けどなんか隙間としてこうブツブツと切れてるけど、そこに連続性がないわけじゃないっていうのは、
なんか本作のすごくテーマとしてすごく大事なことだと思っているので。
家の話とか家族の話って、自分が知らない、生きてない世代のことも含めてそっから繋がってるよねっていう部分と、
あと家もその時からずっとあるよねみたいな話を、
今作の長いスパンの話として描いているように思うので、
なんかそういったところも含めて、うまいなと思ったところでありましたね。
それこそ多分そういう、グスタブが部屋の中に戻って一人である部屋に向かうってシーンがあって、
そこで窓越しでカメラがグスタブを追ってくってシーンあると思うんですけど、
暗転って窓と窓の隙間なんだなっていう。
この映画はフレームナイフレームがめちゃくちゃ多い映画だなと思うんですけど、
家の廊下から撮るとか窓の中から撮るとか窓の外側から窓の内側を撮るとかっていう、
なんかその映画というカメラ自体が一個の窓であるっていうような描き方をしてるからこそ、
やっぱり部分的である断片的にどうしてもなってしまうっていう形の描き方をしてる気がするんですよね。
だから本当に他人の家を外からちょこっと覗き見てる感じがする。
そうなんですよね。
そのなんか味わい深さって言ったらいいんですかね。言葉にするとすごいちっぽけな感じになりますけど、
なんかもうそれを見てるだけでなんかもう幸せだなというか、いい映画を見たなって。
なんかこういうの、お互いにもありましたけど、こういうのを見たくて映画見てるなっていう気持ちになりますよね。
だからなんて言うんですかね。
さっき山口さんがある種のフックというか引っかかりみたいな部分の話をされてたと思うんですけど、
この映画結構やっぱり観客側のと、
共感させないほど共感させないってわけじゃないんですけど、
しっかり距離がある描き方してるなって思って。
あくまで他人の家族の話ですよって感じがずっと見ててするんですよ。
だから私は最悪ですごいいいなって思ったの。
むしろそこの主人公の葛藤に自分が重ねられて、どんどんそこにグルーヴしていくというか、
っていう感じがなかなか自分は好きだったりするんですけど、
本作はむしろ逆ですごい距離がある。
全然別の家族の話をしてる。
でもだからこそ味わい深いものがあるというか、
そのアプローチもできるんだっていう面白さがちょっとあったような気がしていて。
その距離感だから、
じゃあ自分の家族を振り返ってみた時にどうだっけとも思えるなっていう。
ちょっと僕まだ自分の言葉出てきてないです。
あそこが入ると、家ってこうだよなって、家とはこれだよなみたいな感じが。
建物じゃないんですよね。建物の話をしてるんじゃなくて、記憶としての場の話だから、やっぱそこを言っとくだけで全然違うなと思ったんですよ。
そうですよね。なんか、劇中では家を人格のように例えるようなナレーションから始まりますけど、
ほんと実際言ってることって、家という場所に残ってる記憶の話だなぁというのは思っていて、やっぱその僕結構そういう記憶の話というか、場所が持ってる記憶の話ってすごい好きなんですよね。
例えばですけど、なんと僕好きなやつだと、ラストブラックマンインサンフランシスコとかもすごい好きだったりとか、
それも家を巡る話だったりもするし、そういう場所がこういつかはなくなってしまうかもしれないみたいな話とかって考えるならば、
私は光を握っているとか、そういう話だったりとかもすごい好きだったりとかっていうのを思い出し、
そもそもこういう記憶の話するのが多分、もしかしたらこの監督好きなのかってちょっと思ったりもする部分はあるんですけど、
そういうのにもちょっと刺さってるなっていう今回っていうのはありますね。
僕は、ゴーストストーリーを思い出してました。
僕もそれを思い出しましたね。
確かに。あれもいいですね。
あれはもうその場の記憶そのものをゴーストっていう擬人化してる話だったから。
そうですね。
ただまぁそこまで分かりやすくもしてないんですよね、本作。
そうですね。
そこがこうクールやなって思いましたね。
そうなんですよね。そこを擬人化して描いて、そういう作品もあるからってことなのかもしれないんですけど、
その視点から家族を見るみたいなその感じもするんですよね。
むしろ主観が家であるというか。
でなんかちょっと話が若干ずれるんですけど、
今年の芥川賞って叫びと時の家っていう2作品が撮ったじゃないですか、日本の。
めちゃくちゃこの映画とすごい共鳴してるなって勝手に思ってて。
時の家っていう作品に関しては本当にまさに一見の家の話ですし、
僕は叫びしかまだ読めてないんですけど、叫びに関しては大阪のとある土地に根付いてしまった記憶の話なんですよ。
その記憶にある男がある種乗っ取られていくというか、開着されていく話なんですよね。
自分の人生よりも歴史という大きなものに飲まれていく話というか。
ある種それを記憶に飲まれていく話だというふうに捉えることができるんですけど、めちゃくちゃセンチメンタルバージョンと似てるテーマじゃんって思って。
なんかこの家というか場にある、あるいは家族に流れる記憶、そういう名の遺伝子と言えばいいのかなみたいなものを引き継ぐ人たちの話っていうのは、
で、なんかそういう繊細な人たちだからこそできる書業なのかなっていうふうに見えちゃうところあると思うんですよね。
けどなんかやっぱそこで妹、彼女は多分歴史家ですよね、どっちかっていうか。
歴史学者みたいな職業多分追加えてる方なんで、そういうちょっともうちょっと歴史ベースの話として、
じゃあそういう痛みというか、ものをどう見つめていくのかっていう視点が入ってくるのも、これちょっとすごいなとも思うし。
で、なんかそうしたこう痛み、まあその俯瞰で捉えたものがすごく個人的なものだったりするときとのギャップみたいなのもすごく描かれてたりとかして。
旦那さんの方はまあそんなにそうだねえぐらいな感じで、としか受け止めてもらえなかったみたいな話あったと思うんですけど、さらっと語られてることの中で。
でもやっぱそれって距離感ってそういうものだと思うんですよね。
多分僕もそんな風に言っちゃうだろうなって思うし、なんというかその痛みに対して距離感って人それぞれだよねって話は特にリアルペインみたいな話だなともちょっと思ったんですけど、そういう。
なのでなんかそこまで入れられるのか、この一本の映画にってちょっと思うんですよね。
一個一個の要素の圧が強くないからいろんなもの入ってるなとは思います。
それらが有機的にシームレスにつながってるなって思うし、個人的なことは政治的なことだったり、今のことは歴史のことだったりっていうことを普通にやってるなって思うんですよ。
だってそうなんだもんっていうことを。
だってそうでしょっていうことをやってるなって思うんですよね。
なんかね、その複雑さをさらっと入れ込めるのがなんかすごいんだよなと思うんですよね。
私は最悪のときもそういう複雑なとこやるじゃんみたいなの結構さらっと入れてたりするじゃないですか。
はいはいはいはい。
環境問題にめっちゃ意識ある彼女とそうでもない彼氏みたいなとか。
ああいうのの対比構造とかすごい今っぽいし複雑だねって思うし、
なんかそういうのさらっと入れてそれが有機的に絡まっていく感じとか本当に素晴らしいなって思いますよね。
そうですよね。
いわゆる1回目だけだとなかなかその要素を全部拾いきれないっていう。
そうです。
今急速に再構築していってますもん。
思い出して初めて成り立つ映画だなって思ってるんですよ本当に。
そうなんだよな。これもだから記憶の映画なのかって思うんですよね。
今記憶を引っ張り出してからにこの映画の話してるからすっごい。
はい、次のお題に行きましょうか。はい、ではマリオさんお願いします。
はい、コルメナさんからいただいてます。
劇中劇の大長回し、あれだけでグズタフが映画作家としていかに優れているか如実にわかります。
で、もうだけに入園した人でさえ人こそ救われてほしいみたいな、
どこがそういう願望があるんだろうなという感じがするというか。
いいもの作ってるんだからいい人生を歩んでほしいというか、
なんだろうな、あるいはそこのもっと奥底にある、
頑張って仕事をするということを認めてほしいっていう全員の願望なのかもしれないですけど薄れある。
ライフワークバランスとか言わずに。
それ何かわかりますね。
国宝がヒットしたのは僕、
そういう世の中の急に対するカウンターの側面ちょっとあるかなって気もしてて。
だから芸術家が悪しきものだった時にそれをキャンセルするのかっていうのは、
いやキャンセルするかどうかとは別に、
これはいいものでしょっていうものを許したいみたいなのが、
世の中にあるような気はするんですよ。
それは僕、その意見はわかるっちゃわかるんですよね。
でも僕、その芸術と人格を切り離すんだとしたら、
人格の側が許されるのは反則やぞと思うんですよね、それは。
芸術だけが認められて、
でも人格だけは否定され続けるよと思うから、
人格の側に許しが入ってきたら、
今、疑問スイッチ入ったぞって僕言いたくなっちゃうんで。
ちゃんと地獄に落ちろって思うんですよ。
それは本当に国宝の甘っとるところですけどもっていう感じですけど。
法則はそこまでは行き切ってないところはあるというか。
そうですね。
人格まで多分認められて、
最後に看護師さんに甘い言葉をかけようとしているおじいちゃんを見て、
自分の父親を見て、本当に呆れかえった2人の表情が映るわけじゃないですか。
この親父はっていう。
やれやれってね。
そうそうそう。
だから何というか、120%で許してるわけではないが、
でもまあ、これが父親かって諦め、いい意味での諦めでもあるというか。
僕それに対する捉え方、ニュアンスの違いなんですけど、
昔父親だった他人っていう割り切りをちゃんとやれたっていう感覚かなって思うんですよ。
昔父親だった他人がまたスケベなことしてますね、タハハみたいな感じで、
なんか姉妹があったり、やれやれみたいな感じでなってるので、
もう他人ですからねっていう。
ただもう他人だから、一回父親っていう鎖を外したら、
その範疇で昔の知り合いなんで、よし何やりますみたいな温度感には見えて。
なるほど。
ラストも映画に出るじゃないですか、ノーラ。
グスタブの映画出るじゃないですか。
で、そのグスタブの父親としての良くなさと、
映画人としての才能があるところっていうものを切り分けたっていうことは、
そうですね。
いや、あのそうしたらね、売れますっていうのはわかりますけど、
本人の意思とかその辺がむしやないかいみたいなのはね、
まあ本当思いますよそれは。
いや、あれね、あの小学生の子供にギャスパーノイとかミハイルハネキのDVDプレゼントの持ってきてるじゃないですか。
なにこいつと思って。
あれね。
そういうとこなんだよな、あの人な。
何やってんだよって思いましたよ、あれはね。
本当に。
あの、アイライクムービーズのあいつかよって思いましたけど、
それはちょっと思いました。
けど、まああれやれやれって思ってるんですけど、
ノーラはちょっとだけなんかその、なんていうんすかね、
高度な変なギャグセンスちょっと笑ってる節があるから、
なんか似てんなこいつらって思っとるっていう。
そうなんすよ、あの二人似てるんですよ。
似てますよね。
そう、アレックス渡してくるギャグセンを笑えるやつってどういう感じっていう。
僕たぶんギャグとして渡してないからされるけどな、あの人。
ギャグじゃないんだよな、そうそうそう、ギャグではないですね。
真正面からたぶん天然のボケなんだよね、あの人な。
本当にあの、映画を信じてる人だなーってことだと思うんですよ。
信仰しすぎなところがありますからね、あの人はね。
立派なんですけど、でももう映画って今もう娯楽の一番手じゃないからねっていう、
時代でじゃあ映画ってどうなんでしょうねっていうのをやり直してる映画でもあるから、
それでもちょっと映画の力を信じてみるっていうのもだし、
そこに関わってくるのって本当にやっぱりすごくパーソナルな物語とか考えてることっていうのを表現する場として、
映画って今でもその力を発揮できるんじゃないかっていうのをやっぱ信じてるようなところはすごくあるのかなっていうのは思いますけどね。
ちょっと僕さっき他人っていうことはわざと強い言葉使ったんですけど、
他者ですよね、だから。
親が他者であるっていうことをようやく飲み込めたっていう、
それの飲み込む媒介として芸術が使われてたと思うんですよ。
自分の父親との関係性っていうものを一旦映画というものに落とし込んで、
それによって実際の自分の父親との関係性を一回生産して、
父ではなく他者として再解釈することができたっていうふうな着地なのかなっていうぐらいなのかなって気はしますかね。
グスタム側がグスタム側でノーランモデルに作品作ってる間どういう気持ちだったんだろうなと思いましたけど。
僕その後エルファニングに話持っていくのこいつさってマジで思って。
こいつさってほんまにどういう神経してんの。
いや俺いい映画撮りたいだけですけどみたいな小学生みたいな言い訳すんなよと思ったよ。
レイチェルなー。
あれね、髪の色まで染めさせられて。
あれ悲しいな。
髪の色ちょっとね、引きますよね。
いや役だとはいえ、なんかどんどん自分を襲われていくっていうあの感じのかわいそうさというか、そこがある意味グスタフの有害性でもあるんですが。
しかも別にそれをハラスメントっぽく言うんじゃなくて、だんだん淡々とそっちに向けていくっていう。
そうですね。
いやーあれは辛かったろうなーと思って。
でまた彼女めっちゃ大人じゃないですか、やっぱりなんか。
そうそう。
これは本当に私じゃない、あなたたち私がやる役じゃないと思うっていうスパッと切れるみたいな。
本当になんか彼女がいい人だから、それ相応のすごく素晴らしい感受性があるから、なんか丸く収まってるという感じもあるんですが。
本当に?本当にそう。
けどなんかそういう、この人もなんというかその感受性の高さというか、その人間力すごいな感は、パストライブスの時のあのいまかれにも通ずるすごさがあるなと思っておりますねっていう。
ちょっと毛色は違うがっていう、そう。できた人ですよ本当に。
いやもう、そのできた人に対してそれこそ一番最初のあの、というかここで母が自殺したって椅子の下りとか本当グストップ思いしたって思いましたけど。
IKEAの椅子かーいってなりましたもんね。
あそこ本当ブラックだなっていうか、まあそういう人だからなっていうのもあったんですけどね、もともとね。
いやー昔の芸術家ですよね、そういうことするの。
本当。
本当ね。
だから本当なんかエルファニングめちゃくちゃ上手いなと思いますけど、そのある種不憫な役というか。
そうだしね、まあ本当でも彼女レイジェルという役というか、まあ本当に外から見たらこう売れっ子のなんか、スターですねみたいな風に思われてそうな人なんだろうけど実はそうじゃないよっていう部分の、
こうやっぱり複雑さみたいなのをやっぱりしっかりあるキャラクターになってて、なんかねそこもね素晴らしかったんだよなあっていうのを思いましたよね。
現実にエルファニングコーチとかのねブランドイメージしてますからね。
だからあの途中エレベーターで彼女がめちゃくちゃ映るシーン現実かなって思いましたね。
実際じゃね、実際にありますもんねあんな感じのって思いますよね。
そうそうそう。街の中エルファニングいるからな普通にっていう。
いるいる。
あの辺でリアリティレインがちょっと分かんなくなってくるね。
だし普通にしれっとネットフリックスとかより普通に出てくるのとかもさ、結構ちょっといいんやって思いますけどね。
そうですよね。
ちょっとびっくりしちゃいますけど。
いやあの、最近ネットフリックスを映画が普通に引用するようになってきた感覚はあって、
特にまあ本作みたいなある程度文芸志向のある作品もネットフリックスっていう存在を無視しなくなってきてる。
できなくなっているとも言えるし、しないようにしているとも言えると思うんですけど、
入れ込んできてるじゃないですか。状況。
映画は今こういう状況にあるっていうものを描いてきてるっていうのは、
結構この、ちゃんとしようとしてるなって思うんですよ。現状を理解して。
今自分たちはどういう立場に置かれて映画を作ってるかって分かってやってるっていうのはいいなと思いつつ、
このタイプの映画ネットフリックス拾うんかっていうのをちょっとすげー思ってたんですけど。
でも拾う気がしますよこのタイプの映画。
あ、そうか。そうか、そうか。
てかむしろ今ネットフリックスってこういう、スター俳優使うかどうかはさておきとして、
いわゆるその大御所監督に好きなように撮っていいよってやりがちじゃないですかむしろ。
あ、そうですね。そうか。そうですね。
まあそうですね。
それこそね、ジェインカンペオのパワーオブザドッグとか。
はいはいはい。
ありますしね。そういう、まあローマとかでもいいですと思いますけど。
ローマとかでもいいです。だからそういう類のね、あの企画だったんだろうなこれちょっと思いました。
あ、まあつまりあの、ヴィクトルエリスにネットフリックスで作品撮らせるってことですよね。
そうそうそうそう。つまりはそういうこと。
確かにしそう。ネットフリックスやりそう。それ。
エルファニング主演にしてね。
ああ、やりそうやりそう。めちゃくちゃやりそう。
やりそう。
めっちゃラットックありましたよ。だから見てて。
本当だ。
そうなんだよな。
それでオスカー狙いに行くっていう。
うわあ、絶対やるわ。
だから本当にリアリティラインがわかんなくなるんですよね。フィクションなのかどっちなんだっけっていう。
すごいですね。なんか境界線ぐちゃぐちゃになりますね。
そうそうそうそう。
はい、すいません。ちょっと時間があるなのでこんなところでセンチメンタルバリューの話はおっとこうかなと思います。
はい、ではお知らせになります。映画の話したすぎるバー、次回開催日は決まり次第お知らせいたします。
場所大阪南森町週刊曲がり19時オープン23時クローズです。
そして5月9日土曜日に東京で映画の話したすぎるバーを開催します。
場所はイベントバーエデンにっぽり18時オープン23時クローズです。
また5月10日日曜日に開催されるポッドキャストウィークエンド2026にて映画の話したすぎるラジオのジンを発売しますのでそちらも合わせて遊びに来てください。
またこの番組ではお便りを募集しております。番組全体やトークテーマ作品に向けてご自由にお送りくださいませ。
次回テーマはXO及びインスタグラムにて告知しております。各ご案内は番組説明文をご確認くださいませ。