もう少しアーレントのことを学びたいなと思って、いろんな本だったりだとか映画を見ていくとですね、もうそれがもうめちゃくちゃ面白くて、
なんかそのアーレントが発している問いみたいなものが現代にもすごく通じるところがあるなと思っていたので、
今日はですね、そんなアーレントの話を学校の教員という立場ですけれども、できたらなというふうに思っております。
はい、では早速ハンナ・アーレントについて話をしていきたいなというふうに思っております。
ではまずですね、人物紹介からというか、アーレントがどんな人物だったのかというふうな話です。
ハンナ・アーレントはですね、1906年ドイツのハノファでユダヤ系の家庭に生まれます。
今年がですね、実は2026年ということで、ちょうど生誕120周年にあたる年なんですね。
で、私も先日現代思想のハンナ・アーレントの2月号の特創版をですね、買ってきて、
それを今読み込んでいる途中なんですけれども、そういった年にあたります。
で、幼い頃から読書家で14歳でカントを読んでいたという記録が残っているぐらい、非常に勉強熱心な子供だったようです。
で、ドイツのですね、マールブルク大学、フライブルク大学、そしてハイデルベルク大学と渡り歩いて、
で、師匠にはですね、20世紀を代表する哲学者のハイデガーだったりだとか、イアスパースがいます。
で、1933年ですね、ハンナ・アーレントはユダヤ系ドイツ人ですので、
1933年にナッツが政権を取った際に、一時的にゲシュタポによってですね、拘束をされます。
で、その後、いろんなところを駆りながらドイツを脱出し、パリに亡命しですね、ユダヤ人難民支援の活動をしながら、1941年にアメリカへ渡りました。
で、この亡命者としての経験が、彼女のこういった政治思想の根っこにあるわけです。
国家という後ろ盾を失った人間がですね、人間であるというだけでは人権さえ守られないし、
政治的な共同体に属してですね、そこで声を上げられることこそが人間の生存条件なんだと、そういった原体験ですね。
これが後の権利を持つ権利という概念だったりだとか、あるいは公共空間への強いこだわりにつながっていきます。
で、ハンナ・アーレントはアメリカへ定住後ですね、1951年にもう名著と呼ばれる全体主義の起源という本を出版し、一躍世界的な知識人になります。
その後、1958年に主張である人間の条件、そして1963年に皆さんご存知かもしれませんが、
イエルサレムのアイヒマンというですね、ナッチスドイツのアイヒマンの裁判の傍聴記録を発表いたします。
これが俗に言う、悪の陳腐さと呼ばれる有名な言葉を残す、そういった雑誌になっています。
これって私自身ですね、私自身というか我々も仕事って何のためにするのっていうふうな問いへの一つの答えにもなるかなと思っています。
例えば生きるための労働なのか、あるいは世界に何かを残すための仕事なのか、それとも他者と関わる活動なのか、こういった3つって全然違いますよね。
キャリアを考える上でも、こういった考え方っていうのは非常に示唆が得られるかなというふうに思っています。
そんなところをですね、公共の時間とかに話したりしながら徐々に私がハンナ・アーレントに興味を持っていったんですけれども、
その中でですね、それこそ先日映画を見まして、それがですね2013年公開のハンナ・アーレントという映画ですね。
これがですね、めちゃくちゃ良くて、ちょっと最初にこの話もしたいんですけれども、
この映画の構成っていうのが主に2つの時間軸で動いていまして、
一つは1961年のアイヒマン裁判の傍聴とその後の執筆、批判という現在の時間軸ですね。
もう一つは若き日の、つまりハイデガーとの関係を描く回想シーンです。
映画の中でハイデガーは当初アーレントの師匠であって、不倫相手というか恋人でもありました。
でも後にそのハイデガーが、いわゆるナチスに入党するわけですね。
ナチスに入党して、その中でフライブルク大学の学長としてそのナチスとの協力を行っていきます。
アーレントにとってはこれが深刻な叫びであったはずですし、
自分が最も敬愛した師匠が自分たちユダヤ人を迫害する体制に加担をしていたというところで非常にショックを受けたと考えられています。
映画ではここの部分を繊細に描いていまして、
アーレントはハイデガーへの批判を公の場ではほとんど語っていないんですけれども、
その思考とは何かとか悪とは何かっていう彼女の問いの根っこにはこのハイデガーとの決裂っていうのが横たわっているんじゃないかなと。
映画を見ながらですね、ちょっとジバッと感じたりしました。
で、あとは映画の後半ですね、そのアイヒマン裁判の膨張シーンがものすごく圧巻でして、
私自身そのアイヒマンの裁判については世界史の人間ですので多少は知っていたんですけれども、
実際その映像として映画の中で立ち上がってくるとそれがすごく面白くてというか圧巻でして、
いわゆるその宝天に現れたアイヒマンがガラスの防弾ボックスの中に座っているんです。
これはあれですよ、裁判所の中ですよ。
で、アーレントは彼をじっと見つめています。
で、彼は普通の顔をしているわけですね。
で、官僚的な言葉を使っていて、私は命令に従っただけだと繰り返すだけなんです。
彼が最終的にはそのユダヤ人の大虐殺の非常に大きな一億を狙ったということで、
今回裁判にかけられていたんですけれども、
こういったシーンの後ですね、アーレントは書斎でタバコを吸いながら深く考え込む場面が何度も何度も続いていきます。
で、これが映画の革新的なところなんですけれども、
彼女がいわゆる悪の陳腐さ、悪の凡庸さというそういった概念にたどり着く瞬間だとも言えます。
で、映画の後半はですね、ギェルサレムのアイヒマン、その論文を発表後にですね、
どんどんどんどん友人たちが次々と去っていくシーンもリアルに描かれています。
いわゆる、これは後ほど話すんですけれども、友人として過ごしていたユダヤ人の友達なんかが、
あなたのことが信じられなくなっただったりとか、そういったことを言いながらどんどんどんどん離れていくわけです。
で、それでもアーレントはですね、最後まで自分の見解は変えずに大学の最後の講義で、
学生たちの前で思考とは何かというものを語りながら映画は終わります。
はい、まあ映画一本でアーレントという人間の輪郭がですね、結構はっきりとわかるものになっているので、
ぜひですね、あの2時間ぐらいの映画なんですけれども、ぜひご興味ある方は見ていただければというふうに思っております。
はい、ということでそのアーレントの大きな部分を占めているこのアイヒマン裁判についてですね、
もう少し詳しく話したいなというふうに思っています。
で、この1961年、イスラエルのエルサレムで始まったこの裁判の被告ですね、
アドルフ・アイヒマンはナチスの支援隊の中佐で、ホロコーストにおいてですね、
ユダヤ人を強制収容所へ輸送する実務を統括した人物です。
実際に数百万人を死地に送り込んだ、その手配をした、そういった人物になっています。
で、もともとですね、そういった人物に対して世界中がですね、いわゆる悪魔のような怪物だというふうに認識をしていました。
ところが、アーレントが傍聴して報告をしたのは全く違う姿だったんですね。
いわゆる彼はごく普通の中年男性なんです。
で、そういった裁判の中では、私は命令に従っただけですと淡々と繰り返します。
で、上司の顔色を気にしたりだとか、規則通りに業務をこなしただけだと、
なんなら出世を考えていただけだと、本当になんでしょうね、どこにでもいそうな、ただの勤勉な組織人なんですよね。
で、ここからアーレントは、いわゆる悪の凡庸さ、悪の陳腐さという概念を提唱しています。
例えば精神分析家のブルノベテルハイム。
彼は強制収容所の生存者なんですけれども、彼が観光直後の書評でこう書いています。
アイヒマン裁判で問題になっているのは犠牲者までも巻き込んだ全体主義体制であって、
それを反ユダヤ主義の最終章としてではなくて、技術思考の大衆社会の中で今後も生じ得るおつれがある全体主義の第一章として見なさらなければならないというところです。
これは1963年に書いているんですが、技術思考の大衆社会という言葉が今日的すぎるかなというふうに私自身感じています。
テクノロジーが発展して人間が巨大なシステムの歯車になっていくほど、アイヒマン的な人間が量産される危険性があると。
そういった洞察なんですよね。
AIだったりアルゴリズムが最適な答えを出してくれる今の時代に思考することの意味をどう守るか。
60年以上前の言葉とは思えないなと私自身感じています。
もう一人が劇作家のライオネル・エイベルという人物です。
彼もこのように表しています。
アーレントの本は正義についての本だと。
そしてなぜ対立が起きたのかというのも分析をしていまして、
アイヒマン及びナチスの犯罪をユダヤ人への犯罪としてではなくて人類への犯罪として裁判を言及するアーレントの正義の基準が
イスラエル国家の利害と衝突したんだと。
そういうふうにエイベルを書いています。
アイヒマン及びナチスの犯罪というのが、
強人やサディストによって行われたと考える方が当然楽なんですけれども、
それは事実ではないと。
必然あるいは義務として遂行される時、悪は悪として感じられなくなるものなんだというふうに彼は述べています。
悪を怪物がやることにした方が私たちは当然楽でいられるわけです。
でもそれは事実じゃないと。
義務だから必要だからと感じながら遂行される時、悪は悪として認識はされない。
それが最も危険な悪の形態だというふうに彼は述べています。
ここでもう一つ重要な点を加えておきたいなというふうに思います。
アーレントは全体主義の最も恐ろしい特徴の一つとして、
加害者だけでなく被害者においても道徳が混乱するということを指摘しています。
先ほど話したユダヤ人教育会の問題がまさにこれでして、
教育会のメンバーはユダヤ人コミュニティを守ろうとして名簿を作って、
結果的にナチスの異相を助けることになってしまったと。
なので彼らが悪人だったということではないんですね。
それぞれの立場で最善を尽くそうとしていたと。
けれども全体主義というシステムは善意さえも悪に変換してしまう力を持っているんだと、
そういうふうに指摘をしているわけです。
ここがアーレントの最も挑発的で最も重要な指摘だなと私は思うんですね。
要は道徳っていうのが個人の内面の問題だけじゃない。
それが機能するためには周囲の状況が道徳が機能できる条件を備えていなければならない。
そういった全体主義っていうのがまずその条件を破壊してしまうわけですね。
加害者も被害者も道徳的に行動することが難しい状況を作り出して、
そして最終的に道徳そのものが意味を失っていく。
だからこそ彼女は思考にこだわっていて、どんな状況でも自分との対話をやめないこと。
それが道徳の最後の取り出なのかもしれないというふうに彼女は考えるわけです。
はい、ここまでいかがですかね。
そして今日ですね、ちょっと一番話したかったことに入りたいなというふうに思うんですけども、
本当はですね、アーレントはですね、黒人問題というテーマで最近はですね非常に注目をされているんですね。
で、もともとその私は学生時代から奴隷制や奴隷母域あるいはその黒人差別の歴史を研究対象としてきたので、
非常に外せないテーマでして、簡単に言うと1957年にリトルブロック事件というものがあってですね、
それに対するそのアーレントの論考について非常にこう議論を呼んでまして、
今日はちょっとそこをですね話したかったんですけれどもちょっと時間がないので、
これに関してはまた別途で話をしようかなと思いまして、
今日はですねその孤独と孤立の使い分けについてちょっと最後話をしようかなと思っています。
で、アーレントはこれをですね明確に違いを分けて使い分けています。
日本語だとなんかこうどっちも同じような意味に聞こえると思うんですけども、
まずその孤独と孤立の前にローリーです。
孤絶という言葉があるんですけども、これはですねネガティブな状態を指しています。
いわゆるその誰ともつながっていなくて、自分自身とも対話できていない状態ですね。
だから見捨てられた感覚のことをローリーです。
孤絶というふうに呼んでいます。
で、アーレントはこれを全体主義の温床だというふうに言ってまして、
バラバラにされた孤絶した大衆がですね、
あなたには居場所があるんだよとか、あなたには意味があるんだよと語りかけてくる、
そういった全体主義の物語に飛びついてしまう状況、そういったものがあるんだと。
で、続いてですねここから大事なんですけど孤立ですね。
孤立ってのは何かというと、仕事をしている時の状態だというふうに言ってます。
要は職人が一人で作業をするとき、思想家が一人で物を書くとき、