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#22 巨大な悪は「思考停止」から生まれる。悪の凡庸さと、AI時代を生きる私たち
2026-04-09 37:53

#22 巨大な悪は「思考停止」から生まれる。悪の凡庸さと、AI時代を生きる私たち

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ついに2026年も4月に入り新学期を迎えます。今回は、世界史教員であるパーソナリティのかわむーが、今年度担当する科目「公共」の授業づくり(100分授業!)を通して出会い、すっかり心を奪われてしまった哲学者ハンナ・アーレントについてたっぷりとお届けします。


キャリア教育の根本を問う「労働・仕事・活動」という3つの人間の条件から、あのアイヒマン裁判で彼女が提唱し世界に衝撃を与えた「悪の凡庸さ=思考停止の恐ろしさ」まで。

さらに後半では、東浩紀さんの最新刊『平和と愚かさ』における議論へと接続!AIが答えを出し、SNSが「考える前に感じさせる」この時代に、私たちが「自分の頭で考え続ける」ことのヒントを探究する回です。

(※かわむーの専門領域である黒人差別問題と交差するアーレントの「リトルロック事件」論考については、今回チラッと触れるのみ。次回以降でガッツリ深掘りしますのでお楽しみに!)


#公共 #探究学習 #100分授業 #授業づくり #キャリア教育 #ハンナアーレント #人間の条件 #労働仕事活動 #悪の凡庸さ #イェルサレムのアイヒマン #アイヒマン裁判 #東浩紀 #平和と愚かさ #思考停止 #孤独と孤立

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▼「好奇心のたまり場」とは?

福岡の現役高校教員のかわむーが日々の生活の中で生まれる好奇心やワクワク、問いやモヤモヤをリスナーの皆さんと一緒にじっくりと味わう番組。

みんなんで好奇心を持ち寄り、日常を少しだけ豊かにする「知の冒険」に出かけましょう。

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はい、始まりました。好奇心のたまり場。この番組は、福岡の現役高校教員が、教育現場のリアルや探求、キャリアなど、日々の生活の中で生まれる好奇心やワクワク、問いやモヤモヤを、リスナーの皆さんと一緒にじっくりと味わうポッドキャストです。
パーソナリティを詰めます。かわむー)川村周平です。 はい、ということで、2026年も4月に入りまして、新年度を迎えております。
私が現在勤めている学校での生活も、いよいよ2年目を迎えまして、入学式が来週に控えているので、準備等でバタバタしつつも、新しい出会いだったりとかにワクワクしているところでございます。
今年度の話をちょっとさせていただくとですね、私の担当の授業なんですね。まず、もともと私が何回も話していると思うんですけども、世界史の教員なので、やっぱり世界史とか歴史の授業はやりたいなという思いはずっと持っているんですが、
ただ、教科配当だったり、配属先の学年の課題もあってですね、今年度も昨年度に引き続きなんですけども、私は公教を担当することになっております。歴史が教えられなくて、残念かというと全くそんなことはなくてですね、実は私専門ではないんですけども、この公教という科目が学べば学ぶほどめちゃくちゃ面白いんですよ。
逆に言うとですね、世の中にあるありとあらゆる出来事が教材になり得るなというので、授業づくりをしていてもめちゃくちゃワクワクしています。
特に本校がですね、昨年度から100分授業というものを導入しておりまして、要は100分間ですね、授業があるんですけれども、教員自身のウィルですね、こういうことを子どもたちに伝えたいみたいなものを生かして、熱量高く授業をじっくりと展開できるという環境は非常に自分の授業づくりのエンジンとなっています。
なので今年はですね、昨年度はできなかった、例えばその自分の専門分野である歴史的な背景を交えて公教を語ったりだとか、あるいは教科横断的なアプローチをがっつりやっていきたいなということで、逆にもうめらめら燃えている状況です。
そんな世界史を教えないからこそですね、最近ですね、逆に歴史とか哲学に対する探究心がなんか余計疼いておりまして、最近はですね、公教の授業準備も兼ねて、ある哲学者の本をめちゃくちゃ読み込んでおります。
今日はその話をしたいなというふうに思っております。
ということで、じゃあ私が一体誰の本を読んでいるかというところなんですけれども、それはですね、20世紀を代表する政治哲学者のハンナ・アーレントです。
まあ私自身ですね、そこまでアーレントについて学生時代からですね、学んできたわけではないんですけれども、やっぱりその公教の授業をやる中で触れる部分も増えてきましたし、
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もう少しアーレントのことを学びたいなと思って、いろんな本だったりだとか映画を見ていくとですね、もうそれがもうめちゃくちゃ面白くて、
なんかそのアーレントが発している問いみたいなものが現代にもすごく通じるところがあるなと思っていたので、
今日はですね、そんなアーレントの話を学校の教員という立場ですけれども、できたらなというふうに思っております。
はい、では早速ハンナ・アーレントについて話をしていきたいなというふうに思っております。
ではまずですね、人物紹介からというか、アーレントがどんな人物だったのかというふうな話です。
ハンナ・アーレントはですね、1906年ドイツのハノファでユダヤ系の家庭に生まれます。
今年がですね、実は2026年ということで、ちょうど生誕120周年にあたる年なんですね。
で、私も先日現代思想のハンナ・アーレントの2月号の特創版をですね、買ってきて、
それを今読み込んでいる途中なんですけれども、そういった年にあたります。
で、幼い頃から読書家で14歳でカントを読んでいたという記録が残っているぐらい、非常に勉強熱心な子供だったようです。
で、ドイツのですね、マールブルク大学、フライブルク大学、そしてハイデルベルク大学と渡り歩いて、
で、師匠にはですね、20世紀を代表する哲学者のハイデガーだったりだとか、イアスパースがいます。
で、1933年ですね、ハンナ・アーレントはユダヤ系ドイツ人ですので、
1933年にナッツが政権を取った際に、一時的にゲシュタポによってですね、拘束をされます。
で、その後、いろんなところを駆りながらドイツを脱出し、パリに亡命しですね、ユダヤ人難民支援の活動をしながら、1941年にアメリカへ渡りました。
で、この亡命者としての経験が、彼女のこういった政治思想の根っこにあるわけです。
国家という後ろ盾を失った人間がですね、人間であるというだけでは人権さえ守られないし、
政治的な共同体に属してですね、そこで声を上げられることこそが人間の生存条件なんだと、そういった原体験ですね。
これが後の権利を持つ権利という概念だったりだとか、あるいは公共空間への強いこだわりにつながっていきます。
で、ハンナ・アーレントはアメリカへ定住後ですね、1951年にもう名著と呼ばれる全体主義の起源という本を出版し、一躍世界的な知識人になります。
その後、1958年に主張である人間の条件、そして1963年に皆さんご存知かもしれませんが、
イエルサレムのアイヒマンというですね、ナッチスドイツのアイヒマンの裁判の傍聴記録を発表いたします。
これが俗に言う、悪の陳腐さと呼ばれる有名な言葉を残す、そういった雑誌になっています。
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で、裁判年はですね、青春の生活という三部作に取り組んでおりまして、1975年の12月に心臓発作によって息を引き取っています。
はい、というふうなアーレントの生涯なんですけれども、ちょっと詳しくですね、私がなぜこのアーレントに非常に惹かれているのかというところを話していきたいなというふうに思っています。
で、私がそのアーレントに興味を持ったきっかけなんですけれども、もともと学生時代に全然触れてきてはいなかったんですが、ちょうどですね、公共の教科書の中でアーレントが紹介をされています。
それがどういう部分かというと、そのアーレントの主張である人間の条件の中で提示されている労働、仕事、活動という3つの区分ですね。
アーレントはですね、人間の活動的な性を、いわゆる人間の営みをですね、3つに分類をしています。
それが先ほどお伝えした労働、レイバーですね。
で、次に仕事、ワーク、そして活動、アクションの3つに分けています。
で、これをちょっと話をしたいんですけれども、まず労働、レイバーですね。
これは生命を維持するための営みです。
いわゆる食べるため、生きるために仕方なくやることで、成果は消費されて消えて繰り返し続けるしかないという、いわゆる必然性に縛られた営みとも言えます。
昔であればこの部分はある種奴隷が担っていたわけですけれども。
次に仕事、ワークですね。
これは人工物を作ること、建物、道具、法律、制度などですね。
ここは労働と違って作ったものが世界に残ると、いわゆる目的と手段が明確で始まりと終わりがあるもの、これを仕事としています。
そして最後に活動、アクションですね。
ここがアーレントが最も重要視するところでして、公共の教科書の中でも非常に厚く語られています。
いわゆる活動というのが、複数の人間が言葉と行為によって直接関わり合いながら何かを始めること、いわゆる政治の原点とも言っています。
結果がコントロールできないというところも特徴としてありまして、この活動を通して私たちが自分が何であるのかというものを世界に示すことができるというふうにアーレントは述べています。
アーレントは現代社会が労働社会になってしまっているとも批判をしました。
消費をして、また稼いで、また消費をして、そのループの中で活動、いわゆる他者と関わり合いながら新しいことを始める営みというものが徐々に失われているのではないかと、そういうふうな継承をならしています。
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これって私自身ですね、私自身というか我々も仕事って何のためにするのっていうふうな問いへの一つの答えにもなるかなと思っています。
例えば生きるための労働なのか、あるいは世界に何かを残すための仕事なのか、それとも他者と関わる活動なのか、こういった3つって全然違いますよね。
キャリアを考える上でも、こういった考え方っていうのは非常に示唆が得られるかなというふうに思っています。
そんなところをですね、公共の時間とかに話したりしながら徐々に私がハンナ・アーレントに興味を持っていったんですけれども、
その中でですね、それこそ先日映画を見まして、それがですね2013年公開のハンナ・アーレントという映画ですね。
これがですね、めちゃくちゃ良くて、ちょっと最初にこの話もしたいんですけれども、
この映画の構成っていうのが主に2つの時間軸で動いていまして、
一つは1961年のアイヒマン裁判の傍聴とその後の執筆、批判という現在の時間軸ですね。
もう一つは若き日の、つまりハイデガーとの関係を描く回想シーンです。
映画の中でハイデガーは当初アーレントの師匠であって、不倫相手というか恋人でもありました。
でも後にそのハイデガーが、いわゆるナチスに入党するわけですね。
ナチスに入党して、その中でフライブルク大学の学長としてそのナチスとの協力を行っていきます。
アーレントにとってはこれが深刻な叫びであったはずですし、
自分が最も敬愛した師匠が自分たちユダヤ人を迫害する体制に加担をしていたというところで非常にショックを受けたと考えられています。
映画ではここの部分を繊細に描いていまして、
アーレントはハイデガーへの批判を公の場ではほとんど語っていないんですけれども、
その思考とは何かとか悪とは何かっていう彼女の問いの根っこにはこのハイデガーとの決裂っていうのが横たわっているんじゃないかなと。
映画を見ながらですね、ちょっとジバッと感じたりしました。
で、あとは映画の後半ですね、そのアイヒマン裁判の膨張シーンがものすごく圧巻でして、
私自身そのアイヒマンの裁判については世界史の人間ですので多少は知っていたんですけれども、
実際その映像として映画の中で立ち上がってくるとそれがすごく面白くてというか圧巻でして、
いわゆるその宝天に現れたアイヒマンがガラスの防弾ボックスの中に座っているんです。
これはあれですよ、裁判所の中ですよ。
で、アーレントは彼をじっと見つめています。
で、彼は普通の顔をしているわけですね。
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で、官僚的な言葉を使っていて、私は命令に従っただけだと繰り返すだけなんです。
彼が最終的にはそのユダヤ人の大虐殺の非常に大きな一億を狙ったということで、
今回裁判にかけられていたんですけれども、
こういったシーンの後ですね、アーレントは書斎でタバコを吸いながら深く考え込む場面が何度も何度も続いていきます。
で、これが映画の革新的なところなんですけれども、
彼女がいわゆる悪の陳腐さ、悪の凡庸さというそういった概念にたどり着く瞬間だとも言えます。
で、映画の後半はですね、ギェルサレムのアイヒマン、その論文を発表後にですね、
どんどんどんどん友人たちが次々と去っていくシーンもリアルに描かれています。
いわゆる、これは後ほど話すんですけれども、友人として過ごしていたユダヤ人の友達なんかが、
あなたのことが信じられなくなっただったりとか、そういったことを言いながらどんどんどんどん離れていくわけです。
で、それでもアーレントはですね、最後まで自分の見解は変えずに大学の最後の講義で、
学生たちの前で思考とは何かというものを語りながら映画は終わります。
はい、まあ映画一本でアーレントという人間の輪郭がですね、結構はっきりとわかるものになっているので、
ぜひですね、あの2時間ぐらいの映画なんですけれども、ぜひご興味ある方は見ていただければというふうに思っております。
はい、ということでそのアーレントの大きな部分を占めているこのアイヒマン裁判についてですね、
もう少し詳しく話したいなというふうに思っています。
で、この1961年、イスラエルのエルサレムで始まったこの裁判の被告ですね、
アドルフ・アイヒマンはナチスの支援隊の中佐で、ホロコーストにおいてですね、
ユダヤ人を強制収容所へ輸送する実務を統括した人物です。
実際に数百万人を死地に送り込んだ、その手配をした、そういった人物になっています。
で、もともとですね、そういった人物に対して世界中がですね、いわゆる悪魔のような怪物だというふうに認識をしていました。
ところが、アーレントが傍聴して報告をしたのは全く違う姿だったんですね。
いわゆる彼はごく普通の中年男性なんです。
で、そういった裁判の中では、私は命令に従っただけですと淡々と繰り返します。
で、上司の顔色を気にしたりだとか、規則通りに業務をこなしただけだと、
なんなら出世を考えていただけだと、本当になんでしょうね、どこにでもいそうな、ただの勤勉な組織人なんですよね。
で、ここからアーレントは、いわゆる悪の凡庸さ、悪の陳腐さという概念を提唱しています。
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まあその、誤解されやすいんですけれども、これはその統括だったアイヒマンが悪くなかったということを言いたいわけじゃなくて、これは全く逆です。
つまりアーレントが言いたかったのは、巨悪はですね、必ずしも悪魔的な怪物によって実行されるわけじゃないということです。
つまり思考を停止して、システムに従順であろうとする普通の人間こそが、時として人類史上最大の悪を遂行してしまう、という恐ろしい洞察なんですね。
で、このアイヒマンに欠けていたのは、他者の立場に立って考える想像力、いわゆる自分の良心と対話しながら判断する能力、アーレントはこれを思考の欠如というふうに呼んでおります。
これ現代人にとってもですね、ものすごく怖い仕方だと思うんですね。
いわゆるその上が言うからとか、みんながやってるから、規則だから、今の私たちの生活でもなかなかよく聞く言葉じゃないですか。
で、SNSで誰かが炎上している時に、よく考えもせずに石を投げてしまう。
組織の不正を見て見ぬふりをする。アルゴリズムが出してくる情報を、そのまま何も考えずに拡散してしまう。
実はそこに悪意はなくても、思考停止がある限りですね、私たちは誰でもこのアイヒマンのような悪になり得るんだと、アーレントはそう言うわけです。
このユルサレムのアイヒマンが1963年に雑誌を通して出版をされるとですね、猛烈な批判を本人は受けます。
批判の柱っていうのが主に3つありました。
これをちょっと紹介させていただきます。
まず一つ目がですね、ユダヤ人評議会のナチスへの協力に触れた点ですね。
これはユダヤ人評議会っていうのがナチスの支配下でユダヤ人の自治を担わされた組織のことです。
実態はですね、ナチスの管理ツールとして使われていたようで、アーレントはこの評議会がユダヤ人の名簿作成や強制移送の手配を担っていた事実を書いたんです。
被害者であるユダヤ人がナチスに協力をしていたというのは、コミュニティの内側で語られることさえはばかられてきた話でした。
それを外側からしかも同じユダヤ人であるアーレントが書いたというところが批判の対象となったわけですね。
二つ目がドイツの抵抗運動に対する冷静な評価についてです。
1944年7月22日にドイツの国防軍将校たちがヒトラーの暗殺を加えられた7月20日事件というものがあります。
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これ自体は失敗して中心メンバーは処刑されるんですけれども、後にナチスへの勇敢な抵抗として称えられております。
ところがですね、アーレントは彼らを突き動かしたというのは、そのユダヤ人への関心だったりとか道徳的な怒りからなどではなくて、
彼らを燃え上がらせたのはヒトラーが戦争を準備しているという事実に対してだってユダヤ人問題とは一切関係がないというふうに指摘するわけです。
これは非常に重要な指摘でして、ドイツ人の勇者たちがユダヤ人のために立ち上がったという物語にちょっと待てというわけなんですね。
彼らの勇気は本物、でもその動機を事実として正確に記述しなければいけないというふうなことで評価を下しているわけです。
そして3つ目ですね、アイヒマンを凡庸な男として描写した点です。
これら3つが合わさってアーレントは犯罪者の責任を軽くして抵抗運動の価値を下げすんで、
なおかつユダヤ人を共犯者に仕立て上げようとしているということで非常に断罪をされます。
そしてこの批判は論談の中だけでは留まらずですね、アーレントはこの本をきっかけにそれまでユダヤ人の友人のほとんどと絶縁をしていくことになります。
例えば親友だったショーレムをはじめ深く知ってやっていた知識人たちが次々と距離を置いていきます。
例えばショーレムはアーレントに手紙を送ってですね、あなたにはユダヤ民族への愛が欠けているんだというふうに書いています。
これに対してアーレントはこう返信するんですね。
あなたは正しい。私にはユダヤ民族への愛のようなものは存在しない。
私が愛しているのは友人だけだ。これが私が知っている唯一の愛の種類だと。
こうした民族への愛という抽象的な愛よりも目の前の友人を愛することの方がリアルで誠実だという立場なんですね。
ただ皮肉なことにその友人は次々とこの一軒を機に去っていくわけです。
そんな状況の中で彼女を支持したのは意外にも大学の若い学生たちでした。
年配の知識人コミュニティからは見放されながらも、次世代の若者たちが彼女の思考の誠実さを評価したわけです。
映画のラストシーンはまさにこれでして、学生たちに向けて最後の講義でアーレントは思考とは何かを語りながら終わるんです。
このシーンがめちゃくちゃいいので是非見てほしいところです。
こうした批判の嵐の中でアーレントを支持した人物も何人かいます。
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例えば精神分析家のブルノベテルハイム。
彼は強制収容所の生存者なんですけれども、彼が観光直後の書評でこう書いています。
アイヒマン裁判で問題になっているのは犠牲者までも巻き込んだ全体主義体制であって、
それを反ユダヤ主義の最終章としてではなくて、技術思考の大衆社会の中で今後も生じ得るおつれがある全体主義の第一章として見なさらなければならないというところです。
これは1963年に書いているんですが、技術思考の大衆社会という言葉が今日的すぎるかなというふうに私自身感じています。
テクノロジーが発展して人間が巨大なシステムの歯車になっていくほど、アイヒマン的な人間が量産される危険性があると。
そういった洞察なんですよね。
AIだったりアルゴリズムが最適な答えを出してくれる今の時代に思考することの意味をどう守るか。
60年以上前の言葉とは思えないなと私自身感じています。
もう一人が劇作家のライオネル・エイベルという人物です。
彼もこのように表しています。
アーレントの本は正義についての本だと。
そしてなぜ対立が起きたのかというのも分析をしていまして、
アイヒマン及びナチスの犯罪をユダヤ人への犯罪としてではなくて人類への犯罪として裁判を言及するアーレントの正義の基準が
イスラエル国家の利害と衝突したんだと。
そういうふうにエイベルを書いています。
アイヒマン及びナチスの犯罪というのが、
強人やサディストによって行われたと考える方が当然楽なんですけれども、
それは事実ではないと。
必然あるいは義務として遂行される時、悪は悪として感じられなくなるものなんだというふうに彼は述べています。
悪を怪物がやることにした方が私たちは当然楽でいられるわけです。
でもそれは事実じゃないと。
義務だから必要だからと感じながら遂行される時、悪は悪として認識はされない。
それが最も危険な悪の形態だというふうに彼は述べています。
ここでもう一つ重要な点を加えておきたいなというふうに思います。
アーレントは全体主義の最も恐ろしい特徴の一つとして、
加害者だけでなく被害者においても道徳が混乱するということを指摘しています。
先ほど話したユダヤ人教育会の問題がまさにこれでして、
教育会のメンバーはユダヤ人コミュニティを守ろうとして名簿を作って、
結果的にナチスの異相を助けることになってしまったと。
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なので彼らが悪人だったということではないんですね。
それぞれの立場で最善を尽くそうとしていたと。
けれども全体主義というシステムは善意さえも悪に変換してしまう力を持っているんだと、
そういうふうに指摘をしているわけです。
ここがアーレントの最も挑発的で最も重要な指摘だなと私は思うんですね。
要は道徳っていうのが個人の内面の問題だけじゃない。
それが機能するためには周囲の状況が道徳が機能できる条件を備えていなければならない。
そういった全体主義っていうのがまずその条件を破壊してしまうわけですね。
加害者も被害者も道徳的に行動することが難しい状況を作り出して、
そして最終的に道徳そのものが意味を失っていく。
だからこそ彼女は思考にこだわっていて、どんな状況でも自分との対話をやめないこと。
それが道徳の最後の取り出なのかもしれないというふうに彼女は考えるわけです。
はい、ここまでいかがですかね。
そして今日ですね、ちょっと一番話したかったことに入りたいなというふうに思うんですけども、
本当はですね、アーレントはですね、黒人問題というテーマで最近はですね非常に注目をされているんですね。
で、もともとその私は学生時代から奴隷制や奴隷母域あるいはその黒人差別の歴史を研究対象としてきたので、
非常に外せないテーマでして、簡単に言うと1957年にリトルブロック事件というものがあってですね、
それに対するそのアーレントの論考について非常にこう議論を呼んでまして、
今日はちょっとそこをですね話したかったんですけれどもちょっと時間がないので、
これに関してはまた別途で話をしようかなと思いまして、
今日はですねその孤独と孤立の使い分けについてちょっと最後話をしようかなと思っています。
で、アーレントはこれをですね明確に違いを分けて使い分けています。
日本語だとなんかこうどっちも同じような意味に聞こえると思うんですけども、
まずその孤独と孤立の前にローリーです。
孤絶という言葉があるんですけども、これはですねネガティブな状態を指しています。
いわゆるその誰ともつながっていなくて、自分自身とも対話できていない状態ですね。
だから見捨てられた感覚のことをローリーです。
孤絶というふうに呼んでいます。
で、アーレントはこれを全体主義の温床だというふうに言ってまして、
バラバラにされた孤絶した大衆がですね、
あなたには居場所があるんだよとか、あなたには意味があるんだよと語りかけてくる、
そういった全体主義の物語に飛びついてしまう状況、そういったものがあるんだと。
で、続いてですねここから大事なんですけど孤立ですね。
孤立ってのは何かというと、仕事をしている時の状態だというふうに言ってます。
要は職人が一人で作業をするとき、思想家が一人で物を書くとき、
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他者と切り離されてはいるけれども世界との関係を維持されている、
そういったものを孤立した状態というふうに呼んでいます。
そして最後に孤独ですね、孤独です。
これがアーレントが最も重要視する状態です。
で、孤独っていうのは何かというと、
要は自分と自分自身の対話ができている状態、これを孤独というふうに呼んでます。
要は一人でいながら私が私自身と語り合うことができている。
これがいわゆる思考の源泉であって道徳の根拠にもなるというふうに言ってます。
で、ここで最も大事なことなんですけれども、
アーレントにとってですね、この孤独っていうのはむしろ豊かさなんですね。
で、一人でいることっていうのが弱さとか欠如なんではなくて、
自分と対話できる孤独の時間を持てること、
それこそが思考する人間としての条件なんだというふうに言ってます。
これって今の時代に当てはめるとすごくドキッとする話だなというふうに私は思ってまして、
要は現代のSNS環境の中で自分の感想とか意見とかそういったものを持つ前にですね、
例えば他者の意見を目にしたりだとか、
スマホを開いた瞬間にアルゴリズムが選んだ情報が大量にバーッと流れ込んでくるじゃないですか。
不意に誰かの怒りに共鳴させられたりだとか、
誰かの意見に反発させられたとか、
常に何かに反応してしまうじゃないですか。
自分がどう感じるかとかを考える前にすでに何かに影響を受けてしまう。
これっていうのはアーレントの言葉を使えば、私たちは現れっぱなしになっているわけなんです。
常に誰かに向けて何かを発信して反応して承認を求めている。
その状態では私自身との対話、いわゆる孤独の時間というのがどんどん削られていくわけですね。
引っ込みっぱなしでも人間って存在できないし、
でもこういった現れっぱなしでも思考はできないわけなんです。
なので、まず自分がどう感じるかどう思うかみたいな思考する時間を持つこと。
政治についても社会についても何かについてでも、
その始まりっていうのは意見を外から輸入することじゃなくて、
自分の内側から問いを立てることだと。
これがアーレントのメッセージだと私は感じています。
そんなこんなでもう30分ぐらい喋ってきたわけなんですけれども、
最後にですね、ちょっとこのアーレントに関して最近また考えていることについてちょっと最後触れたいと思っています。
30:04
ちょうどですね、今日ですね、本屋さんであずまひろきさんのですね、
平和と愚かさという本を買ってきました。
で、これあのまだ読み始めたばかりなんですけれども、
その帯の言葉だったりとか、あとYouTubeの動画なんかを見てですね、
これぜひちょっと読まないといけないなというふうに思って、
ちょっと買ってきたわけなんですね。
で、この本を一言で言っていいかわかんないんですけれども、
一言で言うとですね、
平和っていうのは戦争について考えないことが許されている状態だ、
というふうにあずまさんが言っているわけです。
で、さっきまでそのアーレントっていうのは考えろっていうふうなことを言ってたんですけれども、
このアーレントと逆じゃねえかってちょっと個人的に思って、
逆になんかすごく気になっちゃったんですね。
で、アーレントはその考えないこと、
いわゆるこの愛媛の時代表されるような思考の欠如っていうのが
悪の根源だというふうに言ったんですけれども、
このあずまさんは考えないことが平和なんだというふうに言ってます。
で、ここが面白いのがあずまさんが言うこの考えないことっていうのが
怠惰とか無知の用語じゃないんですね。
いわゆる考えないことっていうのは必ずしも堕落ではなくて、
思考停止が必要になる時もあると。
で、人間社会を構成するいくつかの重要な価値っていうのは
考えないことの工程から出発しないとうまく説明ができないと。
その一つが平和の価値なんだというふうに言ってます。
さらに言うと平和と愚かさっていうのは
いずれも考えないことの表現であるという逆説です。
これどういうことかというと、
例えばユーゴスラビアの内戦を例にちょっと考えてみると、
あずまさんなんですけれども、
サラエボの旅行の経験をもとにですね、
強制の平和と隔離の平和というものを区別してます。
で、例えばその内戦前のサラエボでは、
セルビジン人だったり、クロアチン人だったり、
いろんな混在した民族が生活をしていたわけで、
お互いの近寄りをですね、
いちいち意識せずに隣人として暮らしていたんですね。
これが強制の平和という状態です。
でも平和が崩れるとなぜか、
あいつらと我々は違うとかっていうのを考え始めるんですね。
要は民族のアイデンティティみたいなものを
政治的に意識し始めることで、
強制は解体されてしまうわけです。
逆に言えば強制の平和っていうのが機能していた時代は、
民族の違いについてあまり考えていなかったからこそ、
共存できていた側面があるんだということです。
他にもですね、別の中で、
でも考えないことは同時に愚かさでもある、
33:01
というふうにも言ってるんですね。
かつてこのサラエボで共に暮らしていた隣人が、
ある日突然虐殺に加わった。
それは考えてこなかったことの代償でもあると。
つまり考えないことっていうのは、
平和にも愚かさにも両方につながるんだと。
この二重性っていうのが、
アズマさんの言ってるところなんですね。
少し整理をしてみると、
アーレントは考えないこと、
いわゆる思考の欠如っていうのが悪の根源だ。
だから思考することをやめてはいけないと。
アズマさんが言うのは、
考えないことっていうのが、
いわゆる平和を生む側面もあると。
考えすぎること、
政治について語りすぎることが、
平和から遠ざかることがあるんだと、
いうふうに述べているわけです。
これって矛盾しているように見えて、
私は近いなというか、
補い合っているんじゃないかなと思っていて、
アーレントが批判した思考の欠如っていうのは、
いわゆる自分の行いの結果について、
想像力を働かせないこと。
他者の立場に立てないことだったりとか、
良心と対話せずにシステムに従うこと。
というのが、いわゆる受け身の考えなさなんですね。
一方で、アズマさんが考える考えないことっていうのは、
民族の違いとかをいちいち意識しないで、
隣人として生活できることとか、
戦争についての善悪の判断をせずに、
ある種の日常を共に生きること。
これは、いわゆる積極的な、
ある意味での寛容としての考えなさとも言えるんじゃないかなと。
というふうに思うわけですね。
この平和と愚かさっていう本なんですけども、
めちゃくちゃ熱い本なので、
私も読み始めたばっかりなので、
ただ最初から哲学の本と思うのを忘れてしまうぐらい、
めちゃくちゃ読みやすいので、
ぜひ読み終わったら、
また改めて話をしたいなというふうに思っています。
本当にもう最後になんですけども、
ハンナ・アーレントという文庫本が、
その著者の矢野久美子さんの表題の後書きに、
こんな言葉がありました。
アーレントと誠実に向き合うことは、
彼女の思想を教科書にすることではなくて、
彼女の思考に触発されて、
私たちそれぞれが世界を捉え直すことだ。
自分たちの現実を理解し、
事実を語ることを彼女は重視した。
考え始めた一人一人が、
世界にもたらす力を過小評価すべきではない。
アーレントは晩年、
自分の仕事の核にあるものを問われた時に、
こんなことも言っています。
私は哲学者でも政治哲学者でもない。
私はひたすら物事を理解したい人間だ。
書くことと考えることは、
私にとって同じことだ。
36:02
ひたすら物事を理解したい。
それがアーレントの出発点だったと言えます。
ナチスが権力を握った時に、
全体主義が人々を飲み込んでいく時に、
アイヒマンが法廷に現れた時に、
彼女はその都度、
これは何なのか、何でこんなことになっているのか、
問い続けたわけです。
彼女の答えが、
批判を浴びると分かっていて、
友人が失うと分かっていても、
その正義を貫き通したわけですね。
ウクライナで戦争が続いている、
パルスチナで何かが起きている今、
AIが判断を大体し始めている今、
SNSが考える前に感じさせる環境を作り出している今、
アーレントが通っていることは、
リアルに私たちに迫ってくる感じがあるな、
というふうなことを考えているわけです。
最初にもお伝えしました通り、
今年2026年がアーレントが生誕120周年を迎えています。
ぜひこの放送を聞いて、
少しでも興味を持たれた方は、
映画だったりとか文献だったりとかを
手に取っていただければと思います。
ということで、好奇心のたまり場、
ここまでお聞きいただきありがとうございました。
この番組ではリスナーの皆さんからのメッセージをお待ちしております。
番組概要欄にフォームをご用意していますので、
皆様の日々の好奇心やワクワク、
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好奇心のたまり場、パーソナリティは、
河村こと河村周平でした。
それではまた。
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