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2022-11-18 18:45

今日の10分de1テーマ「スクランブルのない世界で自動的に生きることについて」

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本職は編集者のエイドリアン太郎が1日1テーマを決めて10分話すpodcastです。 ※ご意見、ご感想、質問や話のお題などありましたら eidoriantarou@gmail.com へお便りください。

 [beats by P.J INLAND]

歴史と現状認識の関係
はい、というわけで始まりました。
本日はですね、ちょっと最近、割と身の回りで起こったことで、なんか引っかかることというか、何だろう、何て言うかな、
これもなんか最近思ったことだな、これも思ったことだな、みたいなことがですね、結構繋がるところがあって、
例によってですね、それをちゃんと整理してから話すんじゃなくて、話しながら整理しようと思ってるんですけど、
本当ね、すごいだから何て言うか、羅列的な話し方になっちゃうと思うんですけど、
まず一つはですね、結構前に、古典ラジオの聞いてたらですね、深井さんが言ってたことなんですが、古典ラジオの主催してる方が言ってた人のことなんですけど、
歴史をずっと勉強してると、現状認識が一番難しいんだな、ということがよくわかると。
現状さえ認識できれば、何をやればいいかっていうのは、簡単に論理的に導き出せる。
でも一体自分がどういう現状を生きてるのかっていうのは、歴史で全てある程度前後のことも、周囲のこととかも資料が集まっててわかって、
じゃあこの国の例えば王様のこの人はこの時どういう状況だったんだ、みたいなことを評価するのもまあまあ難しいのに、
リアルのNOWで、今現在の自分というのを、自分の周囲の環境というのが今どういう状況なんだということを認識するというのはめちゃくちゃ難しいと。
っていうようなことを言ってたんですよね。
だからそれがもし、自分の今の現状認識というのが少しでもできることを繋がるんだとしたら、歴史を勉強することがそれに繋がるかな、みたいな話をしてたんですよね。
それはちょっと面白いなと思ってですね。
孫子の己を知り敵を知れば百戦危うからず、みたいな話だなとは思うんですけど、
自分と周囲のことをもし仮に完全に認識できたとしたら、確かに何をやればいいかっていうのは自動的にはじき出されると。
一方でテニスをやってる同僚と話してたらですね、スポーツが上手い人っていうのは誰でも例外なく自分が置かれてる状況を客観的に見れてるって話をしてたんですよね。
客観的な状況認識の重要性
その人はテニスをやってるんですけど、テニスをやってて相手がこいつ自分の置かれてる状況をわかってないなというプレイヤーだった場合は、
そこに合わせて、自分が置かれてる状況に合わせてやっていったら相手が勝手に自滅していくって言ってたんですよね。
そういう客観的に見れてない人はどんだけ信頼能力が優れてるのかテクニックがあろうが、基本的には弱いと。
自分の状況を客観的に見れてる人は強い、これは多分どんなスポーツも例外なくそうだと思うみたいなことを言ってて、それも面白いなと思ったんですよね。
それを聞いた時にまさに古典ラジオの話を思い出したんですけど。
僕はこの間ジュージューズ行った時に練習終わって帰ろうとしたら、スパーリングとかやってくれたすごい強いデイゲイコーに来てる方がいるんですけど、
その方がですね、動きはかなり良くなって仕上がってきてますねって言って。
ただもうここは掴まなくていいっていうところをずっと掴んでたりとか、
今はどこをこだわるのかっていうこだわるポイントが間違えてる時があると。
ここはギュッて思いっきり握って引き付けてるけど、今これは握ってるんじゃなくて離してこっちを掴まなきゃいけない状況だみたいな。
その状況をどこにこだわって形を作っていくのか、自分の形を作っていくのかっていうことができるようになれば、もう青帯ですねみたいな話をしてたんですよね。
それは言われて本当その通りだなと思って、まず自分でもさっき同僚が言ってた柔術に関して客観視ができてるって感覚はないんですよね。
いま自分が置かれている状況が正直あんまり分かってない。
それはやっぱり技術がまだ足りないし、技術の数が足りないのもあるんですけど、もうちょっと根本的なことでもな気もするんですよね。
なんか客観的に見れてないなみたいな感じがあって、多分これが客観的に見れてないとこれ以上強くなれないかもぐらいな感じはあるんですけど、
スクランブルという状況
続けていけば見れるようになるのかなみたいな感じで、柔術の選手とか、例えばそれこそ佐藤宗澤選手とかクレベル小池選手が試合前のインタビューを見ると、
私はミスをしないから勝てるみたいなことを言うんですよね。私はミスをしないし相手のミスは絶対見逃さない。だから相手がミスをしたら私は勝てるみたいなことを言うんですよ。
つまり、自分がすごいファンタスティックな技を持っているから勝てるんじゃなくて、相手がミスをするから勝てるって言うんですよね。
私はミスをしない。相手はミスをするから勝てるって言うんですよ。
柔術を今やっていると、習ったことのある状況、そしてその習ったことのある状況に対していくつかの対処法とかテクニックを持っているという状況だったら、
自分にとってその中の何を選ぶかという選択肢がある状況なんですけど、そこから習ったことのない状況みたいなもみ合いの中で入っていくわけですよね。
入っていって、バランスがこっちに崩されてどうするんだ、どっちにどうやればいい、みたいな感じのわからない状況に入っていくわけですけど、
それは一般的に格闘技用語でスクランブルと呼ばれている状況ですね。
状況が絡み合っていて、いわゆるテクニック練習みたいなもので想定されていない形みたいなのをスクランブルって言うんですよね。
僕みたいなまだ経験が少ない人間からすると、柔術ってスパリング5分間とかやっていたら、スクランブルの時間が多分4分間ぐらいあるぐらいの間隔なんだと思うんですよね。
これと今どうすればいいんだ、みたいな状況が4分間あるみたいな感じですね。
多分、クルベル・コイケとかサトシ・ソーダみたいな柔術のめちゃくちゃ強い人は、経験と技術とかによってスクランブルって状態がほぼ発生しないんですよね。
だから、あるサトシ・ソーダとジョニー・ケースという選手が戦った試合があったんですけど、最後思わぬ角度から三角締めを取って勝ったんですけど、
それはサトシがすごい技を決めたんじゃなくて、ジョニー・ケースがミスったと言ってるんですよね。
ジョニー・ケース自身も、私はレスリングベースだから次レスリングの癖であそこを持ち上げてしまった、そこを取られてしまったみたいなことを言ってたんですけど、
勝者のゲーム、敗者のゲームって考え方があって、勝者のゲームっていうのはすごいことをやった方が勝つっていうゲームですね。
敗者のゲームっていうのはミスったやつが負けるっていうゲームであると。
つまり、柔術っていうのは基本的に敗者のゲームなんですよね。
すごいことをしたっていう人が勝つんじゃなくて、ミスったやつが負けるっていう敗者のゲームであると。
テニスをやっている同僚の話を聞いていても、テニスもそういう側面があるんだろうなと。
テニスの選手が一部で自分を客観的に見えていない奴が弱いっていうのを、自分を客観的に見えていない奴っていうのは柔術っていうところのスクランブル状態が長いやつだと思うんですよね、試合の中において。
自分が今置かれている状況っていうのが分かっていたら、自動的に何をすればいいか分かると。
それが分かっていないから、行っちゃいけない場所にボケっと立ってたりすることによって多分自滅を招いてしまうんですよね。
だからスポーツっていうのは基本的にスクランブルの状態っていうのをなくしていって、自分がどういう状況にあるのかっていうことを常に把握していて、そこから自動的に導き出される回答、いくつかの選択肢ぐらいはあると思うんですけど。
回答のベストを選んでいけば勝てるっていうのが多分スポーツの世界なんだろうと思うんですよね。
そういう状態がまさに己を知り、敵を知れば100戦危うからずという状態なんだろうなと思うわけですけど。
完全な自己認識の状態
スポーツっていうのは僕は制限された現実っていうふうに思ってるんで、現実だと無限の可能性とかがあるわけですけど、スポーツっていうのはルールによってその可能性をずいぶん減らされてるわけですよね。
ずいぶん減らされてるので、前もちょっと話したかもしれないですけど、スポーツの世界では横分布が起こりにくいわけですよね。
例えば陸上100mっていう競技っていう最も制限された現実度が高い競技だと、足が速いっていうこと以外の良さみたいなものがその競技の中では一切活かされないので、本当に足が速いことしか問われないし、
他の戦略、生き方みたいなことがないわけですけど、現実世界は足が速くなければこれやればいいよみたいな感じでどんどん横に分布できるわけですよね。
でも制限された現実であるスポーツはそれができないので、いわゆる怪物が発生すると。どうやったらこんなに足が速いねん、こんなに逆立ちしても勝てんわみたいな人がスポーツの世界にはいる。
でも現実世界にはいないみたいな話、以前してたような気がするんですけど、スポーツの世界においては100m外からあったら現状認識っていう、あまりにも制限が強力すぎて自分を客観的に見れてるかどうか関係なさそうな気がするんですけど、
もう少し幅のある競技だと、サトシとかクレベル小池の言ってることを真に受けるならですね、すべてのスクランブルを消し去ることができるんですよね、おそらく。
で、できると。もしかしたらテニスもできるのかもしんない。
じゃあ、それがスポーツ以外の本当の現実ですべてのスクランブルを消せるかって言ったら、それはまあ無理だとは思うんですよね、さすがに。
無理で、まあせいぜいですね、現状認識についてのいくつかの仮説を持つぐらいが、まあ石の山だろうと思うんですよ。
今、俺とか世界はこういう状況なのかもしれないっていう仮説を持つぐらいが石の山だろうと思っていて。
で、運がいい人がその張った山が当たった、当たるってことがぐらいな感じだろうなと思うんですよね。
でですね、なんかいろいろつらつら話してくる、自分の結論が何なのかよくわからんのですが。
一つ面白いなと思っているのが、スクランブル状態が全くなくなった状態、まあそれはスポーツでも現実でもどっちでもいいんですけど、
っていうものがなくなった、完全なる自己認識っていうのが実現している状態だとしたら、自己認識、現実認識が実現できている状況だとしたら、
やることが必然的に決まり続けるので、意思がないんですよね。自動的に動いていくことになると。
何かこういうことをやってやろうみたいなことが、むしろその、つまり敗者のゲームなんで、
それがミスにつながって余計なことをしたから負けるってことになるんで、
何にせよですね、スクランブルを消し去って、完全なる現実認識を手に入れたら、後は実は自動的に生きていくだけなんですよね。
意思と固執
じゃあそれはですね、意思がないのか、すごく囚われている感じがするのか、まるで自動人形のようなロボットのような感じなのかっていったら、
やっぱり全くそんな感じはせずですね、正直柔術とかでめちゃめちゃ強い人がいるんですけど、同じ道場に、
その人は本当に毎回自分のやることを迷ってないんですよね。
で、全くいつも同じようなスタイルで強くて勝つんですけど、それはですね、見てて惚れ惚れするような感じなんですよ。
その感じはやっぱり一つの完成形だというか、理想形だと思うし、思いますと。
でもスポーツだったらまだスクランブルは全て消し去るかもしれない、経験によって。
現実っていうのはそれは難しいだろうと、せいぜい仮説みたいなものを持つのが責任はまだ、さっき話しましたけど、
ただその仮説っていうのが今の合ってるかどうかは別として、
今のこれが俺なんだ、これが今の現実、現状なんだ、世界はこのようなものなんだっていう風に、
その仮説を信じられたとしたら、やはり同じようにですね、自動的に動けるはずなんですよね。
何をやればいいか分かっていて、自動的にまさに答えが論理的に簡単に出てくるので、自動的に動くと。
それはきっと気持ちいいことなんですよね。
自分の転職みたいなこともたぶんいろいろあったから、そんなことを考えていたのか、
ある種必然性みたいなのに突き動かされて、自分がやることをただやっているという状態は、
一つの理想形だな、それはスポーツにしても現実にしてもと思っていて、
スピノ座と自由な意志
本当にそういう風にありたいなと思っていました。
そんな中、僕がこれから新しい環境の中でいろいろやってくる時に、
自分の大事なものをもう一回復習しようと思って、またスピノ座の本を読み直していたら、
そんなようなことが書いてあって、また今度はちゃんとスピノ座の本を解説しようと思っていて、
解説というのは単純に人に話した方が自分がより理解できて覚えられるからなんですけど、
スピノ座はこう言っているんですよね、必然性に従うことこそが自由であると言っていて、
自由な意志など存在しないと言っているんですよね。
まさに本当に自分が思っていたことだなと、スピノ座は気合うなと思いながら、
スピノ座の本を読んでいたので、またスピノ座の話をしたいと思います。
本日は以上です。ありがとうございました。
18:45

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