今日のテーマトークは、『アメリと雨の物語』です。
はい、ではマリオンさん、解説をお願いします。
はい、映画ドットコムより解説を読ませていただきます。
1960年代の神戸を舞台に、日本で生まれたベルギー人の女の子、
アメリの成長を描いたアニメーション映画、
ベルギーの小説家、アメリー・ノートンによる自伝的小説
『チューブな啓示音楽』を原作に、2歳の主人公、アメリから見た生命と色彩、
そしてウィットに富んだ彼女の言葉が織りなす、情感豊かな世界を描き出す。
1960年代神戸、外交官の家に生まれたベルギー人の女の子アメリは、
2歳半までは無反応な状態だったが、あるきっかけから無敵の子供時代に突入し、
自らを神だと信じて、魔法のような世界を生きるようになる。
大好きな家政婦の西尾さんや、家族と過ごす日々は、
彼女にとって冒険であり、新たな発見に満ちていた。
ある日、彼女は自分にぴったりな雨という漢字を知る。
そして3歳の誕生日、彼女をすべてを変えてしまう出来事が起こる。
ロングウェイノース、地球のてっぺんなどに参加したマイリス・バラードとリアン・チョーハンが監督を務め、
日本人作曲家、福原麻里が音楽を手掛けた。
2025年、アヌシー国際アニメーション映画祭で観客賞を受賞。
第98回アカデミー賞でも長編アニメーション部門にノミネーションされた。
はい、ではここから内容に触れる話に入っていきますので、
ネタバレ気にされる方がいらっしゃったら是非見てから聞いていただけたらと思います。
ではアサヤンの感想、マリオンさんいかがでした?
そうですね、ちょっと前回のオープニングトークの時でも熱量込めて喋っちゃってる部分はあるので、
そこと少しかぶってしまうとこはあるんですけど、
まず子供の目線に立った映画として完璧なんじゃないかというか、
綺麗なくらいに上手くいってる映画だと思いました。
本当に自分の自己認識が神のような存在であるというふうに思い込んでいる女の子が世界を見つけていく話。
その感覚ってもうもはやちょっと忘れてるけれども、
そういう感覚だったんじゃないかな自分もってすごい思わされたんですよね。
本当に目に見える世界だけが自分の世界であり、
そこの中心にいるのは自分であるっていう感覚は絶対あったなって思うし、
そこからいろんな世界のすごく喜びだったりとか悲しみとか怒りだったりとか喜怒哀楽というか、
そういったものを触れていくことによって自分っていう存在がすごくちっちゃくなっていくというか、
サイズ感が小さくなっていくし自分の中にいろんなものを落とし込んでいくような過程っていうのを
見事なアニメーションで表現しているなっていうふうにすごく思いました。
本当そこがすごく感動的で、もうそれだけちょっとやられている部分はありますね。
本当に輪郭線のないアニメ表現っていうかデザインっていうのもすごく素晴らしいなと思ってますし、
ロングウェイノースト、あとカラミティとかもそうでしたけど、
どちらも好きな作品だったんですけど、
ここに来てまた大傑作みたいな感じの映画に今作はなってたかなというふうに思いましたね。
あと音楽が素晴らしかったっていうのもありますね。
ずっとちょっとこれもサウンドトラック効いちゃうタイプの映画になったなという個人的には思ってますね。
一番好きなのはお盆の灯篭の準備をしているあたりで流れている曲がすごく僕は大好きですかね。
そんな感じですかね。
大井さんいかがでした?
傑作でしたね。
二人にあれだけ熱く熱弁されたので、これはいいだろうと思って見に行ってもうずっと良かった。
なんていうか、僕声の弱くてというか、子供時代を的確に描いているものにものすごく弱いんですよ。
なんでずっと泣いてたんですが、近い感覚をここ最近覚えたことがあって、
山口に旅行に行った時に金込雀の記念館に偶然立ち寄ったんですよ。
彼女、結構26歳で若くして亡くなっている童謡作家というか童謡詩人なんですけど、
彼女の歌を読んでいる時の感覚にすごい近いなって思ったんですよ、映画自体が。
歌というか彼女の詩か。
なんていうか、子供の頃のあの時の視点とか疑問とか、
純粋な世界との対峙の仕方みたいなものをもう1回思い出させてくれるような作品だなっていう気がして、
マリアさんもおっしゃってましたけど、
そうだったよな、これが世界だったよなっていう感覚をやっぱり自分の内側にというか根っこの部分にどうもあるらしく、
それに触れるとやっぱなんか涙が出ちゃうんですよね、すごく。
で、この作なんかすごい表現として面白いなって思ったのが、
最初シャボン玉みたいな空間から始まるんですけど、
あれってあの子のとっての世界であり、かつ近く範囲ですよねっていう、
子供の近く範囲ってそもそもこのぐらいでしょっていうところから始まるっていう、
それがだんだん家の周りに広がって庭に広がって、それがちょっとだけ街に広がってみたいな、
でもそのさらに外側には何があるかわからないっていう、
なんかあの感覚って確かに子供の頃、その街全体を世界と思ってた頃が確かにあるじゃないですかっていう、
自分もその団地に住んでいたっていうのを前多分、イノセンストの回とかで話してる気がするんですけど、
その団地に住んでた頃は団地が世界だったし、
そういう世界の拡張のされ方っていうものを本当に的確に表してるなっていうのが、
まずめちゃくちゃ見てて面白かったです。
あと西尾さんとの関わり方ってあったり、
西尾さんを通して自分の知らない世界を想像している瞬間の絵作りがまあ見事で、
一番印象残ってるのはもう、西尾さんが自分の戦争の話をされるところを、
カレー作りのその食材で表現するじゃないですか。
あれすごすぎるなと思って。
分かる、分かる。
そう、だから主人公のアメリにとっては戦争なんてものは分からないわけですよ、当たり前だけど。
だから当たり前だけど回想シーンには飛行機であったり爆弾みたいなものは現れないんですよ。
ただ話してることを想像するにあたってそこに絵として料理のその瞬間瞬間を切り取って、
そこにお話の間に重ねていくっていう、
それが人間の想像力ってもんじゃないですか。
それを本当に見事に表現してるなと思って、
あのシーンちょっと今作の博美だなって個人的には思ってます。
子供時代の話もしつつ、この映画が表現し得ている子供性と、
あとはその二言論的な世界なんだけど実は複雑なことを描いているっていう、
そこら辺の上手さみたいなものをちょっと語れたらいいかなと思ってます。
僕はですね、さわりの部分は前回しゃべったことが全てと言ってもいいぐらいなんですけれども、
アメリという一人の少女の自認によって世界を捉えているものが捉えきれなくなることで、
アメリの自認が人間になっていくっていうところの上手さみたいなものが素晴らしかったなと思いました。
個人の成長であるとか季節の変化みたいなものが、
それらが無限の流度でグラデーションの中で起きてるんじゃなくて、
この瞬間にこうなったっていうことで段階的に変化していく、
この瞬間に一気に全てが変わるみたいな描かれ方をするのが、
もちろんそれは写実的な描写としてはすごい誇張なんだけれども、
自認として見たときにそうかもなと思ったんですよね。
なんか急にしゃべるようになる、なんか急に性格が変わったようになるっていう、
季節が急に変わるとかって、
でも何かこの気づくということで世界を捉える、
それによって世界が動いていると思っている限りは、
自分は神なのだと。
ただ、世界は自分の気づきで動いてたわけじゃなかったっていうことを知ることで、
私は人なんだなっていう、
そのある種のイノセンスを喪失していくことで人は人になっていくみたいなのを、
すごい色彩高に描いてたなと思いました。
その語り口に説得力を圧倒的に持たせているのが、やっぱり美術、アニメーションの部分ですよね。
輪郭線で持って描かれているのではなく、
この世界には無限の情報があって、その光を我々は見ているのだということを、
アニメーションの範疇でやるにはどうするかっていうことをすごく工夫してやっている。
あるがままの世界を芸術の中で表現するにはどうするかっていう、
もちろんそれは作為によって作られているものなんだけれども、
やっぱり我々ってそこに無限の情報量を見出すわけじゃないですか。
それってすごい不思議だなと思うんですよね。
あるがままの世界を我々はずっと見ているのに、
芸術を通すことで、あ、世界ってこんなに豊かななって気づけるっていう、
なんかその気づきを与えてくれるものとして、
すごいバランス感覚で作られていたものだったんじゃないかなと思ってます。
っていう感じですかね。
はい、ではお便り紹介させていただきたいと思います。
マリオさんお願いします。
はい、タウルさんからいただいています。
こんにちは、タウルです。
私ごとですが、小さい頃に田舎から神戸の方に引っ越してきたので、
何もかもが新鮮に感じられたあの情景が蘇るようで、
懐かしさで胸がいっぱいになりながら見ていました。
本作は自我が目覚める前の幼児の、
世の中全てが自分を祝福しているようなワンダーランドみたいな感覚を
アニメーションで具象化していて素晴らしかったです。
さらにそれが消えていき、目の前のものの意味に気づく心も描かれていて、
悲しいことや恐ろしいことであっても、
自我の形成としては大事な経験であることを改めて知ります。
また、アメリの行動や思いが
加勢府の西男さんの記憶と重なる場面では思わず涙しました。
子供といるとああいう瞬間って確かにあるんですよね。
子供が自我に目覚める時、同じ思いをしていると感じた時、
大人にできるのは抱きしめることくらいかもしれませんが、
その大切さを信じたい、そんな気持ちになりました。
はい、ありがとうございます。
ありがとうございます。
タオルさん、神戸に小さい時に引っ越されてきたってことなんですかね。
うん、みたいですね。
田舎の方ということはおそらく北側の方ってことですよね。
はいはい。
たぶん。
神戸の中では田舎の方のエリアではありますけどね、劇中は。
どうですか神戸描写。
そう、めっちゃ神戸じゃなかったですか。
神戸在住ですけど、神戸広いんでね。
僕の住んでる神戸ではない部分はあるんですけども。
でもなんか六甲山越えた先にあるあの感じはめっちゃわかるなと思って。
わかりますし、まずね、日本の描写として何一つ間違ったところほぼない、
ほぼというか出てないからそこがまずすごいですよね。
はいはい。
これインタビュー聞いてびっくりしたんですけど、
監督制作陣含めて日本に来たこと一回もなかったんですって。
マジですか。
やば。
そう。
で、インターネットでの取材とか資料集めであったりとか、
あるいは作者というか原作者のアメリー・ノートンさんのドキュメンタリーで神戸に行くって回があるらしくて。
へー。
そういうのをご覧になって今作の描写に取り入れられてるらしいんですよ。
ほうほうほう。
本当は取材したかったけど来なかったんだよねってのをなんか言ってるインタビュー見つけてマジでって思って。
いやーそれでここまでやれてるのすごいですよね。
あの万博のポスターが貼ってあったりとか、
植物植えてるカンカンが森永とか書いてあるとか。
いや僕らしかわからんやんっていうか、僕ですらそこ生きてない時代の話ですけどっていうのは、やっぱそこまで描けてるのすごいなって思いましたし。
あと僕これ見て初めて知ったんですけど、あの年代にポートタワーってあったんやって。
あ、そうそうそうそう。
てっきりめっちゃ最近の建物だと思ってたんですよ。
うんうんうん。
もうあったんですね60年代にはっていう。
あれ衝撃でしたね。
そっか、そうだっけ。
いや、ウルトラセブンのキングジョーの回でポートタワーって出てたんだっけって今ちょっと思い返させてたんですけど、
あれ神戸、神戸港で戦う回なんで。
あ、そうなんですね。
だからなんかね、すごいっすよね。
作り手の中でそんなにしっかりとした情報収集がされたというか、あくまでこう二次情報を集めた中で作られてたってことなんですね、これ。
そう、そうらしくて。
で、実際そのパンフレットのインタビュー読んだ時に片渕真央監督のお名前を出されていて。
はいはいはい。
やっぱこの世界の、まあしかもさらにいくつものの方を確か研究されていたかな。
片隅にのアプローチっていうのをすごい参考にしたって話をされたんですよね、監督たちが。
なるほど。
あれも徹底的な取材をして、それに基づいてそこにいた人たちを再現してみようという、ある種ちょっとこう芸術をちょっと超えてるというか。
っていうようなアプローチじゃないですか。
はい。
多分それにかなり影響は受けてるっていうのは監督お二人はおっしゃってたので。
あーすげー。
はいはい。
いやーその商品名とか、実際の当時の雑貨みたいな、あるいはその家電みたいなものが描かれると、急に実在感出るなと思って。
で、ちょっとたびたび名前出して恐縮なんですけど、隣のトトロってやっぱファンタジーなんですよね。
うんうんうん。
なんかどこかにあったかもしれない日本像みたいなもので、結構偶像化されてるものだなって感覚すごい強いんですよね、隣のトトロ見てて。
だからそれが悪いとかではなく、それはそれで日本人全員の同型みたいなものになってるからすげーなと思うんですけど、
ただそのリアリズムはないとは思うんですよ。
これって本物だなっていう感じというか、理想だなっていう感じになるなと思って。
やっぱこの缶を植木鉢にしてるみたいな、そういう商品名が見えてしまうとか、車の形の、これ当時の車の形だなみたいな、
なんかそういう部分に急に現実の身体性が帯びる感覚があるなとは思うんですよね。
そこにやっぱりアニメーションとはいえ真実味がしっかり帯びてくるあたりが、やっぱりそこがまずこの物語の説得力を増してるというところでは間違いないですよね。
そうっすねー。
あとザ・ピーナッツの動画が流れたとか。
そうですね。
よくザ・ピーナッツとか知ってるなと思ったけど、よく考えたらモスラ見てたら知ってるんですよね、ザ・ピーナッツ自体は。
確かにね、そうですね。
そこをきっかけではあるのかとも確かにそれはありえるか。
やっぱそのあたりの背景美術の選び方みたいなところの説得力、もちろん実際にその生活をされてた方が作ってるわけじゃないから、
想像の範疇は多々あるんでしょうけど、ここまで作り込むってなんかその姿勢自体にむちゃくちゃクリエイティビティを感じるなと思いますね。
あとパンフレット読んでて結構びっくりしたのが、割とこの物語、原作中文は刑事上学でしたっけ?
っていうアメリノトンの半分自伝的小説からスタートしてるわけですけど、割と脚色してるらしいっていう話。
そうなんすね。
があって、まず原作側には西尾さんいないらしいんですよ。
は?マジか。
西尾さんと鹿島さんはほぼ同一人物、てか2人とも確か家政婦なんじゃなかったかな。
違うな、西尾さんはいるけど2人とも家政婦なんだ。だから鹿島さんの複雑性って描かれないらしくて。
そうなんですね。
で鹿島さんが助けるっていうのも、この原作オリジナルの展開だったりも、今回の映画オリジナルの展開だったりもするっていうところもあって、
結構映画の大事なシーン大事なシーンは原作にはない形の脚色をしてるっていうのも聞いて、それも結構勇気あるなと思って。
どうやらその原作ってアメリノトンってあんまり日本だと知られてない作家だと思ってるんですけど、
フランスとか、特にフランスかな、ではベストセラー作家らしくて。
みんなが知ってる物語だと思うんですよ実はこれ結構。何回か彼女の作品自体が映像化してるってこともありますし。
っていうものも割と大胆な脚色を施した上で、しっかりと作品として仕上げてるっていうところとかも、
そこら辺も含めて脚本の上手さっていうプロットの上手さというか、が間違いないなと思って。
そうですね。
そっか、結構じゃあ大胆に色々映画版なりの独自の解釈みたいなのというか、入れ込んでるんだなっていうのはちょっと知らなかったので、
元の原作もやっぱ映画見てめっちゃ興味があったので、これをまずどうやって小説に書いてるのかなっていうのもちょっと気になりましたし、
ちょっとそこに気になったんですよね。
日本だと多分本屋さんだと手に入りづらいのかな。
多分作品社ってすごい小さい出版社から出てて、もしかしたら絶版になってんじゃないかなって調べた限り思ったんですけど。
すごいな。けどね、日本が舞台でっていう作品じゃないですか、これね。
意外とそうかみたいな感じですよね。入ってない、なんか認知はされてないんだなみたいなというか。
翻訳は多分3冊ぐらいアメリノートンって国内で発売されたことがあるんですけど、その一番最初の作品が、
彼女って1回1年間ぐらい日本でOLをやってたことがあるんですよ。
あなた1回ベルギー帰るんですけど、17歳ぐらいで、色々てんてんとした上で。
で、その後に日本に就職をして1年間か2年間サラリーマンとして働いたことがある。
で、その時のつらかった経験を小説にしてるっていうことがあるらしくて。
で、割とそれが、それめちゃくちゃフランスで大ヒットして、フランスで映画になったりもしてるんですけど、
日本ではめちゃくちゃ批評されたらしいんですよ。批判されたらしくて、それって。
日本の会社描写を悪く言ってるというか、日本の会社文化みたいなものを批判してるんじゃないかみたいな文脈で捉えられたらしくて、当時。
だからフランス映画、確かフランスは結構ヒットしてたっぽいんですけど、日本では公開されなかったらしいんですよね。
っていう文脈もあって、あんまり日本では、確か3冊ぐらいしか翻訳というか、あんまり出されていない。
これを機にある意味、チューブな刑事上学とか文庫化してもらえたらいいんじゃないかなとかちょっと思ったりもしたんですけど。
そうですね。
あんまりフィーチャーされたことがない作家さんらしいっていう。
チューブな刑事上学ってむちゃくちゃいいタイトルですよね。
いやもうね、素晴らしい。
最初どういうタイトルって思いましたけど。何って思いましたっけね。
でもその最初の説明があるじゃないですか、チューブ。人間は食べて出すだけのチューブであるって。
あれ僕理学部の生物学科に入った時に、発生学の授業で一番最初に習ったのそれですからね。
生き物はチューブだっていう。
実際クラゲとかを除けばだいたいチューブではあるんですよ。長時間から発生学って始まるので。
だから生き物はチューブになるところから始まるって意味ではめちゃくちゃ妥当なんですよ。
何だろうな。僕あれ、まだ自我が確立してない状態で、自分自身を現象として捉えてることだなって思いながら見てたんですよね。
多分そういうことを言いたかったんだと思うんですけど。
だから自我とか自由意志があるものではなくて、ただいろんな情報が取り抜けていく。
情報が取り抜けていく瞬間の狭間にだけ自分というものがあるかのようなものとして描いてると思うんですよね。
生まれた時のまだ物心ついてない状態をそういう現象として捉えてるっていう。
ただそれが単なる現象ではなくて、だんだん自我っていうものができてくる。
単なる情報が取り抜けていく管ではなく、そこに情報そのものが蓄積していて、そこから情報が放たれるものになっていくっていう。
そうなった時にやっぱり自分自身の情報っていうものと、世界の側が持ってる情報っていうものに壁ができると思うんですよね。
その境界線こそが事故というものなんだろうなっていうのは思って、それがそのチューブっていうものから始まるっていうことのしっくりくるなっていう感じをすごい見ながら思ってたんですよね。
ちょっと話の軸ずれると思うんですけど、僕夏になると自我が薄まって、冬になると自我が強まる感覚があるんですよ。
それって皮膚が外気をどう感じているかの差やなと思うんですけど、
夏って結構自分自身と外気との境界線が曖昧な感覚があるんですよ。
冬って寒いから皮膚に強いダメージくるじゃないですか。
それ自体が世界と自分の境界線でこれが自分なんだって感覚が強くて、
気温が暖かい時って世界に対して自我っていうものが冬ほど強くないって感覚があるんですよね。
これってあんま一般的な感覚じゃないですか。
そんなのないです。僕、冬って自我強いなみたいな感じに思ってたんですけど。
あれは何だろう。季節と自我、自我というか精神状態に近いんですけど、
春は不安定だなって思ってます。自分の精神状態が。
それは多分、さっきの残寒指紋とかってよく言いますけど、
さっき山口さんがおっしゃった自我が緩い状態と自我を認識しなきゃいけない状態っていうのが、
交互に1週間ごととかに来るじゃないですか。
で、これって精神にとって結構応えるなって気がしてて。
自分の理想としては自我はないほうがいいんですよ。できるだけ無参してたほうがいい。
ですけど、無参しようとしたところに、それ緩んだところに急に自我を突きつけられると結構しんどくなって。
で、わりと心のバランス崩しやすいなって思ってるんですよね。
これちょっとあれですけど、やっぱ春ってしかも、プラスそこに新生活とか始まって環境変わりがち問題とかもあるから。
そう、年度末と新生活が同時にきますからね。
大体みんな5月病みたいなものにかかるじゃないですか、みたいなものとかあるの。
もうちょっとそこに近い風があるのかなって気がするんですよね。
でもそんな自我がどうこうみたいなの考えたことないくらいののんびり生きてるんで、私みたいなのはあるんですけど。
その感覚言われてもなんかありそうだなと思ったんですけど。
だからその劇中ではアメリーが成長に伴って自分自身を単なる現象から事故っていうものとして捉え直していく過程が描かれてると僕は思うんですけど、
別にその自分というものが自我が確立したなっていう後も、なんかその気温の変化だけで結局事故っていうものも現象の一部なんだなみたいに思うし、
その現象の中に事故っていうものってそれでも確立してるんだなっていうのを、その季節の移り変わりの中でもちょっと感じたりするんですよね。
だからそれぐらいこの自分と世界の境界線ってあるし同時にないっていうのをどっちも体験することで気づかされるというか、っていう感覚はちょっと僕はあるんですよね。
たぶんそれってある程度は日本独特なのかなって気もしていて、おそらくそのお気温もあると思うんですけど湿度もあると思うんですよ、その境界線が曖昧になる理由って。
めちゃくちゃあります。
そうなるとたぶんすごいある種日本的な感覚なのかもなっていう気がするというか、もう少し乾燥していたらもうちょっと自我だけでいれたのかもしれないというか。
実際、世話って結構その個人主義というか、哲学でも個人というのを一番最小単位として捉えやすいじゃないですか。
一方、日本ってもうちょっと広いコミュニティが最小単位になりやすい。
それがたぶん、よくね、方向に行くと過不調性とか家族の嫌な面とかになったりするんですけど。
結構その独特の感覚で、確か原作の中でも書かれてたし本人も言ってたんですけど、アメリー実際3歳までは日本人だっていう自認があるんですよね、自分自身。
だからそれゆえの感覚的な自我の形成のされ方みたいなことをしているとしたらすごい納得できるなって気がする。
あの展開ね、そりゃそうやろって思いますよ。私日本人だよって、そうやろなって思うし。
カエルって生まれた時からここなんですがって。
そうですよね。
いつ生まれたかちょっとタイミングよく分からなかったですけど、たぶん日本で産んでるでしょう、タイミング的には。
そうですね、あのお医者さんの感じで日本人っぽかったですよね。
だからそうだと思いますよね。
これは自認日本人はそりゃそうだろうって思いますもんね。
結構あの年代の子供にとってそれが揺らぐって結構なクライシスだなと思いながら見てて、めっちゃしんどいなこれって感じましたね、あそこは。
まずあれですよね、おばあちゃんがベルギーに帰るっていうところの、ベルギーってなんだっていう。
そうですよね。
だってあれ本当、結構みんなから思い出したのはかぐや姫の物語の冒頭とかも思い出しながら見てたんですけど、子供として成長していくあのシーンとかも思い出しながら見てたんですけど、もうあの当時の子供ってベルギーなんで月ですよ。
いやそうですよね。
ほぼ黄泉の国ですよ、あれ。なんだら一生帰ってこないし。
確かにちゃんと帰ってこねぇしなっていう。
だからほぼなんか、あのアメリーがかぐや姫みたいな感じに見えるなとはちょっと思いながら見てて、本当は月から来たのにっていう感じというか、いつか帰らなきゃいけない、月に帰らなきゃいけないんだって言われた主人公ってすごいかぐや姫に近いなっていうのをちょっとなんか見ながら思ったりはしてました。
そうですね、なるほどな。
かぐや姫って言われるとものすごい悲しい話になっちゃうので、かぐや姫の物語って聞くともう悲しい物語しか思えないじゃないですか。
あのかぐや姫の冒頭のその子供が世界を認知していくそのシークエンスってめちゃくちゃ美しいじゃないですか。
美しい。
それ言うのに最後がきついんですけど。
アメリーとアメの物語に関してはそこで止まってくれてるというか、からまだ気持ちよくじゃないけど、心穏やかに出れるっていう部分はすごいあると思うんですよね。
まあちょっとね、月まで帰っちゃおうと思って、そこちょっとトッピジャンデーみたいな。
けどまあ、いつかこの場所からいなくなってしまうやもしれぬみたいなことに気づきながらも、じゃあ今をめっちゃしっかり生きたいじゃんみたいな気持ちになって終わるっていうのはすごくいい捉え方だとはすごい思うんですよね、やっぱり。
確かにいつかはその目の前にいる世界っていうのが変わってしまうかもしれないがっていう。
けどその時を全力で生きたいしその時のことをどうか覚えていたいっていう気持ちはすごくわかるなと思いますよね。
正直やっぱ大人になればなるほどそういうことって忘れていっちゃうんだよね、正直。
こうやってなんかエピソードトークとして話せることってもうほんとギリギリっすよ、ギリギリ。もう大半忘れてる正直みたいなっていう部分だと思ってるので、僕は。
本作におけるなんか救いってその覚えておくってところにあるじゃないですか。
アムリは自分が今持っている世界みたいなものを失うっていうことにものすごく絶望するっていう。
いつか自分がこの全て持っているもの近くにあるものを失わざるを得ないんだって知った時にもう世界というものに裏切られたような気持ちになるじゃないですか。
で、あれを結局救ってくれるのは死の間際というか死にかけた間際に見たおばあちゃんから覚えているんだから大丈夫だっていう言葉なんですよね。
なんかさ、あれを見てちょっとだからという通りスリーギリみたいな気持ちになって。
お前は覚えてないかもしれないとか思って、自分が子供の頃の記憶を。
いや、それありますね。ありましたね。
僕、小学校のどっかのタイミングぐらいまで自分がこれまでに見た夢全部覚えておこうとしてたんですよね。
おーすごい。
こういう夢見てこういう夢見てっていうものを全部覚えておいて、自分の中の大切な夢として残しておこうとしてたんですけど、
だんだん間に合わなくなっていって。
で、あと似てる夢も見るようになって、この夢とこの夢の区別がつかなくなってくるんですよ。
だから一つ一つ大切により分けて保管していたものが、全部ごそっと同じ箱に入るようになってきてしまって、
もう今では夢っていうすっげー大雑把な一塊としてしか捉えられなくなってるんですよね。
で、さらにはもう最近悪夢しか見ないっていう別のものがすごいあるんですけど。
それは、おー。
まあまあ、で、やっぱり忘れるって怖いというか、僕もったいないっていう感覚でしたね。小さい時。
こんな素敵なものがなくなるなんて許せんって、絶対ずっと握りしめておくぞっていう。
で、気づいたらもうパタってってから離れてたんですけど、なんかその感覚はあるなって思って。
だからやっぱ世界っていうものに対する認知がまだまだ広がりきってない状態の時って、
自分の認知で世界を捉えきれているっていう段階だと思うんですよ。
私が知っているものが世界だって自信を持って言える。
ただどうも私の手に余るぞと、手に余るどころか全く関与できないぞこれはってなって、
その小さな絶望の積み重ねの果てに諦めっていうものを内包した人間になっていくと思うんですよね。
私は世界と繋がれてないなっていう存在になるっていう。
そのグラデーションの途中ってむちゃくちゃ切ないなって思うんですよね。
私って持ってたものを全部こぼしていくんだみたいな。
そう思いながら成長していくのが、すごく切なく感じてしまうなって思ったんですね。
一方でですけど、海に行った帰りに西尾さんの記憶がこうふわっとね、こう繋がっていくみたいな瞬間も描いてるじゃないですか。
あそこ泣いちゃいましたよね。
あれは美しいシーンだったな。
美しい。しかもやっぱあの空っぽの瓶からですよ、それが呼び起こされるっていうのがなんかちょっとね、感動的すぎるなっていうか。
西尾さんの背景って、それこそ本人が語る戦争の話ぐらいしか、それ以外ってあんまないんですよね。
どういう状況を送って、どういう家で過ごしてきてとかってあんまり描かれない。
ただ、あのシーンがあるだけでめちゃくちゃ奥深く感じるんですよ、彼女の人生が。
そうなんですよね。
アメリには別に話してないことじゃないですか、あの時に思い出される思い出って。
同じ海に行ったことあるよっていうのは話してますけど、そこでの幸せな時みたいなのっていうのは、もちろんわからないわけで。
なんかそういった瞬間がこうふわっと蘇ってくることもあると思うんですよ。
もう正直はい、もう子供時代のこといっぱい忘れてますよみたいな。
ボールじゃなくて僕はザルなんで、結局いっぱい抜き落ちてると思うんですけど、
ただザルのような目でもなんか詰まって残ってるんですよみたいな部分だったりとか、
ちゃんと覚えてる部分とか忘れられない思い出みたいなのとかはやっぱあるわけで。
なんかそれがふわっと戻ってくるみたいな瞬間はすごくあるなと思うし、
僕が今作を見てなんとなく子供時代のことってこうだったじゃんみたいな思い出すときの感覚と一緒でもあるってすごく思いましたね。
うんうん。
そうですね、なんか世界というかちょっとずつ自然というか生き物というか、
そういったものを理解していく過程とか、あるいは一緒にこう、
一緒に物を作りながら、灯籠を作りながらですけど、こうやって感じとか、
あとあれですよね、親が自分の好きな全然違うものを勘違いしてあげるあたりのこの生きどおりとか。
そうですね、いやーこれ本当に思うんですけど、前編にわたって、両親アメリのことなんも分かってねえ感がすごいっていう。
でも、子供から見た親ってそうじゃねえってすごい思ったんですよ。
なんで分かってくんねえんだみたいな気持ちで生きどおって泣き喚えたことたくさんあるなって思って。
なんで僕を幼稚園に連れて行くの、行きたくないのにみたいな、でも連れてくわけじゃないですかみたいな。
だってそういうもんだからって感じなんですけど、そういうときの子供の感情って、
私の気持ち分かってくれてないみたいな感情になるなと思ったんですよね。
なんか、もちろん嫌いとかじゃないんだけど、分かってねえなみたいな風に思うみたいな感覚すっげえ分かるなって思いましたね、本当に。
僕、小さい頃ってテレビゲームが流通しだして、僕の世代ではスーパーハビコンだったんですけど、
テレビゲームなんてやりたいわけですよ。
必死の思いで親に頼み込んで手に入れて、ただうちの父親もテレビゲームに全然理解を示さなくて、
やってたら、なんか嫌な顔するんですよね。嫌な空気を放つんですよ。
僕はそれで、別にテレビゲームはやれないわけじゃないけど、すごい居心地が悪かったんですよ。
何が嫌だったかって、テレビゲームをやることを咎められることじゃなくて、理解されてないのが嫌だったなと思うんですよね。
あー、なんか理解されてないなみたいな。
もう一個近い記憶があって、僕、小学校6年の時にテレビのドラえもん見てたんですけど、
父親から、小学校6年になってドラえもん見てんのかって言われて、
いや、ドラえもんなんて未来英語を見るだろうがって思ってたから、めちゃくちゃ嫌だったんですよ、そんな。
なんでここ否定されなあかんねんみたいなので。
で、別に見るなって言われたわけじゃなくて、そこを分かってくれてなかったことがすっげえ嫌だったんですよね。
ただ、それによって、父親って他人なんだなって学べた気もするんですよ。
そんな寄りすがるほどのものじゃないなって思ったですね。
だから、そのアメリットって西尾さんの救いというか、
その、親ではない大人の存在の大事さ、ですよね、とにかくね。
本当にすごいかけがえのない関係性だからなあみたいなって思うんですよね。
そんな人と出会えないからなあ、なかなかね、みたいな。
その西尾さんと後鹿島さんを通じて描かれる、彼女が生まれる前に起こった出来事への、なんて言うんでしょうね、世界の複雑さ。
日本という国が抱えてきた敗戦国っていうトラウマと、
それによって、おそらくまだ生まれている外国人という、しかも現在でも全然進行形ですけどそれは。
外国人に対するある種の差別意識というか、自分たちは違うんだっていう意識。
あるいは相対する非常に強いコンプレックスみたいなものを、三歳にしてあまりは浴びるわけですよね。
なんかここまで描くんだって正直ちょっと思っちゃって。
それさっき大石さんが鹿島さん原作にいないって話してたじゃないですか。
はい、あのポジション、親さんというポジションとしてはいないっていう。
結構彼女の存在自体は結構作意を感じるキャラクターだなと思ってて、
世界って複雑っていう役割を持ってるキャラクターだと思うんですよね。
彼女と接することでアメリは世界の複雑さを知るっていうののネガティブな側面なんですよね。
ポジティブな側面は二章さんが担ってるから、やっぱネガティブな側面を鹿島さんが担ってて、
それと接することで、世界を知るって痛みを伴うんだみたいなことを学ぶ存在として、
光と闇のメンターに役割分担されてるなって感覚は。
そうですよね、もうライトサイドとアークサイドみたいな感じでね。
だからそこのある程度の分かりやすさはやっぱり設定されてるなとは思うんですよね。
明らかに彼女たちの服装というか、キャラクターデザインがそもそもそれを物語ってる感じがするのもまたこう印象的ですよね。
確かにそうですね、やっぱり着てる服とか特にね、やっぱり。
二章さんはやっぱ黄色とかがメインかなって感じしますけど、
鹿島さんは紫というか青とかですよね、勝負みたいな色って言うんですかね。
あともう一個対比されてるなって思ったのが川。
二章さんと行くところは水辺に水が必ず張ってるんですよ。
池の周りで一緒に歌を聴いたり、家事をしたり、あるいは鯉に餌を与えたり。
一方で鹿島さんの家の前には枯水山があるわけですよね。枯れてるんですよ、川が。
そこでもまたこうある種の対比構造にもなっているし、そこのなんかやっぱ分かりやすさというかモチーフの使い方とかはめちゃくちゃ意図的に配置されてるなっていうのを思いました。
そこは自然なものを描いてるわけでもないなとはなるんですよね。
すごい意図を持って配置されてるなっていうのがあって。
ちょっとこの件、僕今ジンの原稿を書いてる時にも似たようなことを思ったのがあったんですけど、ちょっと思い出しただけなんですけど、
あれって1年ずつ同じ日を遡りながら、その1年の間にあったいろんなことを想像させるように作られてて、
実際にめちゃくちゃ人生の節目になるようなイベントっていうものはあんまり映像としては描かれてないんですよね。
そこに結構人生の余白みたいなものを感じながら見る映画だったなと思うんですけど、
同時にそれってむちゃくちゃ作為だなって思うんですよ。
カメラを固定しておいて、ちょうど観客に余白を感じさせる情報量だけをフレームの中に収めるようなコントロールが画面外からされてるなとも言えるじゃないですか。
自然っていうものが映像に映る中だけで見えるっていうのは、それは映ってないところにむちゃくちゃ作為があるからだと思うんですよ。
あとそれを感じるのが、盆栽とかもそうなんですけど、盆栽ってこの自然の生命力みたいな、あるがままみたいな姿を人間の先天によって表現するわけじゃないですか。
ただ単に木が生えてるだけでは人間はそのメッセージを感じれないと思うんですよ。
それを作為によって自然というもののメッセージを表現することができてるって、すごいなんか不思議だなと思いつつ、でも僕これが芸術だなと思ったんですよね。
本当に自然なものには人間は自然を感じれなくて、あるがままのものを感じるためにはちょうどいい作為をそこに配置しないといけないんだなって。
そのちょうどいい作為が西尾さんと鹿島さんなんだろうなってちょっと思ったんですよ。
あれ以上いくと、この話作られた感強いなってなるし、彼女たちがいなかったら結構捉えどころない話にもなるような気もするんですけど、
なんかちょうど説明されてるし、ちょうど説明されてないなっていう感じをちょっと感じたんですね。
唯一説明があるというか、あの二人が交わるシーンってやっぱりお盆のところの灯篭流しだと思っていて、
あれがそれぞれのきっかけにもなるわけですけど、あそこでまさにあれもまた川でっていうところが結構特徴的だなと思うんですが、
あそこでその三人が会合するっていうところに、その流してるってことはっていうところまでこちらが読み取れてしまう。
なんか二人のモチベーションは同じだけど、でも今ある状況としては真逆であるっていう、
なんかその感じがすごい本作って結構、最初神だって言ってるところが始まる通り、
そのすごい二言論的な分け方というか、いろんなものが二つに分かれるような形であえて描いたような描写が多いと思うんですけど、
その中でその間みたいなものを匂わせてくる。
それは描かないことによって匂わせてくるっていう感じがやっぱり見事だなと思いますね。
あと何か触れとくとこありますかね。
ちょっとだけ思ったのは、子供の日が描かれて雛祭りは描かれないんだなってそれだけ思って。
あそこね。
確かにちょっと思いましたよ。
もちろんお父さんが知らなかったってことなんだろうなと思ったんですけど。
そうか、そうかなっていう。
ちょっともう1個可能性として思ったのは雛祭りがそもそも女の子の日ではなかった説もあるのかなと思って当時。
どうなんですかね。
実際お大事様と雛様飾るのって天皇の多分を賛美するっていうところの方が多分意味合いとしては強い気がするんですよ。
雛人形というものって。
ってなるとあんまりそれに女の子って紐づかないのかなっていう気がした、本質的には。
私なんか子犬ぼりとかみたいな何かが象徴になってるみたいな感じの日でもないっていうんですかね。
仮にあれ雛人形って出しすぎると結婚遅れるみたいな話が続出されますけど。
でもたとしたら直接的すぎるっちゃ直接的すぎるなって気持ちとして。
結婚式を祝いたいって祭りじゃんそれってちょっと思った時に果たして女の子の祭りなのかこれってちょっともうふと思って改めて考えた時に。
まあそうですね。
あそこはちょっと不思議な展開でしたよね。
抵抗を感じるための流れにもなってるから。
まあ全然アイコットを感じることはそんなに不自然ではないですけど、ひな祭りはないんだなって。
日本人ゆえにというか。
感じるには感じるんですけど一方でひな祭りだけに振り返ってみたらこれ女の子の祭りというのは果たしてどうなんだろうかぐらいにちょっと思っちゃって。
あくまで現代的価値観においてですけどね。
まあね、ふと思ったんですけどひな祭りが女の子のお祝いとして、子供の日が男の子のお祝いとして、
どっちもその塔にだけが飾られるんじゃないんだなっていうのはちょっと不思議に見るというか。
ひな祭りって一応あれお雛様に女の子預けてるって認識でいいんですよね。
多分そういうことなんだと思うんですよね。
恋のぼりは恋に預けてるわけですね。
あれって子供の恋に預けてるんですか?それとも父親の恋に預けてるんですかね。
死体はどこにあるんだろうって。
祝われてる死体は何に預けられてるんだろうっていうのがちょっとよくわかんなくなって。
だからあのどっちも集団じゃないですか飾られてるの。
確かに。
死体はどこにあるんだろうっていうのはちょっと思いましたね。
でもある種過不調性的なものの継承と捉えれば、父親みたいになるんだぞって言って子供に預けられてる。
しかもそれは立心出世を祝ってっていう、祈ってっていうものではあるから。
だからうち恋のぼりもあったし、武者の人形もありました。
武者の人形はまあこれに預けてるなっていうのはわかるじゃないですか。
恋のぼりの方が僕好きだったんですよ。なぜならでかくて空に浮いてるからなんですけど。
でもよくよく考えたらどれに預けたらいいんかなみたいなのよくわからんなと思って。
確かに。あんま考えたことなかったですけど。
ひな祭よりより祝われてるがらの死体の預け先が不明瞭だなってちょっと今思いましたね。
まあとりあえず親戚一同に対するアリバイ作りみたいな場やなと思って
結婚式やろうとしてる人に言うことじゃないですね。
そうですね。
家族聞いてないでくれ。この回だけは。
だいぶ話外れましたね。
すみませんすみません。
どこから外れだしたかもあんまわからないけど。
わけわかんなくなってますけど。
でもなんかやっぱその子供の感性に戻ることでやっぱりそこにこう
疑問をもう一回抱き直せるっていうか世界にもう一度無垢な視点で疑問を抱けるっていうのは
やっぱこの映画の良さでもあると思うんで。
まあそうですね。世界に知っていくことでやっぱり疑問というかが生まれるっていうことは
やっぱりその恋のぼりのくだりとかは確かにそういう場面でもあるし
っていうのはやっぱ思うんですよね。
やっぱ人間誰でもなんでなんで聞っていうんですか。
なぜなぜ聞でしたっけ。
もうやったらなんでも聞いてくるみたいな時期ありますけど。
まあそういうことじゃないですか。やっぱり。
そうですね。もともと神というか別の映画としては宇宙人というか
全く知らない世界にすでに放たれるわけですからね。
そうそうそう。そうなんだよな。
あとやっぱもうなんかすごいこの世の典型を得たりみたいなときの瞬間が
やっぱあのベルギーのミルクチョコレートっていうのが一番僕は好きなんですけど。
あそこ最高ですよね。
なんて言うんですかね。めっちゃ大げさに描いてるんですけど
ああいうもんだ気がすんだよなっていう。
我はこっから自我が芽生えたぞみたいな。
単純にシンプルに覚えてる。自分が覚えてる一番小さい子の記憶がそこであるってことだと思うんですけど
それがすごく意味のあることのように思えるであろうっていうことを多分描いてると思うんですよね。
いやでもそれあるよなって思うんですよね。
なんかあれをミルクチョコレートガーみたいな大げさに描くのってめっちゃ面白いと思ったんですよね。
これまで多分感じたことない刺激でしょうからね。あれね。
そう。
味覚の中では。
そこで味覚っていうのもなんかこう映画としての情報の追加のする順番としてしっくりくる感じもありますね。
音と光はずっと浴びてたから、次の段階に行くには新しい情報が必要だっていうのが味覚っていうのはせやろなっていう感じはしますね。
確かに。
味覚に対して新しいものが足されないと次の段階に行かないっていう。
ではそんな感じでアメリとアメの物語の話を終わっておこうかなと思います。
お知らせになります。映画の話しさせるわ。
次回開催日は5月1日金曜日になります。
場所は大阪南森町週刊まかり19時オープン23時クローツです。
そして5月9日土曜日に東京で映画の話しさせるわを開催します。
場所はイベントワーク店にっぽり18時オープン23時クローズです。
また5月10日日曜日に開催されるポッドキャストウィークエンド2026にて映画の話しさせるわの陣は販売しますのでそちらも合わせて遊びに来てください。
またこの番組ではお二人を募集しております。
番組全体やトークテーマ作品に向けてご自由にお送りくださいませ。
番組最新情報次回テーマはXおよびインスタグラムにて告知しております。各ご案内は番組説明文をご確認くださいませ。
それでは映画の話しさせるわラジオ第257回アメリとアミの物語の回を終わりたいと思います。
それではまたお会いしましょう。さよなら。
さよなら。