海側ね。
海側の方に変えます。
ただ海側といっても、今回三陸には行けませんね。
非常に東西も長いので。
なのでその途中、三陸海側に行く途中の町でね、ちょっと今回東西的には終わっちゃいます。
車で45分ほど東へ行ったところにあるのが、東野市という市です。
東野市は知ってますかね。
何で聞いたんだろうな。
いやでもなんか、その東野っていうのは聞いたことあるな。
なんかそういう感じだと思います。
何で聞いたんだろう。
人口もそんなに多くないですし、なんか特別、それこそ森岡冷麺みたいなわけでもないんだけども、なんか聞いたことある。
なんだろう、何かが全然わかんないわ。
はい。
じゃあその何かをちょっとね、探りていきたいと思うんですが、
ここでね一つね、非常に重要な変化が目に見えないところで起こっています。
何かというと、ついにですね、森岡半領にここに入りました。
あーなるほど。
つまりここから文化圏が変わったと、昔はもう全然違う国だったというぐらい思ってください。
そして仙台藩伊達家の北の最前線が水沢だったわけです。
それに相対する森岡藩南部家の南の最前線が東野です。
なのでこの2つが最前線の要塞だったんですね。
なので南部家の城下町に今度入ってきます。
南部家はただ本居森岡になりますので、森岡で詳しくお話ししますが、
一旦この東野に入ってみたいと思うんですね。
そして水崎納豆さんでいろいろスイーツとかもいただいたとしても、
おそらく3時前には入れるんじゃないかと思います。
なのでこの2日目の午後と3日目の午前中に分けて観光を東野するんですけれども、
まずはその東野のあらましを知りたいと思いますので、
東野の中心市街地にある東野市立博物館を目指してください。
なんかちょっと可愛らしい建物なのかな。
ちょっと博物館っぽくない感じがあるね。
これちょうどお城の後に建てられてるんですけど、
お城に行く道の途中くらいなんだけど。
わかりましたかね。
なんで東野なんとなく聞いたことがあるか。
東野物語っていうのがね、書いてあるんですね。
東野って言うとおそらく最も有名なのはこの東野物語の舞台だっていうことですね。
これについてはちょっと後では詳しく話しますが、
簡単に一言で言っておくと、
日本の民族学っていうもののきっかけになったとも言われている画期的な本です。
これ国語の教科書に必ず載ってます。
1910何年にできてるんですけれども、
なのでもう100年以上前の本なんですが、
これによってすごい日本の学問が変わったって言われてるすっごく重要な本です。
っていうのの舞台になったのがこの東野なんです。
全然ピンときてる。
なので東野市立博物館に行っていただくと、
このページにも書いてある通り、
ようこそ東野物語の世界へっていう、
まずやっぱりそのネームバリオにね、
ひも付けで話されていくんですけど、
僕としてはもちろん物語のことをここで学んでいただくのも重要でいいことだと思うんですが、
その以前にそもそもなぜ東野に東野物語が生まれる下地があったのかっていう、
東野という街のことをちゃんと知った方がいいと思ってるんですね。
そのためその観点でこの東野市立博物館の展示を見ていきたいと思います。
というわけで東野の街の成り立ちについてなんですけれども、
まず大事だったことは先ほど申し上げた通り、
森良加藩南部家の最前線だったということです。
つまり南部家の筆頭がろうがここに入ってきました。
具体的に言うとね、南部っていうのは森良加が本土なんだけど、
もともとが実は青森の武士団内です。
八戸とか三戸とかあの辺りを本土にしていたのが、
鎌倉時代からずっと同じ辺りを収めてるっていう、
日本でも本当に南家しかないすごい有数の古い大名なんですけれども、
それが徐々に領土を拡張していって、
すごい南の方まで抑えてきて、
あとは弘前とかも全部抑えてたんですね。
だから以前青森県の時に、
津軽と八戸のバチバチの関係があったって話したと思う。
あの時津軽に乗っ取られたのが南部なんですよ。
青森も全部が南部家の領地だったんですよ。
津軽の弘前藩の藩主、津軽ためのぶは、
南部家の家臣の一人にすぎなかったんですよ。
なのでその南部に無謀を起こして自ら独立しちゃって、
秀吉に気に入られて家休みも取りに行って、
南部としては許せないんですよ。
あいつは乗っ取ったヌスットだと。
南部盛岡藩と津軽弘前藩めちゃくちゃ仲が悪かった。
南部は南部でしかも伊達ともライバルだったので、
これが後々盛岡の街に大きな火標を落とすことになるんですけども、
とにかくそのライバル意識に囲まれてたんですね。
なので元々の一族の本当の最初の本拠地だった、
青森の方、八戸の方なんですけど、
その八戸にいた一族を最重要拠点である東野に持ってきたんです。
なのでここに入ってきた人たちは八戸氏っていう人たちです。
ただ南部の一族なんですけど。
森岡藩の筆頭がろうを務めた家。
すごい重要な家が入ってきました。
そして八戸、南部はここに入ってきて、
この今博物館があるところに城を築いて、
対伊達家の最前線として守りを固めます。
同時にこの東野っていうのはなんで南の境界線の中でも、
なぜ東野に置いたかっつうと、
東野はですね、地図見てもらった方がいいかな。
見ていただくと岩手県ってすごく産地が多いわけなんですよ。
左側に縦に筋で白いところ平地があると思うんですけども、
そこがちょうど唯一平地として開けてるところなんですね。
それは北上川が開いた平野なわけです。
その中に北上氏があって、
その下行っていただくと水崎濃都があるわけですね。
そして奥州氏もありますよね。
つまり浅草ですあれが。
ここまでが伊達領です。
で、東野っていうのはちょっと山の方に入っているところにあるわけなんですけれども、
なぜここを割ったかっていうと、
東野はその東にを見ると三陸海岸があるんですね。
つまり釜石っていうのも港なので、
三陸海岸と森岡の方を結ぶ中継拠点として非常に重要な場所だったんです。
なので対伊達の最前線であると同時に、
森岡藩の物流経済の本当に要になったんです。
逆に言うと周り見てもらうと、
これ周り全部山じゃないですか。
で、東野市って書いてあるところだけ白くなってるでしょ。
なので三陸海岸、釜石とか陸中山田とかね、
あたりありますけれども、
あの辺から水あげされた物資とか食料っていうのは、
みんな東野に集まってくるって言った。
で、東野で売りさばかれて、
全国行ったり森岡の本拠へ運ばれたりとかってなるので、
すっごくその観点でも重要な場所だった。
まあちょっとそこを治める身としては、
だいぶきつい感じはあるよね。
責任が重いというかね。
責任重いですね。
なのででもそれだけ信頼の受ける家臣にやらせたかったということで、
やっぱ一族が入ってくるんですよ。
なので東野南部圏もね、
二百数十年ずっとここを治め続けました。
で、そういうわけでね、
ここは東野物語の話があまりにもちょっと有名なので、
なんかね、後々話すんですけど、
ミステリーなんですよ東野物語っていうのは。
なのでね妖怪とかがいっぱいいるみたいなイメージ思われがちなんだけど、
そもそも町としてめっちゃ大事なところなんですよ。
そういうわけでポイントとしては、
対伊達の最前線だった。
そして物資の集散地にならざるを得なかったっていうところなんですね。
で、当時江戸時代とかは、
物資を何で運んでたんですかっつうと、
当然車とかないから馬なんですよね。
そして東野はね、いろんなところから馬に荷物をくりつけて、
みんな運んでくるわけですよね。
なので馬の市っていうのを同時に立てられたんですよ。
馬の市。
つまり良い馬を仕入れるための、
要は今でいう車のモーターショーですよね。
あれを東野でやったんです。
それ東野の馬市ってすごい有名なもう催し物で東野名物で、
東野の人たちはつまり運送業者たちがめっちゃ集まってくるから、
いかにいいトラックをね、ちゃんと仕入れられるかって同じのとおりで、
毎回みんないかに動力として優れた馬をね、
その時に仕入れられるか、
あるいは馬の産地の人たちはそういう人に売り付けられるかっていうので、
すごい攻め合いがあったと。
だからこの東野南部の農家の人たちはみんな、
ある意味副業的に馬を大切に大切に養ってあげたんだよ。
農家にこの南部曲り屋ってこれあったんじゃないかな教科書でね。
あったはずだね。
曲り屋っていうね岩手県独特のL字に曲がった建物でそういう農家であって、
それは山瀬っていう季節風を防ぐためっていうのと、
あと同時にそのL字のこの短い方は馬小屋にあってられるんですね。
馬と人間がほぼ同じ家で暮らしているっていう、
本当にもう丹精込めて可愛がってやった。
これも教科書は岩手県とか言っちゃってるんですけど、
これは違うんですよ。南部繁竜の問題なんです。
っていう大事な文化的背景があるんですけれども。
そういった馬産地だった。
運送業があるから馬が売れる。
農家の人たちはみんな馬を育てればそれを買ってくれる人がいる。
だから丹精込めて大勢に育てた。
馬と人との距離が近かった。
そしてそれは同時に馬はそれを市場に持っていくわけですよね。
そうすると買ったこの馬ってなったら当然商品なので引き渡さなきゃいけないわけです。
そうすると農家の人たちは売れてよかったなって気持ちとともに、
何年も何年もともに家で過ごした、
我が子のように育った馬を手放して馬はやがて売られていって、
もう去っていってしまう。
そういう出会いと別れと人間と動物っていう奇妙な関係が、
その経済循環の中で起きてたのが東野っていう町なんです。
これがやがていろんな文学に発展していく。
その下地が知ってるか知ってないかで東野物語がだいぶ違ってくると思うんですよ。
東野市立博物館に行くと実際の展示品の中でこのやっぱり馬文化っていうのがすごく大量に展示が盛れてます。
当然東野がどういうふうに馬の競りが行われていたかっていう話も実際パネルとかで解説もされてますし、
同時に健やかな馬が育ちますようにっていう願いをみんなが込めたので、
エマっていうものをこの東野の人たちはめちゃくちゃ作るんですよね。
エマってあれ馬ですからそもそも。
なのでそのエマの集合パネルみたいなのがすごいのがあって、
壁一面にそのいにしえの東野の人たちが自らの馬たちの繁栄を願って、
丹精込めて作ったエマをね、すごい数ここのしてあるんです。
その一覧はすごい圧巻です。
なんか面白い土地だな。
そうなんですよ。
やっぱりちょっと面白い土地なんですよね。
ただそれもすべて歴史上の必然によって起こっていた。
森岡藩の経済の一つの歯車としてここは機能しなきゃいけなかったので。
というのが東野という街なんです。
それを見た上でなんですけれども、東野私立博物館の中にもやはりあるんですが、
東野物語のことをちゃんと知っていきたいと思うんですね。
そのためですね私立博物館から車で3分ほど東野駅の方に戻っていただくと、
東野物語の館というものがあります。
もうそれ専用の資料館があるんだ。
東野はそういうわけで城下町でしたので、昔の蔵みたいなイメージした街並みが整備されています。
すごい綺麗な街なんですよ、東野って。
だから東野物語今から話す暗いくてミステニアスな雰囲気を見てると、やや表紙抜けするかもしれません。
すごく清潔で綺麗でサンサンとした明るい街です。
ここで改めてなんですけれども、東野物語は何かという話です。
東野物語を書いた人は柳田邦夫という人物です。
柳田邦夫これ覚えてませんかね。
民族学の祖っていうことで話しましたよね。
そうです。いわゆる日本民族学の祖になった人物。
民族学っていうのは民の人弁の方の族っぽいっていう風な族で学ぶというわけです。
民衆の風俗の学問だよね。
そうです。要は何とか人とかっていう民族じゃなくて、民間伝承とか。
つまり歴史には記録されていないんだけれども、その里にだけ伝わっている民話みたいな。
フォークロアですよね。
そういったものに実は人々の本当の気持ちが現れているんじゃないかって初めて問題提起をして、
それを学問としてちゃんと学んでもいいんじゃないのっていう風に世に問うて、
日本民族学の祖になった人物。これが柳田邦夫でした。
そういった新しい学問だから相性が良かったのは信仰の鉄道会社だった。
だから柳田邦夫が今日構えたのは小田急線の清浄学園だったわけです。
清浄学園が民族学のメッカの一つなので。
っていう話で清浄の時にこの話が出ました。
ただ柳田邦夫さん自体は別に東野の人ではありません。
この人は兵庫県の人です。
この人はそもそも別に学者でもないんですよ。
そうなの。柳田邦夫さんってこれ勘違いされてるんですけど、
これ学者じゃありませんそもそも。
そもそもは農林系の官僚なんです。
法務員ですこの人は。
そうだったんだ。
めちゃくちゃ秀才でやっぱ頭いいね。
農業とかそういったものの実地調査を全国に巻く。
農林水産省的なところに勤めていた人なんですね。
それは国のために奉仕していたわけなんですよ。
ところがある時宮崎県に柴村という村が今もあるんですけどとかに行った時に、
それあくまで仕事として行ったんですね。
農業の調査のために行ったんだけれども、
そこで見ていた時にその兵家の落武者の伝説のある村なんですけれども、
そういったものを見ていると、
すごい不思議な狩猟の種族があったり、
自然進行みたいのがあったりして、
そこにやっぱり元々すごい頭のいい知的広域士のある人だから聞かれて、
興味を持っていったんですね。
で、それを仕事をやる方はら、
そういった実地調査いろんなところに行く機会があるから、
そういう種族、民話みたいのを趣味で書き留めて、
コレクションして考えるようになっていったんです。
それがそもそもの始まりなんです。
でも当時の歴史学とかっていうのは、
あくまで近代西洋の学問っていうものを日本に大学が導入しているので、
そんな日本の民話なんて学ぶ人いないんですよ。
そもそもそこに興味を持ったりとかっていう。
もっと西洋の合理的な体系づけられた学問こそが学問だっていうふうにみんな信じているのでね。
なるほど。
そっちに興味を持つ人が少ないんだね。
そうそうそう。
そもそも学問としてもみなされてない。
そうかそうか。
だけど柳田邦夫は、
それにやっぱりこれは学ぶべきある研究する回のあるものだと。
そこに本当の日本人、そしてこれを研究しないと忘れ去られていってしまう日本人の心なんじゃないか。
知恵なんじゃないかっていうことで、
ちゃんと考えなきゃいけないと。
思ったけど別に賛同してくれる人はそんなにいない。
ところがそういった奇妙な公務員がいるっていうのを聞いたのが、
柳田邦夫の友達が、
俺の知り合いにお前が興味ありそうな不思議な話をいっぱい知ってる人がいるよ。
でそいつ通りまで早稲田にいるからさ、それ連れてくるよ学生さんなんだけどさ。
って言ってあるとき柳田邦夫の家にとある学生を連れてきた。
それが佐々木紀善という人だった。
でこの人はどういう人だったかっていうと、
柳田邦夫がその塔の物語の序に書いてるんですけど、
すごく口下手だったと。
口下手だったんだけれども、ただ誠実な人だった。
誠実な語り手だったっていうふうに表してるんです。
その人が生まれたのがこの塔野なんです。
で彼は塔野の近くの村に生まれてるんですけれども、
そこの不思議な家系に生まれていて、
そういったミステリアスな頂上現象とかそういったものを、
いろんな伝えきっていたことを記憶している人だったんですね。
それをめっちゃ知ってるんだけれども、
別に彼らが悪夢とは思ってなかったんだけど、
そういった話を駆け集めてる人がいる。
っていうので柳田邦夫のとこにやってきて、それを語ったんです。
そうしたら柳田邦夫は、そりゃすげえ、
これ塔野って何これ、そんな話があるのかってめっちゃびっくりして、
佐々木紀善の話をめっちゃメモした。
で私ぜひここ行ってみたいです、この塔野の場所に。
じゃあ佐々木紀善が帰省するときに、一緒に連れてってあげるよって話になって、
柳田邦夫は学者になる前に塔野にやってきたんですね。
そして高前旅館っていう旅館に泊まりました。
その旅館は今もこの物語の館として使われてるんです。
なので塔野物語っていうのは、これ今日実物を持ってきたんですけど、
これ言わない文庫から出てるものなんですけれども、
上をね、文言台で書かれてるので、
なかなか今現代人の方はちょっとしんどいかもしれないんですけども、
これ柳田邦夫の本当の言葉なんですけれども、
上文最初の最初ですね、この話はすべて、
塔野の人佐々木強石より聞きたい。
強石っていうのはこの紀善のことです。
明治42年、これは1909年ですね。
なので今から110数年前かも。
明治42年の2月頃より初めて夜文折々尋ね来たり、
この話をせられしを筆記せしなり、
佐々木君が夜ごとは自分のところに来て語ったものをメモしたものだと。
強石君は話上手にはあらざれども誠実なる人なり、
まさに言った通りですね。
自分もまた171句をもう加減せず感じたるままを書いた。
つまりそのまま書きましたよ。
思うに、塔野号にはこの類の物語なお数百件あるならん、
我々はより多くを聞かんことを切望す。
国内の山村にして塔野よりさらに物深きところには、
また無数の山の神様、山の人の伝説あるべし。
願わくはこれを語りて平地神を戦慄せしめよ。
この書のごときは陳書五行のみ。
これはどういうことかというと、
佐々木君の話でもって塔野のことはよく聞けました。
ただ塔野っていうのはこれがこんな物語で多分無数に眠っている。
つまり我々は気づいていないだけで、
あらゆる日本の山谷にはこういったミステリアスな話があるんだと。
で、塔野だけじゃなくて多分いろんなところに日本全国埋まってる。
しかしそれは忘れ去られようとしてむしろ捨て去られようとしてる。
それは良くないと。
だから願わくばこの深いところにあるこういった伝説を教えて伝えて、
今平地で東京にいる人たちを戦慄させよう。
驚かせよう、怖がらせようと。
この書のごときは陳書五行。
これは昔中国の秦を滅ぼす反乱を最初にやったっていう北京人なんですけれども。
つまり自分がこの塔野物語がそのある意味は反乱の最初を切るんだと。
いうことを表播しているんです。
で、実際にあとは塔野の説明とかあるわけなんですけど、
この目次を見てもらうとどういう本なのか大体わかると思うんですね。
目次、地勢から始まって、
神の始め、里の神、家の神、山の神。
すごいいっぱい項目があるね。
雪女とか河童とかもあるんだね。
そうです。
つまり今我々が知っているこの河童とかって当たり前知ってるじゃないですか。
これ水木茂さんとかそれこそやったんですけど、
そういったものの原型のいくつかはこの塔野物語に収録されてる話です。
天狗もあるわ。
もちろん現実的な猿とか、
お犬、熊、狐とかね。
火葉とかもあるね。
つまり塔野物語に収められているのは、
これは小説ではないという見方が多数。
つまり佐々木くんっていう人が川立った、
その塔野にまつわる伝説の動物たちの姿だったりとか、
神様の話だったりっていうのを、
ただ公文ごとにメモしてあるだけなんです。
ただその中に非常に不思議なエピソードがたくさんあって、
妖怪の話とかね、
いなくなってしまった人の話とか、
神隠しの話、
あるいは有名なことで座敷笑しとかっていうのはここから記録されてる話ですね。
っていうものが記録されてる。
柳田邦夫は何をしようとしたかっていうと、
これただメモしてるだけなんだけれども、
こういったものがあるっていうのを世に広めて、
あなたのところに似たようなのがあるでしょ。
だから日本全国の人は私にこういった話をください、たくさん。
そうすれば、
塔野っていうものが一つのスタンダードに、
同じ馬でも塔野と、
あるいはもしかしたら仙台伴侶、森岡伴侶で
同じ話が別のフローで伝わってるとか、
そういったサンプルがいっぱい集まってくると、
それはやがて学問になってくるって思った。
つまりLINEもネットもない時代ですから、
情報を集めるって事自体がそもそも困難な時代だった。
そしてそれは誰も必要のない情報だと思ってるから。
だからこそ、必要性をまずこの塔野の物語を通して解いて、
私にください。
そうすればいずれこの学問は、
いずれ日本のためになると信じた。
だから、この信じがたいことに今言わない文句でも、
あらゆる日本人が手に取ったこの塔野物語は、
初版はたったの350部しか刷られなかった。
しかも柳田国の自費出版です、これは。
たったの350部だったんです、これを刷ったの。
パンフレットレベルですよ、正直。
ただそれがいずれ何十年もかけて、
これにこうする人がいっぱい選ばれて、
その中に柳田国さんの人生だったり物語を執筆に至るまでの動機だったりっていうのが、これはかなり大人向けの展示です。
結構学問的な本格的な展示があるので、そっちも会わせてみてもらうといいと思います。
そしてさらにその奥には柳田国をかつて清城に称えていたその家が一区保存されています。
なので柳田さんの家はもう清城にはないんですけれども、この東のに今ね、場所を書いてあるんですね。
清城からわざわざ持っていったんだね。
それだけやっぱりこの東のっていうのが彼の人生のもちろんターニングポイントでもあったし、
日本の学問、民族学ってものがこの地からやっぱり起こったっていうのが非常に意味のある場所だということなんです。
というのが東の物語の概説です。
ちなみにちょっと余談なんですけど、この350部だったわけなんですよ、東の物語の初版。
ちなみにこの初版の一つは私立博物館に残ってます。
柳田国王はほとんどこの350部は自費集団ですから、知り合いに分けただけだったんですね。
その第1号は350の最初の初版の初版は当然佐々木季前君に送ったんです。
だけれども残りの300何十部もおおむねその知り合い、この人は内務官僚としていろんなコネはあったからいろいろ人に送ったんです。
だから日本人の中の350人しかこれを見た人は最初いなかった。
ただその中で見た人にやっぱりこれはって人がいたんです。
それが誰だったかっていうと泉強化だったんです。
覚えてますか泉強化って。
三文豪の一人だったよね。
金沢でね。
そうだそうだ。
なんかちょっと怪談じゃないけど怪しい感じの文章を書く人だったよね。
こうやひじりとか。
お母さんを早くに亡くして東茶屋外のマナザにしながら。
でお母さんの死体を話しだったり、貝の穴にカッパのいることなんてこのポテチャスの。
要はああいうことなんですよ。
柳田邦夫は強化のファンだったんですね。
なんか泉強化さんならこれをわかってくれるかもしれないと思って。
結構批判もされたんでよくわかんないなこれって慣れちゃう人いたんだけれども。
強化はやっぱりわかったんですねそれ。
で当時強化ってのはすごい文明最盛期ぐらいですから。
柳田邦夫という人がこの350部しかこれを出してないそうなすごいものを送ってきて。
これは本当に世の中に読めるべきものだというのを大手新聞に書評してあげたんです。
これでみんななんだそれってなって。
その時の文学少年たちが強化先生が言ってる塔の物語ってどこであるんだって。
350部しかない。
洞察なんないのかっていうんであっという間に洞察洞察になっていって。
それを手に取った文学少年の一人が後の芥川龍之介だった。
だから芥川龍之介はカッパを描きましたよね。
ああいうのも全部この塔の物語にすっごい影響を受けてるって自分で言ってるんですよ。
彼はカッパの絵を描くこともすごい好きでしたから。
この柳田邦夫の塔の物語を強化を返してみて。
それですげえってなって自分の文学を作っていったんですね。
そして塔の物語はやっぱりあるまで柳田邦夫が学術書として書いたと自分は言ってるんです。
ささき金生の聞き書きだって書いてるだけなんですけどね。
ところがやっぱり柳田邦夫はこれは批判もされる部分でもあるんだけど。
すごく文章が上手すぎるんだよねちょっとって言われることがある。
もちろん金生は一生懸命やったと思うんですけど。
すごくねストーリーテラーとして卓越した文章技術を持ってるんですよ。
これを見てもらえばわかります。
なるほど、その伝承をただ伝えるっていう以上の魅力が出てきちゃった。
やはり強化にはそれがわかった。
そして芥川もやっぱりその時はただの無名の少年ですよ。
けどいずれそれがわかる才能があった。
そして三島幸男さんっていう小説家ね。戦後のすごい有名な。
これ芥川の系譜に連なってる文学の系譜なんですけれども。
三島幸男は自らの著書で小説とは何かっていうすごい大作の論評を書いたんですけど。
その時にお手本にすべき小説は何かっていうテーマで書いたのが東の物語22節。
魂の行方っていうこの章が日本の小説のお手本だって書いたんです。
だからそういう見方をする人もいたんです。
これはすごい不思議な論評なんですよ。
ちょっと三島幸男の独自の木をてらったところもあったかもしれない。
金閣寺炎上事件をわざわざ物語にしたくらいにするんですから。
だけれどもこの22節こそが日本における小説の素晴らしい例なんだってことを。
ただ東の物語は学術書なんで。
だからそのあたりは柳田区によるとちょっと単なる研究者じゃないからこそ。
ある意味素人の目があったからこそ小説としても響いて。
これは後に日本の学問を変えたんだけれども。
ある方面よりは日本の文学を作ってしまったっていうとんでもない本になっちゃったんですよ。
なのでぜひ東の物語有名なんですけど。
柳田邦夫さん東の物語こそ文庫ですごく読みづらいって思う人いると思うんですけど。
他の著作は口語で書いてある今の現代文で書いてあるものもあります。
非常に文章がうまいです。
すごく名文家としても有名な人なので。
エッセイとかも興味ある人読んでもらうといいのかなと思いますが。
そういった話を東の物語の館と不設の旧宅だったり高専旅館だったりには書いてあります。
ということで東の物語の最初の部分はこれで終わりました。
もうこれで今日の観光は終わりになっていますので。
今日はこのまま東の市街地に泊まります。
東の水沢よりもさらにホテルが少ないと見た方がいいです。
日本を代表するオーベルジュがあったりして有名なんですけど。
でもすごい値段するものでちょっと今回は行けないので。
僕も行ったことないので。
早めにリュウエンの次ぐらいの優先度高く予約を調べていただいて。
早々に宿を取っていただきたいと思います。
東の駅の近くはまたいい店があるんですね。
とりあえず東の物語の館から車で3分ほどで駅近くのホテルに着いたと想定します。
歩いても全然行ける距離です。
ホテルにチェックインをしました。
そしたらそこから徒歩5分ほどですね。
東の醸造タップルームさんです。
またビールね。
これはね僕感動しましたねこのビール。
香川の魅力と僕の中では東山香をつけがたいくらい好きなビールです。
ビールね何度も現れてるわけなんですけども。
実はねこの東の醸造さんはね特にねちょっと今回注目していただきたい理由があります。
それなぜかというと先日お話ししたんですが岩手県はホップの一大産地という話をしたと思うんです。
でその中でもホップのサクつけ面積が一番多いのが東野市なんです。
つまり東野市はそのビール圏である岩手の中の本場の本場です。
なので実際ホップ畑とかね翌日行く香川の方行くと本当にホップ畑が見られます。
ホップ畑なかなか見られないです。
不思議な形をしてるんですよねホップってね。
ちょっとポケモンに出てきそうななんか怪しげな形状なんですよ。
トゲの生えたいちごみたいな。
それがねなってるのがよく見られるんですね。
なのでその本当にできたてのホップ畑からもう収穫したてのホップを使ったもうクラフトビールの中の生の生の生みたいなすごいビールなんですこれ。
いやーいいなー。
これ書いてますねホップの産地東野で東野。
ホップって多分香りの部分が大きいんだよね。
そういうはずですね。
だから多分新鮮な方がより香りが立つんだろうなっていうまあ想像だけど。
はいその通りだと思います。
なのですっごくここ美味しかったです僕。
ここ美味しかった本当に美味しかったよ。
いいなー。
しかも6月の真夏の間に行ったのでね。
めっちゃ美味しかったですね。
これ料理もうまそうだな。
そうなの。
これね料理見ていただくとね。
まあ今はねちょうどポテサラですとかナッツですとかお肉ですとかハムの盛り合わせみたいなのもありますし。
これがね。
あっパドロン。
パドロン。
知らないわパドロン。
知らないよね。
これ見た目はねそのシシトっぽいんだけど。
そういうの素揚げ?
そうです。
あの素揚げですね。
であのまあ確かにイメージ通りシシトとピーマンとシシトの間くらいの大きさなわけなんですけど。
ちょっとやっぱりウリ系のね苦味のかかった作物になっているんですけど。
このパドロンっていうのはやっぱりその北部とか同じような生育環境で育つものだそうで。
あのヨーロッパの方の野菜だったと確か言ってたと思います。
だから僕も後にも先にもここの1回でしか食べたことがないです。
うまかったんですよ。
でもね塩味がね存分に効いてて。
特にそのねラガーとかと飲むとねうまかったんですよ。
苦味がやっぱり辛くはなかったんだよね。
苦味があって塩味が上ってきて。
噛み締めてくると苦味が溢れてきて。
それをビールに流し込んだ時のね。
やっぱりビールでしかなんか出ないようなね。
なるほど。
うま味があったですね。
ちょっとこれも気になるな。
でねこのメニュー見ていただくとねわかると思うんですけど。
どれってわけじゃないんだけど。
例えばね。
ラムカタロースのたたき。
笹村製肉店。
東野の新鮮なラム肉を炙ってたたきって書いてありますね。
あるいは志向のフィッシュ&チップス。
京和水産。
これ宮古ってのは岩手県の山陸海岸の街のことです。
のタラフライを使用していると。
であとは中平農園さんかな。
の長芋のフリット。
東野市にある中平農園さんの長芋を使用ということでね。
何が言いたいかっつうと。
要はすごく地産地消意識が強いお店なんですよ。
でなぜこうなのかっていうことなんですけど。
これはこの東野醸造さん成り立ちの関係があって。
実はね。
ここは某アパレルメーカー某大手としか言いませんが。
物語だけじゃないっていうのはぜひ覚えておいていただけると嬉しいなと。
で最後ですね。
ここでももちろん料理いただけるんですけれども。
ちょっと東野には実はねご当地グルメとして非常に有名なものがありますので。
就職はそっちを食べに行きたいと思います。
東野浄土さんからはねちょっと離れてます。
駅を渡って北側に移動した住宅街の中なんですけれども。
どうも15分ほどのところにあるのがジンギスカン安倍さんです。
ジンギスカン。
やっぱりね北海道のイメージが強いですけど。
東野もねジンギスカンの一大名物なんですね。
特にこの安倍さんは有名です。
これ全国的に有名なミスです。
東野ジンギスカン文化発祥の店ということで。
この安倍さんの説明を見るとね。
全国有数の羊肉の消費量誇り。
人が集えばジンギスカンを食べる。
そんな文化が根付く街です。
そうなんだ。
ただこれある程度的を得てるというか僕の所感でも多い。
やっぱ東野といえばジンギスカンって方もいるんじゃないかと思います。
ジンギスカンというのは当然のことながらね。
羊肉を使ってやる焼肉なわけなんですけれども。
そういうわけで東野というか岩手県もね。
実は昔は非常に羊が多く飼われていました。
やっぱり北海道と同じように高原地帯で作物とかの関係もあって。
畜産にも向いていた土地柄というのが影響していると思うんですね。
ただちょっとこのヒストリーを見ていただきたいんですけれども。
昭和22年ということで1947年です。
満州というのは中国なわけですけれども。
そこに出生していた方があまりにも満州で食べた羊肉が美味しい。
ということでジンギスカンを再現したいと。
いうので日本に持ち帰ってきたんです。
幸いふるさとの岩手県にはそういった羊肉が手に入りやすかったので。
それでお店を出したと。
ある意味俗人的なんですね。
この人安倍梅吉さんというのはこの僧侶の人でね。
最初は生肉屋さんだったと書いてますね。
この書いてますけどね。
最初はその羊肉なんか食ってるのが笑われたと。
だけれどもこれなんですよ。僕も感動したんですけど。
タレがマジでうまいこの店。
なんかねちょっと酸っぱいんだよね。
独特の酸味があってね。
なんとも言えない焼肉のタレじゃないんだよね。
普通のジンギスカンだとやっぱり焼肉のタレに近いような。
甘辛のタレが多い気がするけど。
酸味ね。
でもなんかそれでちょっと臭みが紛らわせたりするかな。
そうそうそう。そうだと思いますね。
あとこれです。
これが安倍さんの代名詞でありますけれども。
バケツジンギスカンというね。
オリジナルシステムがあるんですよ。
バケツの上にそのいわゆる山形のね。
ジンギスカンの鍋が乗ってますけど。
この設備を考案したんですね。
ということはこのバケツの中に火があるんですか。
そうですそうです。
これなんでこんなのできたかっつうと。
東野はみんな野外でこれを食べるんだと。
バーベキューをみんなするんですって。ジンギスカンでもって。
まあ想像できますよね。
でそういう時に東野はねやっぱり山に囲まれていたと。
なのでさっきの馬の話もそうなんですけど。
物資を運搬するでしなきゃいけないんだけど大変だったんですよ。
だからいい馬をみんな選び出そうとしたわけですよ。
同じ理由で当時はその焼肉の火鉢のために七輪を持って行ったらしいんですけど。
それがねガタガタやってるうちに割れちゃってたと。
元気についたら。できないじゃないかみたいなことになって。
これをなんとかしなきゃいけないって思って。
その代用としてこのアルミのバケツを使い始めたのがそもそもきっかけだったらしい。
だからある意味東野じゃなかったらこれ生まれなかったかもしれない。
その逆境を跳ね返っちゃったかもしれない。
でちなみにこれ買えます。
オンラインショップでジンギスカンバケツってものが売ってますんで。
これ興味ある人いたらぜひね買っていただけるといいんじゃないかなと。
これでもただのバケツじゃないもんね。
そうだと思いますね。
穴が開いてるから。
そうそうそうそう。
ちゃんと空気がね入るようになってんだろうね。
安全性にも多分すごい流行りをされたものになるわけです。
今は3代目の方がやっているということで。
これ僕実は一人で行ったんですけど。
これはグループで行ったらなお良かったなと思いますね。
ジンギスカンはね。
やっぱいろんな肉食べたかったってのもあるんで。
ただ一人でも全然ね。
僕も平日行ったんで幸い待たずにも入れたんですけど。
東野は実はそういうわけでアンベさんに始まってジンギスカンの店がすごく多いんですよ。
東野の街って。
なのでいくつも名店があるんですけど。
やっぱ初めて行くからにはアンベさんがね。
いいんじゃないかと思いますし。
いやーなんか意外だけど美味しそうだな。
なのでここで2日連続焼肉なんですけれども。
確かに。
ちょっとぜひね。
仙台伴侶の焼肉と森岡伴侶の焼肉。
文化が違うという大前提に立っていますので。
店ではバケツじゃないんだけれども。
普通に美味しいのでね。
それで食べていただけるといいんじゃないかなと思います。
ちょっとね住宅街の中にあるのでホテルまでは15分ほど歩くと思いますが。
だいたい10時半くらいには帰ってきてこれるんじゃないかなと思いますので。
これで2日目を終わりにします。
それでは2日目を振り返っていきましょう。
前日は水沢駅の近くのホテルに泊まっていますので。
そのホテルをだいたい8時50分くらい9時前くらいですね。
に出発します。
そこから徒歩5分ほど。
ハワイアンカフェクイポさんですね。
まあいい感じの雑多なハワイアンカフェみたいな感じですかね。
そこで500円のモーニング。
もういろんな主食があるモーニングになってますので。
お好きなものをあとコーヒーですね。
モーニングにいただきます。
そこから徒歩3分。
高野町営記念館ですね。
三位陣のうちの一人目の記念館ですね。
江戸時代の先駆者的なね。
かなり先駆けて洋楽を勉強した医者ですね。
で、後に幕府に反響を翻すようになっていくという。
異陣の記念館ということですね。
そこから来るまで5分ほど。
その三位陣の2人目。
後藤新平記念館ですね。
今の東京の基礎を作ったという方ですね。
その業績をこの記念館で見ることができると。
そこからまた来るまで3分ほど。
こちらも三位陣の3人目ということで。
斉藤誠記念館ですね。
海軍の重鎮から後に総理になっていくと。
いろんな激動の事件に巻き込まれていったという人生を見れるということですね。
そこから来るまで20分ほど。
水崎納都さんですね。
リンゴ畑の中にあるおしゃれなカフェということで。
ここでランチとしてはキーマカレーがいいのかなと。
そうですね。キーマカレーがメインだったと思います。
そして是非リンゴのスイーツもたくさんあるということなので。
デザートにいただくといいんじゃないかなと思いますね。
そこから来るまで45分ほど藩の境をまたぐわけですね。
東野の方に入っていきます。
そこでまず最初に行くのが東野市立博物館ですね。
まずはこの東野に入ったということで東野の外観をね。
見るということでこの博物館に行けます。
そこから来るまで3分ほど東野物語の館。
有名な東野物語。
それについて展示をしている資料館と。
こちらは割とお子さんでも楽しめそうな割とポップな展示になっておりますので。
東野市立博物館でどのような土地なのかというのをまず知って。
そこから東野物語を詳しく知っていくという流れがいいのかなと思いますね。
そこから来るまで3分ほど東野駅の近くのホテルどこかお好きなところにチェックインと。
水沢よりよりホテルが少ないんじゃないかと思うことなので。
必ず早めに予約を取っていただければと思いますね。
そこから徒歩5分ほど東野醸造タップルームさんですね。
ホップの産地がすぐ近くということなので。
新鮮なホップを使ったクラフトビールをまずいただくと。
それから地元の食材を使ったフードもたくさんありますのでそちらもぜひということですね。
そこから徒歩15分ほどジンギス館安倍さんですね。
意外なこの東野の名物であるジンギス館発祥のお店ということで。
ここに来たからには前日も焼肉でしたがその違いを楽しむっていうのがいいんじゃないかなと思いますね。
そこから徒歩15分ほどでホテルに戻りまして2日目が終了ということですね。
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