なんかその、ルックバックではあんまそれを感じてないっていうとあれですけど、
なんかちょっと自分の中で違うなっていうのがやっぱあるんですよねっていうのがあって。
僕なんかこういう表現者がなんかすごいたゆまな努力をして、
もうこれで俺はいいんだみたいなエゴをまっすぐ貫いた先までいったら僕それすごい結構好きになるんですけど。
ブラックスワンとかセッションとかのことになるんですけど、僕の中で言うと。
そういうのまでいくと表現ってももちろん誰かがあってありきのものではあるんだけど、
まず自分の中のものを出したいっていうものにそこに付随して誰かがついてくるみたいな感覚がある映画の方が僕好きだったりするなってちょっと思ってて。
なんかそれで言うとあんまルックバックからあんまそういう感じしないんですよね、個人的に。
体感な話ですけど、そこはちょっと僕の中では違うのかなって勝手に思ったりするんですけど。
でも確かにマリオンさんおっしゃるのすごいちょっとわかる気がして。
てか言ってしまえばポンポさんに近い感じがするんですよ、どっちかっつーと。
そもそも藤野も、特に藤野かな、商業作品の人だなって感じがするというか。
ちょっとなんかここでラストの結論に触れていいのかわかんないですけど、ルックバックの結論って読者がいるよねって話になるじゃないですか。
誰のために漫画書いてるんだっけ、それは読者のためだったよねって話になりますよね。
もちろんそれが今日元のためっていう風に捉えられるわけですけど、読者がいるってことはそれは商業漫画ってことだと思うんですよ。
つまり誰かのために書いている。
で、そのマリオンさんがさっきおっしゃってたセッションとかって、誰かのため、自分のための表現じゃないですか。
そこは確かに一個分類はできるところなのかなって気がして。
もちろんどっちがいいどっちが悪いってわけじゃないんですけど、ルックバックはうちから出たものをどうこうって話では確かにない気がするというか。
そこはちょっとドライというか、ドライって言うのも違いますけど、
僕がそっちのブラックスランとかそっちに熱狂したのは、もっとピュアさんに寄ったらそうなるのかなって感じするんですよね、表現というものが。
自分から発せられたものが別に誰かのためとかではなく、あくまで自分で発したものがそれを感銘を受けて誰かがついてきてくれるみたいな。
自らこそそこにちょっと表現者ってすごいなっていうか尊敬の眼差しを得るなみたいなところで僕はそういうふうに至るっていう感じがすごいあるので。
なんかそういう感じの匂いがあんまりルックバックからはしないので。
あんまりその表現者のリスペクト、もちろん書き続けることだ、こういうことがあっても書き続けることだっていうのはすごくそれは、
本当に作り手側から見た作ることって何さみたいな話としては、
本当にだからこの漫画とこの映画が本当に藤本たつきにとっての祈りっていう感じがするのはそういうところだなと思いますけど、
恐ろしい恐ろしい話ですよ。
ハチさんが珍しくあまり内容に踏み込まないのが、逆に新鮮でした。
そうですね、やっぱりそこの映画のパッケージとかやり方っていうのにちょっと興味深いなっていうところを感じてて、すごい面白いですよ。
確かに興味深い体制では本当にあるので。
面白いですね。ではそんな感じで我々から話を出していこうと思うんですけど、何からいきましょうかね。
何かあります?トピック。
僕がトピック出したらいきなり嫌なとこ踏み込んで出してくれる。
早速本丸ですもんね。
いやでも僕今回本丸何個かあって喋りきれない気がしてるんですよ、時間内で。
だったら多分山口さんから出してもらって広げていった方がいい気がしますよ。
いいですか。ちょっと僕今回多分喋り方トゲトゲしくなりそうで、ちょっと嫌な感じに取られそうで喋るの怖いんですけど。
まずですね、本作が努力と挫折を描いているのかどうかっていうところを話したいんですけど。
僕本作努力と挫折を描いてはないと思っていて。
なぜなら藤野は漫画描くマシーンなんですよねあいつ。
スイッチ入ったら燃料がなくなるまで描き続けるんですよ。
そこにあんまり問いがないなって思って。
問いっていうのはこの今やることにどこまで意味があるのかって迷いがあんまりないというか。
今入っている燃料が全部燃え切るまで走り続けて、その燃料が何年か燃え続けるっていうのが、
あんまり一般的な努力の行為に必要な心の燃料の燃やし方と違うなって思ったんですよ。
まず小学校の時に京本が学級新聞に初めて漫画載せて、
あ、絵の上手さで負けてるわって言って、私絵を上手くならなければならないっていうのに火がついてから、
あの後約2年間努力し続けてるんですけど、デッサンとかを。
その後無心になって描き続けて2年後ぐらいに、最近藤野ちゃん遊んでくれないよねっていう、
あ、2年間言われなかったんかみたいな、すごいジャンプあるんですよね。
本当は言葉選び難しいですけど、凡人が疲れたなっていうところで疲れてないんですよね。
やり続けるんですよ、自動的にと言っていいほどに。
それで、でも結局私京本より全然絵が上手くないっていうことに、2年後に気づいてそこでスイッチ切れるんですけど、
少なくとも僕が感情移入できる努力ってああいう形してないなと思って。
そうですよね。ちょっと濃いなって、味濃いなって思っちゃって。
僕が本作の音響で一番感動するのって、ただペンの音だけが響いてるシーンなんですよね。
それこそが何も喋らずに漫画に目の前の原稿だけに取り組んでいるって、
そこに別に外部から意味を与えなくても、そのペンの音が彼女たちにとっての意味じゃないですか。
で、その外部の音があるっていうのは彼女たちの世界が閉じてないというか、
外から入ってきてるって風に見えちゃうんで、音あるとなんか順度下がってるんですよね。
そうなんですね。なんか普通に映画作ったら確かにこういう音楽を書けそうって音楽が流れちゃうっていうのが、
ルックバックという作品においてはすごく僕はちょっとマイナスなのではっていう気がすごくしてしまったっていうのは大きいですね。
なんか僕見ながらすごく細田守の映画見てるみたいな感じがするなって思っちゃったんですよ。
なんか僕ルックバックでそれは求めてないなって思っちゃいましたね。
その上手さは求めてないというか、映画的な上手さは。
そこにある本当に無駄に削がれたものみたいな、無駄を削ぎ落とした果てにあるものしか残ってないってことにルックバックの意味がある気がしていたので。
だから本当はこれ、僕これもうないもの得ないですけど、劇番担当が牛尾健介だったらどんなに良かっただろうってずっと思ってるんですよ。
なるほどね。
リズと青い鳥の時の音楽の作り方を見たらもうルックバック絶対ハマりますよみたいな感じなんですよ。
リズと青い鳥の音響設計でルックバック作られてたら多分僕世界に閉じ込められてたと思います。
もう完璧な完成形のルックバックが出来上がると僕は思いました。
だから僕はこの完璧じゃない、完成されてないって思ったのは本当にそこが理由ですからね。
それ良かったかもしれない。僕出てこれなかったかもしれない。
それはそれでね。
もう本当にルックバックという永遠が生まれていた可能性がそこにあったなとは思いました。
なるほどね。
確かにリズと青い鳥の話を聞いたので、山口さんそれこそちょっとだけ有利文脈になるのかなって思ってたりもしたんですけど。
いや、あんまり有利じゃないです。
友達なんですよ、本作って。
藤野が親分で京都が子分っていう関係の友達って感じですかね。
僕の有利定義、いまだに僕自身が分かってないっていうのがあるんですけど、
すごい爽やかなんですよね、本作のって。
京都も藤野を疑ってないし、藤野も京都を疑ってないと思ってたので、
相手の中で自分の大きさってそんな大したことないんじゃないかなっていう不安みたいなのが有利っていう話。
わかんないけど。
確かに今回のルックバックとリズと青い鳥の展開、ちょっと似てるとこがあるじゃないですか。
田本を分かつシーンは、確かにちょっと展開は似てるんですけど、
でも確かにルックバックからあんまカラッと終わったなみたいな感じがしちゃうっていうのはわかりますかね。
そこはあれなんですかね。
少年漫画がそうだっていうのはちょっと違う。
でもそのカラとかは少年漫画なのかなっていう。
なんかわからないですけどね。
やっぱりこれも劇番が牛尾健介だったらそういうレベルの話になっていたかもしれないですけど、
今回からはあんま感じなかったなっていうのは、
あんまそこに後腐れない感じめちゃくちゃしたんですよね。
そう、後腐れないんですよ、あの二人。
なんかもうちょっと、尺がもうちょっと長ければ、もうちょっとなんでだよみたいなことが多分起こると思うんですけど、
結構そういうの無くいっちゃうので、そこかなっていうのがあるかなっていう気がしますね。
もっと言うならチームだと思うんですよ、あの二人。
私が話書くね、であんたは背景書いてっていうので、その役割分担で二人で完結している。
もう二人で、藤野と京本、二人合わせて藤本っていう感じの存在になってるなと思ってて、
なんかその同じ役割をしてたらどうしても互いに比べることになるじゃないですか。
そうすることで生まれる感情みたいなのがないなと思って、
それだったら漫画道のマガト才能の方が有利だと思います。
なるほどなるほど、そのポジションがしっかり分かれている、文行性になっているからこそ、
もう二人で一人になっちゃってるというか。
そうなんですね、自分じゃない誰かを失ったというよりも自分の一部を失ったって意味やと思うんですよね、本作って。
なのでなんだろうな、やっぱり僕有利っていうのは他者性やと思うんですよ。
他者性の中での共感とその分かり合えない不安みたいなのがあるとは思うので、
あの二人は僕は分かり合えてるというか、もう完全に役割分担によって一つの存在としてある、
一つの漫画家としてあったっていう感覚かなっていう。
それを半信を失っても私は漫画を書くっていうのは本作の結論なんじゃないかなと思いましたからね。
なるほど。
確かに二人通過の中って感じがするからなぁみたいなのはあるので、
そこから何か生じにくいのはあるかみたいなのを感じられるんですけどね。
まあでも、大人になって藤野が一人で漫画を書いてる時に、今回漫画単行本買ったんですけど、
買ってなかったなと思って買って読んでたんですけど、
映画だけにあるのって、担当の編集の人に、
アシスタントの人変えてもらえませんかねってか、いないっすかねみたいな話してるシーン入れてましたよね。
あのシーンが入ることで、もっと今日もとってめちゃくちゃ重要なやつだった感を出そうとしてるのかなってちょっと思ったんですけど。
なるほどね、そういうことか。
私のパートナー当たり得るやつはまだいないってことか。
本当はあの時は当たり得されないっていうのも違うんですけど、
案外結構スパッと分かれてるんだけど、実はちゃんと分かれられてなかったよねみたいなニュアンスが、
あのシーンがあることで載ったりするのかなっていうのはちょっと思ったりはしました。
なるほど。僕そのシーン大好きなんですよ。
言われてみて、そういえば漫画にあったっけってずっと疑問に思ってたんですけど、やっぱり漫画なかったんですね。
今回あのシーンあったので、僕あのシーンめちゃくちゃ好きなんですよ。
この漫画に選ばれた藤野っていう存在が泥臭いマネジメントをせざるを得なくなってるっていうところに、
お仕事者としての土の匂いみたいなのを感じて、あそこで。
なるほど。
僕はそこでいいなって思ったんですよね。
もうあの頃は、ただ京本と漫画を描けるだけでよかったのに、今はそうじゃないっていうのがあって、
仕事のためにしてる風になってきてますよ。漫画を描くっていうことがっていう風になってきているのが、
あれを見て伝わるなと思って。ただ、あの後、京本を失って、過去に退治して、
京本が生きたかもしれないイフっていうところにたどり着くことで、もう一度自分の中の京本を取り戻すことで、
初期衝動によって漫画を描くっていうことを取り戻すっていう。
あれはすごくクリエイティビティに対する純度の高い夢が描かれているシーンだなとは思って、
いいシーンだなと思いつつ、さっき言ってたクリエイティブっていうものを純粋なものとして見過ぎているんじゃないかなっていうのに、
もう一回揺り戻すシーンでもあって、すごいちょっと相反する気持ちが僕の中で生まれてたシーンだったんですけど。
さっきの話に戻すと、クリエイティブを純粋なものとして見過ぎてるんじゃないか問題っていうのは、
僕はすごい感じていることとしてあるんですけど、
クリエイティブっていうものを内側から出てくるものってみんなが思ってるような気がするって思ってるんですよね。
例えば同じように何かを目指すっていう話をしたときに、
スポーツを一個設定したとして、あるいは将棋とかでもいいかもしれないです。
野球のプロを目指すとか、将棋のプロを目指すみたいなのを描いたときに、
ある意味距離を置いて見れていたがゆえに、
クリエイティブの口座を描いてるとは思ってたんですよ確かに。
クリエイターになりたいっていう思いが結局彼を標高に走らせたのは多分事実だし、
神聖的なものだけではないよねっていうのは描かれているんだなっていうのは、
冷静に分析して見えてはいたんですけど、
それこそふと自分もここも含めてラジオをやっているじゃないですか。
なんで漫画を描き続けるかっていう問いが最後に出るわけですけど、藤野に対して。
そこで要は読者の存在というか、京本の存在でもあり、
もうちょっといえば読んでくれるその人の存在ということを思えば、
描き続けられるよねっていう話になっていくところは、
ちょっと危険にも乗っかってしまったところが自分にはあって、
それこそ今回もお便りたくさんいただきましたし、
自分がラジオやってて、自分の方の話の合わないの方はよりパーソナルな話をしていたりもするので、
その話題で結構お便りとかくれたりするとやっぱ嬉しいなっていうのがあって。
クリエイターとまで大手を振ってはいえないけど、
ラジオを作るのも表現活動ではあるよなって開き直ってはいるんですよ、ある意味。
っていう意味でいうと、発信することで届けたっていうところがすごい、
もしかしたら藤野にも、要は誰が読むのかわからないけど、
っていうかみんな読んでたんだけど、学校新聞に、京本もそうですよね、書き続ける。
そこでお互いがそれぞれの読者になっていくとかっていうところは、
自分の活動と重ねちゃったところもあって。
なんでそこは漫画やるときにはあんまりそこを重ならなかった。
ポッドキャスト多分やってなかったですし、まだ。
でもそれが自分に重なったところとかは、何かこう、そうだな。
藤野と京本は漫画の天才ですけど、
自分は全然ラジオの天才ではないけど、続けて誰かが聞いてはくれるっていう。
そういうことが仕事に、仕事じゃないですけどね。
ライフワークになるっていうのは悪くはないのかなっていうのは、
そういう自己肯定はこの映画から得られたりはしたので。
でも確かにな、もしこれで誰も聞いてくれてなかったら全然ツルハシフルーもんな。
聞いてなかったら。
リスナー永遠にゼロ人とかだったら多分ツルハシフルー側に全然なるもんな。
そうなんですよね。だから僕はやっぱりどうしても切り分けられない。
強行に走った彼を自分から。
むしろクリエイターに慣れた人間と慣れなかった人間は根っこは紐づいてると思うので、
あの事件に対して物語で対峙しようってなるのは全然理解できるんですけど、
ただこういろんな感情を一つのものに束ねていけてしまっている本作のパワーがそれを成し遂げていることの怖さをすごく感じるんですよね。
さっきまでも言ってた、あくまで作り手のクリエイトする側の視点でしかないはずの話が、
この誰しもが共感できる青春の時間っていうものの普遍性のある話の感情も束ねてるし、
同時に現実で起きた悲惨な事件に対する感情っていうものも一緒に束ねて一本のものになってるっていうのが、
なんかすごい、でも別に一つものとは別にずれてないっていう不協和音を出してるわけでもなく、
ちゃんと一つのものになってるけど、でも全然違う色の束を束ねてるよねっていう。
で、いろんなものを描いてるのに結局向かう道筋は一つにしかならないわけですよ。
藤野が漫画を描き続けるという意味を取り戻すことにしか目が出さないんだけど、
ここまでたくさんの要素を使ってそんな一つのゴールに向かっていいんだっけっていうのを僕は感じてしまったので、
やっぱ本作は因数分解したかったんですよね。
どうしても一つの大きなものじゃなくて、細かな上手さですね、正直。
上手さによって成し遂げられてる作品っていうのは、そういうふうに僕はキャッチしておきたい。
そうじゃないと僕が受け身を取れないからっていうのがある作品なんですよね。
実際あの訂正、確かお医者さんから障害を持たれる方のステレオタイプを助長するぞっていうような指摘が、
抗議文が確か出たんでしたよね。
で、それを受けて編集部の方で修正が入るって形だと記憶してるんですけど。
すいません、僕の時間が超やばくなっちゃってますよ。ごめんなさい。
すいません、もうちょっと今回僕の仕事のトラブルでスタートが遅れてしまったんですけど、
ロックバックはもっと時間を潤沢に用意しとくべきだって作品だと思います、本当に。
確かに。
本当に。
語り合わせないところ多々ありますが。
はい。
そうですね。
すいません。
いえいえ。
締めさせてください。
すいません。
はい。
じゃあこんな感じでロックバックの話は終わっておこうかなと思います。
次のテーマの話はちょっともう収録外で話しましょう。
わかりました。
はい。
ではお知らせになります。大阪にて映画南下スギルバーを開催しております。
南森町週刊周りで7月27日土曜日19時オープン予定です。
あと山口が一人でやってる方の震災橋でやってる方もよろしくお願いいたします。
またこの番組ではお便りを募集しております。
番組全体は次回テーマへ向けてご自由にお送りくださいませ。