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今日のテーマトークは、『ルックバック』です。はい、ではマリオさん、解説いいでしょうか。
はい、映画ドットコムから解説読ませていただきます。チェーンソーマンで知られる人気漫画家藤本達希が、2021年にジャンププラスで発表した読み切り漫画
『ルックバック』を劇場アニメ化。エヴァンゲリオン新劇場版派や、君たちがどう生きるかなど様々な話題のアニメに携わってきた
アニメーション監督で、アニメーターの押山清高が監督脚本キャラクターデザインを手掛ける、ひたむきに漫画作りを続ける二人の少女の姿を描く青春ストーリー。
学生新聞で4コマ漫画を連載し、グラスメイトからも称賛されている小学4年生の藤野。
そのある日、先生から、同学年の不登校の生徒、京本の書いた4コマ漫画を新聞に載せたいと告げられる。
自分の才能に自信を抱く藤野と、引きこもりで学校にも来られない京本。
正反対な二人の少女は、漫画へのひたむきな思いで繋がっていく。しかし、ある時、すべてを打ち砕く出来事が起こる。
ドラマ、不適切にも程がある。や、映画、4月になれば彼女は、ひとりぼっちじゃない、などで活躍する可愛い由美が藤野役。
映画、熱い胸騒ぎ、神威の歌などで主演を務めた吉田美月が、京本役を担当し、それぞれ声優に初挑戦した。
はい、ではここから内容に触れる話入っていきます。ネタバレ禁止される方いらっしゃったら、ぜひ見てから聞いていただけたらと思うんですけども、はい、ではあさゆの感想を僕から生かしてもらいます。
はい、えーと、傑作だと思います。ただ、僕は本作が怖いんですよね。激悪すぎて怖いんですよ。本作を評価するのが怖いんですね。
人によっては、僕、この作品に触れたことで、人生が歪んでもおかしくないぐらいの強烈なパワーがあるとは思ってて、
すごいいろんな感情を含んでるとは思ってるんですね。焦燥感とか喜びとか、そして怒りも含んでるんですけど、それを一つの大きなものにまとめてしまってる本作の強い引力みたいなものがすごい怖いんですよ。
どうしても僕はこの作品を一つのすごいものとしてキャッチしたくないんですよね。怖くて。
分解していくつかの上手さによって構成された作品っていうふうに捉え直すことで、もう毒にも薬にもならない単に面白いだけの作品に、僕はそういうふうに捉え直したいと思ってて。
それぐらいちょっと直でキャッチできないんですよね、本作を。で、僕、今回Twitch入ったら多分もう一般的な意見ほったらかしにすると思うんで、好きな人怒らないでくださいってな感じですね。
マリオさんどうでしょうか? そうですね。一回ラジオでルックバックの話ってしましたよね?
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しました。漫画が配信された頃にちょっと触れました、オープニングで。 そうですよね。確か話題になってたんで、確か知った覚えはあるんですけど、僕その時どんな話したのかちょっとあんま覚えてないんですけど。
でもすごく僕面白かった覚えがあって、何ならなんかすごくなんか、漫画ですごく映画的なことってできるんだみたいなの初めて知ったぐらいの結構衝撃があって、
なんかすごく僕、いやすげえ作品だなって思った覚えがあったんですけど、ただ同時にちょっとやっぱり、この作品を語る上でどうしても外せないようなある事件の話にもすごく密接に関わってる作品でもあって、
やっぱりすごくちょっとこう、すごい好きでもあるけど、ちょっと捉え、まっすぐ捉えすぎるとちょっとなんかそれはそれで食らってしまうみたいなところが僕はちょっとあるかなって原作は思っていて、
で、今回の映画も本当にその漫画にあったものをすごく綺麗に映像化して、しかもそれを58分、60分以内にギュッと凝縮して、今現状できる最高のスタッフ揃えて作ったルックバックだなっていう風にはすごく思いました。
本当にやっぱりちょっと痺れますね、やっぱりみたいなところはありました。漫画を見てた時とはまたちょっと違う味わいではもちろんあったんですけど、
まあでも僕の中で完璧ではないかなとは思っています。ルックバック、今回の作品。
映画画ってことですか?ルックバック自体画じゃなくて。
映画画ですね。
ああ、なるほどな。
漫画はまああれでいったんもう綺麗に完璧に作り上げられたものだっていう前提ですけど、
それで言うと僕今回の映画はちょっとなんかやっぱり、僕が原作の時に見て思っていた、ある事件に対しての処理しきれない感情みたいなところに、
そこをちょっと単純化じゃないですけど、ちょっと安易に演出に乗せられてしまう感じに引っかかっちゃうところはあるっていう感じはすごく感じてしまって、
そこがどういうとこなのかって言うとなかなか言葉にするのが難しいんですけど、
なんかすごく良かったけどこれに乗せられてたまるかみたいな感じもすごく同時に受け取るみたいな感じの感想ですかね。
はい、おいさんどうでしょうか?
僕も漫画はジャンププラスに当時掲載されるタイミングで読んでいて、
実際すごく、なんていうかな、本当に藤本達喜先生ってそもそも映画がものすごいお好きでってことは常に公言されてるので、
すごい映画的な漫画だなっていうのはすごい思っていてあるんですけど、
でもなんかそんなにかも不可もなくって感じだったんですよ、自分はルックバックに対して。
なんかそんなに強く好きって感じでもないし、
ある意味自分に重なる部分があんまりその当時は見出せなかったのかもしれないんですけど、
今映画になって改めてルックバックという作品と向き合った時に、ちょっとわかるとこあるなって思っちゃったんですよ。
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主人公たちの気持ちというか、自分が乗っかれる部分がしっかりあるんだなっていうのを、
映画になって初めて自分は捉えられて、
それは果たしてさっき山口さんもおっしゃってましたけど、その乗っかり方本当にいいのかっていうのもちょっとあるんですけど、自分の中で。
とはいえ見ながらそこに重ねてしまっていたのも事実でもあって、なんか複雑な感情です。
もちろんその映画、そもそもその映画としての出来はものすごい、僕はすごい良かったと思いますし、
漫画ではそのコマとコマの間にある動き、アクションみたいなものがすごいうまく表現されていて、
特に藤野の帰る時のへったくさなスキップ、あそことかもうやっぱめちゃくちゃ良かったんですよね。
やっぱあれは映像というかアニメーションっていうよりも映画だからこそできることだったりもして、
なんかそういうところの表現が、この作品を映画にすることの意味みたいなものをすごい考えられて作られているんだろうなっていうのはちょっと思ったりもしました。
はい、その感じです。
ではお手入れ紹介していきます。ちょっと数多いので巻き目でいきたいなと思うんですけれども、では1通目。
エマハランさんから頂きました。
店長メンバーの皆様こんばんは。
ルックバック6月の映画の話しさすぎるバーの直前に見たこともあって、当日はすでにご覧になっていた他のお客様とこのシーンが良かったなど語り合うことができたのが良い思い出です。
原作漫画は100点と言っても差し支えない劇で映像化して見せたすごい作品ですが、自分が映画になって特に良かったと感じたのは今日元の描き方です。
なんというか原作以上に感情表現が豊かで人間らしい若者らしい情熱を映画の彼女から感じました。
個人的には大好きな気持ちと同時にエグさも感じる作品ですが、皆様が作品をどう語られるのか楽しみです。
はい、ありがとうございます。
ありがとうございます。
ありがとうございます。
なるほど、確かに6月のバーの時に公開でしたもんね。
そうですね、すごい盛り上がってました。
すごいそうだな、それは。
盛り上がってたんですけど、僕まだ見てなかったのでそこの場に入れなかったんですよ。悔しいって思いながら。
今日元の描き方ね、動くと雰囲気違うなっていうのは覚えましたかね。
うん、またやっぱ声の表現もしっかり乗っかるのも良いなって思いました。
そうですね、方言。
方言。
あ、方言ですね、方言ね。
いや、あれはちょっと確かに、あ、そっか、今日元ってこういう感じかってなんかすごい鮮明になりましたね、漫画読んでる時よりもやっぱり。
やっぱりその声に感情というか、その今日元の性格みたいなものがしっかり乗っかっているし、
なんかそのパーソナリティの表現の仕方は、まあアニメーション映画だからことっていうのもある。
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もちろん藤野もめちゃくちゃ良かったですよね、声で言うと。
あの小学生得意の生きり方しっかりできてるなと思って。
今日元って結構表現間違うと難しいキャラクターだなと思ってて、藤野にとっての舞台装置になりかねない存在だなっていうのがあるんですよね。
藤野に漫画へのモチベーションを与えるための装置みたいになりかねないと思うんですよ。
で、まあその最後ね、事件によってさらにもう一度モチベーションを与えるっていう、
あ、藤野に2回漫画を書く意味を与えるために生まれてきて死んだキャラみたいになりかねないっていう、そういう危険さがあるなと思うんですけど、
まあそれはやっぱり今日元の表現が分厚いことで、そうじゃなくって今日元っていう人が生きててねっていうふうに見えてるっていうのは大事なことやなっていうのは思いましたかね。
はい、次行きましょうか。
はい、フリッパーさんからです。
店長の皆さんこんにちは。テーマ作品見ました。とても良かったですね。ほぼ全員の反省に響く作りになっているんじゃないかな。私にもガッツリ響きましたよ。
どれだけ努力しても届かない挫折。それでも続けて認められた時の喜び。
手元を分かつ辛さ。大切な存在の突然の喪失。失った人から受け取った思いを胸に再び包む。
私と妻の反省が作品に込められていた感じがして、青春、青春体験の本質を見られました。
当作発表当時、原作を読んでいたけど、その時はピンときていなかったので、私は映画の方がメッセージを受け取れたかな。とても58分とは思えない濃密な映画体験でした。
今年はベビーワル3を第1位にする予定なのですが、庵野ことと言い、当作と言い、上半期に私的にはとんでもない作品が来てまずいですね。
日差しのレベルがすぐに上がっているので、お体を気をつけてお過ごしください。
はい、ありがとうございます。
ありがとうございます。
なるほどですね。奥様との何かが詰まっているんですかね。
入れ込みを感じるお互いですね。
確かにお便りもあげられていたように、結構いろんな人に普遍的に刺さるところってあるんだろうなっていうのはやっぱりすごいありますよね。
自分のやってきたことに挫折を覚えたとか、大切だと思っていた仲間とたもとを分かつことになってしまったとか、認め合える関係を見つけたとか。
それって別に今回のルックブックはすごく表現者の話ではありますけど、そうじゃなくてもいろんな人に情熱を持って取り組んでいたことみたいなのに置き換えても全然できるような話の要素がたくさん確かに散りばめているっていうのは確かにそうだなというふうに思いますよね。
それが怖いんですよ、僕この作品の。
そうなんですけどね。言いたいことは僕もわかるんですけど。
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すごい普遍的なのに描いていることをめちゃめちゃミクロな、あの2人でしか成立しないことを描いているのに普遍性があるように見えるのが僕本作すっげー怖いんですよね。
勝手にこのパーソナルなものに入れ込んでしまうっていうのがね、怖くて怖くて。
ちょっと後でいきますね、これは。
じゃあ次行きましょうか。
レッドジャケットさんからいただきました。
群れが張り裂けそうでした。
作家は命がけで真摯に作品に向き合っている。
これからもお金を払って映画を観て小説も漫画も買って読むと改めて誓いました。
すべてのクリエイターに感謝を。
ありがとうございます。
ありがとうございます。
ありがとうございます。
なるほどね。
1個だけ問題提起させてもらっていいですか。
はい。
別にこれね、あのルックバックがとかっていう話じゃなくてですね。
僕が前話してた数分間のエイローとか。
クリエイターはもの多いじゃないですか、なんか最近。
なんか最終ゴール商業クリエイターなんですよね、誰も。
それ商業ケースに乗るのがゴールなのを、僕そんなに自然に飲み込めなくて。
それがありっきなのは、僕そんなにクリエイティブの純粋な話じゃないっていう風に見えるんですよね。
映画大好きポンポさんとかもそうなんですけど。
あれ商業映画を作る話だからいいんですけど。
なんだろうな、青春の別に何かにならなくてもいいクリエイティブの話が自動的に商業ベースのゴールにたどり着いてしまうの。
なんかちょっと違和感あるんですよね。
なんというかお仕事映画にしたいんだろうなっていうのをいつもちょっと思いながら見てはいて。
クリエイターっていう言葉に乗っかりやすくなると思うんですよ、お仕事になると。
だって多くの人は仕事をしているし。
仕事をするってもちろんいろいろなものもあるし、例えば物を乱さない仕事もあればそのものづくりの仕事もあると思うんですけど。
すごく大きな目で捉えればクリエイターって言ってもいいような気がしちゃうんですよね。
その普遍性に乗っかれる気がしちゃう。
そうなると一番受けがいいんだろうなっていう穿った見方をしちゃうんですけど。
僕もちょっとやっぱりこの作を見て思ったというか、僕もなんかそういう表現者とかクリエイターの話好きなんですよね。
本当に僕もそういうのできる人、作れる人、本当に尊敬に値するなって思うんですけど。
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なんかその、ルックバックではあんまそれを感じてないっていうとあれですけど、
なんかちょっと自分の中で違うなっていうのがやっぱあるんですよねっていうのがあって。
僕なんかこういう表現者がなんかすごいたゆまな努力をして、
もうこれで俺はいいんだみたいなエゴをまっすぐ貫いた先までいったら僕それすごい結構好きになるんですけど。
ブラックスワンとかセッションとかのことになるんですけど、僕の中で言うと。
そういうのまでいくと表現ってももちろん誰かがあってありきのものではあるんだけど、
まず自分の中のものを出したいっていうものにそこに付随して誰かがついてくるみたいな感覚がある映画の方が僕好きだったりするなってちょっと思ってて。
なんかそれで言うとあんまルックバックからあんまそういう感じしないんですよね、個人的に。
体感な話ですけど、そこはちょっと僕の中では違うのかなって勝手に思ったりするんですけど。
でも確かにマリオンさんおっしゃるのすごいちょっとわかる気がして。
てか言ってしまえばポンポさんに近い感じがするんですよ、どっちかっつーと。
そもそも藤野も、特に藤野かな、商業作品の人だなって感じがするというか。
ちょっとなんかここでラストの結論に触れていいのかわかんないですけど、ルックバックの結論って読者がいるよねって話になるじゃないですか。
誰のために漫画書いてるんだっけ、それは読者のためだったよねって話になりますよね。
もちろんそれが今日元のためっていう風に捉えられるわけですけど、読者がいるってことはそれは商業漫画ってことだと思うんですよ。
つまり誰かのために書いている。
で、そのマリオンさんがさっきおっしゃってたセッションとかって、誰かのため、自分のための表現じゃないですか。
そこは確かに一個分類はできるところなのかなって気がして。
もちろんどっちがいいどっちが悪いってわけじゃないんですけど、ルックバックはうちから出たものをどうこうって話では確かにない気がするというか。
そこはちょっとドライというか、ドライって言うのも違いますけど、
僕がそっちのブラックスランとかそっちに熱狂したのは、もっとピュアさんに寄ったらそうなるのかなって感じするんですよね、表現というものが。
自分から発せられたものが別に誰かのためとかではなく、あくまで自分で発したものがそれを感銘を受けて誰かがついてきてくれるみたいな。
自らこそそこにちょっと表現者ってすごいなっていうか尊敬の眼差しを得るなみたいなところで僕はそういうふうに至るっていう感じがすごいあるので。
なんかそういう感じの匂いがあんまりルックバックからはしないので。
あんまりその表現者のリスペクト、もちろん書き続けることだ、こういうことがあっても書き続けることだっていうのはすごくそれは、
本当に作り手側から見た作ることって何さみたいな話としては、
本当にだからこの漫画とこの映画が本当に藤本たつきにとっての祈りっていう感じがするのはそういうところだなと思いますけど、
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僕はそっち側の人間ではないんだなっていう感じですよね。
そうですね、おいさんがおっしゃってたお仕事ものを目指すんだったら、例えば僕、白箱とかの方があれお仕事ものじゃないですか。
なぜならあれが取り上げているのは制作進行だからっていうのがあって、
要は直接の何だろう、生み出したものが画面に現れている立場じゃない人が主役っていうのが結構大きいなと思うんですよ。
例えばその本人が作った音楽とか絵であるとかがその画面に埋め込まれる本人が書いたものが漫画としてそこに現れてるじゃなくて、
それを管理した人、進行をまとめた人、あるいはその人たちが食べるご飯を作った人みたいなところに視点がいくと、
お仕事ものだなってなるんですけど、やっぱり漫画家とかあるいは映画監督とか脚本家とか直接それが残る立場の人ってやっぱりクリエイターものに僕は見えるんですよね。
クリエイティブっていうものをなんか純粋なものとして持ち上げすぎてる気がしてるんですよね。
これゴール見えないまま喋りだしてるな今。
しまったな。今エンジンかけるべきじゃなかったな。
ちょっと次行きます。次行きましょうか。
じゃあ次のお便りが8さんからいただきました。
ロックバック。大変興味深かったです。
まず時間。58分弱だからこその濃さ。
冒頭からエモさを畳みかけるファストブレイク。
お腹いっぱいに堪能しても1時間しか経っていない。
私は映画好きですけど、映画に関わる諸々の時間によって1日のスケジュールが支配されることに窮屈さも覚えていたので、
これがヒットしたことでこれでいいやんと気づいた人も結構いるかもです。
あとは作品の出自。人気作家のものではありますが、
発出がジャンププラスの読み切りが映画になったこと、
ジャンプラの読み切りは毎日ペースで配信されてジャンプっぽくないとたびたびにそうしたようでバズっており、
質量をともに中小規模のいい感じの方が原作にぴったりなので、
いよいよその早が放たれた気がしてます。
という感じで作品の内側に入って感情的に話すより外側、工業的な意味でのパンチを語りたくなったのですが、
皆さんはどうでしょうか。
ありがとうございます。
ありがとうございます。
短いのはいいことですね。映画が。
まあ短いことはいいことでもあるし、やっぱりその濃密さっていうのはすごいですよね。
やっぱり映画は僕見たとき、平日の夜とか見に行ったんですけど、
すごい人でびっくりしました。
平日の夜だからなんか気楽に見れるなって。
隣とか誰もいないんだろうなって普通に隣いるわみたいなぐらい人がいて、
そんな中で見るとは思ってもなかったですし、
帰る人みんなやっぱりすごい映画だったってみんな言ってた気がする。
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すごいそういう感想を帰りのお客さんの声から聞こえたりとかして、
これは確かにこういうのどんどん増えるかもなみたいな感じがすごくしました。
あと短い映画はね、儲かるんですよ。儲かるんですよ。
そうですね。
回数回せるから。
ずっといいですし。
厳密には映画じゃないっていうのは難しいんですけど。
漫画の延長ですからね。
っていうのもあるし、一応分類はライブビューイングとかに似たような感じなんですよね。
そうなの?
だから特別工業1700円っていうのはああいうのと同じような料金設定というか。
そうなの?
映画、制度上は映画じゃないってこと?
あんま気にすることないというか、見てるこっちは全然そんなこと気にしないですけどね。
厳密には違うんだみたいなのを分類でやってて、そうなの?みたいな感じはちょっとありましたね。
まさかのそんな制度ハックによって特別料金が設定されてたんですね。
単に短いからかと思ってましたよ。
不思議だなって思いました。
でも人はすごかったですね。
東京で新宿で見たんですけど、たぶん一番でかい劇場使ってほぼ毎回毎日買うような。
3回先までほぼ埋まってるみたいな感じだったんで。
それを特別料金で1時間で回せるって素敵ですね。
商業的には儲かるんだろうなと思って。
結構ね、得点しっかりした単行本風の冊子ついてましたけど、
でもあれつけても余裕で儲かるでしょうね。
今回、漫画の単行本ついてるやんぐらいに思ったんですけど、
よく考えたら映画料金って漫画の単行本よりはるかに高いんですよね。
すごいなと思って。
漫画の単行本をみんな買いに来てるようなもんじゃないですか。
じゃんじゃかじゃんじゃか。
特別料金だから安くもならないし、
たぶんこの映画会社の側に、権利者の側に払われるのもたぶん通常の映画と違う仕組みになるでしょうけど、
そのあたりどうなるかちょっと想像つかないですけど、
商業的にも結構画期的だなとは思います。本作本当に。
あとたぶん、めっちゃ配信早いと思いますよ。
びっくりしましたけどね、MGMのロゴ出たときめっちゃびっくりしませんでした。
あれ?ライオン顔ってこんな映画で見ると思わなかったの?みたいな感じですけど、
MGMってAmazonなんでたぶんすぐ来るんだなってちょっと思いましたけどね。
そうですね、映画の興行が終わった瞬間に配信始まるみたいなスケジュールでもおかしくないですね。
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恐ろしい恐ろしい話ですよ。
ハチさんが珍しくあまり内容に踏み込まないのが、逆に新鮮でした。
そうですね、やっぱりそこの映画のパッケージとかやり方っていうのにちょっと興味深いなっていうところを感じてて、すごい面白いですよ。
確かに興味深い体制では本当にあるので。
面白いですね。ではそんな感じで我々から話を出していこうと思うんですけど、何からいきましょうかね。
何かあります?トピック。
僕がトピック出したらいきなり嫌なとこ踏み込んで出してくれる。
早速本丸ですもんね。
いやでも僕今回本丸何個かあって喋りきれない気がしてるんですよ、時間内で。
だったら多分山口さんから出してもらって広げていった方がいい気がしますよ。
いいですか。ちょっと僕今回多分喋り方トゲトゲしくなりそうで、ちょっと嫌な感じに取られそうで喋るの怖いんですけど。
まずですね、本作が努力と挫折を描いているのかどうかっていうところを話したいんですけど。
僕本作努力と挫折を描いてはないと思っていて。
なぜなら藤野は漫画描くマシーンなんですよねあいつ。
スイッチ入ったら燃料がなくなるまで描き続けるんですよ。
そこにあんまり問いがないなって思って。
問いっていうのはこの今やることにどこまで意味があるのかって迷いがあんまりないというか。
今入っている燃料が全部燃え切るまで走り続けて、その燃料が何年か燃え続けるっていうのが、
あんまり一般的な努力の行為に必要な心の燃料の燃やし方と違うなって思ったんですよ。
まず小学校の時に京本が学級新聞に初めて漫画載せて、
あ、絵の上手さで負けてるわって言って、私絵を上手くならなければならないっていうのに火がついてから、
あの後約2年間努力し続けてるんですけど、デッサンとかを。
その後無心になって描き続けて2年後ぐらいに、最近藤野ちゃん遊んでくれないよねっていう、
あ、2年間言われなかったんかみたいな、すごいジャンプあるんですよね。
本当は言葉選び難しいですけど、凡人が疲れたなっていうところで疲れてないんですよね。
やり続けるんですよ、自動的にと言っていいほどに。
それで、でも結局私京本より全然絵が上手くないっていうことに、2年後に気づいてそこでスイッチ切れるんですけど、
少なくとも僕が感情移入できる努力ってああいう形してないなと思って。
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どっちかというと、特に中学入ってからは、あれって努力というよりも普通に藤野と京本の友情の時間だと思うんですよ。
別にあれを努力とは僕は思わなくて、
彼女たちが感じている感情というか、彼女たちがこういうふうに時間を過ごしたっていう感覚はたぶん日常ものに近いと思うんですよ。
本当にこれ的外れなこと分かってて、例え話出しますけど、京本とかと別に変わらないと思ってて。
要はもう普通に過ごしているんです、仲良く。ただそれが命がけで漫画を描くってことだったってだけだと思うんですよ、2人にとっては。
彼女たちの漫画の実力とか才能っていうのは別にふるいにかけられる時間ってないんですよね、本作の中に。
彼女たちの作品が世の中で通用するのかとか、才能があるのかなみたいに不安になるのってないんですよ。
もう漫画を描き終わったら編集者に評価されますっていう。プロデビューしたら売れますっていう。
そこの一般的なこういう、例えば漫画家になろうとする話が壁として設定するであろう、漫画家になろうとするであるとか、プロとして売れるみたいなとこに壁はないんですよね。
もう彼女たちが漫画を描き続ければ当然漫画家になれるし当然成功できるっていう風なストーリーテリングになってると思うんですよ。
それは一般的な何かを目指す話では僕はないなと思ってて、それは本当に日常ものに近い。
本当に慶応のメンバーって普通に放課後お菓子食べてお茶飲んでるだけで演奏したらスタジオミュージシャンが演奏したような演奏できるわけですよ。
実際にスタジオミュージシャンが演奏してるからなんですけど。
そこの飛躍を努力をしているっていう体にしてるけど、実は別にそれを努力とした本作は描いてないっていう風に僕は捉えてて、
それこそ慶応のメンバーがあのままプロになっちゃったっていう感じにそんなに遠くないものに僕は見えたんです。
お便りも中にもそうだし、一般的な本作の評価の中でも本作は何かを目指そうとしてその努力をして挫折してそれでもやり続けてっていう作品として捉えてる方も多くいらっしゃるし、
多分それって一般的な評価の仕方だと思うんですけど、そこの描き方が一般的にそういう努力とか目標を目指すっていうことを描いた作品とは全然違うっていうのはあると思ってて、
それを日常ものと何かを目指すものっていう、実は相反してるはずのものを一つのものとして描いてて、別にそれを違和感なく僕たちがキャッチできてるような気がするんです、本作って。
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日常ものとしても見れるし、何かを目指してるものとしても見れる。別にそれで矛盾もしてないんですよ。
それを成し遂げてるのが、彼女たちはやりたいから無限に漫画を描き続けられるし、この二人の時間が何より嬉しいってなってるっていうのを両立させてる。
本当はそこに伴う孤独であるとか、本当は自分通用したいんじゃないかっていう不安とかっていうのはないってなってるっていうのが特殊だと思ってて、そこに本作の魅力があると思ってるんですよ。
僕はその魅力が怖いんです。因数分解したらそうじゃなくなるものがくっついた状態になることで、あんまり見たことないものとして強烈なパワーを放ってるっていう、僕はこれを上手さとあえて言いたいんですけど、その上手さが怖いんです。
これが伝わってなかったらと思うと僕は非常に怖いです。
すごいわかる気はするというか、もちろん原作漫画は短編という尺の中で描くので、複雑な感情をあえてオミットしているように思うし、あるいは言ってしまえばですけど、二人とも天才の話だと思ってるんですよ。
それは思いますね。
だから凡人の話では決してない。だから才能の差って言っても、例えば藤野と京本、絵には確かに京本の方が描写的な絵は描けますけど、結構藤野って構成力とかストーリー力があるわけじゃないですか。
だからその二人が組めばそれは面白い漫画ができるでしょうっていうのは必然的な結論にもなっているし、何て言うんだろうな。
もう何も無自覚で努力できる人が多分天才と一属に言われる人なのであれば、この話はすごく天才の人の話なので、そこに簡単に僕らが乗っかれるっていう怖さがあるなと思って。
天才だからこそ何でもというじゃないですか、上手くいくわけですよ。我々がつまずくようなこともそんなにつまずかないわけですよ。
けどその天才のスムーズな動きの中に我々も自分の何かを見出したりできるわけで、っていうところでぐっと引き寄せられてしまうっていうのはやっぱりあるなって思います。
確かに僕もちょっとこの二人天才だよなというのは思っていたので、本当に天才な人がなんか天才のように羽ばたいていったなっていう感覚になっちゃうので、
不運っていう感じにはやっぱりなるっていうのはありますかね。そこにあんまり僕は共鳴でき、しっかり共鳴はできてないかなっていうところはありますかね。
そうですね、まあ短編だからその流れになってるっていうのは間違いなくあって、これを長期連載にして一個一個の時間を一話一話にパーツを分けて引き伸ばしていくと、
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多分もっとエピソードどんどん出てくると思うんですよね。もっと波があったはずっていうのは間違いなくなるし、それこそ多分漫画道に近いものになっていくと思うんですよね。
というか、漫画道のパロディーじゃないですか。オマージュというよりは僕はもうパロディーと言っていいと思うんですけど、
漫画道がこのマガとサイノっていうのが二人デビューしたら、マサイ漫画道の二人のデビューした名前忘れてしまった。
要はフジコフジオと同じことをしているわけですよね。アディッコとフジモトが二人になってフジコフジオになってるっていうのと同じことをフジノとキョウモトでやって、
私はフジモトたつきですっていうことをやっているっていうのはパロディーかなとは思うので、もっと彼女たちが一個作品を完成させるまでのドラマとかプロになるまでのドラマとかっていうのもっとあったはず。
連載してたら。それを短編にしたことで、いろんな波があんまり描かれずにギュッと凝縮したことで、それによってとんでもない化学反応が起きてるなって思うんですよね。
引き伸ばしてたら生まれなかったらすごい熱量になってるなっていうのがすごいなっていう。
本当に原作漫画って、映画の絵コンテを見てるような感じというか、本当に一個一個のコマがパッパッと切り替わっていって、
間結構ざっくり切られているような感じがして、切られた部分に余白がすごい残ってるみたいな感覚がすごく漫画から感じられたんですよね。
だから、漫画のコマの中で描かれてないけど、間のところではめちゃくちゃ苦労してることあったかもしれないなとか、
こうやって作ろうやみたいなことを二人で話し合って作ってたのかなみたいなところを、読者側が想像するみたいな余白があるので、
そこを埋めていくことで、またこの作品が完成するのかなっていうところがちょっとあったんですけど、
ただちょっと映画にすると結構それ埋まっちゃうんだよなーみたいな感じが今回しましたね。
いろいろ埋まっちゃったなって原因が僕は音楽にあると思ってるんですけど。
音楽、くどいですよね。
本当にちょっとくどいなって正直思いました。
小学校の時に一人で黙々と絵の練習をするシーンとか、
あと二人で漫画の作品を作り上げていくシーンとかでかかる曲は、いわゆるオーケストラの曲というか普通の。
結構メロディーもはっきりしたようなすごい美しいメロディーの劇場がかかりますけど、
結構そこでイメージ固定されますよね。
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そうですよね。ちょっと濃いなって、味濃いなって思っちゃって。
僕が本作の音響で一番感動するのって、ただペンの音だけが響いてるシーンなんですよね。
それこそが何も喋らずに漫画に目の前の原稿だけに取り組んでいるって、
そこに別に外部から意味を与えなくても、そのペンの音が彼女たちにとっての意味じゃないですか。
で、その外部の音があるっていうのは彼女たちの世界が閉じてないというか、
外から入ってきてるって風に見えちゃうんで、音あるとなんか順度下がってるんですよね。
そうなんですね。なんか普通に映画作ったら確かにこういう音楽を書けそうって音楽が流れちゃうっていうのが、
ルックバックという作品においてはすごく僕はちょっとマイナスなのではっていう気がすごくしてしまったっていうのは大きいですね。
なんか僕見ながらすごく細田守の映画見てるみたいな感じがするなって思っちゃったんですよ。
なんか僕ルックバックでそれは求めてないなって思っちゃいましたね。
その上手さは求めてないというか、映画的な上手さは。
そこにある本当に無駄に削がれたものみたいな、無駄を削ぎ落とした果てにあるものしか残ってないってことにルックバックの意味がある気がしていたので。
だから本当はこれ、僕これもうないもの得ないですけど、劇番担当が牛尾健介だったらどんなに良かっただろうってずっと思ってるんですよ。
なるほどね。
リズと青い鳥の時の音楽の作り方を見たらもうルックバック絶対ハマりますよみたいな感じなんですよ。
リズと青い鳥の音響設計でルックバック作られてたら多分僕世界に閉じ込められてたと思います。
もう完璧な完成形のルックバックが出来上がると僕は思いました。
だから僕はこの完璧じゃない、完成されてないって思ったのは本当にそこが理由ですからね。
それ良かったかもしれない。僕出てこれなかったかもしれない。
それはそれでね。
もう本当にルックバックという永遠が生まれていた可能性がそこにあったなとは思いました。
なるほどね。
確かにリズと青い鳥の話を聞いたので、山口さんそれこそちょっとだけ有利文脈になるのかなって思ってたりもしたんですけど。
いや、あんまり有利じゃないです。
友達なんですよ、本作って。
藤野が親分で京都が子分っていう関係の友達って感じですかね。
僕の有利定義、いまだに僕自身が分かってないっていうのがあるんですけど、
すごい爽やかなんですよね、本作のって。
京都も藤野を疑ってないし、藤野も京都を疑ってないと思ってたので、
相手の中で自分の大きさってそんな大したことないんじゃないかなっていう不安みたいなのが有利っていう話。
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わかんないけど。
確かに今回のルックバックとリズと青い鳥の展開、ちょっと似てるとこがあるじゃないですか。
田本を分かつシーンは、確かにちょっと展開は似てるんですけど、
でも確かにルックバックからあんまカラッと終わったなみたいな感じがしちゃうっていうのはわかりますかね。
そこはあれなんですかね。
少年漫画がそうだっていうのはちょっと違う。
でもそのカラとかは少年漫画なのかなっていう。
なんかわからないですけどね。
やっぱりこれも劇番が牛尾健介だったらそういうレベルの話になっていたかもしれないですけど、
今回からはあんま感じなかったなっていうのは、
あんまそこに後腐れない感じめちゃくちゃしたんですよね。
そう、後腐れないんですよ、あの二人。
なんかもうちょっと、尺がもうちょっと長ければ、もうちょっとなんでだよみたいなことが多分起こると思うんですけど、
結構そういうの無くいっちゃうので、そこかなっていうのがあるかなっていう気がしますね。
もっと言うならチームだと思うんですよ、あの二人。
私が話書くね、であんたは背景書いてっていうので、その役割分担で二人で完結している。
もう二人で、藤野と京本、二人合わせて藤本っていう感じの存在になってるなと思ってて、
なんかその同じ役割をしてたらどうしても互いに比べることになるじゃないですか。
そうすることで生まれる感情みたいなのがないなと思って、
それだったら漫画道のマガト才能の方が有利だと思います。
なるほどなるほど、そのポジションがしっかり分かれている、文行性になっているからこそ、
もう二人で一人になっちゃってるというか。
そうなんですね、自分じゃない誰かを失ったというよりも自分の一部を失ったって意味やと思うんですよね、本作って。
なのでなんだろうな、やっぱり僕有利っていうのは他者性やと思うんですよ。
他者性の中での共感とその分かり合えない不安みたいなのがあるとは思うので、
あの二人は僕は分かり合えてるというか、もう完全に役割分担によって一つの存在としてある、
一つの漫画家としてあったっていう感覚かなっていう。
それを半信を失っても私は漫画を書くっていうのは本作の結論なんじゃないかなと思いましたからね。
なるほど。
確かに二人通過の中って感じがするからなぁみたいなのはあるので、
そこから何か生じにくいのはあるかみたいなのを感じられるんですけどね。
まあでも、大人になって藤野が一人で漫画を書いてる時に、今回漫画単行本買ったんですけど、
買ってなかったなと思って買って読んでたんですけど、
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映画だけにあるのって、担当の編集の人に、
アシスタントの人変えてもらえませんかねってか、いないっすかねみたいな話してるシーン入れてましたよね。
あのシーンが入ることで、もっと今日もとってめちゃくちゃ重要なやつだった感を出そうとしてるのかなってちょっと思ったんですけど。
なるほどね、そういうことか。
私のパートナー当たり得るやつはまだいないってことか。
本当はあの時は当たり得されないっていうのも違うんですけど、
案外結構スパッと分かれてるんだけど、実はちゃんと分かれられてなかったよねみたいなニュアンスが、
あのシーンがあることで載ったりするのかなっていうのはちょっと思ったりはしました。
なるほど。僕そのシーン大好きなんですよ。
言われてみて、そういえば漫画にあったっけってずっと疑問に思ってたんですけど、やっぱり漫画なかったんですね。
今回あのシーンあったので、僕あのシーンめちゃくちゃ好きなんですよ。
この漫画に選ばれた藤野っていう存在が泥臭いマネジメントをせざるを得なくなってるっていうところに、
お仕事者としての土の匂いみたいなのを感じて、あそこで。
なるほど。
僕はそこでいいなって思ったんですよね。
もうあの頃は、ただ京本と漫画を描けるだけでよかったのに、今はそうじゃないっていうのがあって、
仕事のためにしてる風になってきてますよ。漫画を描くっていうことがっていう風になってきているのが、
あれを見て伝わるなと思って。ただ、あの後、京本を失って、過去に退治して、
京本が生きたかもしれないイフっていうところにたどり着くことで、もう一度自分の中の京本を取り戻すことで、
初期衝動によって漫画を描くっていうことを取り戻すっていう。
あれはすごくクリエイティビティに対する純度の高い夢が描かれているシーンだなとは思って、
いいシーンだなと思いつつ、さっき言ってたクリエイティブっていうものを純粋なものとして見過ぎているんじゃないかなっていうのに、
もう一回揺り戻すシーンでもあって、すごいちょっと相反する気持ちが僕の中で生まれてたシーンだったんですけど。
さっきの話に戻すと、クリエイティブを純粋なものとして見過ぎてるんじゃないか問題っていうのは、
僕はすごい感じていることとしてあるんですけど、
クリエイティブっていうものを内側から出てくるものってみんなが思ってるような気がするって思ってるんですよね。
例えば同じように何かを目指すっていう話をしたときに、
スポーツを一個設定したとして、あるいは将棋とかでもいいかもしれないです。
野球のプロを目指すとか、将棋のプロを目指すみたいなのを描いたときに、
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それは絶対に努力が明確な形で描かれるんですけど、
それは野球をするのに向いてる人とか将棋をするのに向いてる特性っていうのがその個人にある可能性はあるんですけど、
絶対に技術を身につけないとなれないんですよね。
それはスポーツとかあるいはゲームっていうものは、
ルールがすでにあって、そのルールに自らを最適化していくことで上に上がっていけるものじゃないですか。
例えば野球とか将棋とかっていうのも、
例えばどれだけ次の類に早くいけるか、どれだけ早い球を投げられるかっていう、
どれだけ打った球を遠くに飛ばせるか、
あるいはコマを最も最適化した動きをさせられるかっていう技術を外部から問い入れて、
それぞれの競技のルール内での最も極限を目指すっていう。
だから自分じゃないものを目指すと思うんですよ、スポーツとかっていうものは。
でもクリエイティブの才能って、内側にあるものを開放していくっていうものに思われるっていう。
だからクリエイティブにおける才能っていうものと、
そういうスポーツとかっていうものと、才能の捉え方が全然違うなと思ってて、
もともと自分にはそのクリエイティブの種があるんだっていう、
それを開放していくことこそがクリエイティビティなんだっていうことが、
そのクリエイティブの純粋さに対する憧れとか幻想みたいなものなんじゃないかなって思ってるんですよね。
だからクリエイターになれなかったら落ちるんですよ。
クリエイターになった人間に対しての暴力性が発露されるようになると思ってるんです。
なぜなら、もともと持ってたのにそれが発露されなかった、社会から認められなかったってことは、
社会を憎むしかないんですよ。もともとあったものがNOって言われたから。
なるほど。
例えばスポーツやってた人間がプロになれなくて、
グレるって反射で快適な仕事に就くとかってことはあるんですよ。
あるいは将棋のプロを目指してた人が将棋騎士になれなくて、
自殺しちゃうみたいなことも実際にあるんですけど、
そこで憎まないですよ、なった人。
嫉妬はするでしょうけど、お前がアイデアを取ったんだとかっていうのはならないと思うんですよね、僕は。
本当に僕の主観で全部言ってるんでね、
違うって言う人もそうじゃないって全然感じてもらっていいことなんですけど、
クリエイティブとかアイデアっていうものは、
その人の中にもともとあったものを解放して、
それを承認することっていう約束を社会の中ですること。
だからそれを実現できなかった人間は他者への攻撃性になると思うんです。
だからあいつは京本を殺すんですよ。
と思ってて、
本作見てどうしても辛い思いになっちゃうとこが、
僕、藤野でも京本でもなくて、
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誰に近いって言われたら、鶴橋ふるった方に近い人間だと思うんですよね、僕。
なんかそれが辛いんですよね。
言ってることなんかすげーわかるなっていうのは。
でもその動機は、
クリエイターが美しいものだからっていう思いに根差してるんですよ。
クリエイターが美しいものだから、
そうなれなかった自分は醜いから美しいものを壊すしかなくなるっていう、
僕はそっちに近い人間だなって思ってしまうことが非常に辛くて。
だからそうなんですよ。
本作が美しいと描いてるものが美しければ美しいほど、
それになれなかった人間はどんどん闇に落ちていくんですよね。
だから余計にやっぱ影が濃いくなってしまうというか、
またちょっと音楽の話になりますけど、
この映画の締めがやっぱ賛美化で終わるじゃないですか。
余計にちょっとなんか、
すごいこの話新生化する感じに収めちゃうんだみたいな感じは、
ただでさえ過剰だっただけにちょっと、
うわー居心地ちょっと悪いなーとはやっぱ思いましたよね。
だから単なるお仕事映画になってくれた方が僕は救われるんです。
結局クリエイティブも仕事になるよねって言ってくれた方が楽なんですよ。
僕も仕事はしてるから。
でもクリエイティブだけが聖なるものとして残り続けてたら、
クリエイティブじゃなかった自分は単なる汚れたものになっていくっていうのが、
お辛いんですわ本当に。
自分って凶悪と殺す側なんじゃね?って懸念が常に心の中に残ってるんですよね。
そこまでは行かないけど、
けどやっぱり自分は作る側の人間ではないなという思いだけはやっぱりはっきりする。
っていうのはありますね。
これは本当にクリエイターにとっての祈りの映画だなって思ったので、
表現を受け取る側の人がもちろんこれを見て感銘を受けるのは全然いいんですけど、
僕じゃないなとは思うっていうのはやっぱりありましたよね。
そうなんですよね。
考えれば考えるほど作る側だけの話だなって思えてきて、
感情移入しちゃダメだよなって。
だって僕の話じゃないかって、
藤野と京本二人だけの話でしかないから、
感情なんて乗っからないなって思うんですよ。
なんかそれをすごく覚えましたね本作は見てて。
こんな被害妄想を迎えてる人そんなにいないかもしれないですけど。
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ある意味距離を置いて見れていたがゆえに、
クリエイティブの口座を描いてるとは思ってたんですよ確かに。
クリエイターになりたいっていう思いが結局彼を標高に走らせたのは多分事実だし、
神聖的なものだけではないよねっていうのは描かれているんだなっていうのは、
冷静に分析して見えてはいたんですけど、
それこそふと自分もここも含めてラジオをやっているじゃないですか。
なんで漫画を描き続けるかっていう問いが最後に出るわけですけど、藤野に対して。
そこで要は読者の存在というか、京本の存在でもあり、
もうちょっといえば読んでくれるその人の存在ということを思えば、
描き続けられるよねっていう話になっていくところは、
ちょっと危険にも乗っかってしまったところが自分にはあって、
それこそ今回もお便りたくさんいただきましたし、
自分がラジオやってて、自分の方の話の合わないの方はよりパーソナルな話をしていたりもするので、
その話題で結構お便りとかくれたりするとやっぱ嬉しいなっていうのがあって。
クリエイターとまで大手を振ってはいえないけど、
ラジオを作るのも表現活動ではあるよなって開き直ってはいるんですよ、ある意味。
っていう意味でいうと、発信することで届けたっていうところがすごい、
もしかしたら藤野にも、要は誰が読むのかわからないけど、
っていうかみんな読んでたんだけど、学校新聞に、京本もそうですよね、書き続ける。
そこでお互いがそれぞれの読者になっていくとかっていうところは、
自分の活動と重ねちゃったところもあって。
なんでそこは漫画やるときにはあんまりそこを重ならなかった。
ポッドキャスト多分やってなかったですし、まだ。
でもそれが自分に重なったところとかは、何かこう、そうだな。
藤野と京本は漫画の天才ですけど、
自分は全然ラジオの天才ではないけど、続けて誰かが聞いてはくれるっていう。
そういうことが仕事に、仕事じゃないですけどね。
ライフワークになるっていうのは悪くはないのかなっていうのは、
そういう自己肯定はこの映画から得られたりはしたので。
でも確かにな、もしこれで誰も聞いてくれてなかったら全然ツルハシフルーもんな。
聞いてなかったら。
リスナー永遠にゼロ人とかだったら多分ツルハシフルー側に全然なるもんな。
そうなんですよね。だから僕はやっぱりどうしても切り分けられない。
強行に走った彼を自分から。
むしろクリエイターに慣れた人間と慣れなかった人間は根っこは紐づいてると思うので、
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彼を物語の外部に落とし込めないんですよね。
物語自体は外部に落とし込んでるから、やっぱりそのギャップが僕はしんどく感じてしまうんですよねっていうのがあって。
本作が別にプロにならなくても漫画を描き続けます。
他が着地だったらまた受け取り方違ったかもしれないですけど、
京本を助けた方の伊夫の藤野でさえ漫画家にはなるっぽいんですよね。
アシスタントになるってそれプロになるってことじゃんって思って、
結局プロがゴールに設定されてるじゃんっていうのが、うわーってなりました。
つらい、つらい。
そうだなー、なんかちょっとわかるなーって。
やっぱりなんか、僕もちょっと冒頭言いましたけど、
表現は自分の、まずは自分のものであってほしいなって思うというか。
このルックパックって商業ベースに乗ることだから、
目線が読んでくる、読者さんに向けてみたいなのがあるわけじゃないですか。
そうなんですけど、いいんですけど、
やっぱりこういうすごく自分にとって打ちのめされる出来事があって、
まずやっぱり向き合って作品作るのって、
自分のために作ってあげたほうがいいんじゃないっていう感覚はちょっとあったりするんですよね。
ただそこがね、ついとくなんですけど、
本作って藤野って初めからギャグ漫画を描いてるんで、
内面じゃないんですよね、彼女が出してるもので。
初めから他社に読まれること前提の作品を作ってるので、
もともと射程が人から評価されるっていうところにあるっていうのが、
どうしても本作がそういう話にならざるを得ない部分かなっていうのがあるっていう。
どっちかっていうと京本はまだね、結構自分の視点を絵として表現する情感のほうが多分強いんですけど。
初学校のコープラ読者に向けて?みたいな、バケモンじゃんっていう。
怖え。怖えよっていう。
でもね、ジャンプに連載を取るってそういうことなのかもしれないですよ。
もちろんね。商業だし、乗るっていうのはやっぱそりゃそうだわって感じはするんですけどね。
その路線に乗った上での表現の話は、じゃああんまり僕響いてないんだなっていう。
だからちょっと思ったのは、京本って、それを避けて自分のために表現をしてた人だと思うんですよね。
言葉でなかなか表現ができないからこそ自分の心象風景を絵として表現してきた人。
ある種描かれる藤野の、罪というか本人が罪だと思っている部分。
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京本扉の大したことってあると思うんですけど。
あれってある意味、京本を商業側に引き込んだがゆえに起こった惨劇なのかもしれない。
そのとおり藤野はそう捉えていると思うと。
わりとそこへの疑問も感じられる。もちろんそこで最後回帰していくんで、それは自分を助けたから仕方ないとはいえ。
それを多分全面的に賛美するのも確かに違うし、この作品の本来の意味もそこに解釈の幅はあるのかなと思って。
ちょっとだけ現実の事件にも劣等いた方がいいかなと思うんです。本作に関しては。
ズバリですけど、京都アニメーションの事件ですよね。
漫画作品の配信日自体も、事件を連想させる日時に配信されてたと思うんです。確か。
そうですね。
思いっきり当てにいっている。
当てにいっているというか、意図しているものとしてやっていると思うんですけど。
ちょっとセンシティブだよなっていうのはあって、早いなっていう感じる側面もあるんですけど。
もう一個あるのが、ここまで藤野と京本っていう個人の物語として描いている物語から感じるエモーションに、
現実で起きた惨劇に対する意気通りとか怒りの感情を乗っけて楽しませることへのものすごい腹落ちのしなさっていうのがあって、
そこの感情を使うのヤバくねって思うんですよね。
その感情って利用していい感情だっけっていうのがあって、悪いのかって言われたら悪くないのかもしれないんですけど、
あれ良かったっけって思ってしまったんですよね。
そうなんですよね。やっぱこの話で京都アニメーション事件に打ちのめされた感覚とか怒りとかみたいなのが一緒に紐づくのが良かったのか、
僕もやっぱりあんまりわかんないっていう感じはやっぱりありましたね。
しかもそこにめちゃくちゃバリバリ意識ある感じで出して、後に修正とかしてるじゃないですか。
なんだかなっていう感じがすごい。何がしたかったんだっけみたいな感じもそこの時にちょっと感じてましたし、
なんだったんだっけみたいなっていうのはちょっと思うところはあったかなっていうのはありましたね。
わかるんですよね。
消費者でしかない我々が感じたあの事件に対する怒りと、クリエイターの立場から感じた怒りとか不安とか恐怖とかって全然違うものだと思うので、
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あの事件に対して物語で対峙しようってなるのは全然理解できるんですけど、
ただこういろんな感情を一つのものに束ねていけてしまっている本作のパワーがそれを成し遂げていることの怖さをすごく感じるんですよね。
さっきまでも言ってた、あくまで作り手のクリエイトする側の視点でしかないはずの話が、
この誰しもが共感できる青春の時間っていうものの普遍性のある話の感情も束ねてるし、
同時に現実で起きた悲惨な事件に対する感情っていうものも一緒に束ねて一本のものになってるっていうのが、
なんかすごい、でも別に一つものとは別にずれてないっていう不協和音を出してるわけでもなく、
ちゃんと一つのものになってるけど、でも全然違う色の束を束ねてるよねっていう。
で、いろんなものを描いてるのに結局向かう道筋は一つにしかならないわけですよ。
藤野が漫画を描き続けるという意味を取り戻すことにしか目が出さないんだけど、
ここまでたくさんの要素を使ってそんな一つのゴールに向かっていいんだっけっていうのを僕は感じてしまったので、
やっぱ本作は因数分解したかったんですよね。
どうしても一つの大きなものじゃなくて、細かな上手さですね、正直。
上手さによって成し遂げられてる作品っていうのは、そういうふうに僕はキャッチしておきたい。
そうじゃないと僕が受け身を取れないからっていうのがある作品なんですよね。
実際あの訂正、確かお医者さんから障害を持たれる方のステレオタイプを助長するぞっていうような指摘が、
抗議文が確か出たんでしたよね。
で、それを受けて編集部の方で修正が入るって形だと記憶してるんですけど。
すいません、僕の時間が超やばくなっちゃってますよ。ごめんなさい。
すいません、もうちょっと今回僕の仕事のトラブルでスタートが遅れてしまったんですけど、
ロックバックはもっと時間を潤沢に用意しとくべきだって作品だと思います、本当に。
確かに。
本当に。
語り合わせないところ多々ありますが。
はい。
そうですね。
すいません。
いえいえ。
締めさせてください。
すいません。
はい。
じゃあこんな感じでロックバックの話は終わっておこうかなと思います。
次のテーマの話はちょっともう収録外で話しましょう。
わかりました。
はい。
ではお知らせになります。大阪にて映画南下スギルバーを開催しております。
南森町週刊周りで7月27日土曜日19時オープン予定です。
あと山口が一人でやってる方の震災橋でやってる方もよろしくお願いいたします。
またこの番組ではお便りを募集しております。
番組全体は次回テーマへ向けてご自由にお送りくださいませ。
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メンバーの最新情報を番組次回テーマXにて告知しております。
各ご案内や番組説明文をご確認くださいませ。
それでは映画南下スギルラジオ第175回ロックバックの回を終わりたいと思います。
それではまたお会いしましょう。さよなら。
さよなら。
さよなら。