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フォーニッツ オヤマ レイディオ、オヤマです。
いつも東方のレイディオをお聴きいただきまして、ありがとうございます。
今回はですね、3月11日ということで、3.11、こちらでね、私がちょっと思い出すことということでね、お話ししたいと思います。
今回はね、あまり不動産のお話とか、そういうところではちょっとありませんけど、
今日はね、3月11日ということで、東日本大震災からね、11年ということになりますよね。
その時のお話をね、今回はしたいと思っております。
最近ではね、ロシアがウクライナの方に進行してということでね、非常にちょっと、
ニュースの映像とか見るとちょっと心痛い部分もあるんですけど、
今日はね、3月11日ということで、11年前にはね、ありますけれども、東日本大震災がね、ありましたよね。
その時のね、ことをちょっとね、ふと思い出しましたので、お話しさせていただきます。
3月のね、11日ということで、午後ね、2011年ですね、東日本大震災がありましたよね。
その当時私はね、何をやってたかと言いますと、まだその時はですね、現役の勤め人で、ゼネコンの方にね、勤めておりました。
その当時はですね、改修工事にね、当たってましたね。
神奈川のね、防止の結構大きい工場でですね、乳製品とか扱っている非常にね、超一流の企業の工場の方でね、
改修工事をね、ずっと1年ぐらい継続的にね、やっておりました。
震災がね、起こった時は、工事現場の方を巡回している中で、突然ね、揺れが起きて、
ふっとね、横を見たら、工場の大きな縦どりがね、外れてガタッと倒れてきたりとか、
非常にね、道路も、道路というか、工場内のね、工内の道路ですね、アスファルトの部分も非常にひび割れとか、
隆起したり陥没したりとか、そういうのも多々あって、非常に大変な状況でしたね。
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その当時ですね、その乳製品を扱っている工場でしたので、計画停電とかそういうのがね、ありましたよね。
その工場はですね、一般の住宅とは違って別ルートでね、電源を確保してたんですけど、それでもね、電力の方が計画停電になるということで、
当時ね、工場のほうで作られていたヨーグルトとかそういった乳製品ですよね、そういうものは全部ね、工場のほうから廃棄されてましたよね。
ということでね、工場のほうもしばらく生産が止まったりとか、そういうことがね、ありましたね。
私たちね、その工場のほうに常駐している建設業者というのは、工事を進めたりとか、計画停電によって電気が止まってしまうということで、
近くの技術屋さんの数をたくさん当たりまして、発電機とかをね、確保するということをまずはしたんですね。
ところがですね、もう福島ですよね、福島の震災のほうの工事でですね、全部発電機がですね、その界隈の一帯の技術屋さんから全部そちらのほうに行ってましたね。
加設事務所とかもね、私たち建設業のね、ゼネコンとかでは仮の事務所ということでね、現場のほうで使ったりしますけど、全部で払ってましたね。
発電機とか、クレーンとか重機もね、全部そちらのほうに行ってたような記憶がありますよね。
そういうことを非常にね、ありました。
で、その当時ですね、私のね、まだ息子が本当に幼稚園生、多分3歳ぐらいだったんですね。
今、中3の息子が、次男がですね、3歳ぐらいだったと思うんですね。
家でね、テレビでニュースでその震災のニュースを見てましたら、大きなタンカーがね、座礁するような映像とかですね。
あとは津波がね、どんどん丘のほうに向かって陸のほうにね、押し寄せてくる映像を見て。
しばらく経ってもね、その次男については、どこかね、車で家族で出かけたとしても、パパここ津波来るとかつって毎回のように聞くんですよね。
それが非常に脳裏の中に残ってますね。
それぐらい、3歳の子供でもインパクトの強い出来事だったということになるかと思うんですけどね。
ということがね、ちょっとありましたね。
それからね、震災があって、私3ヶ月ぐらい経ってね、福島第一原発のほうでね、放射能の件があって、
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私もね、2週間ばかり第一原発の復旧工事のほうに携わったんですね。
全身タイベックスーツを着て、放射能の線量計というのをつけまして、実質何時間ですかね、2時間か3時間ぐらいしか1日できないんですね。
ちゃんと線量計というのをつけてますので、その1日でね、作業できる時間というのは決まってて、
それをオーバーするとね、線量がブブーという形でね、警報というかそういうのが鳴ってしまうということで、
1日2時間か3時間で、2時間3時間だとね、復旧工事にあたっててもできることというのが非常に少ないんですけども、
その当時ね、福島第一原発のほうに1日の作業を従事しているのは、どれぐらいいましたかね、数千人いたと思うんですよね。
ちょっと私も記憶が定かではないですけど。
旅館とかですね、近くの周辺の都市の旅館とかホテルもね、目いっぱいだったような記憶がありますよね。
第一原発でね、私が作業に従事してたわけですけど、やっぱり一番最初にね、第一原発に行った時には、
やっぱり1号機と3号機の屋根が飛んで解体しているニュースの映像がね、目の当たりにあるわけですよね。
やっぱり非常に大きな衝撃を受けましたし、というのがありましたよね。
あと、第一原発に向かう間、Jビレッジというところを起点にね、災害復旧の工事の業者さんはそこからね、第一原発に向かうんですけど、
Jビレッジから第一原発に向かう間っていうのが、それまで普通に人が生活されていたのがですね、急にゴーストタウン化しているわけですね。
当然、避難勧告とかそういうので出ていますので、そこに残されたね、いわゆる家畜ですね、牛とか、そういうのが野放しの状態で、
なんていうんですかね、空き地を歩いていたりとか、コンビニとかもついこの間までね、人が出入りしていたとか、
そういうような、本当に普通に生活している環境なんだけども、人が一人一人いないというような状況でですね、
非常に何かこう、ここに住まれている方がね、今どうされているのかなということを、非常に気になって気になって仕方がなかったですね。
ここにお住まいの方たちは避難されて、どういう生活を送られているのかなとか、
そういう部分がね、非常に工事に向かう途中に見ててですね、そういうふうなことを感じたのを今でもよく覚えていますね。
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第一原発はね、そういうことだったんですけど、私ね、仙台にうちの息子がね、お世話になっているサッカーでお世話になったコーチの方が独立して、
クラブをやられてまして、その方のところに何度かその後もお会いしに行ったんですけど、仙台の荒浜地区というところでね、やはりやっぱり津波の影響を受けたところで、
やっぱりその震災の影響のね、慰霊碑みたいなのが建ってたりして、その後ね、陸前高田とかもちょっと足伸ばして行ってみると、
全部ね、昔の古い家は流されて、新しくね、町が作られている様子とか、何年か後にね、見たんですけど、非常にね、何とも言えない気持ちになったのを思い出しますよね。
そんな感じでね、東日本大震災については、私もね、実際にその第一原発とかで作業従事したりとかっていうのもあったので、非常に思い入れというか、強いね、何かそういうのがあるんですけど、
それからね、11年経ったんだなということで、本当にね、あっという間だよなということをね、非常に感じますよね。
私ね、学生時代に阪神大震災もね、ちょっと経験しているので、日本中でどこ行ってもこういうことっていうのは、いつ何時に起こるかわからないという気もいたしますし、
下手したらね、自分もそこで命を失ってたかもしれないなということをね、強く感じている部分がね、ありますよね。
そういったね、大きな世の中でね、今は戦争とか、そういったね、私の経験した震災とか、そういうのもありますけれども、
やっぱり一日一日ね、大事にね、生きていかなきゃいけないなということをね、3.11を迎えて、やっぱりね、新たにやっぱりちょっと思ったりしますよね。
ということで、今日はね、本当に不動産のお話ではありませんけれども、3.11ということで、そこについてね、私がちょっとね、その当時感じていたことですとか、そういった部分についてね、お話しさせていただきました。
いつもですね、東方のレイディをお聞きいただきましてありがとうございます。それでは今回はこちらで失礼します。ありがとうございました。