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今日のテーマはですね、新海誠マラソン第1弾ということで。
まあ、秋に公開が予定されているスズメの閉じまりに向けて、新海誠作品に触れていこうかという話は前々からしてたんですけれども、
今回そのタイミングではないかということで話することになりましてですね。
原宿さんは元々欠席予定だったので、前田さんを含めた3人で話しようというところだったんですけれども、
前田さんの視点的に、君の名前以前の新海誠作品はどう映るのかっていうのが今回のテーマの肝ではあるんですね。
うん、まあそうですね。
ただまだ前田さんは参加されてないので、まずそっち側の重力に入ってしまってる我々で話をしつつ。
まあ、後々そこに対してのカウンターを前田さんに食らわせてもらうという流れでいけたらなと思ってまして、
前田さんの到着まで我々2人でちょっと話していこうかなというところなんですけれども、
まずマリオさんは全作見てるってことでよかったですかね。
そうですね。だいたい、本当初期の短編とかまでいったら切りたいですけど、だいたい全部は見てます。
はい、えっと僕はですね、秒速5センチメートルとことの葉の庭と君の名はと天気の子の4作を見ておりまして、
まあなんか全作拾ってるっていう感じではないんですけれども、
ある種のあの作品が持っている重力みたいなものは共感している部分はある立場ではあります。
はい。で、今回秒速5センチメートルを見直して話しようってことだったので、
まあ見直したんですよね。
はい、僕もちょっと見直しました久しぶりに。
はい、じゃあマリオさん秒速5センチメートルの解説お願いしていいですか。
はい、それでは映画ドットコムの解説をちょっと読ませていただきます。
ことの葉の庭の深海誠による2007年公開の劇場作品で、
惹かれ合っていた男女の時間と距離による変化を全3話の短編で描いた連作アニメーション。
お互いに思い合っていたタカキとアカリは、小学校卒業と同時にアカリの引っ越しで離れ離れになってしまう。
中学生になりアカリからの手紙が届いたことをきっかけに、タカキはアカリに会いに行くことを決意する。
やがてタカキも中学の半ばで東京から引っ越し、遠く離れた鹿児島の離島で高校生生活を送っていた。
同級生のカナエは他の人とはどこか違うタカキをずっと思い続けていたが、
社会人になり、東京でSEとして働くタカキ。
付き合った女性とも心を通わせることができずに別れてしまい、やがて会社も辞めてしまう。
季節が巡り、春が訪れるとタカキは道端である女性に気づく。
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終台下には山崎正義のワンモアタイム、ワンモアチャンスを起用した。
じゃあマリオンさん、改めて今回秒速5センチメートルを見ていかがでした?
そうですね、やっぱり年始の、自分の名刺代わりの1本の時にも秒速の5センチメートルの話はしたんですけど、
あそこから大きくはやっぱりちょっと変わんないかなとも思いつつも、
なんかちょっとやっぱり僕も少しはちょっと大人になったのか、
少しやっぱり主人公のタカキのちょっとこじらせたというか、ちょっと巨大すぎる自意識みたいな気恥しさはちょっと覚えるようになったかなっていうのはありますかね。
でもやっぱりあそこで描かれている時間と距離の物語っていうのは、
そしてその時間と距離によって引き裂かれてしまったりとか、
あとちゃんと伝えるべきだった思いみたいなのが言えなかった思い出っていうのは、
なんかすごくやっぱり自分のこれまでの人生のあったいろんなこととかを連想するというか、
なんかいろいろそういう自分のそういった繊細な部分みたいなのがやっぱり触れる映画だったなっていうのは、
やっぱり改めて見て思いましたね。
はい、じゃあ僕なんですけど、
まず初めて見た時点で、僕もそれなりの年ではあったんですね。
割と冷静に見ていった感じではありました。
ただ今回見直してみて、当時見た時、20代だったんですけど、
自分の中でこういう青臭さを茶化してうまくいなしている部分ってあったなと思うんですよね、見た当時。
でも今見て逆になんかその偶和的に捉えることで自分の話として捉え直せたかなって思ったんですね。
すごく極端な話ではあるんですけど、極端さゆえにすごい純度の高い自意識の物語だなと思ったんです。
それは純度とか巨大さはそれぞれだと思うんですけど、この要素って特に男の子はみんな持ってるんじゃないかなと思ってたんじゃないかなと思うんですよ。
それっていくら年取っても、そこまで他人ごとには仕切れないなって思い直したんですよね、今回見て。
なんか、いやこいつ本当めんどくせえ奴だなっていうことは絶やすいですよ、この話を。
ただ、そのめんどくささって10分の1でもあなたの中にないでしょうかと。ありますって、やっぱり。
そうなんですよね。あそこまで極端じゃないにしろ、やっぱりなんかそういう、なんていうんですかね、めんどくさい部分というか、
過去に囚われてしまったりとか、すごく人と繋がれないみたいなところにものすごい孤独を感じたりとかっていうのって、
誰しもやっぱあることやないかなとは思うんですよね。だからやっぱり結構、なんていうんですかね、この映画に関わらずですけど、
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結構、新海誠の作品ってああだこうだ言われたりも結構するじゃないですか。
なんというか、気持ち悪いというか、ナルシスティックだとか、メメシイとか結構言われたりするんですけど、
そうやって簡単に言うのも絶やすいけど、やっぱり僕はそれは、バッサリ切り捨てるみたいなことは言えないなっていう感じなんですよね、同じく。
もうそこにも完全になんていうか、あそこまでどっぷりというか、やっぱり僕の心をつかんで離さないなっていうところなんですよね、そういうところは。
そうですね。じゃあ、中身触れていこうかと思うんですけども、
まず改めて見て思ったのは、第一章、大河章でいいんですかね、あのタイトルは。
あの日、電車、電車なのかなって。あの日列車が雪で止まらなければ、高木はあんなに将来呪われることはなかっただろうなと思って。
うん、そうですね。
待つということであるとか、一瞬を永遠に等しく感じてしまうという体験が彼を呪いの中に落とし込んだなと思ったんですよね、改めて見て。
で、ああいう時間って人生の中に割とあるなとは思って、今日、人生の中でこの日だけは、今すぐに行かなければならない場所があるのに、
自分の力を全く及ぼすことができない事情で、そこに縛られてしまうっていう状態、それがずっと自分自身を縛ってしまうことになるっていうのがあるなと思って。
で、あの後、いっそあの後明かりに合わないか、すんなり会えたのであれば、多分ああはならなかったんですよね。
で、その永遠に等しい一瞬を待つことに耐えた果てに出会えてしまった故に、彼は待つということを自分の中に取り込んでしまったんだなと思って。
そうですね。確かにね、やっぱあそこですごく長い時間かけて、しかもそれでも待ってくれて、せっかく書いた手紙をなくしてしまったりもするじゃないですか。
やっぱりあそこでの一つ一つの積み重ねというか、その旅に出るまでの時間の積み重ね含めて、やっぱりすごく会いたい気持ちっていうのが募るばかりで、
それがようやく会えたっていう時の喜びっていうのは本当にかけがえのないものだなとは思いましたよね。
で、やっぱその後、彼は同時にその後もう僕たちはもう永遠に別れることにもなるだろうってモノローグで語るっていうあたりの、
やっぱ分かってはいるんだけどやっぱりそこにとらわれてしまうみたいな部分っていうのが、やっぱなんかすごく僕はちょっと気持ちはなんか、
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この相反する気持ちが同時に存在し得るみたいなのはすごくなんかよくわかるなという感じがしました。
で、「秒速5センチメートル」って基本モノローグで進行していく話ですよね。
そうですね。
で、その中でしばしばその人間の人生よりも遥かに巨大なスケールで動いているもののモチーフが取り上げられてるんですよね。
うんうん、そうですね。
衛星の打ち上げであるとか、宇宙規模のものっていうものがしばしばそのモノローグの中で触れられてて、
そういうものと自分自身の物語をある種ちょっと統一してしまうというか、
うん。
それってある種のうぬぼれでもあるなとは思うんですけども、
ただそこのロマンチシズムってやっぱり求めてしまうなとは思うんですよね。
この世界のどこかに永遠があると、でその永遠と自分は繋がれると信じたいって、
そこって、それをなんか青臭いと言ってしまうには、ね。
そうなんですよ、そこなんですよね。
この考え方が世界系と言われるゆえんですけど、
自分の内面の問題と世界の何かが直結し得るみたいな感覚って言うんですかね、本当にね。
けどやっぱり、自分の中の問題って他人から見たら本当に何をそんなことにって思うけど、
やっぱり自分ごとになったらすごく巨大すぎる何かになるので、
そんな中で、それでも人生を歩んでいくみたいな話になっていくんだろうなって、
僕は秒速を最後まで見ると思うんですよね。
世界系っていう話で言うと、僕はちゃんとSFの話だったりするじゃないですか。
そうですね。
いわゆる世界系って、君と僕の物語っていうものを繋ぐものの間に、
世界的な問題に僕が関われるっていう部分が結構ファクターとして重要だと思うんですよ。
世界全ての問題を君と僕の関係性の中で関わることができるからこそ世界系としてあり得ると思うんですけど、
秒速5センチメートルのすごいなと思うところは、
世界と基本的には関わってないんですよね。
そうですね。本当普通の日常の話だっていうのもあるし、
それは世界の方が大きいですよっていうのは、みんな共通な認識としてあるから、
それはそうなるというか、ただただ時間とか、
人間の力ではどうにもできないものに僕たちは流されてるというか、感覚にやっぱなるという。
でもなんか見た時の感触って何か世界系的なものをキャッチしてしまうんですよね。
そうですね。
そこを君と僕の物体と世界を繋いでいるものって、この話の中には自意識しかないんですよ。
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その巨大すぎる自意識。
モノローグの中で人間のスケールや遥かに長い時間のスパンのものが取り入れられてるってそういうことだと思うんですよね。
自分の自意識が宇宙規模と同一化することができるっていう。
それをこの秒速5センチメートルの世界系的なるものを自意識だけが支えてるっていう。
それ故に逆に世界系としての純度がめちゃくちゃ高いなと思うんですよ。
そういう、このギミックを使えば世界を救うことができるから君と僕の物語は世界に等しいとかじゃなくて、
君と僕の物語は世界と等しくなんかないよ。
でも、僕はそこが世界と繋がっていると信じているっていうことじゃないですか。
そうですね。本当そうですよ。
うまいこと言葉にまとめられて、その通りですって感じなんですけど。
そうなんですよね。
そこが秒速5センチメートルの純度の高さであり凄さだと思うんですよね。
世界と関わらなくたって、この世界は君と僕だけで成立し得るっていうことを、
自意識だけで許容するっていう、この巨大なエゴ。
そこにやっぱね、ロマンがあるなとは思うんですよね。
本当そうですね。このエゴさにはもう本当たまらんです。
本当僕はね、本当に。
で、あと秒速5センチメートルの作りがクールだなって思うところは、
他社の描き方がいいなって僕は思ってて、
顔のないモブとかではないなと思ったんですよね。見てて。
で、僕その要素が一番顕著に現れてるなと思ったのが、
栃木の方に行く鉄道の中で、自動ドアが押しボタン式なんですよね、あそこって。
はいはいはい。
だから押さないと閉まらないんですよ。
で、栃木はそれを知らなくて、ずっと自動ドアの前で待ってたら、
席に座ってたおっちゃんが閉めるボタンを押して閉めると、
それに対して栃木が謝ったけど、おっちゃんがいいよいいよみたいな感じで手を振るんですよ。
で、あのシーンって全然いらないと思うんですよ、僕。
あの、描きたい、その君と僕の物語を描くんだとしたら、あれって全然いらないと思ってて、
ただ雪の中で待ってたってことを描いたらいいなと思うんですけど、
あそこにどうしても関わらないといけない他者がいて、
かつその他者も積極的にこっちと関わるわけじゃないけど、コミュニケートはしてくるんですよね。
で、何も人格がないわけじゃなくて、ちゃんとこっちが謝ったらいいよいいよとか言ってくれる誰かとして存在してるんですよ。
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だから、世界が主人公の世界形的な物語に奉仕するためにいる存在じゃないんですよね。
あのおっちゃんであるとか、東京にいた人々も、
各々が自分の人生を生きているっていうニュアンスがあるなと思って、
それでも、それでも、自意識が君と僕の物語だけを成立させてるんですよ。
できます?こんなこと。
こんなことできます?って言われてたね。
いやーねー。
他者を描けば描くほど、その世界形的な物語を描ききるのに怯えが生じると思うんですよ。
だって他者っているじゃんって、こんな2人だけの物語なんて描けるわけないじゃんってなると思うんですよね。
そこを、描くんですよ。
深海、まことしは。
まことしは。
だから。
あとやっぱそういうのもね、
やっぱそれが日曜の風景の美しさみたいなのにも関わってくるのかなっていう気はちょっとするんですよね。
本当にやっぱ、普段見慣れた街とか駅のはずなのに、
自意識のフィルターがかかると、
そのなんとも言えない日曜の積み重ねっていうのにすごく意味があるようなふうに思えてくるみたいな感覚ってすごいなって思ったんですよね。
やっぱそういうふうに、
撮るに足らないものかもしれない日曜を尽くしむみたいな感覚っていうのが僕すごい刺さったポイントの一つでもあったのかなって見たとき。
撮るに足らないし、その風景っていつまでもあるものじゃないしっていう。
やっぱりそれも永遠じゃない。
この世はやっぱり永遠なんていうものはないっていうのは、分かってても永遠を信じたくなる気持ち。
それを何か可能な限り永遠に近づけるっていうのは、やっぱあの美麗な風景に何か全部に込められてるんじゃないかなって思うんですよね。
そうですね。
実はですね、前田さんが参加できないことになりましたので、このまま2人で話を継続したいなと思います。
どうします?でもなんかせっかくやったらなぁ、前田さんの話聞きたかったけどなぁ。
そうですね、ちょっとカウンターが欲しいところでありましたけど。
そうなんですよね。
はい、じゃあこのまま客観視点がないまま。
はい。
あと2章ですね。
確か前喋った時も2章の方が好きみたいな話してませんでしたっけ?山口さんって。
そうなんです。20代の当時初めて秒速5センチメートルを見た時は、正直やっぱ高木のことあんま好きにはなれなかったんですよ。
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それはある種の同族嫌悪ももしかしたらあったのかもしれないです。
あれを忌避することで自分はそうじゃないと思いたいみたいなのはあったような気はしないでもないんですけど、
純粋にキャラクターとして2章の主人公の澄田が可愛いんですよ。
なるほど、そういう意味で2章が好きっていうのがあって、彼女は高木のようにはならなかった人ですよね。
思い焦がれていたし、自分の命よりも遥かに巨大なスケールのものと今の自分を重ねたりはしたけれども、
それでも自分で歩いていく道を別で見つける人じゃないですか、2章の澄田は。
そこにごくごくオーソドックスな精神物としての良さがあるなとは思うんですよね。
何かを失うことで成長していく少年少女の物語として比較的オーソドックスなものとして受け取ることができる物語だと思うんですよ、2章って。
それへの口当たりの良さもあったりはしつつ、その対比として高木は恋愛対象として出てくるんですけど、
彼のすでに時間が止まってしまってるっぷりがなかなかえげつないんですよね。
送るあてのないメールを打ち続けるとかね、という感じでやっぱり思う人はいると思うんですけど。
もうすでにこいつは良くない方向に行ってるなっていうのがプンプンなわけじゃないですか。
ずっと遠くを見ている人っていう、その遠くは永遠につかめるはずはないのにっていう2人のちょっとアナリシスティックな部分もありますけど、
やっぱりですね、かなえちゃんの報われない恋みたいな話も確かに僕も普通に切なくてすごい好きなんですけど、
好きだけど言えなかった思い出みたいなのっていっぱいあるなって思うんですよね。
2話だけに話にかからないですけど、
ちゃんとその思い伝えればよかったのに伝えられなかったみたいな経験とか、そういう後悔みたいなのにやっぱりダイレクトに刺さるんですよね。
あとやっぱり自分は好きだけど相手はそのこと知らない、気づいてないし、自分のこと見てないなっていうのを気づく瞬間みたいなのも、
なんかすごく、ああ、なんかそんなことあったなみたいなふうに思うんですよね。
なんかなんでしょうね、こう話さないとわからないじゃないかみたいな話もあるけど、話さなくてもわかってしまう時ってあるじゃないですか、なぜか人間って面白いことに。
なんかその、ああ、話さなくても僕たち通じてないっていうか、なんか分かり合えてないみたいなのに気づいてしまうみたいなのってなんかすごくほんと切ないなというか。
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あそこでちょっとカナエちゃんが泣いてしまうというところはすごくなんかよくわかる気持ちだなというふうに思ったなっていう。
あと2話ってカナエの姉が出てくるんですよね、その青春時代を先に終えた存在として姉が出てきてて、
ああ、私もあんな時代あったなみたいなことを言ってるんですよ。
それも結構2話の立ち位置として象徴的だなと思うんですけど、どうせいつか終わるものとしての青春っていうものがあそこで端的に表されていると思うんですよね。
で、それって大抵の青春を描いた物語、映画であるとか小説とかもそうですけど、
どうせいつか終わる上で今をこうしているっていうのってその青春っていうものを描く時の大前提としてあると思うんですよ。
そこも基本の何かコンセンサスみたいなものが取れてるのが2話だと思うんですよね。
そこを放棄してるのが1話と3話。
だって、この青春とかじゃなくて、あの時の感覚は永遠であるっていうことを突き抜けていくわけじゃないですか。
そうですね。
なんか、そういう視点を相対化してくれる人がいないんですよね、高木には。
そうですね。
今だけのこととかみたいなのじゃなくて、自分だけの思いを永遠にしたいっていう思いを覚えてしまって。
あの日、あの時、雪の日に。
で、その後彼はもう他者と本当の意味で関わることを放棄しているので、彼はもう強制されなくなってしまってるんですよね。
ただ自分の思いだけをひたすら濃縮して煮詰めていくっていう作業を人生の中でやっていってしまうという。
それが良いことだとは決して思わないですし、健全だとも思わないんですけれども、そこにある何かって君もわかるだろうと。
そうなんですよ。そうなんですよっていう。
なんて言うんですかね、僕は人とちゃんと繋がれてるかみたいなのにすごく不安を覚える人なので、コミュニケーションもなんかちょっと苦手というか臆病だしみたいな話はしたと思うんですけど。
名刺がありの一本の時にも話したと思うんですけど、誰ともちゃんと真の意味でその人と繋がることができないんじゃないか、それは別に恋人とか別に友達とかでもいいと思うんですけど、あらゆる人間関係においてそういう不安とかみたいなのにダイレクトに刺さってしまうんですよね。
やっぱりそうやってこう普通にはちゃんと過ごしているけど、自分はなんかちゃんとその人のことなんか考えてるのかなーとかっていうのはすごく毎回自問自答してしまう感じになっていて。
だからやっぱり第3話のメールの文面って結構グサグサ刺さってくるわけですよ。何回メールのやり取りしてももう全然近づけませんでしたねみたいな。
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すごくなんか自分のその不安とかにやっぱりすごい刺さっちゃうので、けどやっぱりそれでもやっぱり諦めないで人生を進んでいくっていう話にやっぱり最後なってると思うんですよ、やっぱり。
やっぱり最後は彼は踏切ですれ違った明かりと思う式人を振り切りの先で振り返るけれど、その踏切の先を追いかけることなく彼はようやく自分の道を歩み始めるっていうところになんか僕もなんか頑張って生きていこうっていうやっぱりそこにやっぱなんか
希望なんかも毎回見出すんですよね、そこに。
そうですね、なんかあのああいう感情を高木の10分の1でも100分の1でも持ってないことはないだろうと、で、そこでこの思いこの感情を知らないふりするんじゃなくて、自分で蹴りをつけろとっていう
風な感じのものとしてはちょっと見えたかなとは思いましたね、あの踏切のシーンとかは。
そうですね。
だから振り向いたら相手も振り向いてくれているであろうっていう甘えがあるじゃないですか、あそこには。
そうそうそう。
それは相手が振り向いてくれるあるいは振り向きもせず向こうに去ってしまうという答えさえ与えてくれないまま電車が通り過ぎて答えを覆い隠してしまうわけですよね。
じゃあもう前に進むしかないじゃないかと。
相手が何であろうともう踏切とは逆方向を向いて歩くしか残ってないよねっていうことなのかなとはね、思ったりはしますけど、そこに至るまでにワンマータイムワンマーチャンスが流れているわけなのでもうこっちはもうズブズブになってるわけですよ、その呪いに。
そうなんですよ。だからやっぱ最初僕一番最初見た時はやっぱこれ断ち切る話だってやっぱ思えなかったんですね。
もろにやっぱその山崎雅一の歌のノスタラシー全開の場面紙を見た時のもうあの感情のままにやっぱ悲しみに暮れるというか切なさに震えるって感じになっちゃうんですよね。
なんかやっぱ新海誠自身もやっぱそこはちゃんとうまく伝えられなかったところだなっていうのはなんかやっぱ結構いろんなインタビューで結構言ってるなっていう感じがしますね。
そっちにみんな引きずられちゃうっていう。そう、あそこのやっぱ曲の果てにあのラストで結構やっぱショックを受けたというかなんかもう悲しみに暮れたみたいな人結構いたみたいなので僕みたいに。
確かにあそこで電車が通ってしまうっていうことはもう答えは示されないことで逆にそこに閉じ込められてしまうっていうふうにも見えるとは思うんですよね。
まだ電車の向こうで振り向いてくれたかもしれないっていうふうに思えてしまうっていうのがさらにその堂々巡りから出ることができなくなってしまうラストとして見ることもできるとは思うんです。
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で多分そう捉えた人の方が多いからこそ秒速5センチメートルってちょっとやばいぐらいのカルト映画として仕上がったのかなと思うんですよね。
そうなんですよね。もう呪いですよやっぱりっていう。
そうですね。だからやっぱり君の名はって明確に秒速5センチメートルに対するアンサーだったんだなって思ったんですよ今回見て。
そうそうですよね。そうなんですよね。もう君の名は本当にやっぱ初見見たときに歩道橋ですれ違うじゃないですか。
滝君と三葉がもうあそこで終わるんだって思ったんですよね。けどそうじゃないですっていうちゃんと出会って終わるぞっていうところにやっぱりいつまでもとらわれるんじゃないぞっていう深海誠成のメッセージがあるんですけど。
けどねあなたのかけた呪いってすごい巨大すぎるんですよね。
僕も君の名はのラストはあそこですれ違うからこそいいんじゃねえかよとは初め思ってたんですけど、あの切なさって呪いなんですよね。
すごく中毒性の高い甘美な呪いだと思うんですよ切なさって。
その切なさでなんか自己完結してしまうというか出られなくなってしまう引力があるなと思うんですけど。
いやもう2人は出会いました終わりもう映画館から出て行ってくださいみたいな。
2人の物語はもう別で始まったんでもうあなたも映画館出てあなたの物語を歩んでくださいっていうそのお尻叩かれるような感じがあるなと思うんですよね。
そうそうそれは本当にそうですね本当に。
そのあたりのいろいろを今回見直して改めて捉え直せたかなと思って、かつて20代の時に自分が見てその反発心を覚えていたものって全然自分の内側にあるじゃないかっていうのを改めて思い直したとは思いましたね今回見直して。
だからそこまで極端に起批する話でもないなと思ったんですよ。
いや全然むしろ普遍的な話だなとは今回思い直しましたね。
まあなんだろう偶和として見るみたいなのをテクニックとしてできるようになったからっていうのがあるかもしれないです。
これはその自分事として感情移入するものではなくてある種の偶和であると。この物語の一部の欠片を自分と照らし合わせて捉えるものみたいな見方をできるようになったのが多分その当時見た時はまだできてなかった見方だったのかなと思って。
自分事として見るといやもう自分はそんなことない。君と僕の物語で自己完結なんかしないぞ俺はみたいな側面があったのかなと思って。
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そうじゃなくて10分の1だけ100分の1だけ自分に重なる何かを取り出して温める物語みたいな感じとして今回改めて捉え直したって感じはしましたね。
予測5センチメートル他に何か喋っておくことありますか?
そうですね。何かあるかなぁ。いざ喋ろうとするとすごく何か言葉に困りますね。
なんでだろう。
ちょっと距離感が近すぎますか?
そうですね。やっぱり見た直後よりもやっぱりその時間を増すほどになんかその自分の中でなんか結構大切な作品になっていったので。
やっぱりその何か思いとかいうのはちゃんと何か言葉にまとめたことってないなってちょっと思ったんですよね。
映画の感想とかよく書きますけど、なんかそういうのがっつり秒速5センチメートルに関して書いたことないなって思って。
なんかこのちょっとまとまらない思いみたいなのとかをなんかもうちょっと言葉にできたらいいなとは毎回思うんですけど。
言葉にできちゃうとちょっと距離離れちゃいますけどね。
自分の内側にあった曖昧な何かから自分の外側にある明確な形を持った何かになってしまうとちょっと距離って離れちゃうかなって気はしてて。
言葉にしないならしないで、それはそれでみたいな気もするっちゃするんですよね。
石杖にさえなっていればそれでいいような気もしますけどね。
はい、まあそんな感じで終わりたいと思います。
新界誠マラソン第1回かな。今日のところ終わりたいと思います。
はい、ではお知らせになります。
またこの番組ではリスナーの皆様からお便りを募集しています。
番組の感想、取り上げた作品の感想などを送りいただけると幸いです。
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詳しくはポッドキャストの番組説明文をご確認くださいと。
はい、それではエガナンしたスリルラジオ第49回、新界誠マラソン第1回、
秒速5センチメートルの回終わりたいと思います。
それではまたお会いしましょう。さよなら。
さよなら。