今日のテーマトークは、『片思い世界』です。はい、では、大井さん、解説お願いできますか。
はい、映画ドットコムよりあらすじを読ませていただきます。
花束みたいな恋をしたの脚本、坂本悠二と監督土井信博が最多ックを組み、
広瀬鈴、杉崎花、清原茅野の3人を主演に向かえ、
強い絆で結ばれた3人の女性が織りなす日常と究極の片思いをオリジナル脚本で描き出す。
佐原美咲、片石優香、安住桜の3人は、東京の片隅に立つ古い一軒家で一緒に暮らしている。
それぞれ仕事、学校、アルバイトへ毎日出かけて行き、帰ってきたら3人で一緒に晩御飯を食べる。
リビングでおしゃべりをして、同じ寝室で眠り、朝になったら一緒に歯磨きをする。
家族でも同級生でもない彼女たちだったが、お互いのことを思い合いながら楽しく気ままな3人だけの日々を過ごしている。
もう12年、ある理由によって強い絆で結ばれてきた3人にはそれぞれが抱える片思いがあった。
3人と同じ記憶を胸に秘める青年、高杉天真を横浜流星が演じ、
小野佳林、いじまくぅ、ロックバンド、ムーンライダーズ、田口智男、値下直美が共演。
はい、では内容に触れる話を入っていきたいと思いますので、ネタバレ気にされる方がいたら、ぜひ見てから聞いていただきたいと思います。
では、沢井の感想、沢井さんいかがでした?
そうですね、もうネタバレありで語っていいってところなので、まあ言いますけど。
最初からこう違和感、そもそも予告の段階から、何の話なんだろうっていう、一切読めない。
一切期待値の作り方がわからない映画。
で、始まってからもしばらくそうなんですよ。
なんか変なんだけど、どうなんだろうなこれっていう。
でもなんとなくこう、徐々に徐々に勘付いていくじゃないですか。
で、これが大ネタだったら、この映画多分つまんなかったと思うんですよ。
でも割ともうこれが序盤で明かされてしまって、要は3人とも死んでいますと。
既に亡くなって、でも12年間大人になった姿で、幽霊というか別の世界というかあの世というかに、現世と一緒に重なり合って生きてますっていうところ。
で、そこが分かってから、じゃあこの話どうやって展開するのっていうのを見ていくのが、なかなか面白かったなと思っていて。
特に僕がすごいこの映画好きなポイントというか、すげえな坂本祐治って思ってることが、
3人って、ある種ゴーストストーリーじゃないですか、今回の作品でジャンルで言うならば。
で、割とその手の映画ってたくさんあると思うんですよ。
ニューヨークのやつもありましたし、それこそゴーストストーリーってそのA24が階級してた映画なんかもあったりするんですけど。
ただこの映画は、そのゴーストストーリーものってやっぱり現実世界に幽霊側だったり、あるいはその現実の人間が何かの表紙で関われちゃうというか、
見えてこれちゃうことが、なんていうか奇跡として描かれるし、それがある意味すごい感動の大きなポイントになることのことがすごく大きい気がするんですけど。
この映画の幽霊である3人は、徹底的に現実世界に干渉できないんですよね。
で、ちょっと干渉したというか、思いが通じたように見える場所って、偶然でも全然説明できちゃうレベルなんですよ。
っていうところで抑えられてるところが、なんかすごいこの映画の救いなんだろうなっていうふうに思ってて。
っていうのも、この映画でたぶん救われてる対象って天魔であったり、あるいはお母さんだと思うんですよね。
その堅い主流家のお母さんかな。
で、その人たちっていうのが、奇跡が起こらないっていうことが大事だなっていうふうに思ってて。
本当にそれは奇跡が起こってしまったら、映画的なフィクションで起こしてしまったら、
それは僕らの世界には亡くなった人っていうのはもういないっていうことの詳細になっちゃう気がするんですよ。
僕らの生活の中で奇跡って起こんないから。
でも、奇跡は起こんないけどいるっていう状況を現実させることによって、
僕らが、もしかしたら何かの人生で亡くなってしまって別の世界に行ってしまった人と、
同じ空間にいるかもしれないっていう可能性が生まれるわけじゃないですか。
それってすごいことだなってちょっと思って。
坂本勇次のドラマとか映画でこれまで結構言われてきたこと、坂本勇次の思想だと思うんですけど。
それをある種体現した映画でもありながら、それはたぶん、高杉天真みたいに傷ついている人、何か辛いことというか、
大切な人を亡くして傷ついている人ですね。
にとってすごい救いになるメッセージというか、設定なんだろうなっていうふうに思って。
そういうふうに世界を見たらいいんじゃないかっていう提案なのかなって思って。
なんか僕はすごいこの映画はめちゃくちゃ優しい映画だなっていうふうに思ってます。
という感じです。
なるほどなぁ。
いや、なるほどなと。確かにと今思いながら聞いてました。
うん。
僕はですね、そんなに熱量ないんですね、本作に対して。
うんうんうん。
その、あんまり出来が良くないっていうのが僕の感覚だったんですけど、
大井さんがおっしゃった見方するとすごくいいなとは思いましたが、
ちょっと僕どっちかというと、SFとして見たのかもしれないですね、感覚としては。
なるほどなるほど。はいはいはい。
そうして見た時に、結構この設定、空回ってるというか、上滑りしてるというか、
なんか、実質あんまり何も起きてないというか、文字通り何も起きてない話なんで、
そこがあまり楽しくは見られなかったっていう感覚がありましたっていうのと、
あとまぁ本作のネタバレ厳禁って言われる要素なんですけど、
元がフワッとしてたじゃないですか、大井さんもおっしゃられてましたけど、
期待値が設定できない映画としてあったから、
裏切られたっていう楽しみ方はあんまりできなかったっていうのがあって、元がないからっていう。
明らかに何かを仕掛けに来るルックをしてるので、本作。
そうなんですよね。
仕掛けに来るなって思いながら見てるから、
あ、やられた、裏切られたって感じにはなれず、
差もありなんて感じになってしまったっていう、これはちょっと、
そもそも期待値の設定の仕方が、あまり良くなかったのかもしれないなっていう、
期待値がないからこそ、ということは?みたいな感じで見ちゃったので、
まあちょっとひねった見方をしすぎた可能性はあるかなっていうのはありますが、
まあ別に強い熱量もなければ、みたいな感じかな。
正の方向にも負の方向にも、そこまで強い感情はないんですが、
ただ、本作の中のある要素を掘り下げると、多分僕はヒートアップするだろうなっていう部分はあります。
ほう、なるほど。
そこに話が行くかどうかは、ちょっともう成り行きで行こうかなと思ってますっていう感じで。
はい。
はい。では、お便りいただいてますので、紹介させていただきます。
では、大地さんお願いします。
はい。グッドウォッチメンズ大地さんさんからいただきました。
コラボ会や映画の鑑賞など諸々お世話になりましたグッドウォッチメンズの大地ちゃんです。
今回、片思い世界を鑑賞できたので感想をお送りします。
鑑賞中の感想は、今回はこの路線で行くのか面白いと思ったものの、
全体的にはかなり飲み込みづらい作品になっていたという印象です。
片思い世界というタイトルにいろんな意味があるというより、
都合よく解釈できる逃げ道になっているとすら感じました。
特に、加害者と被害者の対立のシークエンスはさすがにいかがなものかと。
クライマックスになるであろう合唱コンクールの手前に、
彼女たちが生きている世界に関わるあるイベントを設けているのも脚本として、
上手じゃないなと感じます。
ただ、吉岡六夫が唐突に登場するシーンはめちゃくちゃ笑いました。
空目の感想になりましたが、これだけキャリアを重ねても、
自己更新を図る坂本雄二の姿勢には感覚いたします。
あらゆる方向にトークが盛り上がるタイプの作品だと思うので、
皆様の話を聞くのが楽しみです。とのことです。
はい、ありがとうございます。
ありがとうございます。
うん。片思い世界。思わせぶりなタイトル。
なんかSNSで結構これを話を言及している人もちょこちょこ見受けられたんですけど、
まあ確かにその片思い、いわゆるその想像の想を使う思いじゃなくて、
普通にその思想の思の思うになっていると。
うん。
これそんなにそうかってなるかなって、僕ちょっと思ったんですけど。
まあ恋愛じゃないっていうことを意味しているってことですかね。
まあそうかってなりつつ、そこは確かに、
うーん、なんかタイトル回収されたぜ、やったとはあんまならない気もちょっとしていて。
うーん。
うん。
ちょっともう構いながら見てたんで、
なんかそれに対して何も思わなかったっていうのが正直なとこなんですよね。
うーん、そうなんですよね。
だってなんか仕掛けてくる映画だし、さっき山岡さんおっしゃってたように、それは本当にそう感じましたし。
ただ、ある人が言ってたんですけど、茶一郎さんという方だったかな。
はいはいはいはい。
片思いしている時の感情はこれに近いって話をしてて。
それは恋愛の片思いのことを言ってたんですけど、彼は。
はいはいはいはい。
要は自分の方は思いを募らせているのに、
相手側からしたら、何にも影響を与えられない存在なわけじゃないですか。
それは恋愛の片思いにおいてもそうだよねって話をしていて。
うん。
まあ、だから人間関係に相似てそれが起こってるって考えたら、
まあ確かにそう捉えることもできるし、
自分はその感覚にすごい近いと思いましたってお話を聞いてるのは、
なるほどなっていう感じはしました。
うんうん、なるほどな。はいはい。
うん、なるほど。
ねえ。
うーん。
あのー、加害者と被害者の対立のシークエンスは、
はい。
本当にどうかとは思ってます僕は。
坂本雄二ちょっとこういうことやりがちなんだよなーっていう、
ことを思ったりもするんですが。
はい。
ちょっとここはね、次のお便りがもうちょっと強めなので、
そっちで話そうと思うんですけど。
確かに。
はい。
ですね。
うん。
そうですね、ちょっといろんな方向に遠く盛り上がる可能性がある作品っていうのは、
本当にその通りなんですけど。
ただ今回はマリオさんなしなので、
まあ1対1でどこまで深掘れるかっていう感じですね。
はい。
はい、では次のお便り行きたいと思います。
ヒカリコータローさんからいただきました。
今年ベスト級のキャスティングとスタイリングにも関わらず、
今年ワーストになりました。
すべての要素が薄っぺらで、
特に犯罪加害者、被害者、遺族周りは怒りが込み上げてくる浅はかさだったかなと残念です。
おおー。
強いですね、なかなか。
はい、ありがとうございます。
ありがとうございます。
すごいわかるんですよね。
その怒りが込み上げるぐらいにっていう浅はかっていうのは、
僕本当その通りだとは思ってて。
ほうほうほう。
まあ、お母さんと犯人の対峙するところも、
まあ、その処理なのかっていうのはあって、
まずその被害者等人が加害者の側の声を聞きたいって、
結構センシティブな話だと思うんですよ。
へー。
それって本当に着地できるのかって思って。
うんうん。
ちゃんと着地しないっていう。
まあ、そうですよね。
ぐちゃっとして終わるっていう。
あれ、なんかすごい強烈な引きの強い展開にしておいて、
結局結論を出さないって、すごいなんかずるいなーじゃないんですけど、
なんかそうするんだったら、
そのやり方に始めからしなければよかったのにと、
僕はちょっと思ったんですけどね。
さっきも坂本優次、これやりがちなんですよって話をしましたけども、
それでも生きていくっていう、
ドラマの中で僕結構好きというか、かなり衝撃を受けた作品があって、
それも加害者と被害者の話なんですよね。
加害者家族と被害者家族。
で、その中でも直接被害者の親、
大竹忍が確かに演じてましたけども、
直接加害者に問いかけるシーンっていうのがあって、
でもそれも着地しないんですよ。
いわゆる着地は見せないし、
かつ、これもなんか引っかかるところなんですけど、
加害者の悪性みたいなもの。
要は、加害者にあんまり人間性を持たせない作劇が坂本優次作品は多い気が僕はしていて、
いわゆるタイコパス的な描き方。
しかもそれもすごくステレオタイプ的な描き方っていうのが非常に多いなっていうのはずっと思ってたんですよね。
しかも、それでも生きていくの主人公も割と、主人公というか加害者、
加田真さんが演じてますけども、割とそんな感じ。
なんかその危うさみたいなものをちょっとこう、なんていうかな、
サスペンスの要素として使ってしまってるところはあって、
手癖っていう言い方をして許されるもんじゃないだろうなっていう気はするんですけど、
なんか今回もそこはそんな感じなんだなーっていうのは、見てて思ったことではありましたね。
たぶん、おそらくご本人の中にこういった犯罪に対するめちゃめちゃ強い怒りはあるんだろうなとは思うんですけど、
じゃあなんかこの、これぐらいの感じでいいのかっていうのはちょっとまた違うような気も僕はしていて、
あとすごいなじまんなと思ったのが、加害者等人の描写というより、周りの人の対応の仕方なんですけど、
例えば子連れの親が公共施設みたいなとこに行って、追悼の日があるところで、めちゃめちゃ雑に子供に事件のことを喋るじゃないですか。
ありえないっすよ。12年前でしょ。子供が、児童が残殺された殺人事件のことを子連れの親が雑に語るなんてありえないっすよ、マジで。
めちゃめちゃセンシティブだし、なんだったら、あの施設に行くこと自体、だいぶ気使いながらになるはずだと思うんですけど、
あんな配慮のない喋り方を子供にしますかって、しかもろくに覚えてないでしょ。あんなのもう、国全体の記憶に残る大事件ですよ。
それをどんな事件だったっけみたいな、そんな雑に語ることはありえなくて、だってあえて事件名あげないですけど、
子供が残殺された事件の名前、雑に覚えてますか?ありえなくないっすか?
そうですね。
あと、横浜流星にアプローチしてくる女の子のデリカシーの無さ、ありえますか?
連続殺傷事件の当事者に向かってあんなことを言いますか?
あれはちょっと凄まじいなと思いましたけど、確かに。
ちょっと僕今語気強くなっちゃったんですけど、あれ見て、本作そもそもそこをちゃんと描く気ないなって思ったんで、逆にあんまり怒ってないというか、
もう、描く気ないって時点で怒っちゃって、もうそこから先、もうそこじゃないって思っちゃって。
まあ、もうそこを描く気ない作品だねっていうところに、その目盛り合わせなしなんですよね。
もうそこで一旦、なんでやねんってなった後、ああはい、オッケー、もうそういうことはちゃんとしないのねって本作はって思ったから、
そっから先、別に、犯人とお母さんの対峙とかも、別にそこをがっつりやる気ないと思いながら見てるんで、別に、まあ差もありなんだなぁみたいな感じで見ちゃったっていうのがあって。
もう本作はそこをやりたいんじゃないっていう。だからその殺人事件っていう、残虐な事件っていうものの解像度を上げたいんじゃなくて、どっちかというとこの世にある不条理ですね。
不条理に巻き込まれて悲劇に飲み込まれてしまった人の救いっていうものが、自分たちには関われないとこにもしかしたらあるのかもしれないっていう可能性があってほしいっていう話。
大井さんがさっきおっしゃられてたようなことなんだろうなとは思うんですね。大井さんの話聞いて言語化できた気がするんですけど、それのこの世界の不条理の象徴として、子供が残殺される事件っていうものが描かれてるだけで、
その事件そのものをつぶ立ててしっかり描く気はないみたいな、加害者の背景とか被害者感情みたいなものをしっかりと描くつもりなんてないって思ったんで、怒っても仕方がない。
それはそうだと思います。怒るのが的外れとまでは言わないんですけど、全然ここで引っかかって当然だと思うんですけど。ただ一方で、なんていうかな。だったらそう描くなよとも思いつつも、結局主題じゃないんですよね、多分坂本祐治さん。
本作の中では、そこはどこまで行っても多分主題にはならないんだなっていうところで、そこは他の人に任せようってことなのかもしれないし。
だからそこをちゃんと描くのって、エンターテイメントがやれる範疇じゃないような気もするんですよね。だからドキュメンタリーとかジャーナリズムの領域になってくるのかもしれないなって気もしてて。
もちろん犯罪加害者の人を殺す側の人間の内面に寄り添うことができるっていうのはフィクションのパワーなんですけど、それと被害者の関係性を描くみたいなのって、
エンターテイメントで無理だよっていう。 そうですね、特に当事者として絶対無理ですよね。
どうやったって、それを本当にギリギリのラインでやったのが退治かなと思ってますけど。 そうです。退治は多分そうなんだろうなとは思うけど。
でもエンタメではないっていう感じですね。 フィクションとしてっていうことですね。 フィクションだし、ある意味あれは思考実験だなって思ってます、すごくね。
そうですね、エンターテイメントは思考実験じゃなくって、一旦あるものを受け止めてそれを楽しんで、考えるのはその後なんで、そうなった時にノイズがデカいんですよね、やっぱり。
悲劇がデカすぎるんだよな。 そうですね、あと、そういった殺傷事件の加害者っていうものを描くにあたって、今、アドレセンスがありますからねっていう。 そうなんですよ、そうなんですよ。
そっちと比べると、まあ部が悪いというか。 解像度が低いですよね。
まあ、アドレセンス見よってなるなっていう。 そこをちゃんと考えるんだったらアドレセンス見よってなるなとは思って。
だからこそ、まあ本作はそこが主題じゃないし、そこを期待しても仕方がないっていう。 ただそこを、そんな形で使うっていうこと自体に対する怒りは僕もあります、それは。
それは持って仕返るべきだと思います。
という感じ、ちゃんと僕がヒートアップするところは出し終わりました。 ここでした。もうちょっと怒れるけど、同時に諦めもあるので、そこに対する。
これぐらいです。 ってな感じで、はい。では次のお便り、大石さんお願いします。
はい、バイリューさんからですね、いただきました。
シナリオ妄想術が何よりショットの繋がり、荒を探せばキリがないほど荒っぽい作品です。
しかしながら、東京の片隅で人知れず、肩寄せ合っていける人々というフィルターをかけると、自分でも驚くほどチューニングがあってしまいました。
ボブ・ディランのLike a Rolling Stoneの中に、No Direction Home、A Complete Unknownを正しく踏襲するような主人公たち。
悲しいながらもアップリフトするようなラストの味わいは、4番の歌詞のよう。
巷では、新海誠と比較する声が多いですが、個人的にはディランとその歌との共鳴を感じたのですが、どう思いますか?
How does it feelという歌詞の引用を述べてくださってます。
また、本作は作劇上視線が合わない。これが最大の特徴であり、制約に繋がっていましたね。
マンゴールドでなくとも、実写映画では役者の視線の交差で生まれるニュアンスに多くを託していることを逆説的に思いました。
そんな中で背後から首を振るという限られた芝居で、横浜流星とタメを張る広瀬鈴はさすがでした。
はい、ありがとうございます。ありがとうございます。
この視点ね、僕すごいあるなとは思ったんですよね。
彼女たち3人って、いないものとして扱われているというか、いないんですけど、ただ、観客としてはいないものとして扱われているわけじゃないですか。
でも別に、幽霊じゃなくても、他者とか社会からいないかのように扱われている人っていますよねって思うんですね。
そうですね。
彼女たちが人とすれ違おうとした時に、彼女たちが一方的に押し倒されるような形になるんですけど、
あそこのカットね、不自然すぎて、僕、映画撮るの下手なんかなって前半ちょっと思ってたんですけど。
ちょっとわかりますね。
会話の距離感とかね、聞こえる距離で噂話する下手なやつかよと思いながら、ちゃんと伏線だったんですけど。
ただ、それってありますよ、それは。
うんうんうん。
会話してても、もうなんか気にもされないし、存在してても別に意にも関されないみたいなことはありますよ、世の中に。
うんうんうん。
それが幽霊じゃなくてもね。
うん。
なんかその人たちが生きる話だとは思うんですよね。
うんうんうん。
絶望って結構、すごい孤独というか苦しみだなとは思って。
僕、彼女たちのような境遇に実際に置かれたら、僕やったら旅するなって思ったんですよ。
はいはいはい。
だから自分の居場所ってもう絶対にないじゃないですか、あれって。
そうですね。
じゃあ旅人になってしまえば常にストレンジャーだから、少なくとも誰かの居場所があるのに自分の居場所はないみたいな孤独を感じなくても済むと思うんですよ、旅し続ければ。
自分はどこに行ってもストレンジャーなのであれば、じゃあそもそもそこに孤独はそんなに感じなくなるんじゃないかなと思って。
なるほどなるほど。
知ってる人が大変なことになってても何も影響を与えれないし、その人からの何のアプローチもされないっていう孤独を感じるよりは、他人の中で生きていく方が楽やなって思うんですけど。
ただ彼女たちはその生き方を選んでるんですよね。人の中で生きるっていう。でもそれによって周囲から意味も返されないっていう。
社会の中で自分たちの日常を生きるっていう。でもそれって実際にあることだと思うんですね。別にどこにも行けない、ここで生きるしかないけれども、孤独でなくなるわけでもないみたいなことはあると思うんで。
なんかそういった人の写しみみたいな存在として彼女たちは見たんですね。
うーん、なるほど。なるほどな。なんかそれこそ、ヴァイリューさんがお伝えの中でおっしゃってますけど、東京の片隅で人知れずの方と出会って生きる人々というフィルターっていうお話ありましたけど。
東京っていう街というか関東で暮らしているとちょっと思うのが、電車に乗ってる時とか街を歩いてる時に自分で存在しないのかなって思う時はあるというか。
それは家族個人がそれぞれ個人として生きている瞬間だったりするんですけど、例えば通勤中とかって、別にそこに人いなくてもいいとか自分がいなくてもよくなる瞬間というか、多分誰も私のことを認知してない瞬間があるわけじゃないですか。
で、なんかそれだけど、家に帰ったり、あるいは自分大切な人との時間を過ごすと、自分でいたんだなって認識できるっていうのはあると思うんですよ。
なんかそれは多分まさに彼女と3人の生活そのものでもあるし、もちろんそれ以外のね、会社とか学校で居場所がないっていうところまでもちろんそれはあるし、自分もそこまでではないんだけど。
でもなんか、近しいものってどこかでちょっとあるなというか、あり得るなっていうのはすごい感じながら見てはいたんですよね。だからなんて言うんでしょうかね、その息が据える関係性というか、を大事にするってわけでもないんだよな。
とりあえずそれがあることで息が据えるみたいな、その人がいることで息が据えるみたいなことって確かにあるなーっていうことは思うし、ずっと坂本雄二ってそのこと言ってきたしなっていうのはあるんで。
だからすごい、そばゆーさんのお便りの中であるようなそのチューニングが合うって感覚は僕もちょっと一瞬あったような気がするというか、多分その瞬間彼女としては僕の世界にいたんだろうなっていうような瞬間はあるというか、なんかそういうのは感じましたね。
けっこうやっぱ東京って良さは大きいのかもしれないですね。
なんかそんな気はします。大阪ってやろうとしたらやっぱちょっと違うものになるんですかね。
ちょっと違うかもしれないですね。なんか違うかも。ちょっとこれふわっとしたイメージで喋っちゃうからあれなんですけど、僕たまに東京行って旅行してた時に思ってたんですけど、むちゃくちゃエモくなるんですよ。
東京にいたイフの自分とかを想像して、この巨大すぎる街の中で自分って何になったんだろうみたいな想像をするけど、同時にめちゃめちゃこう、なんか孤独も感じるというか、
圧倒的巨大な分母の東京っていう街の中の分の一でしかない自分っていうものが、めちゃめちゃ寂しく感じるなって思うんですよね。
で、東京というか首都圏って多分、東京都以外の周辺の県の人口とかを含めたら多分3000万人ぐらいいますよね。
もうおそらくそのぐらいは。
その分の一。その人口もそうだし、その情報量の中での分の一でしかない自分っていうものに対して、すごい怖くなっちゃうんですよ。
で、大阪ってもうちょっとなんていうか、あんまり周囲の密度が、密度じゃないな、なんて言っていいのかな。
もちろんその人口密度は東京の方が圧倒的なんですけど、その距離は感じないんですよね。
僕は今大阪に住んでますけど、自分の人生が処理できる情報量で動いてる街だなっていう感覚なんですよ。
で、東京に行くと自分が把握できない、もうコントロールしきれない情報量が上を向いてる街の中で、自分は飲み込まれるんだろうなっていうなんとなく感覚があって。
大阪すごい、自分のいろんなものにちょうどいい街だなって思ってて、東京の最先端カルチャーのおこぼれみたいなものが大阪までは届くわけじゃないですか。
そのおこぼれは僕は食べたいけど、本当にその最先端の方にあるものすごい情報量のものを頑張ってそれを食べに行く気概は自分にはないので。
なんかそのちょうどいい温度感の街だな、大阪ってなって、その東京は僕には寒く感じちゃいそうっていう感覚があって。
これ東京に住んでる人どう思うんでしょうね、これ聞いて。めちゃくちゃ失礼なこと言ってる気がする。
寒くね。でもなんのなくその先もちょっと話してましたけど、より大きなものの中で動いている感覚はあるというか。
それをさっきあの文振りでますって話しましたけど、だから本書いたりしたくなっちゃうんだろうな、文章書きたくなるんだろうなって思うんですよ。
そこに自分がいたことを証明してくれるものって、ただじゃなくて自分でしかないってなってくから、
そしたら何か残さなきゃ消えちゃうんじゃないかみたいな恐怖心みたいなものもちょっとあったりもして。
だからそれこそ思ったのが、東京ってめちゃくちゃ独立系の書店が多いんですよね。
だけど、それこそタイトルっていう、おぎくぼうにある書店があるんですけど、僕大好きで2回ぐらい、3回ぐらい行ってるんですけど、
その書店の店主の人が本屋を立ち上げるとき、立ち上げるまでの話を書いた本っていうのを1回読んだことがあって、
そこで、どこで本屋をやるかっていうのを検討したときに、地方か都会かっていう話を悩んだっていうふうに書いてあったんですよ。
で、長野の松本か東京かっていうふうに悩んでたっていうふうに確か書いてあったと思うんですけど、
松本に実際にそれ行ってみたときに、ここにいる人たちには本は必要ないって思ったっていうふうな。
なるほど。
それはおそらくさっき山口さんがおっしゃったような、手の届くというか、ここのぐらいで満足できる幸せがあるってことだと思うんですよね。
その、シュッシュの中で。があるから、もちろんそのカルチャー、文化資本の問題とかそういうところは一旦置いておくとして、
果たしてこの人たちは自分が提供するような本を必要とするんだろうかっていう問いをすごい感じたって話が書かれていて、
それはなんか単感的にちょっとわかる気がするんですよ。
東京にいる間の方が、むしろそういうものを摂取して自分を保たないと、何かに飲み込まれて名もなきものになっていく感覚があるというか。
またね、コンプリート案のうになっていくしかないから、なんとかそれを保つために、自我を保つために、
そういうものを摂取し続けるっていうことを選択せざるを得ないんじゃないかなって僕はちょっと思ってるところがあります。
それ、すごいわかりますね。
まあ、我々映画の話したすぎるバーっていう、ちょっとそのカルチャー的なイベントをやってるわけじゃないですか。
言い方だいぶあれですけどね、カルチャー的なイベントって言い方。
カルチャー的なイベント。
で、やってて思うのは、映画の話したすぎるバーって文房。
だから映画っていう文房で成立するんですけど、もっとニッチなとこ行くと大阪だと成立しないんですよね。
うんうんうんうん。
東京だともっとニッチなものが成立するんですよ。
てか、ニッチにしないと成立しえなくなっていきますね、だんだんね。
うんうんうんうん。
で、その、東京で成立するニッチが大阪で成立しなくなるニッチっていうのが、単なる人口比以上に差があるという感覚があるんですよ。
例えばその、東京県に3000万人人がいて、大阪県に500万人人がいるとしましょう。
ちょっと正確ではないと思うんですけど。
じゃあ、一つのイベントやったときに、東京だったら60人来るとしたら、人口比で言ったら大阪だったら10人来るかもしれないですね、みたいな。
そういう潜在的なターゲットがいるかもしれないですねってなっても、大阪で10人は来ないです。
これは僕の経験則ですけど。
同じニッチさでも、大阪でやると6分の1じゃない、人口比通りじゃない減り方をするんですよ。
そのニッチっていうものに対する、何というか、ニーズが全然違うんですよね。
うんうん。
で、その、東京じゃない、あえて東京とそうじゃない街って言い方にしたいんですけど、東京じゃないところに住んでると、そこに住んでること自体に意味があるんですよ。
そうですね。
大阪に住んでるっていう、そのローカルっていう土地の色が自分の属性に含まれるんですよね。
関西の人ですとか、あるいは名古屋の人ですとか、そういう色が自分にあることで、ちょっとそれは自分の属性、言い換えると居場所になり得るんですけど、
東京って基本的にそれはないですよ。
東京っていう、もちろん東京って強力な属性ですけど、その属性の分母がでかすぎて、あまりその自分の色じゃないと思うんですよね。
うんうんうん。
だから東京って属性だけ持ってても、まだ自分の属性じゃないという感覚になり得ると思うので、もっとその、じゃあ自分の属性が必要ってなっていくんじゃないかなっていう。
うんうん。
だからもっとその、ニッチへのニーズがより強い、東京じゃない場所に住んでるよりもっていうのがある気がするんですね。
うんうん。
その孤独、東京に住んでること自体では自分自身の、なんというか、自分自身のタグにはならない。
うん。
ハッシュタグ東京は、まああるかな、ハッシュタグ東京って言葉はあるだろうけど、もっと区切らないとダメですよね、東京。
ちょっと解像度荒い気がしますよね、そのタグはね。
そう。最近だったら港区とかっていう言葉がよくない使われ方してますけど、一つの東京のわかりやすい表彰の一つとして、港区とかっていう概念。
それこそさっきヒプノシスマイクの話したときも、東京は東京ディビジョンではないですからね。
はい。もっと区切らないとね、ならないですよね。
自分がどこに所属しているっていうのは、やっぱりその山手線のどの駅かっていうとこまで細分化しないと、自分の属性にはならないですけど、名古屋とか大阪ってもうそこで属性できてるから。
そうですよね。だからディビジョンになってますからね、名古屋も大阪も。
そうなんですよね。だからその、大阪に住んでたら、大阪かアンチ大阪かっていう二択で一旦自分の意思はあるんですよ。
あー、はいはいはい、なるほどなるほど。
大阪のことを嫌ってても別に大阪の中に意思はあるんですよね。
うん。
でも多分東京に住んでたら、もっと細かい意思を探しに行かないと自分の意思はない気がするんで。
そうですね。アンチ東京の中にも種類がありますね。
何々区とか、区で区切って喋るじゃないですか、東京の人の属性を語るときに。
なんならあと何々線でさえ、路線で話をする。
なんかその、だいぶ本作の話からずれてしまったんですけど。
そうですね。
その、東京っていう場所の、そこにいること自体に居場所の無さみたいなものが、本作の雰囲気に寄与している気はするぐらい。
なんとなく思うのは、だからこそ主人公たちは幽霊なわけですけど、
ちょっと自分を、生きてる我々が重ねられちゃうんだろうなっていうふうに思ったんですよね。
特に東京とか関東に住んでる人は、よりそれを感じられちゃうんだろうなっていうのは、
まさにヴァイオリさんがおっしゃったチューニングが合うって形でっていうことなんだろうなと思いました。
彼女たちがやってること、仕事、学生、あと水族館の仕事っていうのも、
東京の中での何かっていうものを求めてるようなものには見えるんですよね。
そうですね。
あれでもしね、大阪住んでたら、阪神の試合見に行ったら、一旦アイデンティティできる気がするんですよ。
なるほどね。
ていうか彼女たち、スポーツ見たらいいのにね。
あー、確かにね。
もう甲子園とか入りたい放題じゃないですか。
バックネット裏とか簡単に行けるわけですよ。誰も気にしないから。
まあまあ確かに。
で、もうね、アホポケかすって、私が監督やったほうが勝てるわみたいなこと言って、
でも別にそれって届かないわけですよ。
阪神ファンの矢字は選手や監督には届いてるんですけど、
別にそれが試合にも影響しちゃうんだよな、これが。
なんか幽霊にはなれないですね、阪神ファンは。
ただ、スポーツの選手に対してファンっていうものは、ある意味幽霊みたいなものというか、
本来的には影響を与えないもの。
だから、そこで他のファンと対等になれる可能性があるんじゃないかなって、今喋ってて思って。
あーなるほどなるほど、あー確かに。
だから、スポーツの応援してたら孤独じゃないですよ。
だってみんなで阪神応援してたら、あるいはもう、
翔平太谷って言ってたらね、一旦は別に、
少なくとも彼の場合はそうだったっていう、N1の情報なのかもしれない。
そうですね、まあ、合唱、このための設定だろうなみたいな。
まあまあ、そうですよね。そのための歌だしそのための設定ですよね。
まあそのみんなで一つのことをして、別にそれが相手に届かなくても一緒に物事はできるっていうものとして、合唱っていうものがあるっていう。
そうすれば、相手に届かなくても孤独は感じないかもしれないっていう。
まあそうですね。
いやまあ、でもやっぱり、ちょっと冒頭にも言いましたけど、彼女たちの話とすると全然もう平坦というか、
何も起こってない話だし、実際何も起こってないわけですけど、彼女たちの人生にも何も起こってないわけですけど。
なんかずっと坂本祐治ってそこに何かを信じてる人だなって思っていて。
たとえば、そもそもファーストキッスもちょっとそういうとこあるなって思うんですよ。
ファーストキッスだって死から始まる物語ですし。
で、結局ファーストキッスって、亡くなるという事実は変わらないわけじゃないですか。
いくら、ある種、タイムトラベルしてある種の結論に至った、物語的に結論に至るんだけど、でも死ぬことは運命であるっていう風になるわけじゃないですか。
で、タイムトラベルという形である意味、あれは幽霊に会いに行ってるという風に捉えることもできるというか。
坂本祐治作品で一番このことをすごい言及してたのって、尾本豊子と三輪の元夫だと思うんですけど。
その話の中で、中盤、今から尾本豊子のネタバレしますけど、めちゃくちゃ大事な友人が唐突に死ぬんですよ。
しかも、亡くなる理由とか、亡くなった事実みたいなのが後で突然知らされるみたいな感じ。
で、それを結構、僕らも視聴者もえっ!ってなるし、主人公の松坂コインジェル、尾本豊子も、ちょっと呆然としちゃうっていう。
で、そこで出会うのが尾田斐次郎なんですけど、彼が数学がすごい好きな男の人で、彼が言うわけですよ。
時間っていうのは一方向に流れてるわけじゃないと。ミルフィーユみたいに何層にも何層にも重なってるんだと。
レイヤー、まさにそのレイヤーになってるっていう風な話をするわけですよ。
で、過去にその人が生きていたことは、もしかしたらそれは、あるレイヤーで見た時に、ある点を見たらそうかもしれないけど、
レイヤーという層で見たら、過去に生きてるその人も今は生きてるんだっていう話をするんですよね。
だから、その人が生きていたっていう、それは亡くなったっていう事実は、そのタイミングではそうかもしれないけど、
その先っていうのも、もしかしたらあるかもしれないし、現在っていうのは、同時にその2つが起こってるっていう話が物理学ではあるよ、みたいな話をするんですよ。
で、それって結構当時見てた視聴者の中でも、かなり救われたって言ってる人が多い場面で。
で、本作ってそれをある意味、亡くなった側から描いてる話だなっていう風に思ったんですよね。
たしかに。
だからまさに言ってしまえば、ファーストキスも最後、亡くなる側の話をするじゃないですか。
あれもそうだと思うんですよ。
要は、オマルトは残された人の気持ちを落ち着けるために、その話が出てきたわけですけど、
最近のこの2作、片思い世界とファーストキスで、亡くなった側から、その先があったかもしれないって可能性を示すっていう形の救いを出してるなっていう気がしていて。
これは多分、大元にある思想は、おそらくさっき言った、誰かが亡くなったっていう事実に僕らはすごくショックを受けるんだけど、
それをどう解釈して生きていけばいいのかっていうのの、坂本勇次なりの答えがそこにあって、それをなんとかこの2作の中で形にしようとしてる、映像として、物語としてですね、出そうとしてるっていうことなんだろうなと思うと、
なんか、この人の思想を見てるなっていう気が僕はすごくして、そういう意味でイントレスティングだったんですよね。
はいはい、なるほど。ミルフィーの話ってファーストキスでもしてませんでしたっけ。
してました。はい、そうなんです。
自己引用をしてたってことですか、それ。
そうです、あれ自己引用です。
そうなんだ。
そう、主人公も全く同じでっていう。
はー、なるほど。
いやー、聞いてて、信仰ですよね、それって。
信仰ですね。
死後の世界をどう設定するかって信仰の話ですよね、それ。
そうですそうです。
ずっとそれをしてるってことなんですね。
で、たぶんそれを宗教ではない形でできないかっていう問いかけ方をしてるというか、
いわゆるスタンダードな、あの世この世じゃない形での、たぶん捉え方をしたいっていうことなんだと思うんですけどね。
はー、なんかそれはしっくりくるんですよね。
うん。
で、なんかその、悪とか不条理に寄り添わないのも、なんか信仰だなっていう。
うんうんうん。
信じるためにはそこの流度を上げないっていう。
うん。
悪は悪です。不条理は不条理ですと。
うん。
もう降ってくる粒手を避けることはできません。でもねっていう。
うんうんうん。
そのための不幸とかそのための悪っていうものなのかもしれないですね。
うん。
だからこそ、信仰が強く描かれるというか。
うんうんうん。
そうなんですよね。だから、そこにある信仰って神を信仰するとかっていうよりも、少しちょっと個人を信仰するって言った方が正しいんですかね。
うんうんうん。
またね僕らがそれこそお盆におばあちゃん帰ってくるよみたいなレベルの信仰を持つことでやる救いみたいなものを、すごい現代でやろうとしてる人なんだろうなっていう気は僕はしていて。
だからその最新作として今後作を見てたというか。
だから冒頭で言ったんですけど、奇跡が起こんないじゃないですか。
普通この手のゴーストストーリーは、奇跡を起こしてそこで泣くか、決めてというか、そういうふうにした方が楽だと思うんですよ。物語の作り手的には。
だってそんな本当に通じあえたら泣くじゃないですか。
でも結構徹底的に、特に広瀬続と横浜流星の2人のシーンですら、広瀬続が勝手にそう解釈したように見える。あるいは横浜流星が勝手にそう解釈できるように見えるっていうぐらいのバランスなんですよね。
だから特に横浜流星は、そこに広瀬続がいることを信じてるから、そこを読まないっていう。
なるほどな、なるほど。だから、そういった残された人の話にあった、いなくなった人の空白側を描いてる。だからミルフィーユの薄皮の側を描いてる話。
実はあの残された人の話にもいたかもねっていう。そのいなくなった側の人の別のレイヤーが剥がれた側のミルフィーユの薄皮があったかもしれないですよねっていう。それは現実もそうかもねっていう。それ自体がある種の信仰として働きうるっていう。なるほどな。なるほど。
そう考えると、確かに皆さんおっしゃるように、浅はかだし、めちゃくちゃ荒っぽいし、すごい飲み込みづらい作品ではあるなっていうのは、僕も重々そうだなっていうのはわかるんですけど、とはいえそこまでしても優しさを出したいというか。
傷ついた人たちに復位をもたらしたいっていう作品にも僕は見えるんですよ、この作品。その優しさは、なんかあんまり無限にできてないなっていう気がちょっとしていて。いやそうですね。そんなものはねぇって言ってしまったら、この世は虚無ですからね。そうなんです。
本当にそうなんですよ。だからタイムスリップできるかもしれないって思えば、タイムスリップはできて、でも運命は変えられないけど、意味合いは変えられるかもしれないわけじゃないですか。それと同じように、もしかしたらその先、亡くなった後も続いてる人生があって、僕らは何も干渉できないし、向こうからも干渉はされないんだけど、でもそこには楽しく生きてる人たちがいるかもしれないって思ったら、ちょっとは救われるじゃないですかっていう。
いや、だったらそれは映画がやるべきことですよ、それは。映画がやらないと、それは。
うん。だからそれをやっぱり愚直にやってる作品だなっていう。
すごいなぁ、そう考えたら。なるほどね。いやー、ちょっとごめんなさい、時間ないんで指名にかかりたいんですけど、いや、ちょっと見え方変わりますね、本作。
うんうんうん。