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2021-04-17 28:39

旧第20回『ザ・スイッチ』とジェンダーギャップと「ポリコレ」と殺していい奴/いけない奴

「ザ・スイッチ」の話をしています。

追う側と追われる側が入れ替わることでなんとなく感じた、ホラー映画の中に映し出された現実の性差の問題やフィクション内の殺人にまつわる倫理観について話しています。

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はい、始まりました。ポッドキャスト吉野映画酒場第20回です。今回はですね、ザ・スイッチの話をしたいなと思ってます。
単純に面白かったっていうのもあるんですけど、結構ね、自分なりに気づきがあるというか、エンターテインメントにおける殺人の描き方に対する知見というか、自分なりの気づきみたいなものがあったんで、そこについて話できたらいいのかなと思います。
はい、では、いつも通り、映画.comの解説を読ませていただきます。
次の話題は、ザ・スイッチの話です。
はい、面白かったですね。
で、この映画はね、毎回見る度に見始めたことを後悔するんですよね。見終わると面白いんですけど、今回もね、冒頭のシーンでもう帰ろうかなと思って怖つくて。
でも見終わってみると、演出コテコテだから意外と怖くなかったのかなと思いつつ、見てる最中はね、ほんと怖くて怖くて、どのホラー映画でもそうなんですよ。見終わるとあんまり怖くなかったなって思う映画でもね、これから分かってないのがやっぱ怖いんですよね、ホラー映画って。何が起こるか分かんないのが。起きちゃえばもう過去だから、過去というか分かってるから怖くないっていうのはあるんですけど。
ブラムハウスがまたやってくれたって感じですよ。うん、面白かったですね。
ブラムハウスは結構社会的なテーマとかをジャンルホラーに取り込むのがすげー上手いなっていう印象があるんですけど、それを代表するのがゲットアウトとか透明人間になるかと思うんですね。去年のザ・ハントとかもそうかな。
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あと、社会背景を取り込むのの上手さと、ホラー的なお約束の外し方がすげー上手いなっていうのがありますね。それで言うとやっぱりハッピーデスデイですよね。
ハッピーデスデイの面白いなと思ったところが、主人公がこの言葉あまり使うべきではないと分かってて使いますけど、いわゆるビッチなわけですよね。
性的に奔放で、通常のスラッシャーホラーだとすぐに殺されるタイプの女の子が主役であると。しかもすぐに殺されるタイプのキャラクター像だからってことで、殺され続けると。
タイムループして元のところに戻って、殺されないことを目指すっていうところが、いわゆるスラッシャーホラーにおけるビッチ的なキャラクターの役割のひとひねり加えた話だったなと思って、すごい面白い切り口だなと思うんですよ。
あとそのジャンルホラーをうまく取り入れたら、本当に透明人間ですけど、透明人間はね、大傑作なんですよ、本当に。何がすごいって、結局その透明人間っていうのって、男性から見て普段入り込めないところに入って、女性を覗きたいっていうスケベ心のモンスターなわけですよね、透明人間。
でもそれって、その見られる側からしたら暴力なわけですよ。それを透明人間に見られる側の恐怖をよりフィーチャーして、そこのテーマ性っていうのを拾い上げてうまく作ったのが、2020年の透明人間だったと思うんですよね。
男性的な欲望から見られることの暴力性と、あと犯人が透明なので、何か自分が暴力を受けた時に、それを人に訴えても信じてもらえないっていう、これもある種のセクシャルハラスメントであるとか、女性が置かれている暴力を受けた状況のメタファーとしても捉えられるし、
でもそのあたりの織り込まれた現実の要素を、こわだかに叫ぶではなく、あくまでエンタメジャンルホラーとして楽しめるようになってるってところが本当に素晴らしいと思うんですよ。
で、さっきのハッピーデスデイもだし、透明人間もそうなんですけど、今、何かジャンルホラーを作る時にジェンダーを触れるのってめっちゃ面白いなって思うんですよね。
例えばハッピーデスデイだと、その既存のホラーが持ってた、ビッチはすぐ死ぬっていうものに対するカウンターになってるわけだし、
透明人間っていうのは、男性と女性のジェンダーギャップが生み出す暴力性みたいなものを、うまくホラー的な要素に落とし込んでたりするわけですよね。
結局そのホラー映画って、襲われるのって女の人なわけですよ。
これはご縁のある言い方かもしれないですけど、ホラー映画において男っていうのはジャンルスラッシャーって言い方がいいですかね。
男って殺されるだけだと思うんですけど、女の人は襲われる、追いかけられたりっていう。
これって何かっていうと、ズバリレイプなわけですよ。
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女性が男性的なモンスターに襲われるっていうことの性暴力性みたいなことが、やっぱりジャンルホラーっていうものは織り込まれてるわけですよね。
そこに対してカウンターウイルーっていうのは、やっぱり視点として面白いなと思うんですよ。
あんまりポリコレとかっていう言い方で否定したくないなっていうか、何事もそうなんですけど、価値観が変わってきたことに合わせていくから、新しい視点のものが生まれていくと思うんですよね。
透明人間なんて、現代のポリティカルコレクトネスの視点が織り込まれているからこそできた長々大傑作なわけじゃないですか。
ポリコレ全て悪みたいな感じには全然言いたくないというか、僕はポリティカルコレクトネスに関しては、フィクションが面白くなっていってるなっていうふうには思ってて、
結局今まで悪いと思われてなかったことが実は悪かったっていうことを恐怖として描こうとしているのがホラー映画だとは思うんですよね。
現代のホラー映画だと思うんですよね。
で、ザ・スイッチですよ。ザ・スイッチもね、初っ端からね、どちゃっていうのが13日の金曜日のパロディーなわけですよ。
まず、11th Wednesdayっていうロゴが13日の金曜日のロゴの思いっきりパロディーで11th Wednesdayって出るわけなんですけど、
いきなりパロディー、13日の金曜日のパロディーっていう感じで始まって、
で、セックスとかしてる若者が残殺されるわけですよ。
で、ここでクローゼットの中に隠れて殺人鬼が追ってくるとか、この辺りもハロウィンのパロディーですよね。
今回のこのブッチャっていうのが、もちろんって感じですけど、いろんなスラッシャーホラーモンスターの要素を集めてるわけですよね。
もちろん13日の金曜日のジェイソンはそうだし、ハロウィンのマイケルもそうですし、
チェーンソーを使うっていうことで悪魔の生贄のレザーフェイスとかも引用されてる感じですけど、
多分メインはハロウィンですね、おそらくは。
ハロウィンのマイケルかなと思うんですけど、距離の置いたところで突っ立ってる感じがすごいハロウィンのマイケルっぽいんですよ。
で、今回のこのザ・スイッチの肝なんですけど、女子高生の主人公と殺人鬼とか中身が入れ替えるっていうことで、
互いのジェンダーギャップであるとか、肉体的なスサっていうものをホラー映画の文脈の中で築いていくみたいな話が描かれるんですよね。
例えばミリーと入り替わった後のブッチャーが人を殺そうとして襲おうとしても、体格で負けてるからやられちゃうみたいな展開があるんですよ。
で、逆にブッチャーの中に入ったミリーはめちゃめちゃ力が強くて、普通に揉み合ってるだけのアイテムを吹き飛ばして気絶させちゃったりするわけなんですよ。
で、スラッシャーホラーのモンスターって異常な身体能力で殺人を繰り返すみたいなのがあるわけなんですけど、
それはできなくなってるわけなんですよね。だから頑張って殺すんですよ、ブッチャーはミリーの中に入って。頑張って殺さないといけなくなるんですよね。
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で、逆にミリーの方は力の強い男であるということでどんだけ不安がないかっていうことを気づくわけですよ。
で、これはホラー映画的な文脈の中では単純にブッチャーを追いかけるってシーンの中でも、
普通に考えたら殺人鬼を追いかけるなんてことはできないけど、相手が女の子だからそれができちゃうっていう風な見え方がするわけですよね。
自分はもう極の力の強い体格の良い男で、相手は体格が優れていない普通の女子高生なので、構造的には巨漢の男が女子高生を追ってるっていう構造になってるから、そこに恐怖ってないんですよ。
そこで男性と女性が追っかれている肉体的な精査もそうなんですけど、社会的な不安感ですよね。男は感じない不安を女人は感じているっていうのをなんとなくちょっと見えるんですよ、そこで。
なんかすげー面白いなと思って、そこが。
本当にやってることは殺人鬼に追いかけられる女の子の中身を入れ替えたってことだけなんですけど、
元々スラッシャーフォラーが持ってた暴力的な男の殺人鬼がか弱い女の子を追いかけるっていう構造に対する批評みたいなのがその入れ替わりによって生じるなって思ったんですよね。
あとね、すごい面白いなこのシーンと思ったのが、ブッチャーがミリーの中に入って、学校に通学することになるとなったときに、服を、警官をやってる姉のクローゼットから普段着てる、なんて言ってんのかな、大人しめの女の子が着てそうなふわっとした感じの服装じゃなくて、真っ赤なレザージャケットか、かなりハードなスタイルのファッションで学校に行くんですよね。
で、元々ミリーは学校でも結構いじめられてる感じの女の子だし、ミリーの家庭がお父さんも亡くしてるんですけど、お母さんがその、お父さんが亡くなっていることですごい気持ちしてて、ミリーに対してすごく束縛的な行動をしてると。
で、それがすごいミリーにとって抑圧になってるっていう状態なんですよね。
酒瓶が家の中に転がってるみたいな状態になってるんですけど、だから本当にミリーは抑圧されてる女の子って感じなんですよ。
で、そのミリーがパンチの効いたファッションで学校に入っていくシーンですよね。
で、あれってすごい不思議なシーンだなと思ったんですよ。
画面上で起きてることは、これまで学校でも家庭でも抑圧されてた女の子が、これまでとは違う強い女性像になって、学校へ向かっていくっていう画面なんですよ。そこで起きてるのは。
ただ、ここでブッチャが中身に入ったミリーがやることしてることは、殺戮なんですよね。
で、結構ホラー映画とかでも、こういう抑圧されてた女性が事故を解放して束縛から逃れることで殺戮をするっていう映画結構あると思うんですよね。
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いくつか、タイトルはいくつかあげれるんですけど、ネタバレになるからちょっと言わないでおきますけど。
抑圧からの事故解放が殺人、殺戮として表現されるって、ホラー映画に限らず、いろんなジャンルでもありえるかなと思うんですけど。
そういうのって、悲劇性というよりはカタルシスがあったりする展開だと思うんですよね。
あれですよ、あの、アヌと雪の女王の雪山のシーンですよ。
起きてることは悲惨なのに、本人は解放的になってるっていう。で、そこにはなんかカタルシスが生まれてるっていう。
でも、やってることは殺人なんですよね。
で、でも、このシーンってよくよく考えると、中身はもともと殺戮を目指してる、ただの暴力的な殺人鬼なんですよね。
でも、見た目上は女の子が自己解放して、学校へ向かって行ってる画面で、
これを見た時に、今までそういう、殺戮として自己解放を行う女の子っていう物語を生み出すカタルシスが、
でも結局、やってることって、人を殺したいっていうことだけなんじゃないのっていう、メタ視点が入ったなと思ったんですよ。
だから、中身が殺人鬼だと女の子は人を殺しちゃダメだけど、中身が女の子のまま、
自己解放のためなら人殺ししてもカタルシスが生まれるからいいのかみたいなことを問いかけられてるような感じがしたんですよね。
でもそれ、よくよく考えると答えれないなと思って。
でもそれって、こういうホラー映画における殺人シーンだけに限らない問題だと思うんですよね。
単純な話ですると、ドラゴンボールでベジータって仲間になるじゃないですか。ピッコロ大魔王とかもそうですけど。
で、あいつら普通に悟空の仲間殺してるし、一般市民も殺してるんですけど、
なんとなく戒心してなんとなく受け入れてるんですけど、
でもベジータとかピッコロ大魔王がすっごい悪いことしてる時って、たぶん子供とかも死んでるんですよね。
でも子供が死んでるシーンはないから、なんか許してるけど、よくよく考えると子供死んでるようになったら、
たぶんピッコロのこともベジータのことも受け入れられなくなると思うんですよ。
でもさらにそこから考えると、じゃあ子供は死んだらダメだけど大人なら死んでもいいのかみたいな話になるわけですよね。
このあたりはホラー映画のヘイト管理みたいなところにも使われてる視点かなと思うんですよね。
嫌な奴が死んでも不快じゃないけど、いい人が死ぬと不快ってものすごい傲慢な視点じゃないですか。
でもそれは僕たちエンターテイメントとして消費できちゃうんですよね。なぜか不思議と。
でもよくよく考えると、それって要は死んでいい人間と死んではいけない人間を選別してるってことなんですよね。
でもそれはエンターテイメントだからやってもいいっていうことを許されてると思うんですよね。
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その許されてる行為の一つが、抑圧されてた女の子が自己解放として抑圧してた側の人間を殺してもいいっていう概念だと思うんですよ。
でもそこに対して中身が殺人鬼になることで、それにちょっと疑念が生まれるんですよね。
これね、めっちゃ面白くて、別にフィクションにおいて殺人自体が不謹慎だみたいなことを言いたいわけじゃないんでしょう。
僕も人がゴミのように死ねーが好きなんでね。
でもなんとなく今まで許してた殺人と許されなかった殺人っていう線引きを、
ちょっとこのザ・スイッチは足の置き場を入れ替えることで、上手いこと違和感として落とし込んでるなぁと思ったんですよ。
これが面白いんですよ。
中身が邪悪で暴力的だった存在は、今は単純に力としては弱い側の立場になってるんですよね。
そこで生じる違和感とかが面白さになってると思うんですよ、この映画は。
ただその分ちょっと後半は怖くはなくなるんですよ、やっぱり。
その前半、ブッチャーとミリーが入れ替わるまでは圧倒的強者のブッチャーが弱い若者を殺しまくるっていう展開があって、
それはやっぱり本当に怖いわけですよ。
どうやっても勝てない、捕まったら殺されるっていう存在に追いかけられるっていうのは本当に怖いんですけど、
後半は中身が邪悪なブッチャーは外見がミリーになってるので、
単純に力においては怖くはなくなってるわけですよ。
人殺し自体にためらいがないってことしか強さがないわけですかね、今のミリーには。
ブッチャーがミリーの中に入っているっていう強みを生かせるとしたら、
要は人を騙せるっていうことだと思うんですけど、あんまりそこ積極的に活用しないんですよね。
だから、例えば幽聖館の物体Xとか、パラサイトモノですね。
パラサイトモノとかが持ってる他人に成り変われる存在が人を騙して人を殺していくっていうものの恐ろしさみたいなのはあんまりないんですよ。
ブッチャー自体がね、あんまり人をうまく騙して殺すのが楽しいみたいな感じじゃないんですよね。
殺せたらいいみたいな感じだから、あんまりミリーの見た目になっていることをうまく生かさないし、
そのミリーの見た目になっていることを生かしてくる殺人鬼が怖いみたいなところまではならないんですよね、この映画は。
ここでね、例えばミリーの母であるとか、死んでほしくない人間がブッチャーに襲われる展開みたいなのがあると、この映画めちゃくちゃ怖かったと思うんですよ。
でもやっぱそうじゃないんですよね。
割とブッチャーは窮地に立たされた時は、外見がミリーであることを生かしてその窮地を切り抜けようとはするんですけど、
自分が殺す段階の時点では、ミリーの見た目であることはそこまでは使わないんですよね。
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男を誘って人気のいないところに連れて殺そうとするとかあるんですけど、それは見た目が女の子であることを使ってやってることなんですけど、
モンスターであるとか殺人鬼が人に成り立ってるタイプのホラーとかサスペンスで怖いのってやっぱり身内が襲われることだと思うんですよ。
この映画においては母親とか姉っていうミリーのことをよく知っている身近な人間が騙されるとめちゃめちゃ怖いと思うんですよね。
でもやっぱそうはないんですよ。
なんでそうならないかっていうと、この映画が成り代わりホラーじゃなくて、あくまでチャラい若者が殺されるスラッシャーホラーだからなんですよね。
この映画でやっぱりその母親とかが襲われると嫌すぎるわけなんですよ。
死んでほしくない人間がホラーモンスターに襲われるのって、やっぱり楽しく人が死ぬところを見たいタイプのホラー映画の中ではノイズになるわけですよね。
死んでほしくない人間が襲われるって。
そこでやっぱりこいつなら死んでもいいかなっていうふうに思える人間が襲われたり殺されたりするのは楽しいわけですよ。
だからこの映画はそういう母親じゃなくてあくまでバカな学生がブッチャーに狙われるっていう手を取ってるんですよね。
そこがやっぱり面白いし、面白いと同時になんとなくホラー映画の作り手とホラー映画を見る僕たちが線引きしてる死んでいい人間と死んではいけない人間の境界線みたいなのをちょっと自覚させられてハッとするみたいなのがあるんですよね。
あともう屈強な男とか弱い女の子が入れ替わることに生まれる精神の怖さですよね。
それはこの映画の中ではそこが怖いというよりはむしろ怖くなくなるわけですよ。
恐ろしい存在が肉体的には怖くなくなるので、逆にそれって普段がどうなんだろうってちょっと思ったりはするんですよね。
じゃあよくよく考えたら女であるってだけで怖いんじゃねーのっていう視点がちょっとそこで生まれるなと思って、
結局ホラー映画の中で女の子が襲われるっていう展開が最後に待ってるわけですよ。
いわゆるファイナルガールっていう概念ですよね。
殺人鬼が出てくるホラー映画の中で最後まで生き残るのは性的に清純な女の子であると。
ちょっと言葉偉しすぎましたけど、処女の女の子であるとっていうみたいな。
それ以外のみんなが殺されて最後に残るのはそういう女の子が残るみたいな展開。
一撃のスラッシャーもののホラーとかでよく見られて言われるようになった概念かと思うんですけど、
なんでそのファイナルガールが残るかって言ったら、
本来なら立ち向かえなくて一方的に襲われるからこそ最後に残るわけですよ。
羊なわけですよね。狼に襲われる羊なわけですよ。
その構造が明確だからやっぱり、羊と狼っていう構造が明確になるから、
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襲う側は襲われる側っていう風な見方ができるわけですけど、
例えばこれで最後に残るのが男だと、
もうちょっと戦えるだろうみたいな見え方もしちゃうわけだとは思うんですよね。
だからやっぱりスポーツやってて屈強な男の子が殺される時とかはセックスしてたりとかって油断してたりみたいな、
そういうやつが最後まで残っても、
なんか隙を見てうまく反撃できたらそれなりに戦えるだろうみたいな見方しちゃうと思うんですけど、
やっぱりか弱い女の子が最後に残るから、
もう反撃とか基本できないよねっていうちょっと追い詰められてる怖さが生まれると思うんですよ。
でもよくよく考えたら、か弱い女の子だから、
か弱い女の子は基本的に暴力の被害者だよねっていう前提がそこにあるからそういう風に見えるっていうことの裏返しだなと思うんですよね。
それってすごい嫌な話じゃないですか。
現実で女の子は常に暴力の被害者だからエンターテイメントでもそういう風に使ってますっていうのってすごい残酷な構造だなと思うんですよね。
だからやっぱり最近のホラー映画ってファイナルガールがやり返すみたいな展開多いのかなってはちょっと思ったりはして、
最近やったハロウィンのリメイクとかでも、
ハロウィンって元々女の子がマイケルっていう殺人鬼に襲われて最後に残ってっていう、
確かそのファイナルガールの原点みたいな言われ方をしてる映画なんですけどね。
で、その最後に残った女の子がその後殺人鬼がまだ生きててもう一度襲われると思うからそれに対策してたって話なんですよね。
で、それでマイケルに対してやり返すっていう話になってたんですよ。
なんかちょっとやりすぎだろって。
女性に対するエンパワーメント的なしても分かるけどそれはやりすぎだろうと思うんですよね。
で、ザ・スイッチにおいてもファイナルガールのやり返しみたいなのはあるわけなんですよ。
超雑な展開でブッチャーが生きてたことになってもう一回襲ってくるみたいなのあるんですけど、
それに対して普通にやり返しちゃうみたいな。で、もうブッチャー殺しちゃうみたいな。
この辺りの展開はね、雑なんですけど、これもある種の必然なのかなとかちょっと思ったりして、
一番初めにブッチャーとミリーの入れ替わりがもう一度元に戻ってブッチャーをやっつける時って警官がブッチャーを銃で撃つんですよね。
だからブッチャーへの反撃を外的要因に任せてるっていう展開なんですよ。
で、これは分かるんですよね。
普通にやったら勝てない相手だから外部の要因を使って殺す。
こういうのってホラーモンスターやっつける時によくあると思うんですよ。
雷落とすとかね、そういうのってよくあると思うんですよ。
直接勝てない相手に外の要因を使って勝つみたいな。
でもその後、超適当な展開でブッチャーが生き返ってもう一回ミリーの家に来てってなるんですけど、
ここでちゃんとミリーが直接息の根を止めるわけなんですよね。
ここで正直雑な展開なんですけど、
味方によっては暴力を振るう男を騒ぐのは暴力を振られた女の子本人であるという宣言のようにも見えないこともないかなと。
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っていう感じですかね。
結構ね、ジェンダーの生かし方が面白いです。
単純なライトなスラッシャーホラージャンル映画としても面白いです。
スイッチに関しては。
面白いんですけど、殺人鬼とファイナルガールが入れ替わることによって生まれる、
元々思ってた男は暴力を振るう側、女の子は暴力を振るわれる側っていうイメージが、
そこの立場が逆転することで独特のギャップとそこから生まれる新しい視点みたいなのがある映画だなと思って。
面白かったですよ。
なんかすごいポリティカルコネクトネス的な映画みたいなことを言おうとしてる風に聞こえちゃってるかもしれないんですけど、
単純に面白いんですよ。
ポリティカルコネクトネスが正しさのための正しさではなくて、
面白さのための正しさとして働いてると思うんですよね。
それってすごい有意義なことだと思うんですよ。
やっぱり面白いものを見たいなと思って映画って見てるし、
ポリコレとかって嫌いされるのは僕嫌いなんですよ。
正しいことを言ってる人間がそれをやゆしてる人間からバカにされるのってすごい嫌だなと思って、
ただポリティカルコネクトネスを入れ込んだ映画がちゃんと面白かったら反撃させる余地を与えないと思うんですよ。
なんかそこはね、やっぱ正しくて面白い。
ザ・スイッチが正しい映画かって言われたらわかんないんですけど、
ジェンダーギャップを上手くホラー映画に落とし込んでるなって。
それは正しいとかではなくて、面白いです。そこは。
やっぱりね、そこには男性からの視点だと気づきにくかったりする、
男であるっていうことの優位性とか暴力性みたいなものと、
女であるということだけで生まれてる被害者性であるとか不利益みたいなものっていう構造がちょっと見え隠れするっていう。
だからやっぱそこをやり返すからこういうジャンルものって面白かったりすると思うんですよね。
コテコテのジャンルなのに見方によってはすごい不思議な映画だなと思って、
ちょっと言いたいことが取り留めなくなっちゃってる感じがあって、
僕の言いたいことを上手く伝えられてないかもしれないです、今回のお話。
言い方はすごく難しいんですけど、これまであった価値観が揺らぐっていうのは面白いんですよ。
そこにこそ面白さがあるのかなとか思ったりして、
その意味でもポリティカルコレクトネスってどんどん映画を面白くしていくんじゃないかなって思ったりはしてます。
ザ・スイッチがポリティカルコレクトネス的に楽しい映画なのかって言われたら、
なんかここまで言っといて微妙かもしれないですね。
いや、いや、違う。全然ポリティカルコレクトネス的な映画ではないです。
人がゴミのように死ぬので。
ただジェンダーギャップの描き方が現代的な映画になっているかなと思って、
そこはある意味ではポリティカルコレクトネスなのかなとかはちょっと思ったりね。
すごい行儀良しこと言ってるように聞こえちゃってるかもしれないですけど、
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めちゃめちゃ雑で大雑把に楽しい映画なんで。
そんな風に楽しめた映画でしたね。
本当に見てよかった映画でした。気づきもあるしって感じで。
以上ですね。
ではお知らせになります。
これまでも開催させてもらってた大阪の南森町にある日替わり店長が営業するカフェバー
週間曲がりにて映画の話したすぎるバーを開催させていただきます。
日にちが4月24日16時から20時の4時間です。
大阪府のまん延防止と駐店措置に従って営業時間をかなり早めの時間に変更してます。
僕の内容としてはアカデミー賞の発表直前だったりするので
そのノミネーター作品に関してお話とかできたらいいのかなと思います。
今回のザ・スイッチとかもお話できるかなと思うので
もしよかったら来ていただけたらなと思います。
以上、ポッドキャスター吉野映画酒場第20回ザ・スイッチの話をさせていただきました。
それではまたお会いしましょう。さよなら。
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