「”トヨタ”の源流! 発明王・豊田佐吉のヤバすぎる執念」 第1回:貧しい大工の息子が発明王へ! 佐吉、覚醒前夜
「世界のトヨタ」の始まり、発明王・豊田佐吉の人生を追う新シリーズ開始!第1回は、幕末に生まれた貧しい佐吉が、『西国立志編』との出会いや時代背景の中で「発明」に目覚めていく前夜を解説します。
今週から試験的に産業史に名前を残す人物を取り上げて解説する回を週1-2回挟んでいく試みをしていきます。
豊田佐吉の成果物を動体展示で見れる場所
サマリー
ポッドキャストでは、豊田佐吉の発明に至る背景と彼が育った暗黒の時代について述べられています。彼の出自や家庭環境が、後の発明家としての人生にどう影響を与えたかが考察されています。トヨタ佐吉の発明家としての道筋は、幼少期の経験や特許制度の創設を通じて描かれています。彼は外国製の先進的な旗織り機に衝撃を受け、日本の生産性向上に貢献することを決意します。最終的に、彼は木製の自動食器を発明し、業界に革命をもたらしました。豊田佐吉は、漆黒の時代において独自の発明精神を持ち、初めて特許を取得することで正式な発明家の道を歩み始めます。彼の人生は、発明家としての挑戦と成長を象徴する重要な瞬間として位置付けられています。
豊田佐吉の紹介
明日のファクトリーオートメーションへようこそ。 メインパーソナリティの高橋です。
というわけで、今回から少し新シリーズを始めていきたいと思っています。
それは何かというと、我々ファクトリーオートメーション、 工場自動化のポッドキャストを取っているので、
工場自動化に関する歴史上の新物ですね。
それはもう少し、工場寄り、産業寄りで活躍した人。 これを紹介するということをやってみたいなというふうに思ったんですよ。
クリスさんと2人でやってもいいんですけど、 今回クリスさんが海外旅行に行ってお休みということで、
高橋が1人でちょっと1回やってみようかなということで、 今からやっていきたいと思います。
めっちゃ鳴る。
というわけで、まずはじめに一番最初のファースト紹介位置。
私は愛知県に住んでいて、その中で生徒業として働いてるんですけど、
東海県、三重、愛知、岐阜、静岡。 この辺りから最初1人選びたいなと思って、
その中で僕、好きな偉人というか好きな人がいるんですよ。 その人の話をちょっと一旦したいなというふうに思います。
それは誰かというと、皆さんご存知だと思うんですけど、 東海の発明王、豊田佐吉っていう方がいます。
この方は何なのかっていうと、今のトヨタ自動車ですね。
日本でいうと一番時価総額の高い会社っていうのは 豊田自動車っていう会社なんですけど、その会社の源流です。
この会社は豊田自動車っていうのを創業したのは 実質的には豊田喜一郎という方なんですけど、その人のお父さんですね。
この人のお父さんがすごく発明王に非常に近い、 すごく日本の産業に貢献をして、
その貢献をしたベースを持って 豊田自動車が始まったというですね。
豊田自動車を話すときにこの豊田佐吉という方は 切ってきれない関係になります。
この方を今から第4回ぐらいに分けて 皆さんにも紹介できたらなというふうに思っているので、
しばし皆さんお付き合いください。よろしくお願いします。
今回のポッドキャストシリーズのタイトルとしては、
この周年ヤバすぎる!発明王豊田佐吉と 世界の豊田誕生日は?ということで、
これから4回にわたって始めていきたいと思います。
佐吉の発明の背景
まずはじめに第1回なんですけど、
暗黒の時代に灯った発明の日、佐吉覚醒前夜と。
これチャットGTPにつけてもらったんですけど、4回のタイトル。
第1回は佐吉が発明人生に歩む中でどのような バックグラウンドを持っていたかということを話していきたいと思います。
僕もこの人物を取り上げたいなと思ってたんですよ、 豊田佐吉さんね。
豊田自動車って思い浮かべると普通は自動車なんですよ、 豊田って聞いたら。
世界中で今、豊田車が走り回っている現状ですけど。
そこの豊田の源流となった始まりの男っていうのが 豊田佐吉なんです。
先ほども言ったんですけど、 豊田佐吉さんが最初に作ったものは自動車じゃないんです。
全然違うものなんですよね。想像もつかないもの。
これがまずやっぱりめちゃめちゃ面白いポイントなんだろうなって。
今回のこのシリーズではこの豊田佐吉という人物が一体どんな時代に生まれて、 どんな常識破れの修練で道を切り開いて、
その後どうやって豊田自動車というものの礎を築いていったのか。
これは結構壮絶で、この人生ドラマに今から皆さん一緒にどっぷり使っていきましょうという回になります。
全4回計画してますので、皆さんの知的好奇心を便利に刺激をしていけるようにしたいと思いますので、どうぞよろしくお願いします。
第1回目の今日なんですけど、この豊田佐吉さんがまだ何者でもなかった時代。
どうやって発明という自分の道を見つけて、その才能の返りを見せ始めるのかと。
これを覚醒前夜と私名付けたんですけど、この豊田佐吉さんの原点を一緒に探っていけたらなというふうに思います。
佐吉の少年時代
まず、この豊田佐吉さんが生まれた時代背景、これまたとんでもない時代なんですよ。
1867年、これ慶応3年なんです。
慶応です、慶応。年号の慶応ですよ。
日本史が好きな方っていうことをやっぱりピンとくると思うんですけど、これは幕末なんですよね。
これ大正法下の年です。
江戸幕府が倒れて明治っていう新しい時代が今まさに始まろうとしている時。
日本史史上で多分一番動乱期だと思います。
変革期ですね。
この古い価値観がガラガラ崩れて、これから新しい国をどうやって作っていくかと。
日本中が大騒ぎしていた、そんな時代でございます。
やっぱり想像してみてほしいんですよ。
これ大正法下の時なんで、まだ侍が刀さして歩いてるんですよね。
その一方で、ペリーの黒船を始めつつる、西洋から新しい技術、考え方っていうのが、ここから怒涛のように流れ込んでくるんですよね。
すごいカオスな時代。
価値観がぐちゃぐちゃで、そんな欲も悪くもエネルギーに満ち溢れたこの時代に、豊田幸知っていうのは勢を受けるわけです。
生まれた場所は、今の静岡県小西市という場所です。
当時は、遠御国、遠江って書いて、遠御の国かな。
いわゆる浜中があるところ、ほとりのところですね。
これも江戸時代ですから、江戸や京都ですね。
ここから見れば、当時はかなり田舎だったところ。
かなりというか、ものすごい田舎だったところですね。
ここに、お父さん豊田幸知さんと母Aさんの長男として生まれます。
旧歴だと2月14日バレンタインデーですね。
当時は当然そんなもんないんですけど。
今の暦だと3月19日、豊田幸知さんは静岡県に生まれたと。
このご両親が幸知さんに人生に大きな影響を与えるんですけど、
お父さんの一産っていうのは農業をやりながら大工さんをしてたんですね。
大工としてかなり腕が良かったみたいです。
すごい職人気質で、厳格な人だったって言われてます。
幸知さんもこのお父さんの下で大工の修行をするんですが、
ここで幸知さんが物を作るっていうDNA、
これは間違いなくお父さんの一産から受け継いでると思います。
幸知さんはこの後発明をいっぱいして夢中になっちゃって、
大工の関係をそっちだけにするんですけど、
最初は百姓も大工の仕事も決め合い事をしなくて、
わけのわからん機械いじりばっかりしやがって、かなり怒ってたらしいです。
ただ親心として当然ですよね。
その後人生を積み重ねていかないといけないのに、
手に職がなかったら困るわけですから。
安定した仕事をしてほしいって思うのは、
どこのご両親も思うこと。
でも最終的には幸知さんの熱意を認めて応援するようになります。
この辺の親子の葛藤とかもいろいろドラマがあったんだろうなと。
お母さんのAさんという方がいらっしゃるんですけど、
このお母さんの存在っていうのが、
豊田佐吉っていう発明家人生においてめちゃくちゃ重要になってくるんです。
このAさん、白須賀宿っていう東海道が江戸から京都に向かって走ってると思うんですけど、
東海道の宿場町ですね。
ここの有力者の娘さんだったそうです。
当時の農村っていうのは、女性も当然みんな働いてます。
農業したりだとか、家事したり。
この時、副業として旗織りをするっていうのが一般的でした、当時の農村では。
旗織りっていうのは布織ることですね。
糸から布を作る。
皆さん、鶴の恩返しとか思い浮かべてほしいんですけど、
鶴の恩返しは旗織り機を使って、鶴が自分の羽を使って綺麗な布を織ってたと。
この布ですね。
これは古い童話に出てくるぐらい当たり前のことだったんですよ。
さき少年っていうのは、幼い頃からお母さんや近所の女性たちが夜なべ仕事で、
ギッタンバッコン、ギッタンバッコンって旗織り機に向かって、当時は手動ですよ。
手動の旗織り機で大変そうに布を織ってる姿をずっと見て育ったわけです。
これがやっぱり彼の原体験になったんだと思いますね。
お母さん毎日毎日あんな大変な思いをして旗織りをしてる。何とかならんもんかって。
この身近な人の不便や苦労っていうのを目の当たりにして、
それをやっぱり解決したいっていう思いが、
これいろんな教科書とかいろんなものに載ってるんですけど、
彼の後の豊田さきちさんの発明の大きなモチベーションになっていくんです。
これがやっぱりめちゃめちゃ大事なポイントなんで、一旦皆さん覚えておいてください。
技術的な好奇心だけじゃなくて、人間的な純粋な切実な動機っていうのが彼の根っこにはあったと。
さきさん、長男なんで5兄弟がいます。
下に弟が2人。平吉さんと佐助さんですね。
それから妹さんが1人いらっしゃいました。
この2人の男と平吉さん、佐吉さんっていうのは、後に佐吉さんと事業を一緒に立ち上げて、
拡大していく中で欠かせない右腕、左腕としてめちゃめちゃ重要な役割を果たすことになります。
豊田グループの発展っていうのは、他の企業を見ても、
こういう兄弟とか家族でされてる部分っていうのは結構大きいんですよ。
だいたいファミリービジネスです。愛知県のビジネス。
この時代だからっていうのもありますけどね。
家業としてやると。家っていう概念ですね。
さて、この少年時代の佐吉。
じゃあ教育はどうだったんですかって話ですけど、
まずはここでまだやっぱりKOっぽいワードができます。
お寺の寺小屋に通って、この読み書きソロ版の基礎を学びます。
その後、新しくできた小学校に入学して、1878年11歳の時に小学校を卒業するんですけど、
当時の義務教育って小学校行って大体おしまいぐらいの感じで、
その後中学校、ここ大学っていうのは一部の本当にエリートですね。
だけが行く。
佐吉さんも別に田舎ので、別にものすごく裕福な家庭に生まれてるわけでもないので、
小学校出たらすぐにお父さんの下で大工修行を始めることになります。
そうなんだ、じゃあ学歴ないんだって思う人はいるかもしれないですけど、
確かに佐吉さん、いわゆる学歴エリートではないです。
でも佐吉さんのところはここからなんですよ。
彼は正義に教育を受けられる機会っていうのは非常に限られてたんだけど、
知識に対する活望を学びたいっていうか、もう半端じゃなかったんです。
これがどういうエピソードに現れてるかっていうと、
1886年、19歳の頃ですね、佐吉少年。
地元の若者たちを集めて、山口野学会っていう自主的な勉強会を主体してるんです。
夜、大工と農業をやってるんで、仕事が終わった後に集まって、
みんなで本を読んだり議論したり。
福沢幸知の時代の敵塾みたいな感じですよね。
すごいですよね。
別に意識の高い人たちがめちゃめちゃ集まった村とかいうわけでもないのに、
そこでリーダーシップを取って、この頃から19歳ですよ。
周りを巻き込んで、ただ者じゃない変人っていうのをここからもバンバン見せてるわけですね。
ここで佐吉さんにはこの時期、ものすごく人生に決定的な影響を与える一冊の本に出会ってます。
これがサムエル・スマイルズさんっていう欧州の人の書籍なんですけど、
これは西国理史編。
西の国で立つ志の編っていう本ですね。
これは役所なんですけど。
佐吉の読書と影響
これ当時の日本でとんでもないベストセラーになった本なんです。
現代はセルフヘルプっていう事情ですね。
自らを助けるって書いて。
これどんな本かっていうと、
蒸気機関を作ったワットだとかスティーブソンとか、
こういう産業的な偉人、産業革命を本当に進めていった偉人。
これが貧しい境遇から自分の努力と才能で道を切り開いて、
偉大な発明や事業を成し遂げた西洋の偉人たちの物語っていうのがすごくたくさん紹介されている本なんです。
これ、トヨタ・サキチだけじゃなくて、
カノ・フクザ・アイキチダとか、日本の明治時代の偉人さん、
これはみんなこの本を読んで、やってくんや!みたいな感じで衝撃を受けた本。
僕は読んだことないんですけどね。読みたいなと思ってます。
サキチはこの本を読んで、雷に打たれたような衝撃を受けたそうです。
自分と同じような恵まれない環境からでも、この努力次第でこんなにそういうことができるのかと。
発明で世の中を良くすることができるのか。
これでサキチ少年の心に眠ってきた、なんかでかいことしたいと。
世の中に役に立ちたいっていう、マグマみたいなでかい情熱に一気に火がついたんです。
もう大工仕事してる場合じゃねえって、俺は発明家になるんだって本気で思い始めたみたい。
でね、この最極律師編って単に頑張れば成功できるぜっていう、自己啓発音じゃないんですよ。
ここには勤勉、忍耐、誠実。
あとは王宗なんで社会の貢献。
こういう人間の在り方とか倫理観みたいなものが強く打ち出されてるんですよね。
要は成功する人間っていうのはこういう人間なんだぜっていう。
それが過去の偉人のエピソードから非常に強く示されてる、こういう本なんです。
サキチは後の人生に、彼がトヨタグループっていうのは、トヨタ公領っていうサキチさんの教えをまとめた、
一、ほにゃらほにゃらみたいな、そういうトヨタ公領っていうのがあるんですけど、
ここの、執筆貢献とか社会への貢献みたいなすごい文言として入ってるんですよ。
この執筆貢献とか社会貢献っていうのを応じる精神の根っこっていうのは、
やっぱりサイククリシェンっていうこの書籍の出会いによって、
特許制度の影響
多分スタートしたんじゃないかなっていうふうに僕は思ってます。
そして、サキチさんの発明界の道っていうのが、ここからさらに良い方向に転がるんですよ。
1885年、これが彼が18歳の時に、1000倍特許条例っていう法律ができるんですよね。
これ何かっていうと、日本で初めて本格的な特許制度なんです。
つまり、発明者の権利っていうのを国が保護しますよっていう法律です。
皆さん普通に思うじゃないですか。
この一番最初に考えた人の権利っていうのは保証されますよっていうのは、
そりゃ今でこそ当たり前なんですけど、江戸時代はなかったんです。
パクリ放題。
これがめちゃめちゃでかいんですよね。
これまでの日本っていうのは、そうじゃないんですよ。
もうパクられるから、秘伝なんです。
秘伝、句伝。
職人の世界で一史蒼伝、秘伝。
僕ら好きですよね。
やっぱりそういう文化が元々あったからだと思うんですけど、
技術とかノウハウっていうのも本当にオープンにしない文化だったんですよね。
でもこの制度ができたことによって、自分のアイデアをちゃんと形にして申請すれば、
それは法的に自分の権利としてはっきりと認められる。
このアイデアを使ってオープンにビジネスをすることができるっていう道筋がここではっきりと示されたわけです。
学歴もコネも資金もない。
でもアイデアと腕には自信がある。
こんな佐紀さんのような人間にとって、
この特許制度っていうのはまさに一筋の光だったわけですね。
一筋の光明化。
これだ。
俺の才能を世に問う道はこれしかない。
発明に人生を懸ける決意っていうのをますますここで固くしたんじゃないでしょうかね。
発明品の完成
下が回っておりません。
ここで発明会になるっていうことをどうやら佐紀ちゃん決めたみたいなんですけど、
じゃあ何をするかですよね。
作るっていってもいろんなものがあるわけで。
ここから佐紀っていうのは方向性が決まっていくんですけど。
このヒントっていうのは意外なとこにあったんですよ。
1890年、1年後ですね。
佐紀が23歳。
1年後じゃないね。
佐紀23歳です、ここ。
彼は東京の上野で開かれた第3回内国官業博覧会っていう展示会ですわ、今でいう。
万博ですね。
これを見に行くんです。
ここには当時の最先端の技術や製品っていうものが日本中、世界中から集められていると。
内国だから世界中じゃない、日本中かな。
ここで佐紀っていうのは運命的なデーを果たすんです。
これは外国製の当時では非常に進んだ旗織り機、食器ですね。
布を織る機械。
これを見た佐紀っていうのは本当に土着も抜かれるわけです。
なんだこの機械はすげえって。
それに比べて自分のお母さんはギッコンバッタン、ギッコンバッタンってすごくコツコツ布を織ってると。
これなんて原始的なんだって。
これと同時にすごい悔しさが出てきたみたいなんですよ。
なんで日本はこんなすごい食器がないんだって。
なんで外国がそんなすごいんだって。
負けてられへん。
俺がもっと使いやすくて、もっと性能の良い食器をこの手で作ってやるって。
これがまさにこの西国立史編で読んだワットやスティーブンソンの精神がここでポーンと爆発した感じ。
この博覧会の衝撃と悔しさっていうのがこの後の佐紀の具体的な発明を突き動かしていく直接的なきっかけになります。
トヨタ佐紀っていうのはこの後トヨタ自動食器っていう会社を最終的に立ち上げるんですよね。
すなわち食器を作る会社です。
なので佐紀は今この瞬間から食器に人生をかけていきます。
村に帰った佐紀は昼も夜も関係なく大工仕事で培った技術と持ち前の独創性っていうのをフル回転させて、来る日も来る日も食器の改良っていうのが冒頭します。
周りから佐紀のやつまた妙なことやっとんなあみたいなガラクタばっかりやってるな。
当然白い目で見られたり心配されたりしたと思うんですよ。
お父さんの生地さんからめっちゃ怒られたんです。
でもそれでも佐紀ちゃんはやめないんですよ。
この時23歳ですからね。
寝るまま死んで試行錯誤をずっと繰り返して、当然ですけど大工さんレベルの工具と材料しかないんです。
ここから本人はずっと真剣に明確な目標に向かって取り組んでいくんです。
ここで彼に2つのモチベーションがあったんですよ。
1つは旗織り機ですね。
なんで旗織り機を選んだかっていうと、お母さんがとても苦労してたからです。
お母さんが夜なべして旗織り機で旗を織っている。
これは結構重労働なんですね。
重労働なりにはちょっとしか物ができなくて、本当に少ないお金にしかならない。
っていうお母さんはやっぱり楽にしたいっていう思いと、
外国で見たすごい食器、これを負けない発明をしたいっていう厚い思いがあったんですよね。
ここで1890年の末です。
早くない?だって1890年に万博があって、
この時にその末ですよ。
その年の末に彼の最初の本当に記念すべき発明品っていうものが完成するんです。
この発明品現在も残っています。
それが豊田式木製人力食器。
これ名前の通り木製なんですよ。
当時の働きは木製なんですけど、
木製で動力でバタバタバタバタ自動で作っていくようなものじゃなくて、
人で作る機械です。
でもこれが画期的だったんですよ、本当に。
それまで日本の食器、手動食器っていうのは、
これは言葉で非常に説明しづらいんで、皆さんググってほしいんですけど、
木っていう横糸を通すと、まず食器の説明からしましょうか。
食器っていうのは布を折る機械ですよね。
皆さんタオルとかハンカチとかよく見てもらうと、
糸が十字に走っていると思います、縦と横と。
それを作っていくには、まずものすごい長い縦糸があるんですよ。
縦の糸が100本とか200本とか横に並んでて、
そこに1本1本横に糸を通していくんですね。
そういう作業をして布を1本1本折っていくと。
なので1回横糸を通すと糸の長さ分だけ布が折れます。
1回横に糸を通して0.5ミリぐらい。
100回やったら50ミリだねみたいな。
これめっちゃしんどいんですよね。
当時の横糸を通す道具っていうのが火っていうものを使ってやるんですけど、
火っていうのは糸のボビンが入った木の長細い棒みたいなものなんですけど、
これを右から左に投げて食器の上でスルスルと滑らして、
1回投げたら横に1本通ります。
それをまた左手で受け取って左にもう1回投げて横が1本通ります。
こういうふうに結構ボールを右左右左っていうふうに投げるような形で折ってたんですよ。
これ説明しづらいんで1回ググってください。
ググってくれたらすぐ出てくるんで。
これがめちゃめちゃ大変だった。
この横糸を投げるっていう動作がすごく女性の負担になってたんです。
これをさっき言った発明式食器っていうのは、
おさって呼ばれる旗を折る部分、縦糸を上下に動かす部分があるんですけど、
これを動かすだけで勝手に火っていうのは左右に勝手に動くようにからくりになってた。
これやっぱすごいんですよね。
このおかげで今まで両手ですごく前鏡な作業をしてたお母さんが、
片手だけでガシャンガシャンガシャンって片手で1回動作するだけで布が勝手に折れていくと。
こういうお母さんみたいな女性、この時だと佐紀さんのお母さんなんで年齢は多分40前ぐらいだと思うんですけど、
楽に長時間折れるようになって、さらに余計な動作がなくなるわけですよね。勝手に横糸を通してくれるんで。
なので、この旗折りをするスピードっていうのが従来の食器に比べて、なんと50%アップしたと。
もう生産性爆上がりですよ。
しかも折りムラがなくなると。
いわゆる布の品質も格段に上がりました。
なぜなら人が投げるムラっていうのがなくなるからですね。
まさに言い事づくめで、このユーザビリティだとか生産性品質、三宝一種ですよ。
これが従来期に対して圧倒的に凌駕する発明だったんです。
これが若干23歳の田舎の大工みたいな青年が万博で、あの食器すげえっていうのを見て1年足らずで作り上げて。
これが本当にすごいんですよ。
このバイタリティと実現してしまうっていう行動力。
これが佐紀さんのエピトースに生きてると思いますね。
この発明の根底には、やっぱりお母さんの苦労っていうのはすごく見てきた経験ってすごい来てると思うんですよね。
普通の食器ってどれだけ早く布を折れるかとか、そういうことなんですけど、
発明家としての始まり
佐紀地の視点っていうのはすごく人間っていうものは含まれてるんです。
どうすればもっと楽に折れるか。
その上でどうやってもっと早く綺麗に折れるかっていうね。
この使う人の立場にとった徹底的な問題解決思考。
これがトヨタ佐紀地という発明家の原点であり強みなんだと思います。
いわゆる現場上がりの人間の非常に強いメンタリティを持っていた。
これが後のトヨタ生産方式につながる人間性尊重。
使う人のことを第一線に考えるっていう思想の原点におそらくこれはなったんだろうなと。
心からすでに見られてるわけですね。
この素晴らしい発明っていうのをちゃんと世の中に認めさせて、自分の権利として守るたびに佐紀地は特許申請します。
この木製人力食器。
翌年の1891年5月の14日、ついにトヨタ佐紀地は若干24歳にして、
トヨタ式木製人力食器で人生で初めての特許を取得します。
特許第1195号。
これで特許を取得したっていうことは彼は国が認める正式な発明家とここになったわけですね。
24歳です。
僕24歳の時って大学出たてです。
特許を取るなんて想像もしなかったし、現代の日本でおいてもね。
それが明治に入ったばかり。
明治に入ってるかもわからない。入ってるか、それが入ってるか。
明治に入ってるこの導覧機の中で若干24歳の、しかもそれは小学校出ただけの大工未来の青年がそれをやったと。
これが本当にこの人のすごいところだなというふうに僕は思ってます。
たぶんここが本当に歴史が動いた瞬間といってもいいと思いますね。
田舎の名もない大工の息子が自分の愛では努力で国に認められる発明を成し遂げて特許まで取ったと。
この特許を取ったっていうことと、豊田式木製人力食器、これが会社のホームページに今でもドーンと出てます。
それくらいこれはたぶんターニングポイントだったんだと思います。
これは当然豊田佐吉さんにもターニングポイントだったんですけど、日本の産業史においてもたぶん重要な一歩だったと思いますね。
ここから豊田佐吉という男の波乱万丈な、さらに壮大な発明家実業家としての人生というのが本格的に幕を開けることになります。
未来への挑戦
さあ、いかがでしたでしょうか。
この周年やばすぎる発明を豊田佐吉と世界への豊田誕生日は、というこのシリーズの第1回。
今回は幕末という激動の時代に生まれて決して恵まれたとは言えない環境の中から、
強い好奇心と最極力支援という書物に出会い、そしてお母さんへの思いを原動力に発明家として道を味見すめた若き日の豊田佐吉の姿というものを追ってきました。
最初に豊田特許を取った佐吉さん。
でもこれまだ彼の長い物語のほんの始まりすぎないんですよ。
本当に彼の人生というのは興味深くてパワフルで面白いです。
少しだけお話をしておくと、
彼の最後の発明、大きな発明というのは、彼が59歳の時に行います。
今24歳です。
あと35年発明人生が続くわけですね。
なので、この彼の野心というのは、この人力初期の改良だけには収まらないわけです。
次の目標は、今は手動なんで、ここから一気に動力に行きます。
動力を使った、手動じゃないパワフルな初期。
そこから、我々高橋クリスタルファン、FAラジオ、工場自動化ポッドキャストというものにもつながる自動化ですね。
動力で動かすということと自動化ということは全然違うんだということも、この佐吉さんが固めていくわけです。
こういう未来を見据えた挑戦というところに、これから佐吉さん向かっていくわけです。
そこには、新たな発明や事業の拡大、そして避けては通れない、当然苦悩や脱出というのも待ち受けているんですよ。
次回、第2回は、動力革命と環状初期の夢、佐吉苦悩と飛躍というタイトルで、
佐吉が日本の初期史を塗り替える大発明に挑んで、
さらに常識をぶっ飛んだ発明にも手を出していくんですけど、ちょっとうまくいかないよねっていう彼のエネルギーが爆発している時代をがっつり語っていきたいと思います。
次回も絶対面白いので聞いてください。皆さん約束ですよ。
というわけで、今回の語り手はFAラジオの高橋でした。
また次回、この熱い歴史の物語でお会いしましょう。
それでは、バイバイ。
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