゃなくなり、ある種健康になったんだが、神経症状態から脱して。
でもなんかすごい嫌なやつになったと、端的に。
のように見える、断片的に捉えちゃいけないんだけど、これは果たして、よかったんでしょうかっていうね。
本人的には楽になったのかなっていう。
物語家が完了したのかもしれないよね、自分はこれを乗り越えて変わったんだっていう。
本当の自分はこれなんだ、みたいなことになったのかもしれないけど。
そういう人って結構あれなんだよな。
この映画の中でもさ、出てきて面白かったのはさ、最終的にイングリッドとオズワルドがさ、スピーに行くじゃん。
そうね、だいぶスピリチュアル系統をしていきましたね。
スピーって結構物語家だなと俺は思ってる。
これは本当そうよね。
極知というか典型というか言下というかなんでもいいんだけど、本当そうだと思う。
スピリチュアリズムは、要するに答えが出るわけじゃん、なんかさ。
こういうことだったんだみたいな感じになるから。
わかったなっていう。
LSDとバックナッティ。
ヌーディストビーチだっていう。
なんでそれが全部繋がるんだよっていう。
しかも、やっぱり人からこうやって話してみると、やっぱりちょっとおかしいように聞こえるよね、みたいな感じになってて。
もうだからそんな。
抑え込んでるの?聞こえない?物語がね。
でももういいの?みたいな感じになってるわけだよね。
やっぱおかしいよな。でももういいの?みたいな。
この中ではもうそういうことだから、みたいな感じに。
それはそれでいいのかねっていう、この。
顔を捨てた男の葛藤
多分皮肉にもなってると思うんだけど、監督がどれくらい意識してるかどうかは別として。
そういうふうに葛藤があんだよな。
これでいいのか悪いのかっていうのをずっと考え続けてる、エドワード。
いやでもさ、これも顔を捨てた男であると同時に物語れなかった男であるし。
物語れなかった男。
自分の人生を物語れなかった男っていうことでもあるし。
タイプライターのことで言えば、に象徴されるように物語ることを放棄してしまった男でもある。無意識にね。放棄してしまったっていう。
どうすることもできない、せんない話みたいな感じにずっと思ってたんだけど。
でも何回か見てて、気づいたっていうか、いやこれはでもここはっていうふうに思ったのが、
こういうのはやっぱり聞かれなかった男なんだ。
聞かれなかった男。
後編へ続きます。
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