なるほど。
安っぽいって言うと、当時の技術に対するちょっとあれの言い方になっちゃうんですけど、
テラッとした感じが悪い夢見てる感じなんですよね、全体的に。
特にエトロフ経済トップ行った時の、
冒頭の中華圏の祭り見るシーンはほんまに嫌な夢見てるなって感じで。
同じお面の集団がこっち一斉に見てくる感じとかね。
だいぶ確かに見てて気持ち悪いなーみたいな感じというかは感じてましたけど、
そこに僕あんまりそそられなかったなーみたいなのもあるんで、やっぱりそこが。
こればっかりはどうしても。
そうですね、こればっかりは。
好みの問題ですよね。
好みかなーって感じしますけど。
あとこの前作では近未来カーに乗ってた人たちがクラシックカーにばっか乗ってるっていうこの、
なんていうかエモさに取り憑かれてる感じも結構好きで。
いやーそうなのか。
あのバトーの車庫なんてクラシックカーばっかでしたからね。
ああ、でしたね。
いやそうでしたね。やさしいそうなんですけど。
だからあまりにも世界観とかが違うから、
バトーの目を通して今こういうふうに世界が見えているのかなって思ったんですよ。
もう設定そのものがじゃなくて、
バトーのフィルターで見た世界ってこうなってんのかな、今みたいな。
いうふうにしたらなんか飲み込めるかなっていう個人的には。
っていうのはあります。
もう一人だけノワールの世界に生きてるとかだったら、
あいつが乗ってる車だけいつの時代の車やねんみたいにした方が、
なんかそれは際立ったりすると思うんですよ。別にやろうと思ったら。
けどなんかそれをもう世界そのものがそういうふうになってるっていうのは、
もうもはやそれはもうバトーの見てる世界がそうなってるみたいな感じなのかなっていうふうにはちょっと思ったりはしましたがね。
まあもう完全にバトー、過去を生きる男になってますからね。
しかも犬飼うしみたいな。
そうそうそう。
そうなんですよ。
犬とか飼うキャラじゃなかったじゃんみたいな。
そう。
それこそゴーフトンズセルではまだちょっとリアリズム側というか、
そんなこと言ってて仕方ないだろうってモトコを人める側ですけど、
完全にもうそのモトコ側に、
モトコ側というかなんだろうな、
モトコが行ってしまった世界、一種のもう黄泉の国ですよね。
でも引っ張られてるんですよね彼。
モトコワナビー感ないですか?
あり、まだあります。
あります。目指してます。
そこで染みったれてるんですよ、あいつ。
でもなんかワナビーなのにちょっと上手くできないというか、
だってハックされてるし、
絶対モトコならハックされるわけないじゃないですか。
そういうところの爪の甘さみたいなのはやっぱバトーなんですよね。
そうですね。
だからこう完全無欠の近未来ヒーローものにならなくて、
カラクリのお茶組みポーズみたいなカラクリ人形のロボットも出てきたじゃないですか。
明らかに機能として足りてなさすぎて、わざわざそれを作るのかっていうのはあるんですけど、
そこはね、割と元の広角機動隊の方もそうなんですけど、
わざわざ人間の形に作るっていうこと自体が機能制限だと思うんですけど、
それをやってるっていうのはやっぱり人間が自分が知ってるものに機能制限されたものを求めてるのかなとは思って、
オペレーターにわざわざ物理タイプさせる意味とはっていうのにちょっと近いというか、
地域する側は人が作ったものとしてのデザインが強調されたものとして作られてる。
機能も制限されている。要はそれのために作られたものでしかないものとしてそこに存在している。
お茶を運ぶためだけに存在しているロボットみたいな。
人間ではないもの、人間に使われるもの、だから人間ではないっていう。
デザイン自体がそういう思想性を持ってる気がするんですよね。
だからわざと人間っぽいけど人間じゃないみたいなデザインになるみたいな。
モロに日本人形みたいな感じになったりするのはそういうとこかなみたいな。
等しい存在じゃなくてちょっと劣ったものを作りたがる。
神のごとくみたいな。
そういうのをするのが人間の傲慢さなのかねみたいなところはずっと触れてたりしますよね、劇中は。
完全にデザインはときみの谷の底の方のデザインから持ってきた感じですもんね。
ちょうど嫌な感じがずっと見えるし、作中に出てくる技術がダウングレートされた感じもやっぱ一応説明はつくっちゃつくと思うんですよね。
バトがクラスチックカー好きなのも、なんかこう古いものになんか縋ってるんだろうなみたいなのもあるし、
扱ってる犬も老犬だと思うんですよね、年老いた犬だと思うんですけど、
しかもこうなんだったかな、初めてコピーの技術で作られた犬種みたいな説明もあったと思うんで。
クローンのって話ありましたね。
ある意味自分を重ねたものとして扱ってるのかも。
間違いなく生命ではあるけれども人工物でもあるっていうところに自分を重ねてるような感じもあるし、
あとテッドフードがわざわざ生を食べるっていう、石川にドライの方が栄養もいいぞみたいなこと言われてましたけど、
でもあそこで僕ちょっと笑っちゃったんですけど、石川は石川でクラスチックカー乗ってるから。
そうなんですよ、そうなんです。
説得力ないですよね、何かね。
そうそうそうそう。
だからやっぱりさっき言いましたけど、クラシックカー乗ってるのはバトだけの方が際立つでしょ、それみたいなっていう話ですよね。
それに対して我々は勝手な思いを固くして消費したりとか、あるいは誹謗中傷によってそれを攻撃したりするんですけど、
それをできているのはそれが人間じゃないからだと思うんです。アカウントだからだと思うんですけど、
その向こうに人がいるっていう事実は認識してても、ただ表面上見えてるそれでいけちゃってるっていうところで、
いやもうこれインターネットのアカウントなんで何してもいいでしょっていう人たちに対して、
いや、SNSってSNSのアカウントもちゃんと人間だぞみたいなことを言ってるバトウみたいな。
たぶんその構図にするとより不思議になってくるのが、バトウがこの中でも最後に一言言うのがアカウント主に言いに行くわけですよ。
お前サブアカのことを雑に扱うんじゃねえよって一言言うわけですよ。
そうですね。話こじらせてしまったな。考察の浅い例えをしてこじらせてしまったなって。
そもそも僕の発信として一言から話が始まってる気がするんですけど、僕の見方がそういう感じだったからなってもあるんでしょうけど、
広角機動体世界の中におけるゴーストの話からの連続性みたいなのはあんまり見てないっていう感じは僕はあって、
これも本当に側だけの話になっちゃうんですけど、やっぱりバトウという人は目の前にいる人のことを見ているわけじゃない感じがすごいしてしまうわけですよ。
人との意識の境界、人魚との境界がどんどんわかんなくなっているからなんでしょうけど、
だからやっぱり人じゃない犬を飼うし、最後に鏡合わせになっているのってほぼ一緒じゃんみたいな。
人魚を抱えた子供と犬を抱えた自分ってほぼ一緒だなみたいな時になった時に、
僕はあれを見た時になんか根本的に人のことを面と向き合っていないな感がめちゃくちゃ際立って僕は見えたんですよね。
それは全然あると思うな。
本当にそう思います。あると思うんですよ。
むしろ僕はどっちかというとバトウに寄っちゃいそうな側ではあると思うんですよ。
どっちかというと過去にパストライブの話の時にいっぱいしましたけど、
けどなんかそこがめちゃくちゃしかも世界観的にカッコつけてるからこそ、
余計にこの人は目の前の人も見ることができないみたいな感じがすごい際立っている。
それが余計にカッコよくもあるし悲しきことでもあるなっていう風に僕はすごく感じたっていうのがありましたね。
大前提としてなんですけど、この映画のバトウ、クソダサおじさんですからね。
そうなんですよ。本当に。
だからそんな人に僕はすごい正論で言っているみたいな感じになってとてもあれなんですけど。
ただそこもどうだろうな。確かに本作におけるある種の生命の定義の拡張って、さっき言ったロボットとかガイノイドにも生命としての、
あるいは人としての人権というか権利みたいなものっていうのがあるかもしれないと、そこは分けられないよねっていうような話と多分共通してくると思うんですけど、
その一方で逆に、生命だって無機物だっていうような発言もあんなかにあって、
還元論っていうような言葉が出てましたけど、特にここ最近生物学でもやたら見舞われてることなんですけど、
分子生物学っていう分子で生物を理解するっていう学問が生まれてから、生命現象っていうのは結局分子と分子の化学反応の連続なんだっていう結論に至るわけですよ。
だからそうしちゃうと、生命と物質の境界線ってもう本当に分けられなくなってくるんですよ。
例えば試験管の中で人になるための分子を全部詰め込んで、試験管の中で例えばDNAとかいろんなものが増えていって、
それが永遠と繰り返されて試験管が増え続けたらその試験管は人なんですかっていう。
割とそういうことを結構やってる人もたくさんいるっちゃいるんですけど、人工生命とかっていうふうにいて。
なんかやっぱその辺、確かに生物をやってると徐々に曖昧になっていくというか、結局生き物ってめちゃくちゃ複雑で奇跡的に生まれてきたものなんだけど、
元を垂らせば結局化学反応だから、ちょっとラプラスの悪魔的な話になっちゃいますけど、
全て運命づけられてるんじゃないかというか、化学反応の中で勝手に人が動いてるだけで自由意志なんてものは存在しないかもしれないっていう恐怖心みたいなものもちょっと、
生まれる感覚はわからなくはないっていう。
そうですね、柵柱でも化学がより呪いを促進したみたいな言い方してましたよね。結局生命は虚無でしかないっていう。
その謎を紐解けば、例えば僕らの生活で分かりやすいところでお薬とかって、病気になる1個の分子というかにターゲットしてそれを病気を起こさなくできちゃうわけで、
結局その1個の分子の違いだけで病気起こって死んじゃうぐらい脆いんだっていうふうにも思えますし、
でもそこにちょっと手加えるだけで生きるっていうのが、ちょっと長引くとか延命ができちゃうんだったら、なんか生きてるって何なんだろうっていう。
そうですね、だから何だろう、全てに意味がないっていうのは、全てに意味があるの裏返しだなと思うんですよね。
だからこそ、バトーにとって人形とか動物も重要なものになっているっていう。
それは結局人間っていう生命とか自我に意味がないっていうのにたどり着いたら、
でもそれはじゃあ人工物の人形であるとか、あるいは動物もまた等しいものとしてバトーの中で重要性が増しているのかなって考えると、
まあそうなんですけどね。
僕もなんでこれあんまりピンときてないのかなみたいなところは、
今回3人で話してみてようやく自分が求めたのはこっちじゃんみたいなのに、
会話の流れとして行き着いたなっていうのはやっぱりあって、
それはやっぱり僕らしさなんだなっていうのはやっぱり思いますし。
まあでも多分、今この場ではこう言ってますけど、
多分1日経ったらまた別のこと言ってる可能性は全然あると思うんですけど。
そう、もう毎回違うぞ、言ってること違うぞぐらいのもんが人間じゃねって最近思うようになってるので。
それもそうですね。
ちょっと話がずれちゃうかもしれないですけど、
若干こう時差を超えて偉人たちなぜ去らなかったんだろうなって今ちょっと振り返っていく思ったのは、
やっぱ地に足ついた話が結局自分は好きなんだと思います。
現実世界をどうサバイブするかを見せてほしいのかもしれない。
なるほど。
今回のイノセンスもそうなんですけど、
ちょっと行き切りすぎちゃうと自分の日常に応用ができなくなってしまうというか、
別に映画に何か応用を求めてたり、あるいは実用みたいなものは求めていないはずなんですけど、
やっぱ自分の実感みたいなものは欲しくて、
なんか当たり前のことは当たり前にいいと思えるよねって映画にちょっと言ってほしいのかもしれない。
っていうのはあるかもなーって思って、
偉人たちはそこが突き抜けてたんで、
分かるけどここまで突き抜けられはせんみたいな。
あれも確かに行き切った話では確かにあるんだよなっていうのは。
それに対してアフターさんはやっぱり日常に戻っていく話だと思うんですよ。
すごい地に足ついた話だなっていうのは確かにそうだなと、アフターさんの方は。
そうですね、地に足ついてるし、実用的だとさえ思えるぐらいの過去との向き合い方ですよね。
ライフハックと言ってもいいかもしれない。
やっぱりイノセンスの話じゃなくなっちゃいますけど、
偉人たちは本当に幽霊を見てるのかなみたいな感じの話なんですよ本当に。
これは本当に現実だとなんか分かんない話なんですよ。
だから本当にイノセンスにおけるループシーンがずっと続くみたいな。
これはいつからが現実だったかみたいなのがもう分かんないみたいな。
僕はそういうのに揺るがされたい人でもあるし、
もはやそれはもう概念でしか残ってるものがみたいなのが、
僕はすごくその時に言葉に説明するのが難しいものを表現してくれたなって思いにめちゃくちゃ感動するっていうところがすごくあって、
やっぱりちょっと映画に揺るがされたいみたいなというか、
自分の何かを見たいな部分を揺るがされたいとか、
めちゃくちゃ自分がうまく言えないことを言ってくれてるみたいな部分に、
映画を求めてるところはちょっとあったりするのかなっていうのはあるかなっていうのがありますね。
ある種の映像言語としての映画みたいな感じですよね。
そうですね。だからちょっとそういう意味で、
ちょっとイノセンスに戻るんですけど、
ループするシーンは、
ちょっと先に異人たちを見ていたのもあって、
ちょっと揺るがされとかタランって思っちゃったんですよ。
ちょっと今見てる世界が何なのか分かんなくしてよ、みたいな。
もうそんぐらい混乱させてみて、みたいな感じがあったんですよね、異人たちとか。
あとやっぱりそういうのがうまい監督で言うんだったら、
コンサトシとかさ、あるじゃん、みたいな風になってて、
なんかめちゃくちゃ、
イノセンスという劇中、結構喋り続ける話なので、
引用などなんだので、やっぱり言葉の映画だなって感じもすごくしちゃって、
理屈っぽいっていうか、
で、今見えてる世界が本当なのか分からないっていうところも、
すごい理屈っぽくやってるなって感じがすごいしちゃって、
なんかそこもちょっとあんまり合わないなっていう感覚になったかなっていうのはありましたね。
確かに映像的な魅力、
さっき町の中核圏的な小祭りの話とか、
祭り的なのはすごいビジュアルで押してくるなと思うんですけど、
基本的なストーリーテリングって言葉ですからね、今作は。
そこは確かに映像言語的というよりも、
もうちょっとロジカルというよりもなんだろうな、
言語的というか、ちょっとレトリックに寄りすぎてる感もあるかもしれないっていうのはちょっと分かります。
どうしてもすごい言葉で仕組みを説明してるな感が、
せっかく言葉にするのが難しいようなことを映像でやろうとしてるのに、
それが言葉で引用っていう形でぼかしはしてるんですけど、
結局言葉がメインだなみたいな感じになっちゃってて、
深海誠はどうなんだって話になっちゃうんですけど、
深海誠の場合はそれがさらにエモーションの方に広がったりとかするからな、
あと映像美もあるしな、自分の中ではちょっと違ったりするんだよな、みたいなのがあって、
だからイノセンスがちょっとピンとこなかった一個の理由ではあるかな、個人的には。
普通にその評価妥当というか、
正直イノセンス公開された当時、そんな評判良くなかったと思うんですよね。
広角機動隊のSFとしての感性度に比べて、
説明的だし、堅苦しいことを喋ってばっかだし、
あんまり評判良くなかったと思うんですよね。
多分それはめちゃめちゃ真っ当な評価だと思って、
この感じをキャッチしにいけるかどうかに適正が求められているような気がするんですよね。
わざわざ拾いに行かないと刺さらない球のような気がするんですよね。
ちょっと努力を求めてきている感じがあるなと思って。
全体的に会話自体がインテリですからね。
そうですね。そうなのもあるのかな。
これが別に真理ではないですけど、
難しいことをいかに人に分かるように説明できるかの方が偉いじゃんみたいな。
これが別に真理ではないんですけど、
そういうことも思ったりもするなってのはやっぱりありましたね。
あと単純にシャラくさいですよね。
そうですね。シャラくさいになったと思いましたね。
もし日常生活でこの類の会話…
映画だからいいですよ。映画だからまだ見てられますけど。
日常生活でもしこういう会話してる奴いたらシャラくさいなって思うと思います。
そこの会話だけではなく共通言語で喋ってるみたいな感じじゃないですか。
ネットネームで会話してるみたいなもんじゃないですか。
クソダサいというか、絶対近づきたくない人種みたいになるわけですけど。
それはそうです。
趣味が合う同士でイチャコラしてるだけじゃないですか。
難しいことを喋って、それをキャッチしてくれるのかってイチャコラしてるだけじゃないですか。
勘はすごいしましたね。
確かにな。
それ自体の癒さはありますよね。
あんまりあの画面の中に他者がいないというか、
基本同じようなことを考えてる人たちの中で話が構築されてて、
もちろん人形と人間の境界線に対する捉え方は、
トーグサとバトーで対比だったりするけど、
でも言うても適当に喋っても全部キャッチし合えるわけじゃないですか、あの人たち。
ミルトンガーとか旧白聖書とか言って全部拾ってくれるわけじゃないですか。
だいぶ甘えた関係性ですよね。
コミュニケーションとしてだいぶ甘えた関係ですよ。
嫌ですよ、いきなり普通に会話してて旧白聖書の引用とかされたら、
もう勘弁してくれってなりますよ、とか言っても現実の話ですけどそれは。
あと、これも本当関係ないんですけど、
ハーフオブイットっていう青春映画があるんですけど、
あれも結構、全く話全然関係ないんですけど、
結構そういう格言というか引用みたいなの結構出るんですよ。
よく映画の始まり、今作もありましたけど映画の始まりに、
誰かの格言があって物語を象徴しているようなのがあったりあるんですけど、
ハーフオブイットはそれをやりつつ最後に、
もうちょっとネタバレなんですけど、自分の言葉で愛とは何かって語るんですよ。
そこがめちゃくちゃ熱くてかっこいいし素敵だなって思った言葉が、