すごい漠然として楽しみで見てたんですけど、
今見直すとなんていうかな、
その哲学的な問いがより身近になったなって感覚があって、
例えばAIっていうのが発達したとGPTみたいなものが出てきて、
いわゆるあれってチューリングテストはクリアしてるじゃないですか。
っていう要は生命の境目みたいなのがどんどんあやふやになっていっているし、
あとはスマートフォンの登場でネットに簡単につなげるようになったじゃないですか。
っていう意味ですごい世界が攻殻機動隊と近しいところまで来ている中で、
もう一度、生命とはっていうところを問い直してみる、
この笑顔を通して問い直してみるっていうのは結構面白いなって思いました。
やっぱりこの時期、1995年、僕生まれ年なんですけど、
この時期の作品ってやたらバイオテクノロジーだったり、
あるいは生命倫理に関する話多い気がしてるんですよ。
例えばジュラシックパークだとか、
あとガタカとか1997年公開だと思うんですけど、
あの辺の時期って遺伝子組み替えとか、
あとクローンシチのドリーの発表が1997年あたりだったりするので、
社会の中でようやくバイオテクノロジーっていうのが世に出てきて、
これ本当に大丈夫なのっていう話になってきたあたりだと思うんですよね。
だからそういうのも、そういう雰囲気みたいのが実は今までこう、
なんていうかな、線を引っ張って現代につながってるのかなみたいなこともちょっと考えたりして、
その辺はやっぱ今見直して、改めて考えてみて面白いなっていう感覚はしました。
その作品の中にミュウツーの逆襲とかも入れたくなるもんね。
確かに。
まさにそうですね。
なるほどな。
同時多発的にそういう作品が生まれてきたのか、
あるいはずっとそういう作品はあったけど、
現実の技術がそれに届く可能性が見えてきた時期だからこそ、
そこに同時発生しているように見えてるっていう可能性もあるのかなってちょっと思ったんですけど、どうなんだろう。
多分山口さんの指摘すごい的確で、おそらくずっとそういう作品ってあると思うんですよ。
SFジャンルの中の一つですからね。
それこそ言ったらブレードランナーだってそうだしっていう話ですから。
ただ、やっぱあの時期に注目というか社会の関心を集めたんだと思うんですよ。
だからこそ同時多発的にいわゆる人々の記憶に残るような作品が増えてきたっていうか、
多分問題意識にすごいうまく乗っかったんじゃないかなって気はして。
そうですね。
今のって生命が存続していくのとちょっと現象として近い部分があるというか、
ごめんなさい、これ話ややこしくするだけだ。
僕が言ったこと全部無しでいいです。
いえいえいえ。
でもなんかヤバケツさんがおっしゃってることってあれかな、
ミームなのかなって思ってて。
最近はネットミームとかって言葉に変わってちょっと流行りものみたいな意味合いになってますけど、
あれはもともとリチャード・ドーキンスが唱えたもので、
遺伝子っていう生命における遺伝子の文化版がミームなんですよね。
だからその時流行るものとか人々の関心があるものって、
まさに遺伝子というか、僕ちょっとそれウイルスだなって思ってるんですけど、
ウイルス的な感じでその作品を通じて感染していくというか、
確かにこれも問題だよねみたいな感じで共有されていくっていう感覚があって、
そのアイコンとしてのゴースト・インザ・セルっていうのはもしかしたらあったんじゃないかなって気はします。
そうですね。僕が言おうとしたことは、
生命っていうものが偶然の産物なのか、
それとも必然性を持ってその形になっているのかっていう。
の話を、そういう作品が同時発達的に出てきた。
それはそういうものを作ろうとして出てきたのか、
あるいはそういう作品がその時期に生まれたようにこっちが観測しているのかっていうのって、
割と生命の捉え方と近い部分がある。
特に形態進化というか生命史の考え方はすごい近いというか、
似てる構造かもしれないですね。
話が変にこんがられそうなので。
でも仕方ないです。この映画の話なんで仕方ないです。
ついていけるかな、僕。
ついていけるか不安になってきました。
僕、考えていることを言語化するボキャブラリー足りなくてやばいなって思って今。
大井さんに音符抱くからはって思って今。
その辺りですかね。
そんな感じですね。長くなりました。
ではお便りいただいてますので紹介させていただきます。
では1通目お願いします。
フリッパーさんからです。
店長の皆さんこんにちは。光学機動隊見ました。
公開は1995年。
2024年からすると映画の世界である2029年は違う未来なのはわかりますが、
世界を構成する考え方自体はそんなに間違った世界ではない気がしますね。
高校処理系の仕事をしている身からすると、今の日本において派手なドンパチはないだけで、
日々起きている情報戦は映画並みに繰り広げられている気がします。
光学機動隊に影響を受けたとされる作品はいろいろ見てたのに、
光学機動隊シリーズ自体は食わず嫌いをしていたのですが、思い切って今回見てよかったです。
400字にまとめるのが下手なので、いつも具体性のないふわっとした感想ばかりですみません。
ちなみにガンダムは昔ファーストとゼータまではテレビシリーズを一通りと、
逆襲のシャアも見た口なのである程度は話わかるかと思います。
バーに伺えた時にその辺話せたらと思います。
ありがとうございます。
映画の世界が2029年ということで、近未来SFの代表作の一つで、
いわゆるサイバーパンクですよね。
でもやっぱこうネオンで夜っていうイメージありますよね。
ネオンのイメージですよね。
そういう意味ではサイバーパンク感という意味ではあれかも。
ザ・クリエイターとかは最近だと、
アジアのロボットが一緒にいる感じはある種のサイバーパンク感というか、
東京の舞台のところがありましたもんね。
あれは完全にサイバーパンクって感じですよね。
そうっすね。
あと完全に街並みだけですけど、
バレット・トレインとか、
あとジョン・ウィッグ・コンセクエンシーズの東京描写とか日本描写、
大阪描写ですけどジョン・ウィッグの場合は、
あれ多分サイバーパンク意識ですよね。
そうですね、日本にそれを求めてるとこありますよね。
ありますね、特に洋画において。
ザッタの街並みとしての日本だったら、
ブラック・レインとかの要素として組んでいるのかなと思うんですけど、
サイバーパンク定義ちょっとやけどする可能性があるかもしれないですね。
あんまり喋ると。
難しいなぁって感じですけど。
でも情報処理のお仕事されてるんですね、フリッパーさん。
だんだんフリッパーさんの全貌がちょっとずつ明らかになってきて。
そうですね、我々がだんだん自己開示していって、
この人こうひと隣になったっていうのが分かるのは分かるんですけど、
リスナーさんもわざわざ書いてここでオープンにしてなくても、
別にいいのにしてくれるのは嬉しいですよ。
道重が工房船を繰り広げられてる一面もあるのかと思うとちょっとね、
リスペクトしちゃいますけど。
またバーに来ていただけるんでしたら、その時にお話してきたらなと思います。
では次のお便りお願いします。
ラジオネームゴーストのささやきさんからいただきました。
船長メンバーの皆さんこんにちは。いつもラジオ楽しみにしております。
ゴーストに出せる攻殻機動隊は、自分にとって原風景のようにいつも心に浮かんでいる作品です。
とっても大好きなのですが、何か語るとなると難しく思います。
皆さんがどういった投稿をするのか楽しみにしております。
ありがとうございます。
詳しい方が聞いているとなるとちょっと緊張してしまいます。
セッセンセイが述べました今。
ラジオネームの段階から好きな人じゃんって言いましたよ。
ささやきだって。
普段聞いていただいてて、この時についにお便りいただけたってなると、
ちょっとさらに緊張が増すというか。
本当にね、今回2回見たんですよ。面白くて。
2回見たけどよくわかんないんですよ。
特に操作部分がどういう力学でそうなっているのかは、雰囲気で見ているので、
そういう成り行きみたいなのも何となくなんですよ。理解。
ただ本作の詳細はそのこと全く気にしていない。どうでもいいと思ってるし。
むしろ肉体残ってないから整理っていう現象がどこまで影響を与えてるかってほとんどないんじゃないかなと思うんですけど。
それをそういう返し方してるっていうところがもう肉体に対する興味を失っちゃってるっていう感覚があるし、
あと性の自認っていうものも無くなってる気がするんですよね。
自分が男とか女とかもどうでもよくなってる。ただ設定として自分が女だからそう返してるっていう感じがある。
それは脳だけが残ってる状態で、あの擬態の性別っていうのは要は自分が女性だからっていう理由付けのためにあの形にしてるしか理由ないじゃないですか。
どっちでもいいんだったら。軍人としてやるんだったら別に形なんてどうでもいいと思うんですよ。機能として同じものを発揮するんだったら。
あそこで女性型の擬態を選んでるっていうのは自分が女性だからっていう理由付きのためで、ただ漫画の方はちゃんとアイデンティティが女性だからそこに理由はあるんだけど、
むしろ映画の方はそれしか自分が草薙素子であるという証がないから女性型を残しているように見えるんですよね。
もうアイデンティティが記憶の中にしかないというか、自分が何者であるっていうものを強く確証してない感じがしてる。
その空虚な感じ儚げな感じが本当に好きなんですよね僕は。
あの世界の人間って、少佐は脳以外を擬態化してて、そうじゃない人も体の一部を擬態化している世界。
ネットワークに繋げる状態にはしている人がほとんどじゃないですか。
その中で擬態化している割合が多ければ多いほど自分が本当に生物なのかっていうのが不確かになっていくと思うんですね。
そこは全体的に少佐に限らず全員がちょっとセンチメントな感じがしてると思ってて、映画の方は僕は。
例えば少佐が女性型の擬態を使っているっていうのもそうなんですけど、
オペレーターが女性型ロボットっていうのって、あれって僕あんま意味ないと思うんですよね。
わかりますわかります。
わざわざいっぱい枝の出るマニュペレーターでタイピングしてるじゃないですか。
物理タイプする意味とはってなるんですけど、あれ見てたら。
ただ、あそこで人間の形したロボットをオペレーターにしてるのって、
そういう人間が人間から命令系統を下しているっていう形を維持するためのものになる。
だから人間がやってるっていう体をなすためのものに僕は感じて。
あとビールを飲む時なんですけど、あの人たちって一瞬でアルコール分解できるんですよね。
言ってましたね。
その機能を使ったら。
だからあれ不利なんですよね。酔ってる不利をしてるっていう。
酔っ払いロールプレイをしてる。
一瞬で分解できるアルコールを酔ってるっていう不利をするために飲んでるっていう。
自分が人間であること、生物であること、あるいはその人間っていう社会の組織の中であるっていうことを
確かめるかのように、そういう人間的な要素をわざと残すような営みをしてるように見えるなと思って。
それは人形使いって判明するロボットが少佐と同じメーカーだっていうところで
それに限らずみんなあそこのメーカーのパーツ使ってるっていうので
トグサ以外がいぶか死んでるシーンだったと思うんですけど
やっぱり全員が自分が本当に自分なのか人間なのか生物なのかって不安を大なり小なり持ってる。
でそれはその割合が多ければ多いほどその不安大きくなって
それの拠地にいるのが少佐なわけですよね。
その不安感が世界全体に満ちてる感じが本作のすごく好きなところで
あんまり漫画の方にはない要素なんですよね。漫画の方全体的にタフなんで全員が。
そこに焦点が当たってないっていう感じなんだけど
全員が哲学的な自分が人間であるっていう確証を握りきってない不安感があるような感じで
すげー好きです。そこが。
前半の人形使いの事件で操られてく人っていうのは擬似的な記憶を埋め込まれるわけじゃないですか
あれも多分いいフックになってるというか
記憶だけが自分を司るものだ。アイデンティティを司るものだって思っていたのに
それさえももうハックされてしまった時に
じゃあ自分って何なのっていうことが一瞬で分かんなくなってしまう世界じゃないですか
それを物足りにしたら今持ってる自分の記憶って何なのっていうところすらもはや怪しくなってくるというか
そこは確かに怖いなというか
本当に全てが電脳化されてるからこそできる怖さ表現というか
いうのはすごく思いましたね。
科学の発展が必ずしも幸福をもたらすものではないみたいな話ってSFでよくある話じゃないですか
現実がそうだと思うんですけど
そういった話にプラスそこにアイデンティティの不安みたいなのが直結し得るみたいなのを描いてる感じっていうのはすごくあるとは思うんですけど
今見ると余計に今だったらSNSだよみたいな形というか
冒頭は色んなとこ繋がるようになったけど別に結局バラバラだよねみたいな感じの
国は別にまとまってるわけでもないしみたいなフレーズみたいなのが出るじゃないですか
あれもまさに今やなみたいな感じがすごいめちゃくちゃしましたし
結局科学の発展が不安を呼び起こすものでしかならなかったっていうか
全部が分かるようになったかと思ったら全然分かんないことだらけじゃんみたいなことに余計気づかされちゃうみたいな
そういったことによってさらに不安って加速していって
でそれを解決するためにまた科学技術が発展してって繰り返すんだけどみたいなループに
延々と我々はとらわれているのかなっていう気がちょっとしていきましたねっていうのは
現実と今回の映画を見てなんかそれはすごく感じましたよ
例えばというかあの世界って基本的にあれ日本だと思うんですけど
中国語がメインで扱われてるじゃないですか少なくとも表示においては
あれちょっと聞いたことがあるのが日本語って合理的じゃないんですよ言語として
例えば行間にいろいろな意味合いを含めて読まなきゃいけないし
はっきりと言わない例えば主語がなくてもいいだとかあるいは複製形じゃなくても通じるだとか
そういう曖昧性をまま残しているような言語だからより誤解も見やすいし誤読も生まれやすい言語だっていう風に言ってる人がいるんですよね
で一方で多分中国語とか英語ってそれがない言語なんですよ
より合理的に伝わるしより合理的に人に正しく情報が伝わる言語
であの世界って多分その合理的っていうところだけを詰め込んだ世界なんじゃないか
例えば肉体も合理的じゃない例えば病気になったりとか
寿命という制約があったりとかするからこの肉体してたら合理的じゃんっていうそういう発想で動いてる世界のように見えるんですよね
で例えば仕事のために合理的な体を持つんだったら仕事で得たものは機密情報として最後はお返しすればいいよねだとか
なんかそうなってきた時に合理的っていう言葉によって個性というか個がどんどん失われていった社会なんだろうなって思うと
割とそれはなんか今においてもちろん脳がそこまで脳っていうか今最終防壁的にというか脳の記憶を渡しするってことまではさすがにないにしてもそういうことってあるよなと思うので
なんかすごい現実社会の写し鏡的な側面もあるのかなとは見てて思いました
そうですねその合理性っていう部分その合理性に対してのちょっとアンチテーゼの意味を含んでるようなゴーストっていう言葉が僕すっごい好きなんですよね
超わかります
要は魂とかそういう意味じゃないですか使い方としてはねただそこでゴーストっていう用語を使ってる
一応SF用語としてゴーストっていう言葉が使われてるんですけど
お化けっていう言葉を選んでることのこのセンチメンタルな感じ
言葉としてはすっごいドライに合理的な使い方をしてるんですけど
その言葉自体の本来の意味がめちゃめちゃ非合理的なものだし
なんだったらちょっと幼いニュアンスさえ含んでるような何かっていうところでその言葉を使ってるところがたまらなくて
そう囁くのよ私のゴーストがっていうところのなんかすがるような感じ
私はまだ人間なのだっていうことにすがるようなあの言い方がね
むちゃくちゃエモーショナルなんですよね
単に私の勘ですっていうことじゃなくて
私の中にそういったものがちゃんといるのだというのを再確認するために発言してるかのような感じ
そのニュアンスを含んだゴーストって言葉の選び方最高なんですよ
合理性とか科学的でないようなことっていうものが排除されていく
その中でもそれでもやっぱりあるよね説明できない部分がみたいなものとしてやっぱゴーストってワードがそこにあったりするし
この映画を見て逆説的にそういった科学的にわからない魂であるとか
実体のないような意思とかそういったものって
なんかすごいそれがやっぱ人間大事なものみたいな風に思えるよなっていうのは見ながら思っていたというか
特に記憶に関しては逆説的にやっぱ記憶ってやっぱその人を形作るものだなって改めてこの映画を見て思いました
記憶があっけなく改ざんされて自分がわからなくなるってぐらい
記憶って大事じゃんっていうやっぱ記憶にこそ人は生きてるじゃないかっていう風にちょっと思えたなっていうのはすごく思いました
まさにゴーストって記憶の連結されたものというか記憶が形作っているものですもんね
で若干ちょっと思ったのがそれこそ草薙素子はこの映画でラストまさに幽霊になるわけですけど
そこもなんていうかなある種刑事上的な存在になるっていう意味も多分ゴーストって言葉の中には加味されてると思いますし
でもセンチメンタルなちょっとロマンあるような言葉ですよねゴースト
合理性の中にあるセンチメンタリズムがまさにゴーストイン・ザ・シェルっていう言葉そのものだなって思わされるというか
もうタイトルまで完璧だなって本当にめちゃくちゃかっこいいなっていう風には思いましたし
で僕はその記憶ってめちゃくちゃ逆説的に大事じゃんって思えたっていうところを煮詰めたのが実写版だったんだなっていう風に思えたんですけど
実写版そこがやっぱメインですよねどっちかって
そうですね草薙素子自身がそれを探りに行く話というかその話ですもんね
アイリンティーを探しに記憶自分も自分が持っている記憶が偽りだったということに気づきみたいな話だったので
そこを引っ張り出してそこから自我の意識とかの話に持ってこうとしてたんだなっていうのはすごく
切り口としてはやっぱそっちの方がわかりやすいなっていうのは思いましたけどね
自分探しをするって感じなんですかね自信を
そんな感じです
そうですねこの言い方正しいかわかんないけど西洋っぽいなって
そうそうそうそう
この本作におけるそのネットワークの連なりとそこから生まれる人形使いっていう
そのネットワークの中から生まれた生命と自分では言っているもので
すごく東洋の思想というかインドの哲学とかに近いっていう感じ
生きているという状態はインドの連なりの中に起きている現象であるっていうものとして捉えている感じだと思うんですけど
そこに自我があるのだってすごい西洋的な考え方だと思うので
この相反しているものがどっちも入っている作品だなと思うんですよね
そのあたりのことをちゃんと勉強しているわけでもないので
ふわっとしゃべっているのを結構ギリギリだなって
ちょっと今思っているんですけど
本作において生命が継続していくっていうことに
多様性を取り込んでいるっていうのがあると思うんですよね
例えば小佐とトグサの会話の中で
なんで俺を旧化に誘ったんですかっていうところで
トグサをイレギュラーとして旧化の中に取り込んでいる
それは擬態化している人間がものの中にほぼ生身であるトグサを入れるっていう多様性を取り込むことで
組織としての優柔な死を迎えないようにするためにそういうふうにしたっていう言い方があって
それは人形使いが言ってたこととほぼイコールなんですよね
ネットワークから生まれた生命体であって
情報というものの中で完璧な存在であるけれども
それだと一つのアクシデントに対して生存できないっていうことに対して
多様性を取り入れることで生存するっていうことを目的に
草薙素子と同一化するっていうことを選ぶわけですけど
そうすることで揺らぎであるとか多様性を得て
生命を存続させていこうとするっていう
この辺りが多分大石さんが生命の話として言ってた部分だと思うんですけど
ちょっと僕語彙力平らすぎてしゃべるくなってきてしまった
そうですね
それこそこの話見てて連想したのが